小榑雅章著「花森さん、しずこさん、そして暮しの手帖編集部」を読んでみよう   宇治敏彦

花森さん暮しの手帖
小榑雅章著「花森さん、しずこさん、そして暮しの手帖編集部」暮しの手帖社刊(定価1850円+税)

 「埴輪」同人の小榑雅章君が6月に暮しの手帖社から刊行した著作「花森さん、しずこさん、そして暮しの手帖編集部」は、タイムリーな出版であると同時に、早稲田大学卒業後の一文学青年が「異才」「才人」「名編集者」花森安治氏の下で、いかに葛藤し、反発し、そして心酔していったかを生々しく描いた秀逸なドキュメンタリーでもある。
 小榑君は昭和28年(1953年)、早稲田大付属高等学院に入学した。当時から学院では語学教育に力を入れており、英語のほかに第2語学としてフランス語、ドイツ語、ロシア語などを課し、その語学選択でクラス分けしていた。彼はフランス語、私はドイツ語専攻だったので同じクラスになったことはない。だが、同期生で同人雑誌をつくろうという動きの中で知り合い、以後、63年に及ぶ交遊が続いている。「女房より古い友」だが、それでも「知らなかった小榑雅章」像に同著で出会った。「岸(信介首相)を倒せ」の60年安保闘争に明け暮れた昭和35年(1960年)4月、彼は早大文学部を卒業して暮しの手帖社に入社し、24年間にわたる雑誌ジャーナリストのスタートを切った。
 銀座の本社(当時)で行われた面接試験に臨んだ時、試験官の真ん中に座った女性を見て小榑君は「こりゃまずい」と思ったという(本書24頁)。筆記試験の時、煙草を切らした彼が近くにいた女性試験官に「煙草はないですか」と問いかけた。その人が面接で眼前に座っている。「あなたに煙草を買いに行かされましたよ」とニコニコしながら言った、その女性こそ今、NHK朝ドラ「とと姉ちゃん」の主人公、大橋鎮子さん(暮しの手帖社の社長)だった。
 入社10年後、ベテラン編集者に成長した小榑君は、大きな不満を抱えていた。花森安治という偉大な編集長の下で、しょせんは機械のように使われることに「俺は人間だ」とブチ切れて辞表を書いた(本書352頁)。だが花森氏は、まともに取り合ってくれない。4日目にようやく面談できたが、「辞めてどうするんだ」と聞かれた。まだ決めていないと答えると「ふーん。何も決めないでただ辞めるのか。つまらんな」といわれ、さらに「君はまだ未熟だ。ぼくのそばにいてぼくの考えや取材、レイアウトを盗んでいけ。それを自分の物にしたらさっさと辞めたらいい」と辞表は編集長預かりになった。それから小榑君は翌日以降も出社し、仲間の視線を浴びながら、ひと月以上ルーティンの仕事だけこなしていた。私だったら翌日から出社しなかったろう。と同時に私が思ったのは、彼は心底辞めたいとは考えなかったのではないか。小榑君には失礼な表現になろうが、子どもの反抗期のように花森安治という偉大な親に歯向かってみたかったのではなかろうか。
 3か月ぐらいして「花森さんの声が聞こえるようになってきた」と、ご本人は本書に書いている(358頁)。それ以降の小榑君の暮しの手帖での活躍ぶりが目に浮かぶ。昭和53年(1978年)1月、花森さんが亡くなってから退社するまでの6年間、小榑君は「暮しの手帖」の実質的な編集長を務めた。
 改めて「暮しの手帖」とは、どんな雑誌で、どんな役割を果たし、どんな存在価値があるのか。私なりに考えてみる。先の大戦中、大政翼賛会で宣伝などにかかわったことが花森安治氏の戦争責任の原点にあったとされる。戦後、大橋鎮子さんから頼まれて「衣裳研究所」という出版社を立ち上げ、昭和21年(1946年)6月に雑誌「スタイルブック」を発刊した。それに倣った雑誌が増えたので2人は2年後に「美しい暮しの手帖」(1953年11月からは「暮しの手帖」と改題)として衣食住全般に関する雑誌に切り替えた。
なぜ「暮らし」だったのだろう。一銭五厘の召集葉書で戦地に駆り出され、すべてを国家権力の言いなりにならざるを得なった日本国民。もっと庶民の暮しに根付いて表現の自由も確保出来ていたら父や兄弟が戦地で虫けらのように死んでいくのを防げたろうし、女子供もB29攻撃機群の猛攻撃に遭遇して命を落とすこともなかったろう。国家権力に対抗する庶民の力を強めなければ戦前の誤りを繰り返すことになる――それが花森さん、大橋さんの原点だった。
でもなぜ「生活」でなくて「暮し」なのか、なぜ「読本」でなくて「手帖」なのか。普通の感覚なら「生活読本」というところだ。そこを「美しい」「暮しの」「手帖」としたところに女性的感覚がうかがえる。男性一般は、私も含めて「生活がかかっているから」とか「その程度の月給(年金)じゃ生活出来んよ」などと「生活」は良く使うが、「暮し」は、それほど多くは使わない。女性的視点で「女性よ、強く、美しく、たくましく、したたかであれ」というメッセージが雑誌発足時からあったのではなかろうか。
そして戦後70年、「戦後強くなったものは靴下と女性」という言葉に象徴されるように、各方面での女性の活躍は目覚ましいし、生活的にも文化的にも恵まれるようになった。ウイークデーの歌舞伎や音楽会の観客は大半が女性たちで、男たちは教養一般では女性にかなわなくなってきた。
この春、小榑君ら学友と関西を旅した時、彼が暮しの手帖の元編集者だったことを知った女性たちが「暮しの手帖」を懐かしがる場面に何回も遭遇した。「私は大学卒業時に暮しの手帖社に入りたいと思い、願書もだしたのですが、今年は新入社員を取らないといわれまして断念しました」と残念がる主婦もいた。かくいう宇治の家人も大学生当時に東麻布の暮しの手帖研究室にアルバイトに行ったことがあるそうだ。
 広告を取らないという「暮しの手帖」の大原則も、独立独歩、権力や企業におもねらないという創業精神を強く感じる(1949年の第3号で裏表紙に「資生堂」の広告が載ったのが唯一の例外とか)。
 「手作り」。これも暮しの手帖社の創業精神の一つであろう。大きな評判をもたらした「商品テスト」も、独立独歩、手作り、徹底した力仕事がなければ実現できない仕事だ。学生時代に小榑君と2人で新聞社の都内住民アンケート調査のアルバイトをしたことがある。留守宅が多いと、こちらは面倒になってノ―アンサーが増えていくのだが、小榑君は留守宅があると翌日もさらに次の日も足を運んで回収率を高めていった。もちろん2人ともメーキング(質問者が回答まで作ってしまうこと)は絶対避けたが、小榑君の忍耐強い回収作業に大いに感じ入った。こうした性格は、暮しの手帖の社風とピッタリ合致していたと思う。
 「神変不可思議」(しんぺんふかしぎ)――故徳川夢声氏(放送芸能家、俳優)が花森安治さんを評した言葉だという。オートメーション化、大企業化、自動化、均一化といった戦後経済成長の波のなかで終始、手作り、独立独歩、品質重視、生活者(いや、暮らし)目線にこだわって一時は100万部を超える発行部数を記録した「暮しの手帖」。その編集部には、こんな苦労があったという秘話を本書「花森さん、しずこさん、そして暮しの手帖編集部」を通じて多くの方に知っていただきたいものです。
 
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