革新の大組織を牽引した機関車・岩井章   宇治敏彦


 今までの記者活動でいろいろなお宅を訪問したが、畳敷きの和室を歩くとボコボコと畳が沈むのを実感した家は2軒しかない。一軒は改築前の鈴木善幸元首相邸(東京都世田谷区経堂)で、これが自民党の実力者の家か驚いた記憶がある。もう一軒は400万労働者の集合体・日本労働組合総評議会(総評)を事務局長として引っ張った岩井章の家。岩井は1969年(昭和44年)に熱海の伊豆多賀に引っ越したが、それまで住んでいた東京都大田区西蒲田の家は「お化け屋敷」と陰口を叩かれるボロ家だった。1階に和室が二間あり、玄関を入った左側の部屋は特にひどかった。歩くと畳が浮き沈みして、今にも床が抜けるのではないかと心配した。ここで毎晩のように岩井は親衛隊と呼ばれた古手の労働記者たちや総評幹事だった岩垂寿喜男(後に社会党代議士、環境庁長官)らと麻雀をし、そのあと奥の小さな和室で記者懇談に応じていた。親衛隊の中には後に自民党代議士になった竹内黎一(毎日新聞)の顔もあった。私が労農記者会(労働省記者クラブ)詰めになったのは1965年(昭和40年)のことで、当時の最大のテーマはILO(国際労働機関)87号条約の批准問題だった。連日連夜、岩井の家に夜回りするうちに、ある雰囲気に気づいた。親衛隊の記者たちを通じて岩井の情報が石田博英労相や自民党の労働関係議員に流れ、それがまた総評に跳ね返ってくるという情報の流れである。プラスに働けばいいが、必ずしもそうではなく、中立的な立場の記者連は親衛隊の存在を快く思っていなかった。
 まだ20歳代半ばだった私は、岩井と卓を囲む親衛隊が決して総評にとってプラスではないと思って、他に夜回り記者がいなかった夜、若気の至り岩井に「親衛隊を通じての情報操作はやめたほうがいい。もっと幅広い記者たちを通じて総評の方針を社会に伝えるべきです」と直言した。黙って聞いていた岩井が、しばらくして口を開いた。「『新週刊』で赤字を出したとき本当に首をつって死のうと思ったんだ」。私はびっくりすると同時に、なぜ岩井がそんな話を私にしたのかと思った。『新週刊』というのは『週刊新潮』などの週刊誌ブームに触発されて総評が発刊した週刊誌だが、短期間のうちに4億円もの累積赤字を出して廃刊となった。総評の組合費で補填したものの、事務局の責任者としては「組合員に申し訳ない」という自責の念を持ち続けていたのであろう。そのことが私の進言とどう結びつくのか今もって分からないが、爾来、私と岩井の距離は急速に縮まった。自民党担当などを経て2度目の労働担当になったのは1970年春だが、岩井は無条件で私にさまざまな構想を話してくれた。その一つが「春闘の質的転換」である。賃上げ(ベア)闘争に限界と感じていた岩井は、住宅手当とか養老年金の充実といった「制度要求」「政策要求」を春闘の中で戦っていこうと考えたのだった。この構想は東京新聞のトップを飾る特ダネとなった。この年は総評誕生から満20年で、岩井は月刊「総評」8月号に「総評の20年をふり返って」と題して、次のように書いている。
 「率直にいって幾多の闘いのなかで、60年安保、三池闘争までは登り坂であり、その後はこの安保、三池の遺産を食ってきたといえる」
 33歳の若さで総評事務局長になり、15年間その重責を担ってきた岩井は、確かに疲れていた。本来なら7月に開かれる総評大会ですんなり再任になるところだが、思わぬハプニングが発生した。太田薫議長が退任後、1966年から総評議長を務めていた堀井利勝(私鉄総連委員長)が6月に交通労連関係の会議で米国に出張することになった。70年安保の年でなかったら、この外遊は何の問題にもならなかったろう。だが60年安保闘争のような大規模闘争ではないにしても日米安保条約の自動延長に反対する「反安保統一行動」が6月23日に予定されていた。堀井議長が予定通り訪米した日、労働省記者クラブに属するNHKの前田一郎記者(後に解説委員)と一緒に羽田空港へ見送りに行った。前田も私も「70年安保闘争のヤマ場に総評議長が外遊というのでは様にならない」との意見で一致していた。どちらからともなく「記事にしようか」と意気投合した。「70年安保闘争の最中に堀井総評議長が訪米」。このニュースの反響は大きかった。7月2、3両日の総評拡大評議員会で太田前議長(合化労連委員長)が「議長訪米問題はハプニングではない。議長をはじめ幹部が外遊しすぎる。それも会社から餞別をもらっていくようでは大衆がついてこないのは当然だ。議長も議長だが幹事会全体がたるんではいないか」と噛み付いた。この太田ラッパも起爆剤になって8月の総評大会では堀井―岩井の2人が揃って退陣することになった。前田記者も私も「堀井辞任」は避けられまいと見ていたが、「岩井退陣」までは当初想定していなかった。その意味では「岩井さんに悪いことをしたな」という気持ちが残ったが、同時に岩井自身が総評20年の一文に書いたように「安保、三池の遺産で食ってきた」慢心が表面化したのだと実感した。岩井は十二指腸潰瘍で体重が5キロも減っていたから、ここが引きどきと思ったのだろう。私の手元に総評第40回定期大会最終日の速記録(1970年8月13日)が残っているが、岩井の退任挨拶は、太田薫が退陣したときの長い挨拶と対照的に「15年の長い間、本当にありがとうございました。私にとっては全国の同志の友情に包まれた闘いの15年間でもありました。退任しても、まだまだ若いので今後も一人の活動家として、新執行部を助けながら闘い続けたいと思います」という極めて短いものだった。
 翌年、岩井は「国際労働運動研究協会」を設立し、会長に就任したのをはじめ83年には太田薫、市川誠(堀井の後の総評議長)とともに「労働運動研究センター」を立ち上げ、右寄りの労働戦線統一に反対を続けた。また1994年、社会党と決別し、護憲政治勢力の結集を呼びかける会の代表世話人になった。97年2月、糖尿病のため74歳で死去。
変な言い方かもしれないが岩井章の前半生は、自民党の田中角栄と似たところがある。ともに大正生まれで、家が貧しかったため小学校しかいけなかった。いずれも高等小学校(岩井は長野県、田中は新潟県)を優秀な成績で卒業。片や機関士見習い(岩井)、片や土建業で苦労し、岩井は33歳で総評事務局長、田中は29歳で郵政大臣とスピード出世を遂げた。この間、岩井は長野県議選、田中は衆院選で落選を経験している。岩井が総評議長を退任した時は48歳、田中が首相を退陣した時は56歳の若さだった。後半生は大分違う。岩井が憲法擁護に拘って右傾化反対運動をライフワークにしたのに対して、田中はロッキード事件で逮捕後も闇将軍として自民党を支配したが、竹下登ら足元からの分派・権力闘争で体調を崩し、1955年体制(自民一党支配)が崩壊した93年に75歳でなくなった。
太田薫と並んで戦後のユニオンリーダーとして活躍した岩井章は、太田のような派手さはなかったが、国労や総評といった大組織を、まるで長い車両の列車を一秒の狂いもなく走らす機関士のように、自在に動かす手腕は、まことに見事だった。保守陣営にいたら間違いなく田中角栄と雌雄を決する間柄になっていたであろう。(文中敬称略)
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