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「構造改革」論争は政治に何をもたらしたのか  宇治敏彦

 
 小泉純一郎元首相は郵政民営化論を展開した際「構造改革」という言葉をしきりに使った。「構造改革なくして景気回復なし」などと。最初にそれを聞いたとき「江田三郎の『構造改革論』の盗作じゃないか」と思ったほど久しぶりに耳にしたキャッチフレーズだった。浅沼稲次郎社会党委員長が右翼少年に暗殺された直後の党大会で江田書記長は構造改革を提唱した。イタリア共産党・トリアッチ書記長の理論に学んだとされる。当時、江田は鈴木茂三郎元委員長率いる最大派閥・鈴木派に属する左派とみられていた。ところが太田薫総評議長や社会主義協会の向坂逸郎会長から「江田の構造改革論は改良主義の“なし崩し革命論”だ」と攻撃される。1961年3月、九段会館で開かれた社会党大会から構革論争が党内を二分し、鈴木派を継いだ佐々木更三の左派と、右派の象徴的存在になっていく江田率いる江田派との亀裂が深まった。
 私が社会党や総評を取材していた1960年代から70年代にかけて、マスコミの日刊新聞は革新陣営の左派からは「ブル新(ブルジョア新聞)」とか「商業新聞」と呼ばれていた。「おい、そこのブル新の記者さんよ」などと社会党左派の書記から声を掛けられたこともある。革新政党では国会議員より古参の書記局員(非議員)のほうが党内で影響力を誇示した時代でもあった。佐々木派の曽我祐次、江田派の貴島正道などは、そうした書記の代表格だった。1964年2月の党大会では曽我(当時、東京都連書記長)が質疑の中で爆弾発言をした。「1961年の党機関紙『社会新報』に掲載された論文『共産党の新綱領を評す』は当時、共産党春日派に属していた佐藤昇が書いた。そんな人物がわが党の機関紙に論文を書くのが許されるのか」。大会は混乱し休憩となった。曽我の狙いは当時、組織局長だった江田と仲のよい佐藤昇書記の履歴を暴露することで構造改革派のイメージダウンを図ることにあった。曽我はいまも元気で、たまに中国関連の会合で会う。「あのときの曽我さんの演説は迫力があったですね」というと、「そんな昔のこと、冷やかさないでよ」と肩を叩かれる。曽我は中国で日中友好の曽我杯ゴルフ大会を何十回とやっている。正直なところ昔の「爆弾男」だった左派書記と「ゴルフの曽我」がぴったり一致しない。
社会党大会といえば1945年11月の結党大会は日比谷公会堂だが、1958年からどういうわけか九段会館で開催されるのが常であった。荒畑寒村が生きていたら「反戦平和の社会党が旧軍人会館を使うなんて笑止千万」といったに違いない。大会が始まると、派閥ごとに九段近辺の旅館に陣を構えた。若喜とか若葉といった名前の旅館には河上派、江田派などが陣取った。最大派閥の佐々木派は九段会館内に部屋をキープしていた。私は佐々木派担当だったが、役員人事となると、票読みのために同会館の講堂下にあった細い通路を何回往復したことか。
1977年、江田はついに社会党を離党する。このとき私は野党クラブのキャップだった。実はこの年は江田離党だけでなく、社会主義協会と反協会派の全面対決、田英夫、楢崎弥之助、秦豊の社会党離党、共産党の袴田里見副委員長の解任、民主党の春日一幸委員長の突然の辞任と佐々木良作委員長の誕生、社会党の成田委員長の辞任と飛鳥田一雄委員長の誕生といった具合に野党クラブにとっては盆と正月がいっぺんに来たような忙しさだった。離党から間もなく江田は病死、社会党は96年に社会民主党と名前を変えて姿を消す。江田が構革論を展開してから約35年経っていた。
一方、小泉の「構造改革」論も自民党の基盤を大きく崩した。特定郵便局、農協、医師会、建設業界、トラック協会などなど。「自民党をぶっ潰してもいい」という小泉の持論が昨年の衆院選挙での自民党敗北―民主党政権誕生につながった。江田の構革論をきっかけに社会党のメルトダウン(溶解)が始まったように、小泉が提唱した構革論が皮切りになって自民党も今、メルトダウンの過程にあるではないだろうか。(文中敬称略)

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