大平元首相100年祭と日米密約問題   宇治敏彦

 3月12日夜、東京會舘で故大平正芳元首相の生誕100年を記念する会合が開かれた。大平は史上初の衆参同日選挙の真っ只中であった1980年(昭和55年)6月12日、現職首相としてのストレスからくる心臓の病で満70歳でなくなった。そのとき私は宏池会(大平派)を担当した政治記者として夕刊に自民党内の怨念政治がもたらした「時代の中での死」という評伝を書いた。あれから30年。3月12日は大平の誕生日である。健在だったら満100歳になる。
 パーティーには中曽根康弘元首相や加藤紘一元自民党幹事長ら政界関係者のほか、来日中だった唐家琁元中国国務委員や新任の程永華駐日中国大使、さらには大平をモデルにした小説「茜色の空」を書いた辻井喬(堤清二)などが出席していた。
 その3日前、岡田外相の要請を受けて日米間の4つの「密約」を検証してきた外務省の有識者委員会が報告書を提出した。大平は、このうちの2つの密約問題に直接、間接にかかわっていた。一つは1960年の日米安保条約改定時の核持ち込みに関する密約問題で、日本政府は米軍の核搭載艦船が事前協議なしに寄港することを事実上黙認していたことに関連している。大平が池田内閣の外相だった1963年4月、当時のライシャワー駐日米大使は大平に「核兵器搭載艦船・航空機の一時立ち寄りは『核持ち込み(イントロダクション)』に該当しない」との米側見解を伝え、大平も異議を唱えなかった。
有識者委員会では、明確な文書による合意はないが、「暗黙の合意」という広義の密約にあたると認定した。実は大平は後にこの密約の存在を公表すべきかどうか大いに悩んだが、党内抗争を心配して結局は公に出来なかったと大平の女婿で秘書官を務めた森田一・元自民党衆院議員は証言している。森田によればゴルフをしながらも「イントロダクション」という英語をつぶやきながら苦悩しているようだったという。
 もう一つは1972年の沖縄返還時に、本来なら米側が負担すべき土地の原状回復補償費400万ドルを日本側が肩代わりした密約電文に関するもの。これは毎日新聞の政治部記者だった西山太吉が機密電文を入手し、社会党が国会でも追及したが、外務省は密約を否定し続けた。また入手経路に外務省女性職員が関係していたことから「情を通じ」として有名になり、西山は国家公務員法違反で逮捕され、78年に有罪が確定した。西山は宏池会の担当で特に大平に食い込んでいたから、大平としても逮捕された西山のことを気にかけていた。小説「茜色の空」では後年、大津に遊説した大平が西山記者(小説では田島英吉)と再会し、「ジャーナリストとしての君の活躍は正しいと思っていたが、僕は立場上動けなかった」と釈明する場面が出てくる。
 政治家大平のいいところは若い頃、影響を受けた賀川豊彦や西田幾多郎のせいかもしれないが、田中角栄のように猪突猛進するだけでなく、常に自省しつつ、あるいは悩みつつ進むという点であろう。「永遠の今」という言葉など照れずに言える政治家は大平ぐらいだったかもしれない。「良識の保守政治家」と評する向きもあった。
 密約問題を私なりに考えてみれば、国益を優先しない首相などはリーダーとして資格はないのだから、AかBかと選択を迫られた時、Bには毒がないが毒を持ったAのほうが国益によりかなうと判断すれば、Aを選択するのもやむを得ないのではないか。「沖縄の祖国復帰なくして日本の戦後は終わらない」と明言した佐藤栄作が「核持ち込み」前提の沖縄早期返還(A)と、核抜きなら返還にさらに時日を要する(B)こととの選択を迫られ、イントロダクションやむなしと密約を結んで早期返還を実現したのも総理大臣としての心情としては理解できないではない。
 問題は30年経って外交文書を公開するときの姿勢である。麻生太郎首相をはじめ歴代自民党政権のリーダーは30年を経過しても核持ち込みの密約に関しては「一切なかった」としらを切ってきた。これは大いに問題ではないか。「歴史として見た密約問題」と、その当時の「政治決断としての密約問題」とは明らかに性格が違うものであることを認識すべきだ。今は「歴史としての密約問題」を客観的に分析し、今後の外交政策に生かすべきだと思うが、いかがであろうか。(文中敬称略)
 
 
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