血の連判状からつくられた医学校  宇治敏彦

 「血の連判状」などというと政治ジャーナリストの小生などは、すぐ石原慎太郎氏などタカ派の国会議員がつくった「青嵐会」のことを思い出すのだが、100年近く前の1915年(大正4年)、日本医学専門学校(現在の日本医科大学)の学生たち約300人が血判連署して学校の不誠実な対応に抗議し、新聞に大きく報じられた事件があったそうだ。同専門学校を卒業すれば無試験で医師開業資格が得られる文部省指定校になるはずだったのが、そうならなかったことへの抗議行動だった。この事件がきっかけになって退学生たちが各方面に働きかけ、東京医学講習所(東京医学専門学校を経て現在の東京医科大学)設立に発展していく。その初代理事長が高橋琢也(1847~1935)だった。
 『医学校をつくった男(高橋琢也の生涯)』(中央公論事業出版)という本を著者の伊東洋東京医大名誉教授(元同大学学長、理事長)から贈られたので、正月休みを利用して読んだ。高橋琢也は1847年、広島県に生まれ、明治元年に東京に出てドイツ語を学んだ。ドイツ軍制の導入に尽力した後、農商務省に勤務し、青森県に林学の教育を行う「私立有余学館」を設立。1913年には沖縄県知事を務めたが、1916年には前記の血判で退学した若者たちから東京医学講習所設立への援助を頼まれ全面協力を約束した。時に高橋は70歳。設立資金に現在のお金に換算して20億円を要したが、高橋はみずから書画骨董を売却したり、全国を寄付活動で歩いた。原敬、犬養毅、大隈重信らも高橋の知己で物心両面の協力を惜しまず新医学校は1918年、開校にこぎつけた。
日清戦争後、日本に亡命した孫文が一時期、早稲田鶴巻町の高橋宅に1年ほど身を隠していたというから、高橋琢也という人物は国士的なところがあったのだろう。高橋の写真を見ると、禿頭に長いあごひげが特徴で目力が強く、威厳に満ちている。
 高橋の伝記を書いた伊東さんは東京医大卒の脳神経外科医であり、数年前まで同大の理事長をしていた。湘南高校時代に石原慎太郎と同級生だったという。「慎太郎は一期上から来たんです。おとなしく、目立たない高校生でしたよ」。いじめにあって1年すべったという説もあるそうだ。伊東さんは東京医大の理事長時代に石原知事がいた都庁に出かけると「副知事クラスから『先生が石原知事をいじめたんじゃないですか』と冷やかされましたね」と笑っていた。現在の勇ましい石原日本維新の会代表を見ていると、いじめることはあっても、いじめられたようには見えないのだが、人というのは外見からだけでは分からないものだ。
 伊東さんは、なかなかの名文家である。高橋琢也の人生を通して黎明期の近代日本の男たちの息吹が伝わってきた。次の作品にも期待していますよ、伊東先生。
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