「小石、小石」に託した思い  宇治敏彦

 以前、この「埴輪」に「クローチェの本に記されたラブレター」という一文を書いた。特攻隊の青年が愛読していた哲学者の伝記にところどころ○印が付いていて、その字をたどっていくと、「きよこちゃん さようなら 僕は きみが すきだった」と読めるのだ。
検閲を警戒しての苦肉の策だったのだろうが、切なくて胸が痛くなる。この青年、上原良司氏は1945年(昭和20年)5月11日、知覧から出撃して沖縄県で米軍機動部隊に突入して戦死した。慶大学生、22歳。
 「きけわだつみのこえ」(日本戦没学生の手記)の冒頭に、この上原青年の「遺書」が掲載されている。
 「私は明確にいへば自由主義に憧れてゐました。日本が真に永久に続く為には自由主義が必要であると思ったからです。之は馬鹿な事に見えるかも知れません。それは現在日本が全体主義的な気分に包まれてゐるからです。併し、真に大きな眼を開き、人間の本性を考へた時、自由主義こそ合理的になる主義だと思ひます」(原文のまま)
 その後、判じ物の手紙に女性版もあることを梯(かけはし)久美子さんの「百年の手紙」(8月25日、東京新聞夕刊)で知ったので、読み落とした方のために、ここで紹介しておきたい。
 1939年(昭和14年)、妙子と名付けた乳飲み子を日本に残して中国に渡った従軍看護婦がいた。日本赤十字社の諏訪としさん(28歳)。夫に送った手紙。
 「私はもうお手紙を書くと涙の種だから、止めようと思っておりましたが、ただ今お乳が張ったので妙子の写真を出して見て、とうとう筆を執りました。妙子は元気でしょうか。あの子のことを思うとどうしても泣けてしまうの。でもね、大阪出身で同級生の福岡の支部の人が同船にいて、その人も同じように1年2カ月の子供をおいて来たとて、2人でよく慰め合っています」
 これは後輩の看護婦たちが編集した「白の墓碑銘」という本に掲載されている手紙だが、戦地の妻にあてた夫の手紙も掲載されている。
 「毎日、小生帰宅するごとに、妙子がチチ、チチという。抱いてやれば、ワイシャツの中の方に手を入れて、父チャンの小さな乳を見せれば得心する。これを見て、おまえも私も、子供に対し緊張せずにおられようや。小生も、早く帰らなくては堪るものか」
 としの返事には乳も張らなくなったとあったそうだが、その手紙の最後には夫あての挨拶として意味不明の「小石、小石」と書いてあったという。検閲が厳しいことを恐れての配慮だが、「恋しい、恋しい」という夫への愛のメッセージだったようだ。
 としは出征から2カ月後に中国で病死。2年後に夫も召集され1944年(昭和19年)9月、中国で戦病死した。残された一人っ子の妙子は、どうなったのであろうか。
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