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宇治敏彦著「政(まつりごと)の言葉から読み解く戦後70年」 小榑雅章

政の言葉から読み解く戦後70年
宇治敏彦著「政(まつりごと)の言葉から読み解く戦後70年」新評論刊 2800円+税

埴輪の同人、宇治敏彦が新著を出版した。
「政(まつりごと)の言葉から読み解く戦後70年」という少し長いタイトルの本だ。
早速、読んでみたが、これがとても面白い。そして役に立つ。考えるよすがになる。へえー、そうだったのか、という発見がある。
今年2015年から70年を引くと1945年。日本が敗戦した年であり、新生日本が始まった年である。安倍総理が70年談話を発表するといわれ、それが物議を醸すかもしれないと取りざたされてもいる。
取りざたするのもいいし、危惧するのも喝采するのもいいだろう。
だが、取りざたするにも材料がいる。この70年がどんな年月だったのか、だれがどのようにこの国の戦後70年を運転してきたのか、それを知ってからとやかく論じるほうが、はるかに楽しい。
本書は、まさに楽しく論じるための手引書だ。
それをかいつまんで紹介するよりも、宇治がこの本の「まえがき」に書いていることを読んでいただくのが、この本の良さを知っていただくには一番いいと思うので、少し長いが、以下に掲載させていただく。

宇治敏彦著「政(まつりごと)の言葉から読み解く戦後70年」
まえがき
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 人間がもつ最大の「武器」、それは「言葉」であろう。他人を感動させることも、激怒させることもできる。[言葉」は道具であるだけでなく、生き物だといえる。受け手も、その言葉がきっかけで結婚に発展したり、怨念から殺人に走ったりもする。なかでも、政治家、企業経営者といった他人を引っ張っていく立場にある人々、あるいは未来のある子どもたちを教育する教師の言葉は、一般市民以上にその責任が重いといえる。
 古代日本には「言霊」とか「言挙げ」といった表現があり、言葉と行為は言行一致、すなわち「言」は「事」なりという概念が存在した。『古事記』によれば、ヤマトタケル(日本武尊、倭建命)は伊吹山の神を征伐する際、途中で大きな白イノシシに出合ったが、それを神の使いと誤解して、「今殺さなくとも帰りに殺せばいいだろう」と言挙げした。
 しかし、実はそれが山の神の化身であった。怒った山神は氷雨を降らせた。雨に打たれたヤマトタケルは高熱に冒され、最後は能煩野(三重県亀山市)で命を落とすことになる。 「言挙げ」が漫心から出た場合は悪い結果をもたらすという代表例である。

  磯城島の 日本の国は 言霊の たすくる国ぞ ま幸くありこそ

 『万葉集』(巻十三)に掲載されている柿本人麻呂の一首である。遣唐使が無事であるよう祈って詠まれた歌で、「日本は、言葉の魂が人を助ける国である。無事であってほしい」という意味だ。このように、日本人は古代から言葉と行動の関連性を重視する民族であった。
 もちろん、どこの国においても「言葉」が人々を感動させたり、激怒させることはある。アメリカの第一六代大統領エブラハム・リンカーン(Abraham Lincolon,1809~1865)の南北戦争に関連したゲティスバーグ演説は、不朽の名演説として知られている。

 戦死者の死を決して無駄にしないために、この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさ
 せるために、そして人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させない
 ために、われわれはここで固く決意する。(在日米国大使館資料から)

 日本においても、戦前戦後を通じて尾崎行雄、田中正造、永井柳太郎、河上丈太郎らをはじめとして議会での名演説でならした政治家は数多い。そのなかで、戦後政治の名演説といえば何といっても池田勇人首相の浅沼稲次郎追悼演説(一九六〇年一〇月一八日)であろう。日比谷公会堂で開催された党首演説会において、演説中に右翼少年の山口二矢に刺殺された浅沼社会党委員長を悼んでのことだが、追悼演説に首相が立つというのは珍しいケースだった。

君は、大衆のために奉仕することを、その政治的信条としておられました。文字通り東
奔西走、比類なき雄弁と情熱をもって、直接国民大衆に訴え続けられたのであります。
 沼は演説百姓よ
 よごれた服にボロカバン
 きょうは本所の公会堂
 あすは京都の辻の寺
 これは大正末期、日労党結成当時、浅沼君の友人がうたったものであります。委員長と
 なってからも、この演説百姓の精神は、いささかも衰えをみせませんでした。全国各地
で演説をおこなう君の姿は、いまなおほうふつたるものがあります。

