花森さんの「無名戦士の墓」と千鳥が淵戦没者墓苑  小榑雅章

7月25日、日曜日にもかかわらず、千鳥が淵戦没者墓苑は閑散としていた。
ゆっくりと参拝をし、境内をくまなく歩き、天皇の歌碑を読み、休憩所でしばし休んだので小一時間も墓苑で過ごしたが、その間、出会った参拝者はただ1人だった。
所在無げにしていた墓苑の係りの人が、休憩所に入った私に近寄ってきてていねいに頭を下げて言った。
「ご参拝いただき、本当にありがとうございました。靖国神社には毎日たくさんの人たちが来ていますが、ここはごらんのとおり参拝者はほとんどいません。宣伝が足らないのでしょうかね。まつられている兵士の方々に申し訳ない思いです」
私は、問われもしないのに話し始めた。
「私の父は戦死しました。ここに、この無名戦士の墓にいると思っています」
「そうですか。どちらだったんですか」
「フィリピンのレイテです。遺骨も遺品も戻りませんでしたから」
「フィリピンですか。今年はフィリピンやマリアナ諸島、パラオ諸島などから収集した3937柱を新たにお納めしました。これまでのご遺骨は35万8269柱になりました。全部無名の方々です。お父上もきっとここにお帰りになっていますね」

千鳥が淵戦没者墓苑は「先の大戦で海外における戦没軍人及び一般邦人のご遺骨を納めた『無名戦没者の墓』として昭和34年3月28日に創建された」という。
その翌年の昭和35年8月14日の朝日新聞に、花森安治さんはこの千鳥が淵戦没者墓苑のことを「無名戦士の墓」と題して一文を掲載している。(無謀にも、花森さんの文章の最後の部分を抜書きする)
「・・・名前がわからないから、生きていたとき、どんな暮しをしていたひとたちか、わかるはずはない。
 わかることは、大部分が、たった一枚の赤紙で、家族と引きさかれてしまって、それっきり死んでしまった兵隊たちだということである。おなじ兵隊でも、えらい将校なら、死んでも名前がわからぬことはあるまい。屑ラシャの黄色い星が、ひとつかふたつか三つ、つまりただの兵隊だったにちがいない。ひまさえあると、家に帰ることばかり考えていた兵隊たちのうちのだれかなのだ。
・・・その人たちは帰らなかった。おなじ兵隊のひとり、ぼくは帰ってきて、それから十五年も生きて、いまこの人っ子ひとりいない妙に明るい墓地に立っている。
 そして、人には持って生まれた星があるのかと古風なことを考えている。こうして生きて帰った者もあるし、死んだ者もある。死んで靖国神社にまつられているものもあれば、名もわからず弾薬庫のすみにおかれ、やっと墓が出来ても、国も知らん顔、だれもかえりみようとしない者もある。(こんな国ってあるものか)
 この墓には、どういうわけか一字も文字が書かれていない。しかし「祖国のために勇敢に戦って死んだ無名の人たちここに眠る」といったふうの言葉だったら、むしろ、なんにもない、このままの方がよい。
 どんなに帰りたかったろう。ぼくならそう書いてあげたい。あすは、十五年目の八月十五日である。」

(この「無名戦士の墓」は、花森さんの「一銭五厘の旗」暮しの手帖刊にも掲載されているので、ぜひごらんいただきたい名文です。なお一銭のセンは金偏のない略字のセンです。花森さんは、「お前ら兵隊は、一銭五厘(=赤紙)でいくらでもかき集められるんだ、とまるで人間扱いされなかった兵隊たちを表すには、活字の銭では実感にそぐわない。一銭五厘は手書きの略字のセンがふさわしいとこだわって、金偏のない略字のセンの活字を特別に作ってもらい、暮しの手帖でも単行本でもその書体の活字を使った)

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