戦後のユニオンリーダー・太田薫(その3)  宇治敏彦


 太田薫の第二の活躍は政治分野である。左派社会党の書記長・和田博雄(吉田内閣の農林大臣)が同郷(岡山県)で旧制六高の先輩だったこともあり、太田は和田派とみられていた。しかし太田本人は和田より左と自覚していたようだ。向坂逸郎らと社会主義協会をつくったが、途中で袂を分かち太田派協会を立ち上げた。私が社会党や民社党を担当するようになった1960年代初め、都内では高級マンションが出来始めたころで和田は渋谷・道玄坂上の高級マンションに住んでいた。夜回りに行くと気さくに応じてくれ、吉田時代のことなど昔話を聞かせてくれたが、病弱で間もなく政界を引退した。太田の家は和田と違って調布市金子町だったから夜回りが大変だった。まだ中央高速道路もなかったころだから都心からは車で1時間ぐらいかかった。玄関を入った右脇の応接間は労働関係の本で埋まっており、太田の勉強ぶりをうかがわせた。
太田の政治活動は、必ずしも春闘での活躍のようにはうまくいかなかった。恐らく1960年の安保闘争がピークだったろう。「社会党・総評ブロック」という言葉が生まれたように、安保やベトナム反戦闘争は太田―岩井コンビの総評が存在しなかったら、あれほど盛り上がることは難しかったろう。ただ1970年安保のころまでは、純潔主義というか第2組合とか転向を毛嫌いする気質が革新陣営に残っていたから太田の右派攻撃(民社党、同盟批判)も力を持ったが、経済成長で人心が安定するにつれて太田的な純潔主義は、社会党・総評ブロック内でも孤立化の道をたどっていった。その代表例が太田の都知事選出馬である。最初の出馬騒ぎはレーニン平和賞を受賞した翌年の1966年(昭和41年)4月1日に起きた。3割自治を打破するため野党連合が出来れば出馬も、と発言したのがきっかけだが、このときはエイプリルフールで終わった。美濃部都政の後継を決める1979年4月の都知事選では太田は社共共闘で出馬し、「さわやか東京」をキャッツフレーズに失業・倒産対策や地震対策などを訴えた。だが自民、公明両党の支持する鈴木俊一に35万票差で敗れた。しかも選挙戦最終日の夜、新宿駅東口で演説していた太田は、コンクリート片を投げられて顔に怪我を負うという嫌なおまけまでもらった。開票の翌日、太田をなぐさめてあげようと思って夜回りした。さすがにいつもの元気はなかったが、美濃部前知事の「中立宣言」や飛鳥田社会党委員長の「太田おろし」など選挙戦の総括を1時間以上2人でやっているうちに、太田は自分の居所は政治活動ではなく労働運動だったと再認識したようだった。まもなく太田は社会党を離党した。芳子夫人が「宇治さんに足を向けて寝られない」と言っていたと後日、人づてに聞いた。
第三の活動は行政改革である。池田内閣当時の1962年、臨時行政調査会(会長・佐藤喜一郎三井銀行会長)が7人のメンバーで発足した。労働側代表は当初、同盟会長の滝田実になっていたが、池田首相からメンバーを見せられた吉田茂が滝田を太田に変えるべきだと主張したので太田になったという経緯がある。このとき行政管理庁から太田の担当になったのが島野房巳である。この人を抜きにして太田の行革論は語れない。ちなみに島野は静岡空港反対運動を戦い続けた。太田のDNAが官僚の島野に受け継がれたかのようだ。この第1次臨調は土光敏夫が会長を務めた第2次臨調ほどの華々しさはなかったが、1964年の答申で予算の効率利用や会計基準の改善などを提言している。島野によれば晩年の太田は「池田さんが総理を続け、臨調答申が実施されていたら政官業癒着の腐敗堕落も随分防げたはず」と言っていたという。太田は佐藤栄作より池田勇人のほうが好きだった。同じ官僚出身の政治家であっても、池田のほうが民間の感覚を身に付けていたからだろう。
太田の第四の活動は労働戦線の統一である。共産党は「統一戦線」という言葉を使うが社会党・総評は「戦線統一」という表現を使っていた。1962年の宝樹(全逓委員長)論文がきっかけになって労働界は戦線統一の是非で明け暮れるようになったが、宝樹が目指した統一が「右主導の統一」とすれば、太田、岩井の統一論は「政党支持の自由」「資本からの独立」などを掲げた「左からの統一」だった。四半世紀余にわたる活発な議論を経て1989年に総評、同盟など労働4団体が発展的に解消して連合が発足した。全的統一とはいえ明らかに右寄り再編だった。太田、岩井、市川誠(太田の次の総評議長)らは、これを不満として83年の時点で「労働運動研究センター」を立ち上げていた。
いま連合を代表とする労働組合組織率は18%台前半である。遠からず17%台になるだろう。労働者10人のうち2人弱しか労組に入っていないのだ。1960年代、70年代は34%ないし35%の組織率だった。労組の社会的存在感があった。
太田―岩井のゴールデンコンビの時代は1970年を境に終わったのである。1998年9月、太田が86歳でなくなったとき私は「『太田ラッパ』は鳴きやんだ」という社説を東京新聞、中日新聞に書いた。
「生活水準が向上し、労働者の保守化が進んだ今日においては、スト重視、資本からの独立を説く太田ラッパは通用しないかもしれない。だが戦後、労働者の地位向上に果たした同氏の功績は労働者の地位向上に果たした同氏の功績は労働運動史に永く語り継がれるであろう」(次回は素顔の太田、文中敬称略)
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