 この追悼演説は大きな反響を呼び、与野党議員から賛辞が聞かれた。「俺が(演説原稿を)読んだら、議場がシーンとしてしまう追悼文を書いてくれ」と池田から頼まれて、この原稿を書いたのは、当時の総理秘書官・伊藤昌哉だった。太った体型から「ブーチャン」との愛称で呼ばれていた伊藤は、著書『池田勇人その生と死』(至誠堂、一九六六年)のなかで、この演説原稿の裏話を披露している。
 後日、池田首相は「あの演説は五億円か一○億円の価値があった」と漏らしたという。「沼は演説百姓よ」という詩を取り入れたことが大きい。当初はこの詩を二度繰り返して読む予定だったが、衆議院議院運営委員会の理事たちから「あまりにも型破りだから詩の部分は省いたほうがいい」という意見が出たと聞いて、朗読するのを一度だけにした。政治家センセイたちのセンスのなさが嘆かわしい。
 筆者も、鈴木善幸元首相が二〇〇四年に亡くなったとき、宏池会の会長だった宮澤喜一元首相から依頼されて内閣・自民党葬の弔辞を書いたことがある。拙著『実写1955年体制』(第一法規、二〇一三年)でも紹介したが、鈴木善幸夫人さちさん(二〇一五年二月死去)の俳句「女ひげそりて旅立つ萩の朝」を草稿に織り込んだ。
 鈴水首相は中国から帰国後、自民党総裁再選確実という情勢下で、突然、辞意を表明して政界やマスコミを騒がせたが、実は中国に出発する際、さち夫人が総裁選不出馬の覚悟を機中で俳句に託して記者団に披露していたのである。
 俳人だった夫人は、筆者に「萩の朝」がよいか「萩の露」がよいかと問うた。これから北京へ向かうときに「萩の露」というのは何かいかにも縁起がよくない気がして、「萩の朝のほうがよろしいのでは」と進言した。だが、迂闊にも、それが帰国後の首相退陣を前提にした一句だったとは筆者も含めて同行の記者団はまったく気付かなかった。
 弔辞を読む際、宮澤首相(当時)は追悼文案からこの部分をカットしている。公式行事での追悼文ではプライベートなことは極力避けたい、という宮澤らしい配慮であった。
 このように、その場その場での言葉の選択が難しいように、職業の選択、人生の選択となるともっと難しい。筆者は、新聞記者という職業は「I字型人間」(アルファベットのIのように間口は狭いが、奥行きの深いスペシャリスト型人間)より「T字型人間」(さまざまな問題に関心をもちながら、一つの専門分野をもつマージナル人間)のほうが向いているように思う。事実、そのように新人記者教育もしてきた。
 入社時の研修を終えた新人記者はまず地方支局に配属されるのが一般的だが、そこで地元警察の記者クラブ、そして次の新人が来れば市政や県政記者クラブに入会するのが通常のパターンである。ここで肝心なことは、記者クラブとはあくまでも取材の出発点であって、終着駅ではないということである。警察や市役所、県当局からクラブで発表されるデータは記事を書く材料のほんの一部にすぎないが、その発表をもって取材が完了したかのように錯覚している記者も多い。
 日本の記者クラブ制度が欧米から批判にさらされた時期があった。 一九九〇年代初めのころだったが、その内容は次のようなものだった。
・記者クラブは閉鎖的で、日本のマーケット(市場)が外国企業の参入に消極的なのとそっくり。
・事実上の取材制限ではないか。
・日本の新聞がみんな、横並びの記事を書いているのは記者クラブ制度のせいではないか。

