出会った人々⑤孤高の街頭詩人だった城米(じょうまい)彦造さん 宇治敏彦

 早稲田高等学院に在学以来60年近い友である滋賀県木之本在住の冨田光彦君が、100年以上にわたる私設「江北図書館」(長浜市)の運営で、今年のサントリー地域文化賞を受賞したのを祝って、先ごろ学院同期の仲間11人が日本記者クラブで会食した。その席で横銭忠男君(日本製鋼所OB)が「長島先生(会津八一の弟子で東洋史の長島健さん)の授業で宇治君がレオナルド・ダビンチ賞賛の詩を朗々と披露した」と言った。当人はすっかり忘れていたが、彼がそういうのだから、あるいはそんな詩をつくったのかもしれない。
 それがきっかけで学院時代に知り合った街頭詩人のことを思い出した。背は高くなく、帽子をかぶった顔には丸縁の眼鏡に濃い顎鬚。首から一枚のプラカードをかけていた。「僕が作った詩を 僕自身で詩集にし 僕自身で売っているのです。 よかったら買ってください」。場所は国電有楽町駅のガード下。「よかったら」という言葉に、この詩人の謙虚さが滲みでていた。名前は城米彦造。縦13センチ、横9センチのガリ版刷りの詩集だった。
 妻子を養うため1948年(昭和23年)から1958年まで10年間、毎晩、有楽町駅の改札口前に無言でたたずんでいた。城米さんは1904生まれだから私が彼に出会ったころは40歳半ばだったろう。だが私の目には50歳から60歳ぐらいに映った。鬚のせいかもしれない。詩集は当初は1冊20円だったそうだが、私が買うようになった1950年代前半は30円だった。
 手元に残る自選詩集第1「野の中の乾いた白い路の上で」の中から1つの作品を再録したい。

 その頃私は兵隊だった

その頃私は兵隊だった
演習地の廠舎で
沖を行く汽船を
望遠鏡で覗いてゐたのさ

あなたの乗った汽船を見出そうと
終日覗いてゐたのさ、鉄条網をめぐらせた
廠舎の窓辺であなたを求めてゐたのさ
だが、遂々、あなたを見つけることは出来なかったのさ
いとしいあなたよ
後で、あなたの手紙で
あなたが、沖を通る汽船のデッキに立って
廠舎の方へハンカチを振ってゐたと知った時
私は本当に悲しい気持ちがしたのさ
自由を持たぬ兵隊の身を今更に悲しく思ったのさ
だが、それから後も、今の世にも
まだ本当の自由は来ないのだ

いとしいあなたよ
私は今日も、暮れ行く窓辺に
あなたを求め
望遠鏡を見て過ごす


 大声をあげて叫ぶのではなく、しかし、心の中では愛と自由を大切に温め、静かに、しかし、がっちりと、ガード下の駅頭に立っていた城米さん。特に会話した記憶はない。詩集を求めた青年に媚を売るでも、頭を下げるでもなく、しかし、不遜なところが全くない街頭詩人。2006年5月8日、102歳でなくなった。武者小路実篤に私淑して「新しき村」の会員でもあった城米さんの活動をまとめた「城米彦造“昭和を謳う”」(2008年、新しき村出版部)が出版されている。
 城米彦造は画家でもあった。東京都内のスケッチをたくさん残している。回顧展が全国各地で開催される。2008年、九段ギャラリーで開かれたとき、懐かしさに昔、有楽町駅で求めた詩集を手に訪ねたら次女の勝股美代子さん(74)が大変喜んでくれた。京都生まれの街頭詩人は同窓の安子さんに恋をし、東京に出て雑司が谷で所帯を持った。安子夫人は家計を助けるため都内で教員になった。筆者の先輩に吉村信亮というジャーナリストがいるが、彼は小学校で安子先生に習ったという。世間は狭いものだ。皆がどこかでつながっている。同窓会的な集まりで友人の一人が小生の高校時代の詩のことに触れたことで、私は城米さんのことを久しぶりに思い出した。ちなみに城米さんには早稲田大学を詠んだ詩がある。それも掲載しておこう。

 街頭にて(早稲田大学) 昭和24年10月作

町に出て詩を読むことを思い立った
高い塔の上にある時計が
4時を打つまで読もうと心に決めた

雨上がりの学校の公園で
自分が作った詩集を開いて
聞く人は無くとも、買う人はなくとも
ひとりで読んでいこうと思った
銅像の2つ並んだ芝生に腰をおろして
学生が3、4人聞き始めた

詩を読み了えると
学生は金を出し合って詩集を買った

「有り難う」
彼は謝して立ち去った
塔の上の時計が4時を打っていた

僕は又、ここへ詩を読みに来ようと思った

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