出会った人々③死後も残る秀才参謀の疑惑・瀬島龍三  宇治敏彦

 小説「不毛地帯」(山崎豊子作)のモデルになった元関東軍参謀・瀬島龍三氏(元伊藤忠商事会長)の話をゆっくり聞く機会があったのは1992年(平成4年)3月、東京・青山の伊藤忠本社でのことだった。当時、私は東京新聞の経済部長をしていたが、商社担当の大沢賢記者とともに瀬島氏の「情報収集方法」「ものの考え方」「人生観」などを取材した。
 「シベリアから帰って浪人していたときに縁あって伊藤忠に入社が決まったが、ここに入っていなければ私は読売新聞の論説委員になっていた」。瀬島氏は冒頭、こんな秘話を明かした。郷里(富山県)の先輩、正力松太郎読売新聞社主から「これから日本にとっては安全保障問題が重要になるが、読売にはこの問題を扱う専門家がいないから、その方面の論説委員になってくれないか」と頼まれたという。われわれが記者だから、そんな話を切り出したのかもしれないが、彼は「モノを書くのは嫌いだった」とも言った。瀬島流の文書作成術があって、何でも3か条にまとめてしまう。
 「情報は素材です。しかし素材をいくら持っていても価値はない。それを判断し味付けして判断しなくてはならない。情報の料理人は一朝一夕にはできない。情報の収集、分析、判断の中で一番難しいのは判断です。情報判断のあとには対応が出てくる。判断を間違えたら対応も間違える」
 瀬島氏はこういって一つの自慢話を披露した。1990年暮れ、当時の海部俊樹首相は1991年1月13日からの中東歴訪を予定していた。しかし、瀬島氏が「1月15日から17日の間に湾岸戦争が始まるだろうから、その時期の訪問は取りやめたほうがいい」と直言し、首相も「元関東軍参謀」の助言をいれて外遊を中止した。現に91年1月17日、米軍を主体とする多国籍軍がイラクのバクダッドやクウェートの戦略拠点に航空機1000機、巡航ミサイル100発で「砂漠の嵐」作戦を展開、湾岸戦争が始まった。
 「どうやって、その時期が戦争になると判断したのですか?」。そう聞くと、瀬島氏は次のように説明してくれた。
 「特別な情報源があったわけではありません。新聞を丹念に読んで判断していた。90年8月2日、イラク軍がクウェートに侵攻し、国連の旗の下で対イラク経済制裁が行われた。この時点では湾岸情勢がどうなっていくか全く分からなかった。11月29日、国連安保理でイラクへの経済制裁が決まった。この時点では①軍事的解決②長期的な経済制裁③政治的解決(第3者による政治解決)の3通りが想定されたが、国連安保理がタイムリミットを91年1月15日としたことで、私は①の軍事的解決という印象を持った。昭和16年の日米開戦のときも同様だが、戦争は軍事的ファクターで開戦時期などが決まっていく。ペルシャ湾には米軍の海兵師団が12月に集中し始めた。クウェートに向かって上陸するつもりだなと見た。満潮のときでないと船が陸地に近づけない。ペルシャ湾のクウェート海岸の満潮時はいつか、を調べてみた。気象台に聞くと、1月15日から22日の1週間が満潮だと分かった。戦いの優越性を発揮できるタイミングはいつか。昼ではなく夜間だ。あの地域の月の運行状況はどうか。1月15日から22、23日の間が闇夜だ。潮と月から判断して1月15日から17日の間に米軍が総攻撃をかけると私は判断した」
 まさに作戦参謀だな、と瀬島氏の分析に半ば感心し、半ばある種の恐ろしさを感じながら聞いていた。
 「戦争は錯誤の連続です。本来そういうものだ。日本が惨敗したミッドウエー海戦だって情報力に勝る何かがあった。そもそも日米戦争だけはやるまいというのが日本政府の大原則だった。それがABCD封鎖網で石油も入ってこなくなり、ジリ貧になって屈服か、戦争かと迫られることになった」
 瀬島氏は、昭和天皇が東条英機内閣の誕生時に「今までの経過を白紙にして、もう一度検討せよ」と白紙還元のご沙汰を下された経過や日米首脳会談の模索、ハルノートの経過など対米開戦に至る経過を彼なりの分析で詳述してくれたが、「結局、11月には軍事的ファクターでことが進んだ」と回顧した。
 しかし、瀬島氏は戦争中の自らの行動や戦後、シベリアに11年間抑留されたときの経緯などに関しては固く口を閉ざしたままだった。特に、東京裁判でソ連側証人になった経過など国民が知りたいことには言及しないまま2007年9月4日、95歳でなくなった。
 1993年1月、瀬島インタビューを読んだ千葉市在住のK氏(当時70歳。学徒出陣経験者)から「親展」で瀬島氏の罪を糾弾する長文の手紙をもらった。「今なお南に北に無残にも屍をさらしている亡き戦友、靖国の霊を偲び、生き残りし者の責務として『きけわだつみの声』に耳を傾け、国内同胞の戦災犠牲者や国外他民族などの何百万の犠牲者を追悼しつつ瀬島を道義的に告発糾弾せざるを得ません」として、瀬島氏が犯したとされるさまざまな罪を列記してあった。1992年2月号の「文藝春秋」に掲載されたイワン・コワレンコ証言(元ソ連共産党中央委国際部副部長)では①ハバロフスク市郊外の収容所で瀬島氏が『天皇制打倒! 日本共産党、万歳!』と絶叫していた②東京裁判で瀬島はソ連側の意向を正確に見抜いて、日本側弁護人につけ入るスキを与えなかった―などと語っている。また93年7月5日のモスクワ発共同電によると、「当時の山田乙三関東軍総司令官が日本兵のシベリア抑留問題で、帰国までの間、捕虜将兵を(役務賠償として)ソ連軍の使役に従事させるようワシレフスキー極東ソ連軍総司令官に申し出た報告書がロシア国防省公文書館で見つかった」という。これにも瀬島氏が関与していたのかどうか。
 国内的には中曽根康弘首相の参謀役として対韓外交や行政改革で活躍が目立った瀬島氏だが、過去の関東軍参謀としての行動の謎は、まだまだ厚いベールに包まれている。90歳を過ぎても記憶力は衰えず、随所で聞いたスピーチはいずれも3ポイントにまとめあげられていた。裏の顔を含めて瀬島参謀の真実を明らかにするには、情報公開が進みつつあるロシアの文献類に期待する以外にないのだろうか。

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小説「不毛地帯」

を読んだのはもう彼此40年ほど前のこと。主人公の壱岐正元帝国陸軍中佐は伊藤忠商事の元会長がモデルと当時の週刊誌や経済誌によって繰り返された。フィクションとは言え、この主人公の行動で納得が行かない行があった。次はその疑問に応えてくれる。 http://hojorohnin.hatenablog.com/entry/2013/10/26/173640 http://magazinehaniwa....

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