「昭和8年」を学び直そう   宇治敏彦

 横浜市中区日本大通りにある「ニュースパーク」(新聞博物館)で開催中の企画展「こんな時代があった 報道写真『昭和8年』」を見に行った。日本電報通信社(電通の前身)が昭和8年(1933年)に加盟社などに配信した内外の報道写真など約150点が展示されていた。この年、ドイツで台頭したヒトラー首相の動向や国際連盟総会で脱退を表明して日本国民から拍手喝采された松岡洋右全権(後に近衛内閣で外相)の表情をはじめ、パリで始まった毒ガス防御マスクの実習風景とか、日本での最初の防空演習の模様など、世界が「戦争へ、戦争へ」と走り出そうとしていた昭和8年という年を浮き彫りにしている。
 筆者は昨年、「政(まつりごと)の言葉から読み解く戦後70年」(新評論)という本を上梓し、その出版記念会の挨拶で「昭和8年を学び直そう」と参会者に呼びかけた。
それというのも昭和8年に京大法学部4年生だった筆者の父は「滝川事件」に遭遇して、就職先に苦慮していた。この年に出版された滝川幸辰京大法学部教授の著書「刑法読本」が「アカではないか」(共産党寄りではないか)と噂になり、内務省が発禁処分にした。ときの文部大臣・鳩山一郎は「赤い教授」を弾劾し、滝川教授の退官を要求した。法学部教授会がこれを拒否すると、文部省は滝川教授を休職処分とした。それに反発した大学や学生たちの反対運動が全国的に広がり、政府は思想弾圧を一段と強めていった。
小学校の国語教科書は大正7年からの「ハナ ハト マメ マス」が「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」に変わり、国威発揚型の色合いを強めていった。その国の政府が戦争志向を強める時は、必ずと言っていいほど思想・言論・教育・結社の自由を制限する方向に進んでいく。教科書の変化に象徴されるように長野県では「赤化教員の一斉検挙」があり、作家・小林多喜二が取り調べ中に虐殺されるなど、さまざまな思想弾圧が行われ始めた。それは日本の関東軍が河北侵入を開始したのとも軌を一にしていた。
私は昨年もこの「埴輪」に「昭和8年の教訓に学ぶ」という一文を書いたが、今回のニュースパークでの「昭和8年」写真展を見て、日本をはじめ世界全体が第2次世界大戦へと助走を始めた年ではないかと改めて思った。
同年12月23日、明仁皇太子(現天皇)が誕生している。「御名 明仁 御称号 継宮」と掲示する写真も展示されている。
歴史を学ぶ上で一見の価値ある展覧会と思う。(この写真展は12月25日までニュースパークで開催中。月曜休館)

