映画「一枚のハガキ」と天皇陛下  宇治敏彦

 99歳の映画監督・新藤兼人氏が自らの戦争体験を踏まえてつくった“映画人生最後の作品”「一枚のハガキ」の試写会が7月20日、日本記者クラブであった。戦争でお父さんをなくした友・小榑雅章君を誘って一緒に観たが、彼にとっては他人事とは思えないストーリーだったに違いない。大竹しのぶ演ずる農家の主婦・森川友子が戦争末期に召集された夫・森川定造(六平直政)に送った一枚のハガキ。「今日はお祭りですが あなたがいらっしゃらないので 何の風情もありません 友子」。
100人の中年兵の中から上司のくじ引きでフィリピンへの出征が決まった定造は、国内に残る中年兵の松山啓太(豊川悦司)に「もし生きていたら妻にこれを読んだことを伝えてくれ」とハガキを託す。戦後、ブラジルへ渡る決意をした啓太は、渡航前にハガキを書いた友子を訪ね、100人のうち自分を含むごくわずかな中年兵が生き残ったことへの罪悪感を訴える。だが、友子に言い寄る村の責任者と争う中で海外行きは断念し、友子が住む場所に麦を植えて共に生きる決意を固めていく。
 クラブでの試写会前に7月13日、天皇陛下も鑑賞したプレミア試写会が有楽町であった。同席した新藤監督が「いかがでしたか」と尋ねると、天皇は「ラストシーンで助かりましたね。救いがあるからいいですね」と答えられたという。新藤氏は「新しい日本です」と説明したそうだ。同監督にとって「戦争とは二等兵など下の兵隊がする宿命にあり、その被害も兵やその家族が受けるもの」という。「一枚のハガキ」も一貫して庶民の目で描かれており、天皇の戦争責任や権力者の横暴に対する批判が随所にうかがえる。昭和天皇が直接かかわった戦争批判の映画を現在の天皇がどういう感じで観たのかは、もっと知りたいところでもある。
 「昭和」から「平成」に変った日、1989年1月7日の早朝、私は宿泊していたJR大崎駅前のホテルニューオータニインで新聞社からの電話にたたき起こされ、急ぎタクシーで品川駅前にあった東京新聞(中日新聞東京本社)に駆けつけた。その前年から約40日間、緊急事態に備えてこのホテルに泊まりこんでいたのだが、それも「今日で終わるな」と実感した。当時、私の任務は政治部デスクとして昭和天皇逝去と同時に朝刊1面で始める連載企画を執筆・編集することだった。「平成」という新元号を小渕官房長官が記者会見で披露したあと、「新象徴天皇」と題する連載企画の1回目の原稿を仕上げた。
 そのタイトルは「二つの顔」。昭和天皇は戦前と戦後、旧憲法と新憲法を境にして「神」と「人間」、「統治権の総攬者」と「象徴」という2つの顔を持って生きられた。「その点、新天皇はまさに象徴天皇制の申し子といえよう。『戦争責任』論から解き放たれた立場で即位された」と私は書いた。現在の天皇は、なぜ自分の父親が無謀な太平洋戦争への突入を食い止められなかったのか、ということに疑問や批判も持った瞬間が何度もあったのではないかと私は推測している。昭和天皇は敗戦直後の昭和20年9月9日、当時疎開中の皇太子に送った手紙にこう書いている。
 「敗因について一言いはしてくれ。我が国人があまりに皇国を信じ過ぎて英米をあなどったことである。あたかも第一次世界大戦の独国の如く軍人がバッコして大局を考えず、進むを知って退くことを知らなかった」
 現天皇も「憲法上の象徴」と「人間」という2つの顔を持っている。だが昭和天皇が「機関」としての役目に拘束されて「人間」としての顔を表面に出せなかったのに比べると、はるかに「機関」よりは「人間」としての存在感を国民に示せるのではないか。沖縄や中国への慰霊や親善の旅、阪神大震災や東日本大震災での被災者へのお見舞い行動など23年間の在位の軌跡には、そのことが見て取れる。
「一枚のハガキ」を鑑賞後に「ラストシーンで助かりましたね。救いがあるからいいですね」という感想を漏らした天皇。あの戦争で人生や家族をめちゃくちゃにされた中年の男女が、荒地に麦を育て愛を育むことに「平和」の素晴らしさを実感されたのであろう。裏返せば、そのラストシーンに至るまでの戦前・戦中の貧しく暗い日本と天皇や権力を批判した場面を、昭和天皇の長子として胸を痛めながら見たに違いないと思いたい。
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