「戒石銘」と指導者の態度  宇治敏彦

戒石銘

 福島県二本松市の霞ヶ城公園にある「戒石銘」を見てみたいと以前から思っていた。1979年(昭和54年)、鉄建公団でカラ出張やヤミ手当など組織ぐるみの不正経理事件が発覚した。続いて政治家への接待攻勢で巨額な資金を使ったKDD(国際電電)が問題になり、時の大平正芳内閣も「特殊法人整理」という行政改革に取り組まざるをえなかった。そのとき石川信義二本松市長(当時)が大平首相をはじめ閣僚や各省庁の局長以上、全国の県知事、市長に贈ったのが「戒石銘」の拓本だった。
 爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺
 (なんじのほう なんじのろくは みんこうみんしなり。かみん しいたげ やすきも、じょうてん あざむきがたし)
 「君の報酬は国民が脂汗を流して働いたその賜物だ。国民に感謝し、国民をいたわらねばならない。もし、その気持ちを忘れて、弱い立場の人を虐げたりすれば、必ず天罰がくだるだろう」
 江戸時代中期の寛延2年(1749年)、5代目の二本松藩主、丹羽高寛が藩政改革のため江戸から招いた儒学者、岩井田昨非の献策を採用して藩士への戒めとして登城する武士たちの目に止まるよう霞ヶ城の通用門脇の自然石に彫らせたものだという。
 その原典は中国、後蜀の君主、猛昶(もうちょう、919-956)が地方長官たちに職務の基本として伝えた「戒諭辞」にある。この16文字を石碑に刻んで郡や県の役所前に掲げたそうだが、現在は残っていないようだ。日本でも二本松市以外に聞いたことがない。
 「あれが阿多多羅山(安達太良山) あの光るのが阿武隈川 あの小さな白壁の点々が あなたのうちの酒庫」。高村光太郎が「智恵子抄」でうたった智恵子の実家は二本松市内の大きな造り酒屋だった。その酒造会社が倒産したことも智恵子の精神的障害の一因になったとされているが、今は「智恵子の生家」として復元されている。そこから遠くない霞ヶ城跡は城の石垣と大きな松がマッチした素晴らしい観光スポットである。「戒石銘」はその入り口にあった。思っていた以上に大きな円形の石に刻まれている。約260年前、二本松藩主が建立したときは登城する武士たちも立ち止まっては音読したかもしれないが、それ以来、どれだけの役人がこの精神を心に銘記し続けただろうか。
 二本松市は、あらためて「戒石銘」の拓本を菅首相はじめ全閣僚や各党幹部に贈ってはどうか。福島、宮城両県の被災地を視察したとき思ったことだが、被災者が求めている復旧・復興策と為政者が考えている復興プランとの乖離が大きい。特に「民膏民脂」「下民易虐」という点に心した対策を急ぐべきだ。家や船や農機具や車のローンで二重債務、三重債務を抱えて生活再建を目指さざるを得ない人々の気持ちを心しないと、菅さん、「上天難欺」になりますぞ。
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孟昶戒石碑(もうちょうかいせきひ)

孟昶
晩年は奢侈に溺れ、国政を省みず、また民間の女性を選抜して後宮を拡張し、名宝の蒐集に力を注ぐなど朝政は大いに乱れた。(Wikipediaより)

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