戦後のユニオンリーター・太田薫(その2)  宇治敏彦

 総評議長・太田薫の活躍で思い出すことは4つある。
 第一は、もとより春闘。「ヨーロッパ並みの賃金」「クソがついた千円札でも千円は千円」などたくさんの名言・珍言を春闘シーズンが近づくとぶち上げてマスコミをにぎわす。まさに新聞1面の「左肩5段」狙いだ。「太田ラッパ」と呼ばれ、労働者を奮い立たせるそのアジテートぶりは見事というほかない。だが、戦いは前景気だけでは成功しない。太田ラッパを受けて緻密な戦略家であった総評事務局長の岩井章が民間と官公労の大組織を動かすスケジュールを練り上げるからこそ春闘全盛期は総評の存在感が大きかった。まさに「昔陸軍、今総評」の時代が1960年代は続いていた。この流行語は政治評論家・唐島基智三の造語といわれているが、シニアの新聞記者が所属クラブを聞かれて「昔は陸軍、今は総評」担当と答えたのがきっかけという異説もある。
 芝の港区役所近くにあった総評会館の2階に太田と岩井が一緒の部屋があった。清水さんという年配の女性が2人の秘書を務めていた。どういう事情か聞くこともできなかったが、片腕がなかった。彼女は明らかに太田ファンだった。
 55年体制時代の自民党政治家には出身によって党人派と官僚派がいたように、労働界の幹部も民間労組出身か官公労出身かでカラーが違っていた。民間単産・合化労連委員長の太田と官公労・国労出身の岩井とでは、個人的キャラクターの違いと同様に基本的な労働運動観や運動手法などで違いが存在していた。全逓委員長の宝樹文彦が2人の違いについて酒席でこんなふうに言っていたのを思い出す。
 「太田のおっさんは女ならどんな女でも、というあけっぴろげな性格だ。新橋の街頭で女を買って旅館にしけこんで、いざという時に相手が実は男と気づいてあわてて退散した。一方、岩井は皆と飲んでる店に気に入った女がいても一言も口に出さず、皆と別れてから一人でその店に戻って口説く陰気なタイプだ」
 実話かどうか確かめるチャンスを逸した。太田、岩井のライバルだった宝樹らしい嫌味を含んだ月旦だが、的を射たところがあるのが憎らしい。清水秘書は無口で性格も決して明るいとはいえないおばさんだったが、太田とは気が合ったのだろう。太田の動静についてこっそり教えてくれることがしばしばあった。太田は岩井の前ではしゃべりにくい話があると、合化労連本部のある三田のビルか、後には個人的に借りていた三田のマンションで話すことが多かった。合化本部では小林さんという女性職員が秘書的な役割を務め、太田夫人の芳子さんとも仲がよかった。太田薫は28歳のとき婿養子として太田家に入った。だが外面はちっとも養子に見えなかった。「おかあちゃん」。自宅で探し物が見つからないと大きな声で叫ぶ太田は大きな赤ん坊のようだった。芳子夫人の掌で遊んでいるような、それが婿に入った太田薫の実像だった。
 太田の春闘方針は「資本との独立」「ストライキ」が基本だった。経営側と執着したり馴れ合いになったら決して大幅ベアは勝ち取れないと言っていた。労働者は本来、保守的で自己防衛的だから皆で団結してスト権を確立して会社側を追い詰めなければ敗北すると信じて疑わなかった。だからストをやらない春闘など「春談」だと皮肉った。「労働者は保守的」という言葉に、ジャーナリストとしてまだ30歳前後と若かった私は、ナショナルセンターのリーダーにそぐわない弱気な見解だなと思ったが、確かにひとりひとりの労働者の立場は人事異動でも上司の一言で転勤になったり、勤務査定で同期入社との賃金格差が広がったり、弱いものである。「みんなで渡ればこわくない」というのが春闘誕生のきっかけだったというのは頷ける。個人の力は弱いから団結すれば力になる。当たり前の理屈だが、労働者もみなプライドが強いから自らが「保守的で自己防衛的」と認めたがらないものだ。それを承知のうえで個人の力を組織の力に倍化させていくところに指導者としての資質がある。太田薫は春闘全盛期には、その資質を十分に見せつけた。(文中敬称略)(以下次号)
 
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