戦後のユニオンリーダー・太田薫(その4)   宇治敏彦


 戦後の労働界の指導者、太田薫に関する思い出をプライベートな話で締めくくることにしよう。
 私が太田と初めて二人きりで長い時間、話をしたのは1965年(昭和40年)、太田の富山県出張に同行したときである。当時、私の勤務していた東京新聞社は経営が行き詰まり、労働運動が過激化していた。私自身も労組の青年婦人部長を務めた。1955年までは夕刊だけの新聞で、戦後の一時期はボーナスのお札が立つという景気のいい時代もあったが、1956年の朝刊発効以来、経営難とイデオロギー色が強まって、とうとう1964年には中日新聞社との業務提携が始まり、社員たちは毎日の仕事に追われる中で将来に強い不安を抱いていた。そんなときだったから宿泊先の日本旅館で太田の部屋を訪ねて、長年の経験からどういう労働運動をすべきか意見を聞いてみようと思ったのだ。スト重視論者と聞いていたから過激な意見が出てくるかもしれないと予測していた。
 だが太田の意見は極めて客観的で冷静だった。「よかったら総評弁護団を紹介してあげる」と助言してくれると同時に、あまり先走って動かないほうがいいと個人的にサゼッションしてくれた。実は私の父親は戦前から中日新聞社に勤務しており、東京新聞入社の私は先輩や同僚からは「あいつの親父は中日だから」と白い目で見られ、業務提携した中日の仲間からは「あいつは東京新聞だから」と別の意味で疎外感を持って応対されるという複雑な立場にあった。業務提携といっても事実上、中日に「吸収合併」されるようなものだった。私は「親子どんぶりになった」などと苦笑いしながら「東京新聞社として単独で経営をやっていけないのは残念だが、自分たちの書いた記事が東京だけでなく中日の紙面に載ることになれば、それだけ多くの読者に読んでもらえるのだから一記者としては歓迎すべきではないか」などというと仲間から「いい格好するな」などと批判され、先輩からはかなりのいじめに遭った。そんな先輩の一人が先ごろなくなった。私が告別式に行くといったら後輩の一人は「あんなにいじめられたのに」と解せぬ顔をしていたが、まさに恩讐の彼方ということだろうか。人間なんて立場、立場で行動する動物だから立場が変われば、また行動も変わることがある。かつて私をいじめた先輩も私が後年、東京新聞代表になったときには頼みごとも含めて社に来られたし、昔の恨みを引きずらないで生きていくことのほうが健康には良いと自分では思っている(1967年10月に中日新聞に一体化されてから旧東京新聞出身者で代表になったのは、福田恭助東京新聞社長以来だから、中日の奥行きの深さには深い恩義とぬくもりを感じている)。
そんな個人的なことは、もとより太田に言ったことはないが、太田のおっさんはどういうわけか私を可愛がってくれた。ある年の春闘で、翌朝の私鉄ストがかかった中労委のベア仲裁においてスト中止に足る金額が提示されるかどうかが焦点になった。朝刊の締め切り時間は迫ってくる。私鉄ストは社会部、国鉄など公労協のストは政治部の担当だったが、当時政治部だった私も社会部につきあって中労委会館で徹夜態勢の取材を続けていた。中労委委員の太田がトイレに抜け出してきた。記者たちが取り囲む隙を突いて太田にヒントを教えてくれるよう頼んだ。「よっしゃ、俺が右指で眉の上にこすったらスト中止の金額が出たということだ。眉の下をこすったらスト突入や」と他の記者たちには聞こえぬように教えてくれた。それから1時間余は経ったろうか。「小便、小便」といって、また太田が中労委の会議を抜け出してきた。どっと取り囲む記者団の中に私の顔を確認するや、太田は右手で眉の下をこすり出した。
「スト突入!」。私は社会部の記者にささやいた。私鉄総連は中労委で提示されたあっせん額を不満として翌朝の一番電車からストに入った。最終版の見出しは的中した。こんな茶目っ気もある太田に私は戦闘的な組合幹部とは違う人間性を見た。
1967年、日本テレビの「すてきな夫婦」という番組に太田夫妻が出たことがある。三国一朗の司会で太田夫妻の私生活を引き出す番組で、ゲストとして記者3人が招かれた。読売の飯塚繁太郎、共同通信の坂巻従繁、そして私。本番の前に控え室で太田夫妻が喧嘩するというハプニングがあった。南海電鉄の運転士が自分の子どもを運転席に乗せていて事故を招き、社会問題になっていた。太田が「運転士も悪いが、根本は会社が悪い。日曜も休ませないから子どもを遊園地につれてもいけず、せがまれて運転席に乗せたのが事故の遠因だ」と言った。「おとうちゃん、それは違いますよ。休みがないからといって子どもを運転席に乗せるなんて非常識」と芳子夫人が猛反論した。どうみても芳子夫人に勝ち目があったが、太田も譲らず本番前は気まずい雰囲気だった。テレビは無事に終わったが、太田がいらだったのは「会社も悪いが、労働者の生活を向上させるはずの労組が何も出来ない」という自責の念からではなかったろうか。民放テレビ勤務で合理化反対運動に加わっていた長女の信子さんの帰りが遅いと、太田はテレビ局の労組書記局に電話して「太田ですが、早く娘を帰してください」と談判した。そこには左派闘士のかけらすらなく、親ばかそのものだった。太田と同郷(岡山県)の評論家、藤原弘達は「大人物のようで小人物であり、大胆のようで小心」なのは岡山県人性ではないかと雑誌(「宝石」1965年4月号)に書いている。
太田薫は1998年9月24日、前立腺がんでなくなった。享年86歳。つつじヶ丘の寺で葬儀が終わり、11月に日本教育会館で偲ぶ会が開かれた。もともと心臓が悪かった芳子夫人は、いつからか認知症になっていた。両手を握っても、一言も言葉はなかった。脇から信子さんが「宇治さんよ」とささやいても芳子夫人はじっと私をみつめるだけで無表情だった。それは太田薫の死と同じぐらいに悲しい出来事だった。(文中敬称略)
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