「背広姿の万葉板画家」とでも言いますか?   宇治敏彦

 今から6年前に、このブログ雑誌「埴輪」がスタートした時、編集長の小榑雅章さんが小生の万葉板画を「宇治美術館」と称してパソコン上に掲載してくれた。時には仏像やお祭りのペン画も交えながら、今回で100回目の「美術館」になる。
 なぜ「万葉集」を版画に彫るのかと聞かれることがある。大伴家持らによって編纂された奈良時代の日本最古の「国民歌集」は、全20巻、約4500首と、そのボリュームもさることながら、天皇・皇族・貴族から下級官僚・兵士・農民・乙女に至るまで職業や身分を問わず私たちの先祖が、人生の喜びや悲しみを率直に歌い込んでいるのが最大の魅力だ。学生時代から棟方志功、川上澄生といった版画家(棟方さんは「板画道」と言っていたが)の作品に魅かれて「板画で万葉の歌を現代に蘇らせることが出来たら」と思ったのがきっかけだった。
 東京新聞の代表をしていた2004年当時に文芸春秋社がどこで聞き込んだか、「第二の人生 暮らしの設計図」というテーマで臨時増刊号をつくるので「版画と万葉集」について一文を書いてほしいと頼んできた。月刊「文藝春秋」(同年7月臨時増刊号)に「萬葉集を板画に彫る」と題して掲載された。その中で私は次のように結んだ。
 「板画の面白いところは、油絵と違って一度彫ったら手直しできないことだ。やり直しのきかない人生に似ている。彫り損なったら、それを逆にいかして作品にしていく開き直りの姿勢もときには必要になる。棟方志功の作品にも彫り損ねた箇所がいくつも見つかる。それを気にしないおおらかさが、また好感がもてる。最近の悩みは、本職の新聞社の仕事が多忙を極めて、なかなか板画づくりを楽しめないこと。しかし、趣味に定年はないから焦らない。本職の定年のときが来たら、趣味の本職が始まるのを今から楽しみにしている」
 現在は、まさに「結びの言葉」通りで、午前中は新聞社の相談役室に顔をだし、午後は日本プレスセンタービル8階の小部屋で万葉板画づくりに勤しんでいる。「背広の板画家」と冷やかす人もいるが、今年6月に二冊目の万葉板画集「版画でたどる万葉さんぽ」(新評論社)を上梓することが出来た。
 「いつ彫るのか」「一作品つくるのにどれくらい時間がかかるのか」とは、よく受ける質問だが、「ほぼ毎日彫ってます。気が向けば朝も自宅で彫っているので、娘に『木クズの掃除が大変』と叱られています」「作品の大きさや内容にもよりますので締め切りは決めていません」と答えている。もし御関心があれば東京新聞の関連紙「暮らすめいと」に毎月掲載している「万葉のこころ」をご覧ください。

ドキュメンタリー映画「抗い」を見よう   宇治敏彦

 「国家とは何か?」「国民とは何か?」「民族とは何か?」「戦争とは何か?」「権力とは何か?」―――。さまざまな「何か?」を考えさせられるドキュメンタリー映画を日本記者クラブでの試写会でみた。「抗い 記録作家 林えいだい」(RKB毎日放送。西嶋真司監督)。
 福岡県筑豊炭鉱で戦前・戦中に日本に徴用された朝鮮人たちの重労働や悲劇を中心に「戦争」「民族」「公害」などを長年取材し、国家権力の横暴がもたらす非条理を追及し続けてきた記録作家、林えいだい氏(82歳)を映像で追い続けてきた1時間半の記録映画だ。
 林さんは1933年12月、福岡県香春町に奈良時代から続く神社の神主(林寅治)の子として生を受けた。9歳の時、父は非業の死を遂げた。当時、筑豊炭鉱に強制労働に駆り出されていた朝鮮人たちが厳しい生活に耐えきれず脱走するのを気の毒に思って匿っていたのが発覚し、当時の特高警察から拷問を受けて命を落としたのだ。これが林えいじ少年を「反権力」に向かわせた最初のきっかけだった。早大中退後、帰省し炭鉱夫、地方公務員を経て37歳でフリーの記録作家への道に入った。以後、45年間に50冊以上のルポルタージュを発表しているが、その多くは「清算されない昭和 朝鮮人強制連行の記録」(岩波書店)「証言・樺太朝鮮人虐殺事件」(風媒社)「地図にないアリラン峠 強制連行の足跡をたどる旅」(明石書店)など戦前・戦中の日本の対外進出政策で犠牲になった被害者に関する取材記録である。
 映画では、筑豊炭鉱から脱走した朝鮮人労働者たちが「アリラン峠」と呼ばれた山道で行き倒れた様子を追っている。気の毒がった人たちが大きな石を選んで墓石とした。そうした石が今も山中にゴロゴロ転がっている。また1945年、一機の重爆特攻機が飛び立つ直前に放火された際に、朝鮮人飛行士(当時は山川という日本名)が無実の罪を着せられ日本軍に射殺された。映画は、その真実に迫ろうとする林氏の取材ぶりも詳しく追っている。
 戦後のテーマとしては、九州における炭鉱公害の実態を戦前の足尾銅山鉱害と重ね合わせて追及していく林氏の取材実績が描かれている。
 「僕は現場に身を置いて考える悪い癖がある」「名もなき民衆の声なき声を、しかと歴史にとどめていくことが、僕自身が生きている証しなのかもしれない」「時間とお金の無駄遣いだと友人に笑われるが、これが僕の方式であり生き方だ」。重い癌と闘い抗がん剤の副作用でペンが持てないほどだが、セロテープで万年筆を指に巻き付けて執筆をつづける林さんの姿に、同じ物書きの後輩として「自分なんかまだまだ生ぬるい。温室で仕事しているのではないか」と反省を込めて自戒した。
 「歴史の教訓に学ばない民族は 結局は自滅の道を歩むしかない。」
 映画の最後に掲示される林氏の言葉は、今日の日本にも当てはまる。
 見終わった後、しばし言葉を失っていた。一緒に鑑賞した小榑雅章君も沈黙していた。
(「抗い」は2017年1月下旬、シアター・イメージフォーラムで公開される)