 具体的なクレームをつけてきたのは、東京駅近くにオフィスを構える米国の経済通信社「ブルームバーグ・ビジネス・ニュース」だった。同社の日本代表から、「わが社はオブザーバーとして兜クラブ(東京証券取引所の記者クラブ)に入っているが、三月の決算発表期に、クラブ正会員のボックスから資料配布がはじまってオブザーバーたる当社のボックスに配られるまでに一分半の時間差がある」との抗議とともに、「イコール・アクセスの原則からしておかしい。改善策がとられないなら当社も正会員にしてもらいたい」という要請だった。
 この時代は、金融・証券の自由化に伴いアメリカでもトヨタやソニーなど日本企業の株を持つ人が増えていたころだから、決算報道での「一分半の遅れ」は、米国での日本株保有者の売買取引に損害をもたらすとの主張も、それなりに説得力をもつていた。
クラブ側は、部屋に余裕がないことや、同社には日本の新聞社と同様の幹事業務ができないなどの理由で「ノー」の回答を出した。しかし、ブルーム側は納得せず、結局、日本新聞協会が、一九九三年一月、「記者クラブ問題に関する小委員会」を設置し、外国報道機関のクラブ大会の是非を検討することになった。
 小委員会は一三社の編集幹部からなり、委員長を朝日新聞の村上吉男・東京本社編集局次長(ロッキード事件でコーチャン証言を記事にした)、副委員長を筆者(当時、東京新聞編集局次長兼経済部長)と片岡繁雄・北海道新聞東京支社編集局長が務めた。「外国報道機関に記者クラブを開放するなら国内の政党機関紙にも開放しなければならなくなるのではないか」、「英国のBBCみたいな国営放送局も入ってくると、記者クラブヘの日本政府の関与を強める契機になりはしないか」など、さまざまな議論が飛び交い、結論を出すまでに五か月を要した。
 最終的には、①日本新聞協会に届けを出している在日記者、②二社以上の日本報道機関の推薦、を条件に、「参入を希望する外国報道機関の記者については、原則として正会員の資格でクラブヘの加入を認めるべきである」との答申をまとめた。
これを受けて海外メディア八社が、「兜クラブ」にかぎらず、最大の記者クラブである「内閣記者会」(首相官邸のクラブで「永田クラブ」ともいう)を筆頭に、二〇のクラブに加盟申請を出した。それで円満解決したかというと、必ずしもそうではなかった。やはりクラブ正会員の「満場一致」という不文律が残っていて、たとえば「霞クラブ」(外務省記者クラブ)では、中国・北京で発行されている新聞〈北京日報〉の東京特派員からの入会申請には、産経新聞が「中国共産党の支配下にある新聞」との理由で反対し、入会が認められるまでに、その後もかなりの時間を要している。
 日本における記者クラブの歴史は一八九〇(明治二三)年に遡る。帝国議会開設に際して「議会出入り記者団」(のちの「同盟記者倶楽部」を結成したのが最初だった。現在は、首相官邸前にある四階建ての「国会記者会館」が国会取材のベースキヤンプとして使用されている。
 大平洋戦争中、「大本営発表」以外の報道が禁止され、国民は誇大な戦勝報道に沸き立ち、敗戦に至るまで真実を知らされなかった。もちろん、それに加担したマスコミの責任も重い。戦後はGHQ(連合国軍総司令部)の指導もあり、記者クラブは「取材活動を通じて相互の啓発と親睦を図る」ことを主眼に活動を続けてきた。政府も「新聞や放送を通じて広報・広聴をもつと徹底する必要がある」と認識して、各省庁の記者クラブは大臣室のあるフロアに設けるなどマスコミ対策を重視するようになった。
 同時に、記者会見も官庁側と記者側の共同開催という形で、取材される側(官庁)と取材する側(記者)が対等の立場で運営してきた。しかし、近年の首相会見などを見ていると、主導権を首相官邸側に完全に握られているようで、「なぜ、そこでもっと追及しないのだ」とテレビ中継を見ながら歯がゆく思う場面が多い。後輩の記者諸君、「国民の代わりに質問している気概をもつてくれ―」、そう叱咤激励したい気持ちでいっぱいだ。
 二〇一五(平成二七)年で、日本は大平洋戦争の敗戦から満七〇年を迎えた。 一九五五年体制(自民党一党支配体制)以来、新聞社の政治記者・デスク、経済部長、論説主幹、編集・論説担当取締役などとポストは変わっても、半世紀以上にわたって日本の政治・経済をウオッチしてきた一ジャーナリストとして、 政に使われた「言葉」や流行語ともなった社会現象を通して、戦後日本の実相を読み解いてみようというのが本書の狙いである。
 「吉田ワンマン」「グズ哲」「二ワトリからアヒルヘ」「昔陸軍今総評」「エコノミック・アニマル」「日本列島不沈空母論」など人口に膾炙する言葉には、 一般的な解釈とは別の意味があったり、誤訳だったりして俗説が独り歩きしている向きもある。その背景も紹介しつつ、戦後七〇年の日本を総括して、日本および日本人はいま何を「言挙げ」すべきなのかを読者とともに考えたい。とくに、「総人口の一億人切れ問題」「若者の保守化」「地方の衰退」「独居老人の急増」といった国力衰退現象が目立つなかで、過去を見つめ直すことから日本の新しい未来を拓くヒントが得られるに違いないと思い、最終章において筆者なりの提言を列記させていただいた。

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