戦後のユニオンリーダー・太田薫(その1)  宇治敏彦

日本経団連の会長がキャノンの御手洗冨士夫から住友化学の米倉弘昌に代わる人事が発表された時、マスコミの扱いが意外に地味なことが気になった。1955年体制時代だったら間違いなく新聞ではトップ級の扱いだったろう。連合会長人事のニュースも同様だ。日本経団連は経団連と日経連、連合は総評、同盟など労働4団体からと、それぞれ組織統合して規模拡大をはかったのに社会的影響力やプレゼンス(存在感)は、日経連対総評の「総資本対総労働」時代に比べて縮小してしまったとは皮肉な現象といわざるを得ない。「わしの発言なら(新聞一面の)左肩5段だがなあ」と太田薫がよく言っていたのを思い出す。
 いまどき太田薫といっても、太田光(太田総理として活躍のタレント)ならともかく、その名を知っている若者は皆無に近いだろう。「春闘」という言葉自体が名存実亡になっているのだからやむをえないが、太田薫は春闘の生みの親であり、総評議長を8年間務めた戦後日本の労働運動を代表するユニオンリーダーだった。同時に晩年には自ら「春闘の終焉」を宣言し、「あれは春闘でなく春談だ」とスト抜き春闘を批判した。
太田は1955年(昭和30年)の総評大会で岩井章が、当時“天皇”とまでいわれた高野実事務局長を破って事務局長に就任した際に副議長となり、1958年からは議長として太田―岩井ラインによる総評全盛期を築き上げた。
 その前年の1957年、総評大会における事務局長選挙で太田自身も“高野天皇”に挑戦したが、140票対107票で敗れた。合化労連組織部員の水野輝雄は「あの晩だけは太田のおっさんも神妙で、おれはもう明日から酒も麻雀もぷっつりやめて勉強し、信念をつらぬくと語った」という(上妻美章「春闘」労働旬報社)。太田自身は自著「闘いのなかで」(青木書店)で「今もよく頭に浮かんでくるが、新宿駅の西口あたりの小さなおでん屋で、柳本(美雄)さんと二人、ヤケ酒というわけではないが、力いっぱい頑張って敗れたのだと酒を汲みかわした」と書いている。よほどくやしかったのだろう。
 太田、岩井ラインと高野天皇の違いは「平和勢力論」か「第三勢力論」かに集約されている。高野ら社会党左派ないし共産党系の主張は、米国とソ連の両軍事ブロックに属さず平和志向の第三勢力を拡大していくことがわが国の安全保障になると主張した。これに対して民同右派と呼ばれた太田、岩井らは米帝国主義と戦って世界の平和勢力を結集していくことが重要であるとの「平和勢力論」を展開していた。
その対立が労働運動面にも影を投げ、高野は「ぐるみ闘争」といわれる町ぐるみ、家族ぐるみなど人民解放戦線的な考え方を展開した。対するに太田は「労働運動とは労働者の即物的な現実的な要求を取りあげて、立ち上がってゆくべきものと思っている。もちろん、それだけでは今日の私たちの生活を守ることはできないから、養老年金や住宅要求、公害闘争などを強力にやらなければならない。(中略)しかし、企業内組織の限界があるからといって、労働者の即物的な要求をそっちのけにし、労働運動を町ぐるみの闘争や市民運動に解消してしまうことには反対」(「闘いのなかで」)と主張した。この「経済闘争主義」が春闘構想に発展していく。
 総評の歴史は、不思議と1955年体制(自民一党支配体制ないしは自民、社会2大政党時代)の歴史と重なっている。春闘という日本独自の賃金決定方式が太田らの提唱によって始まったのは1955年(昭和30年)の「8単産共闘」をもって嚆矢とするが、太田自身も「『55年体制』のスタート時点に春闘が始められたのは、偶然ではなかった」と述懐している(塚田義彦、太田正史編「太田薫」労働教育センター、1999年)。
 8単産とは炭労、私鉄総連、合化労連、紙パ労連、電産、電機労連、全国金属、化学同盟の8組合連合で、春季賃上げ共闘会議を立ち上げた。これが略されて春闘となり、今日まで続いている。8単産は当初、合化など5単産で構成され、電機、全金、化学同盟が後から加わった。当時は合化労連本部に事務局が置かれ、加藤万吉(合化出身の総評常任幹事、後に社会党衆院議員)が事務局長を務めた。太田は春闘の狙いをこう語っている。
 「全体が弱いから、どうしてもスケジュールを立てて、わるくいえば『お手々つないで』できるだけ助け合ってゆこうという方針しかなかった。しかし、民間産業で一日くらいのストをうってみても賃金がそれほど上がるものではない。そこで、私鉄のような組合がストをやると、市民の足がとまるので世間もさわぐ、中労委が出るというところから、私鉄に中心をおいた。それも孤軍奮闘ではやりきれないから、全体が協力する意味でいっしょにストをうち、中労委の斡旋案を引き出して、『右へならえ』をねらった」(「闘いのなかで」)
 ただ春闘の初代事務局長・加藤は異説を唱えている。
 「春闘は『みんなで渡ればこわくない』ということからだといわれているのですが、太田さんの発想はそうではなくて、当時電源ストがあったが、電力をストップする力を背景に交渉する、それが春闘の発想だったのです」(塚田義彦、太田正史編「太田薫」労働教育センター)。太田の言説にはない異説で、筆者としては初めて耳にした。
 私が取材で太田や岩井と頻繁に会うようになったのは1965年(昭和40年)の春闘前からだった。当時の労働界の最大の関心事は、官公労働者の結社の自由と団結権の保護をうたったILO87号条約の批准問題であった。岸内閣が1959年に87号条約の批准を閣議決定して以来、8年ぶりの発効であった。1957年の春闘で国労が3波のストを打って300本の列車を運休させたことに怒った岸内閣は同年5月、国労705人を含む公労協約900人の解雇、停職などの処分を発表し、さらに2次処分で約2万7000人、3次処分で約2万人という大処分に発展した。このとき問題になったのが、公共企業体等労働関係法だった。「職員でなければ職員組合の組合員または役員になれない」(同法4条3項)との規定をたてに、国鉄当局などは、解雇された役員をかかえている国労などが「首なし組合」だから交渉には応じないと突っぱねたのである。その対抗策として総評は、ILO87号条約の3条に「労働団体は自由に代表を選ぶことができる」という規定があることを見つけ、同条約の批准運動に乗り出したのだった。ILO対日調査団(エリック・ドライヤー団長)の報告を経て批准・発効までに8年の歳月を要した。官公労働者の労使関係はILO87号条約の発効で大きく改善された。(文中敬称略)(この項、次回に続く)
 
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