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出会った人々① 愛国の化学者・福井謙一  宇治敏彦

 敬友・小榑雅章君が近刊の拙著「実写1955年体制」について「この本を読むと、政治家の先生方も私たちと同じちょぼちょぼの人間で、悩み苦しみ、のた打ち回っていることが分かった」と論評してくれた。そんなふうに読んでもらえて望外の幸せだが、政治家に限らず、半世紀余の記者生活で行き会った多くの人々の生き様について印象に残ったことを書き残しておくことも一ジャーナリストの使命ではないかと思うに至った。既に天界に行ってしまった方々も多いが、手元に残っている取材メモと記憶をもとに同人誌「埴輪」に随時、連載していきたい。
 その1回目は1981年(昭和56年)12月、「化学反応の理論的解明」(フロンティア軌道理論)で日本人初のノーベル化学賞を受賞した福井謙一博士。
     ☆          ☆          ☆
 「頼まれて外部に書いていた随筆がたまったので本にしました」。京都・北白川に住む福井友榮さんから突然、電話がかかってきたのは2007年のことだった。1998年1月になくなった福井謙一博士の奥様である。夫の思い出などをまとめたエッセー集「ひたすら」(講談社)のことだった。書評紹介などでいささかのお手伝いをしたが、友栄さんは同著の中で「ノーベル・スピーチ」といわれる受賞あいさつの秘話を紹介している。
 1981年12月10日、ストックホルム市公会堂で開かれた祝賀夕食会で1人3分ずつの受賞スピーチが行われた。福井博士は英語でスピーチしたが、一箇所だけ日本語で話した。そのことは事前に夫人にも知らされていなかったという。「科学の倫理規範」が主題だったが、このうち日本語で「いつになく大きな声で一語一語、はっきりと真剣な表情で語りかけた」(同夫人)部分とは、次のようなフレーズだった。
 「科学研究の応用において、何が善で、そしてもしあるとすれば何が悪であるかを最も良く見分けるのは、科学の先端的な領域に働く最も優れた研究者たちです」
 なぜ福井氏は、この部分だけ日本語にしたのだろうか。私の取材に同博士は、こう答えた。「日本人、特に若い研究者に直接聞いてもらいたいと思った。微妙なニュアンスを日本人に伝えるには英語では不十分と思った」
 中曽根内閣当時の1984年、臨時教育審議会(岡本道雄会長)が発足し、教育の自由化論議が活発化した。政治的な教育論議に一歩距離を置いて、ノーベル賞学者の教育論を聞いてみようじゃないかという企画で、当時、京都工芸繊維大学の学長になっていた福井博士にロングインタビューすることになった。その役目が私に回ってきた。およそ「理科」「物理」「化学」「数学」など理系のことに縁遠い文系記者としては、大いに戸惑った。カメラマンと一緒の京都通いが始まり、博士の北白川のご自宅をはじめホテルや料理屋での長時間対談が何回も行われた。博士は生真面目、几帳面な人で、こちらの出した30回分のテーマについても「chronological(年代順)にはしたくない」「既発表の記事や書物との重複は避けたい」など細部にわたり注文を連発された。それらの手紙やメモが私の手元に残っているが、「枕元にメモ帳を置いて眠り、何か思いつくと夜中でも突然起きて計算を始めた」(友榮夫人)という博士にしては、当然の準備だったに違いない。ともあれ福井先生の経歴など事前に調べられることは全部調べてインタビューに臨んだが、もともと多弁な人ではないので、当初は沈黙の空間が続くこともしばしばあった。そんな時に助け舟を出してくれた人がいた。友榮夫人である。「うちの主人はテレビドラマの『水戸黄門』が大好きなのよ。NHKの『のど自慢』もよく見てるわ」。
 日曜日の午前中、京都市内のホテルで一室を借りて長時間のインタビューをしていたときのこと。時計を見ると、お昼に近かった。「先生、ルームサービスでランチを食べながらニュース、のど自慢でちょっと休憩しましょうか」。福井さんの顔がほころんだ。会見の再開後も、会話が途絶えると、私は切り札を出した。「先生は『水戸黄門』のファンですとか」。
即座に笑い顔になった博士は「だれが喋りました? 娘ですかな」といった。インタビューをもとに、記事は福井博士の独り語り形式に再構成した。そして「教育への直言」と題して1985年に合計31回、東京新聞、中日新聞の朝刊1面に掲載された(その後、出版)。もちろん、福井さんは事前に原稿を点検し、細部にわたり手直しをされた。新聞に掲載後も両紙の見出しの違いでこんな感想を漏らしたことがあった。「東京新聞は鋭く本質を突いたところを見出しにとってくれるが、(大学の学長という)私の立場からすると、中日新聞のマイルドな見出しのほうがありがたいですな」。東京新聞、中日新聞は同一新聞社の発行紙だが、見出しをつける整理部は東京、名古屋で別々である。たとえば連載1回目の見出しは東京が「科学は“突出”で進歩」、中日は「独走の芽を伸ばせ」。大学紛争当時の回顧(連載20回目)では東京が「背景に『反科学』思想」、中日が「大学紛争で『信念』学ぶ」。確かに京都工芸繊維大学長として文部省(当時)や学界などに接触する立場からは中日の見出しのほうが無難に思えたのだろう。
 岡崎の「つる家」という料理屋で丸一日対談したとき、福井博士は原稿にしないことを前提に「私は酒で生涯に一度だけ酔いつぶれたことがある」と告白した。それは短期現役の陸軍将校として東京・府中にあった陸軍燃料研究所で「航空添加燃料の合成」という軍事関連の研究をしていた時だという。毎日アルコールの蒸気を吸っていたせいで「自分でも驚くほど酒に強くなった」。しかし、1945年8月15日、日本敗戦の報に同夜は痛飲して前後不覚になったそうだ。「愛国化学者」であったのだろう。
 だが福井博士が、軍拡主義であったとは思えない。米国のマンハッタン計画(原子爆弾製造計画)を指導したオッペンハイマー博士が後年、自己批判したように、福井さんも科学の「倫理規範」に関して何回も言及している。
 「科学は人間を圧迫し、不安と恐れを抱かせるようなものであってはならない。たぐい稀なる合理性をもった自然の仕組みに打撃を与えない、自然と調和した『自然に組み込まれた科学』を目指さなければならない。さもなければ太古の恐竜があまりにも発達しすぎたがために不足した餌を捕食できずに滅びたのと同様に、人間はその異常に発達した頭脳のために自然を含む地球の遺産を食い潰し滅亡へと“進化”しかねない」などなど。
 「私はまだ枯れていない。私は死ぬまでサイエンスの探検家でありたい。死ぬまで『Labor-emus!(われら働かんかな)』と叫んでいたい」。79歳でなくなるまで常に科学と人間の関係を問い続けた学者であった。

 
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