旧日本軍の捕虜になった米兵たちの来日  宇治敏彦

 総選挙の時の党首討論などを実施している日本記者クラブ(公益財団法人)は連日のようにゲストを招いて記者会見や講演会を開いているが、今年の行事で印象に残った一つに米国人元戦争捕虜7人の会見(10月15日)があった。外務省が日米草の根プログラムの5回目として招聘したアメリカ人たちだが、99歳を最高齢に全員が90歳代で、会見にはそれぞれの家族が付き添っていた。7人の多くが日本軍の南洋諸島進出中に捕虜になって日本に連れて来られ強制労働などに従事した。
 団長格のウイリアム・サンチェス元軍曹は、日本軍のコレヒドール攻撃の一環で捕虜になり、鳥取丸で33日かけて大阪に着き、品川近くの捕虜収容所に運ばれた。「列車が止まるたびに日本人から珍しい目で見られ、なかには『これからは大東亜共栄圏づくりに協力されたい。バンザーイ』と叫ぶ日本人もいた」という。ダニエル・クーリー氏は「フィリピン・パラワン島のジャングルで空港建設に従事させられたが、その前に大半の仲間は虐殺された。1944年3月、日立の足尾鉱山につれて来られ強制労働させられた。今回の来日の際、日本人から『3世代前の一部の人間が心無いことをした。Sorry』といわれた」と報告した。
 1941年にウエーク島(中部太平洋のアメリカ領。日本が一時占領し、大鳥島と名付けた)で捕虜になったオーラル・ニコルス氏は同じく日本で鉄鉱石露天掘りの強制労働を科せられ、日本敗戦まで原爆投下も知らなかったという。
 「日本人は残虐だった。毎日30人の仲間が死んだ。しかし全部の日本人が残虐だったわけではない。缶詰工場で強制労働させられたが、私に弁当をくれた日本人もいた」「自分が日本の捕虜になってから72年経過したが、かつて敵同士だった日米が連携して戦後復興を成し遂げたのは印象深い」――こう述べたのは娘さんに付き添われて来日したダレン・スターク氏だった。
 1941年、グアム島で捕虜になった99歳のジャック・シュワーク氏は「香川県善通寺にあった捕虜収容所にはイギリス兵、オランダ兵も収容されていた。モデル収容所といわれるほどで、それほど悲惨さはなかった。1942年、川崎市にあった収容所に移り
三井関連企業で働かされたが、将校扱いを受けた」と述べた。アンソニー・コスター氏は同行のお嬢さんが父親のメモを読み上げた。「1944年、大阪の捕虜収容所ではクリスマスにパーティーを開いてくれたのが忘れられない」「自分は後ろを振り向かないように生きてきたが、戦争とは政治家たちが起こすものだ」
 元捕虜たちのコメントは、総じて日本に対して厳しいものでなかった。自分たちが生き残って平穏なリタイア生活を送っていることと関係があるかもしれない。なかにはウオーレン・ジョーヘンソン氏のように「口ひげをはやした日本兵から英語で『神のご加護がありますように』と言われた」と教養ある日本兵の秘話を明かす元捕虜もいた。
 確かに1945年8月を境に日米関係は「敵対」から「友好」に劇的転換を遂げた。しかし、だからといって戦争があって良かったと思う人はいない。戦火を交えずして外交努力で事態を打開できなかった政治家たちの非力さ、愚劣さこそ責められるべきだ。「戦争は政治家によって起こる」とのコスター氏のメモは至言である。私流にいえば「戦争は政治家と彼らを選ぶ国民によって起こる」のである。

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