憲法改正問題と高柳賢三博士の深謀遠慮  宇治敏彦


 5月18日に憲法改定の手続きを定めた国民投票法が施行される。この法律は2006年、改憲に積極的だった安倍晋三政権当時に成立したものだが、昨年の政権交代以来、改憲ムードはすっかり影をひそめている。民主党と連立を組んでいる護憲政党・社民党も鳩山政権が改憲を政治日程にのせることがあれば連立離脱の行動に走るだろう。日本世論調査会が3月中旬に実施した全国世論調査によれば憲法第9条(戦争放棄)に関しては51%が改正不要と答えている。また集団的自衛権の行使を憲法解釈で禁じている政府見解に対しても「今のままでよい」が47%(「解釈を変更して集団的自衛権行使」を求める声は17%)と全体的に護憲論が根強いことを示している。
 私は駆け出し政治記者時代の1960年代に内閣の憲法調査会(高柳賢三会長)を取材していた。この調査会は岸信介内閣の下で設置されたが、社会党が改憲を目論む調査会だと反発してボイコットし、同党に割り当てられた10人は欠員となった。国会議員30人、学識経験者20人から構成された憲法調査会の会長は成蹊大教授の高柳賢三だった。「制定経過」「運用の実際」「問題点」の3つの部会が毎週、首相官邸で開かれ、官邸クラブの憲法担当記者は公開の審議を取材するのに忙殺された。そのころの官邸クラブでは若手記者は「憲法調査会」を担当するか、総理府ないしは行政管理庁を担当するかに分かれていた。
大学で文学部だった私などは国家統治機構を勉強するのに良い機会だった。当時、各社の憲法担当記者は朝日が松下宗之(後年、朝日の社長になったが、社長在職中に病没)、毎日が西山太吉(後に沖縄関連の密約問題取材で逮捕され退社)、読売が金子某、産経が大森某、中日が大江立夫などといった顔ぶれだった。もう半世紀近く経つから書いても許されると思うが、こうした憲法記者連の間で「改憲3馬鹿大将」と陰口をたたかれた学者委員たちがいた。神川彦松(東大名誉教授)、大石義雄(京大教授)、大西邦敏(早大教授)である。似顔絵が得意だった大江記者などは、退屈な論議が続くと、神川ら3人の似顔絵を原稿用紙に描いては仲間に回覧した。なぜ「3馬鹿」と揶揄したかといえば、口を開けば「改憲」「改憲」と何とかのひとつ覚えのように叫んでいたからで、まだマスコミの間では護憲ムードが根強かったこととも関連していた。
 憲法調査会の事務局に大友一郎という有能な官僚がいて、私は彼から多くの情報を得た。敗戦後の1945年10月、マッカーサー元帥の指示を受けて幣原喜重郎内閣が旧憲法改正のための憲法問題調査委員会(委員長・松本蒸治国務相)を設置したとき、内閣官房にいた大友は松本国務相付になった。犬養毅が暗殺された首相官邸の日本間が松本の部屋に充てられた。大友の回想によると、松本はGHQ側の対応に大声で怒鳴ることがあったという。国体護持を中心とした松本の改定案はGHQから一蹴され、結局はマッカーサー3原則(元首としての天皇の地位、戦争の廃止、封建制度の廃止)をもとにGHQ主導で草案づくりが進められた。ホイットニー民政局長は3原則提示の際、「戦争の廃止は日本側からの提案」と説明した。日本側提案か、マッカーサー側の提案だったかは、いまだに議論の対象になっている。高柳会長や大友は1958年、憲法制定経過調査のため訪米した際、マル秘文書SWNCC-228の全容を知った。これは1946年初め、トルーマン大統領の承認の下に国務・陸軍・海軍3省調整委員会がマッカーサー元帥に送った「日本統治体制の改革」であり、ここでは日本が再び軍を持つことに含みを残していた。
 それが同年1月24日の幣原首相とマッカーサー元帥との会談をきっかけに「戦争放棄」に傾いていく。風邪を引いた幣原がマッカーサーからもらったペニシリンのお陰で治ったお礼にマ元帥を訪問した際、幣原の口から「戦争放棄」という提案がなされたという。
 マッカーサーの証言によれば、幣原は別れ際に「世界はわれわれを夢想家と笑うでしょうが、100年後には預言者といわれるでしょう」と言ったという。だが、戦争放棄はマッカーサーの提案だったという説も残っている。高柳や大友は幣原の発意にマ元帥も同意した「日米合作」との見解をとっている。退官後、日大教授として憲法を担当した大友は高柳らと共著で「日本国憲法制定の経過」(有斐閣)を出版した。1998年、大友と二人でGHQの本部があった第一生命ビルを訪ね、マッカーサー元帥が執務した椅子に特別の許しを得てお互いにかけながら話し合ったとき大友が興味深い研究結果を聞かしてくれた。
 「第9条の表現はマッカーサー・ノートから現条文に至るまで少しずつ変わっているが、最初の表現は戦争の『放棄』(renounce)ではなく戦争は『廃止する』(is abolished)と受動形の英文表現が使われていた」
 大友は、なぜ受動形の英文なのか、その一点を長年考えたという。そして得た結論は「何によって『廃止される』のか。それは時代、国際環境ではないか。戦争が廃止される時代になっている、と和訳されるべきではないか」ということであった。日大で13年間、憲法を講義した際、大友は学生たちに「日本のイニシアチブで出来た憲法ではないが、第9条については幣原首相の提案をマッカーサー元帥が受け入れたことを分かってほしい」と話したという。
 1964年(昭和39年)7月3日、憲法調査会は約7年にわたる審議結果をまとめた最終報告書を池田首相に提出した。報告書は本文だけで1150ページ、付属文書を含めると5500ページ、厚さ60センチに及ぶ膨大なもので、改憲論が多数としながらも改憲、護憲両論を併記している。高柳会長は「この報告書の最大の特色は、憲法改正の是非について結論を出していないことである」と述べている。ずばりいえば高柳は護憲派だった。ただ会長という立場上、自らの立場を鮮明にするのは避けていた。しかし、高柳の本心は調査会の運営ににじみ出ていた。一番の特徴は3部会の一つに「運用の実際」という部会をつくったことだ。条文よりも運用が大事という、いかにも英米法学者らしい考え方である。東大法学部で高柳賢三は宮沢俊義(憲法学者)、芦田均(元首相)と同世代で、いずれも秀才の誉高かったが、宮沢が憲法、芦田がフランス法専攻だったのに対して高柳は英米法専攻だった。欽定憲法というかドイツ憲法学者は一字一句、条文と現実が一致していないと気がすまないが、英米法学者は大事なのは条文より運用だという考え方の持ち主だ。最終報告がまとまる少し前に私は朝日の松下記者と一緒に、病気入院していた高柳会長を見舞いに行った。最終報告が出たあと改憲ムードが高まるのではないかと思って病床の高柳に聞いてみたが、彼はベッドに横になったまま「それは国民が判断することで、われわれの報告書がその判断材料の一助になれば幸いだ」と淡々と語った。憲法9条は、いまや現実とは相当乖離しているが、現実の自衛隊に合わせるために条文を変えるのではなく、「戦争放棄」ないしは「戦争廃止」という理想をあくまでも追求しながら憲法の運用に努力していく―それが高柳賢三の終始変わらない姿勢だった。「運用の実際」という部会を設置したところに高柳の深謀遠慮があったと私は思った。(文中敬称略)
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