クローチェの本に秘められたラブレター  宇治敏彦

 イタリアの哲学者、歴史学者、政治家にベネデット・クローチェという人物がいた。1910年にイタリア議会の上院議員に選出され、一時はムッソリーニを支持していたが、1925年頃から反ファシストに転じてファッシズム攻撃を続け、1929年には議員を辞している。彼の著作が戦前、日本語に翻訳されて「クロオチェ」という題名で出版されている。「市民的指導者、パンを求めて石を与えられる。こんな経験に諸君はあきているだろう。電気のような激烈な交通をーーー」。その本の「あきている」の「き」の字が鉛筆によって○で囲まれている。「ような」の「よ」にも○が打ってある。○だけたどってページを繰ると、次のように読める。
 「きよこちゃん さようなら 僕は きみが すきだった」
 終戦記念日を前に調布市文化会館たづくりで開催された「上原良司と特攻隊」(調布飛行場から知覧へ)写真展に展示された上原少尉の遺品の一つである。上原は長野県出身で慶応大学から1943年、学徒出陣で陸軍に入隊。1945年4月から5月まで調布飛行場で特高部隊「第56振武隊」隊員として訓練を受け、戦闘機「飛燕」を受領。5月11日、鹿児島県知覧から出撃し、沖縄県嘉手納の米軍機動部隊に突入して戦死した。22歳だった。男3人、女2人の5人兄弟だが、兄2人も戦死した。
 「心中必沈」「十死零生」など忠君愛国の筆跡も残っているが、同時に遺筆として「春雨や 思ひすてたる 身も散るる」との句が飾ってあった。上原氏が凄いと思ったのは、当時の訓練ノートに「自分は全体主義ではない。自由主義を信奉する」と書いていることだ。検閲した上官がそれをたしなめて「全体主義」の重要性を朱筆で書き加えている。恐らく上原少尉は、この上官から鉄拳を食らったことだろう。
 「子(きよこ)ちゃん」というのは長野時代の幼なじみであったようだ。恐らく妹・清子さんの友だちかもしれない。目のきれいな、きりっとした顔立ちの写真も展示されていた。しかし上原少尉が気持ちを打ち明けないうちに彼女は結婚、そして肺結核で21歳の若さで天国に召されてしまう。本の印字に○を付けて思いをはき出した上原青年のラブレターは、結局、子さんに届かなかったのではないだろうか。
 66年前の8月15日、疎開先の小学校校庭で聞いた昭和天皇の玉音放送は、国民学校2年生だった私には内容は一切分からなかった。ただ空には雲ひとつなく、やたらに暑い真夏日だった記憶だけが鮮明に残っている。その日と同様に暑い調布の駅前を日陰を求めて歩きながら、上原少尉が嘉手納の米軍部隊に突っ込んだときは「お父さん、お母さん」という叫びとともに「きよこちゃん」と大声で呼びかけたのではないか、と思った。
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