平成の「40日抗争」  宇治敏彦

 菅直人首相と小沢一郎民主党前幹事長との一騎打ちとなった民主党代表選挙が9月14日の投票日に向けて日々ヒートアップしている。党内は完全に二分化しており、票読みはなかなか難しい。特に世論の風向きを気にする若手国会議員や、来年春の統一地方選を控えた地方議員などは、どちらに付くのが自らの選挙や地位に有利かを慎重に見極めるだろうから、選挙戦終盤になっても優劣の差が見えてこないかもしれない。
 単に民主党の代表選びというだけでなく、次期首相選びに直結しているだけに国民の関心も高まっている。後輩記者が菅・小沢両氏の全面対決になった告示日(9月1日)に解説記事の冒頭で「これほどあからさまな権力闘争があっただろうか」と書いていた。これは後輩が若いからやむを得ないが、1955年体制時代はこの程度の権力闘争は結構あったのだ。特に1979年(昭和54年)11月の首相指名選挙では同じ自民党から大平正芳首相と福田赳夫前首相という2人の候補が出るという前代未聞の事態が起きた。これは同年10月の衆院選挙で一般消費税導入の構想を持ち出した大平自民党が敗北したことを受けて福田、三木、中曽根派など非主流派から大平辞任論が強まり、主流派の大平、田中両派がこれに応じず、40日抗争に発展した結果であった。
 衆院における1回目の投票では大平正芳135票、福田赳夫125票、飛鳥田一雄(社会党)107票、竹入義勝(公明党)58票、宮本顕治(共産党)41票、佐々木良作(民社党)36票、田英夫(社民連)2票で、過半数に至る候補はいなかった。このため大平、福田の決戦投票となり、大平138票、福田121票という17票差で大平氏が再選されたのだった。しかし、このときの怨念政治が翌年再燃し、1980年5月、野党提出の大平内閣不信任決議案に福田派など自民党非主流派が同調して可決。これを受けて大平首相は辞任せず、憲政史上初の衆参ダブル選挙に打って出た。しかし怨念政治による心労がたたって大平氏は選挙戦最中に急死した。
 当時、大平派を担当していた私は40日抗争のけりが付くまで朝に晩に瀬田の大平邸に通い詰めたが、大平首相の死去後、側近の加藤紘一氏(大平内閣では官房副長官)から興味深い話を聞いた。大平、福田会談の中で福田氏から辞任を迫られた大平首相は「それは私に死ねということか」と開き直る場面があった。だが、その直後、首相官邸に戻ってきた大平氏と一緒に食堂で遅い昼食に日本蕎麦を食べていると、大平首相は「俺が辞めたら誰が首相にふさわしいのか。加藤、言ってみろ」と下問を受けたという。加藤氏は灘尾弘吉氏(元文相)など何人かの政治家の顔を思い浮かべたが、言い渋っていると大平氏は次のようにつぶやいて加藤氏を驚愕させたという。
 「俺が辞める場合は、やはり福田しかいないな」
 政敵として激しく争っていても、内閣総理大臣という職責を考えれば、好き嫌いは別として前首相の福田氏に引き継いでもらうしかないと考えるあたりに大平正芳という政治家の真面目さと責任感がうかがえる。
 「平成の40日抗争」はどうなるのか。2日に日本記者クラブで行われた菅、小沢両氏の討論を最前列で傍聴していて、当初緊張気味だった小沢氏が後半には元気で、菅氏が逆に元気がないように見えた。小生と同じ感想を持った記者が多かった。政治家としてのキャリアや能力だけでなく、人間の器量までもがもろに出るこの戦い。どちらが勝つか、投票が終わるまで率直なところ分からない。

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