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文化人を育てた喫茶店「新宿風月堂」   宇治敏彦

 古い資料を整理していたら学生時代によく通った「新宿風月堂」に関する新聞、雑誌記事などが出てきて、半世紀以上前の自分の姿を鏡の中に見た思いがした。
 敗戦直後の1946年に開店し、1973年の閉店まで27年間、名曲喫茶や画廊喫茶として多くの若者を集めた新宿風月堂は、JR新宿駅をマイシティ―側に出て中央通りを四谷方面に歩いて3ブロック目の右側にあった。
 筆者が風月堂を頻繁に利用したのは早稲田大学英文科在学中の1950年代後半だった。同級生の岐部堅二(故人、京都新聞)、今井啓一(故人、日経新聞)、今関健一(松竹助監督)、勝田裕之(NHKアナウンサー)、金原忠雄(故人、静岡銀行)といった仲間が集まっては、ほぼ毎日、授業の合間にトランプゲームをしていた。早稲田高等学院以来の親友で、本誌「埴輪」同人の小榑雅章君とも行ったことがあると思うが、小榑君とは風月堂より「青蛾」という新宿三越裏の民芸調喫茶店の方が多かった。
 風月堂の経営者は、後に知ったことだが、横山五郎という近代絵画のコレクターで、梅原龍三郎、林武、岡鹿之助、小出樽重、三岸節子らの作品を集めていた。そのためか店内に絵画を飾り、名曲を流す喫茶店として画家、音楽家、作家、評論家などに愛されるカフェだった。そんな文化的雰囲気の中で私たち早大の仲間は一杯のコーヒーで何時間もトランプゲームに興じていた。今だったら「学生さん、遊びは好い加減にして」と言われるところだが、店主や店員から一言も注意された記憶はない。
 「新宿TODAY」という地域誌(1987年5月号)が「新宿風月堂の魅力」という特集を組んでいる。こんな声が載っていた。
 清水雅人氏(詩人)「(早大の)同級に寺山修司がおり、彼と『早稲田詩人』を編集しながら(中略)風月堂で火の会という集まりをもっていた。(中略)あの頃の『風月堂』は、詩人や画家、写真家たち、演劇青年たちのサロンだった」
 清水邦夫氏(劇作家)「おかしなことに風月堂にいると、世間をナナメに見ているような感じでコーヒーをのみながら、なぜか“がんばらなくちゃ”と思うところがありました」
 真鍋博氏「喫茶店ではありましたが、入って左側に二階まで吹き抜けの大壁面があって、大作が並べられ、しかも一人15日間もの作品発表の場は、あの頃ほかには無く、22歳の青年にとっては大舞台で、四国からいまは亡き父を呼び、二階でコーヒーをのみつつ絵を見せました」
 またイラストレーターでエッセイストの大橋歩さんが「当時芸術家がたむろしていた風月堂で、背伸びしてブラックコーヒーを飲み、たばこをふかすまねをしました」「トイレに入ったら便器がウエスタンスタイルだったのです。生まれて初めての洋式便器を目の前にして、すくみました。(中略)でもがまん出来ません。ああかな、こうかなとやってみて一番無理のない格好ですませたのでした。後日どこかの洋式便器に使用図が貼ってあり、私の方法は正しかったことをしりました」(2000年10月19日、東京新聞朝刊「わが街わが友」)。前記の地域誌にも「はじめて洋式トイレにしたのもあそこじゃないですか。なにしろ使い方がわからなくて。後で聞いたらみなそうだった」との声も載っている。
 風月堂は若人たちにさまざまなことを教えてくれたわけだ。やがてヒッピーやフーテンが増えるようになり、1973年8月、多くの常連客に惜しまれながら閉店した。
 戦後から今日まで「純喫茶」「レコード喫茶」「歌ごえ喫茶」「落語喫茶」「同伴喫茶」「個室喫茶」などなど沢山の喫茶店が誕生し消えていったが、最近は新宿風月堂のようなカフェに行き合わないのが残念でならない。
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