続・菅直人首相の流儀とセンス  宇治敏彦

 筆者が政治記者として菅直人氏の姿を初めて目にしたのは1977年(昭和52年)、江田三郎氏が社会党を離党して新宿区四谷に社会市民連合の事務所を開設したころだった。当時は政治学者の篠原一氏やサラリーマン同盟の青木茂氏らが「市民参加の政治」に力を入れており、市川房枝さんを応援していた菅青年も江田氏と行動を共にするようになった。
 「私が社会市民連合への参加を決意した最大の理由は、“破壊”しながら“建設”することの可能性をこのグループに見いだしたからである」
 菅氏は「社会市民連合への参加の決意」にこう書いている。同年5月、江田氏が急逝したことで、社市連は菅氏を代表に担いだ。彼が最初に手がけたのは「市民債」の発行であった。「一人一人の市民の金と力と知恵を持ち寄る市民政治によって最小不幸の社会を目指します。この理念を実現するため、お金について社会市民連合は①個人からのカンパのみとし、企業、組合などの組織からは一切金をもらわない②会計は全て公開する、の2原則を宣言します」と「市民債発行についての主旨書」に書いている。
 既に、この時点で菅氏は首相就任後の記者会見で強調した「最小不幸社会の建設」をイメージしていたわけだ。もう一つ彼が当時からイメージしていた政治感がある。「政党はウサンクサイ存在」という認識である。
 「『政党』という団体は何かウサンクサイ感じがし、綱領、統制、除名といった政党用語にも反発を感じていた」「社会市民連合は『政党』の持つウサンクササをできるだけ無くそうと多くの実験を試みた。名称も『党』とせず、党員は“会員”と呼び、1年ごとの契約制で、統制、除名規定は設けず、調整及び離党勧告にとどめ、党組織自体も分権的に地方組織の連合体とした」(菅直人「市民参加と政党政治」1984年)
 要するに菅直人氏の流儀は、「市民」重視という路線で一貫している。それ自身は決して悪いことではあるまい。だが「市民の組織」と「政党」とがどこでどう違うのか、そこが最初からあいまいであった。社会市民連合は「政党的な市民組織」なのか「市民的政党」なのか。
 江田三郎氏が社会党を離党してから社市連を立ち上げ急逝するまでの58日間を追った「未完のロマン」と題する写真集(1977年刊)がある。そこに社市連の事務所開きで野党クラブの記者たちに囲まれた笑顔の江田氏が写っている。その脇で腕を組みながら冷ややかな目で江田氏を見つめる小生の姿も掲載されている。どうみても社会市民連合というスタイルでは社会党、民社党、共産党といった社会的影響力を持てる政治勢力には発展できないと思えたから「江田さん、浮かれているときではありませんよ」というのが私の率直な印象だった。江田氏の遺志を継いだ菅氏の言動にも私は同じ印象を持ち続けた。
 1980年の初当選以来、菅氏が一番活躍したのは第1次橋本内閣で厚生大臣になったときであろう。薬害エイズ事件やO157問題で政治主導の実績をあげ、その後の民主党結成―代表就任への道を開いた。
 この時点で菅氏は「市民の組織」「市民債」「ウサンクサイ政党」という出発点から「既成政党の改革」「官僚政治の打破」へとカジを切ったと私は思う。それから約30年の政治キャリアを経て、菅氏は内閣総理大臣というトップの座までのぼりつめた。その間に原点の市民感覚が一枚一枚薄れていったのではあるまいか。もし首相になっても市民感覚を大事にするのであれば、まずはデフレ不況をいかに脱却して格差なき社会をつくるかを説き、制度として機能しなくなっている社会保障諸制度(年金、医療、介護など)の再構築へ超党派協議を実現し、その結果として消費税問題が出てくるかもしれないことを示唆する手順で進んだであろう。いかにも財務省に取り込まれてしまったかのような消費税発言では、市民派を自称してきた政治家・菅直人の行動がウサンクサクみられても仕方あるまい。





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