コロンビア大統領へのノーベル平和賞効果や如何に   宇治敏彦

 ノルウェーのノーベル委員会は、粋な計らいをしたものだ。10月2日に南米コロンビアで実施された和平合意を問う国民投票で反対派が勝利していなかったら今回のサントス・コロンビア大統領への平和賞授与はなかったかもしれない。いわば「コロンビアの国内合意を促す奨励賞」の意味合いが強いというべきだろう。
 何しろ52年間も内戦が続いている国である。1959年のキューバ革命に触発されて誕生したコロンビア革命軍(FARC)との内紛で約700万人(現人口の7分の1)が避難民となり、26万人以上の犠牲者を出した。当然、革命軍への反発は吹き出すが、一方で貧富の格差拡大に抵抗する革命軍を支持する農民や貧しい層もたくさんいる。
 だからこそ和平合意を問う国民投票も「反対」(50%)、「賛成」(49%)という僅差だったのだろう。否決の背景には「FARCに譲歩し過ぎだ」(選挙に勝てなくとも上下両院に合計10議席を与えるなど)といったサントス政権の妥協姿勢に不満があるからといわれるが、これだけの僅差ということはFARC支持派も根強い証拠だ。
 ノーベル委員会は「このまま放置しておいたら、英国で6月、欧州連合(EU)離脱を僅差で選択した国民投票の結果と同様に、混乱の拡大を招く」と懸念して、サントス大統領が和平努力をあきらめずFARCとの再交渉に頑張るよう焚きつける「激励賞」の意味合いを込めたのであろう。
 ノーベル平和賞が起爆剤になってサントス政権とFARCの再交渉が成功することを一地球市民として切望する。と同時に、次は深刻度を強めるシリア内戦をなんとかしなければならない。米国とロシアによる停戦合意が失敗に終わり、オバマ政権は協議の打ち切りをロシアに通告した。根源はアサド政権とシリア反体制派の争いだが、現実は米ロの代理戦争になっているだけに、ある意味ではコロンビアより質が悪い。2011年に始まった反政府デモにシリアのアサド大統領が武力弾圧をしたことがきっかけだが、コロンビアのように半世紀も内戦が続くとすれば、今世紀の後半にはシリアという国家は有名無実化しているだろう。過激派組織「イスラム国」(IS)の活動も絡んで、アサド大統領自身が身を引くことを決意しない限り新展開は見えてこないだろう。ノーベル委員会もシリアについては出番がない。本来は国連の出番だが、米ロ対決の様相では実効ある提案は出てこないだろう。
 せめてコロンビアの和平の動きやノーベル平和賞を契機に、全世界の人々がシリア問題に思いをいたして、アサド大統領に「和平」実現へのプレッシャーを強く働きかけていくべきではないか。

親日派が沈黙している中国政府の内部事情   宇治敏彦

  中国の建国67年を祝う中国大使館主催のパーティーが9月29日夜、赤坂見附のホテル・ニューオータニで開催された。約1500人の参会者で賑わい、例年通り舞台のすぐ脇には創価学会の池田大作名誉会長のひときわ大きな花輪が飾られていた。来賓あいさつはなく、程永華駐日大使の冒頭あいさつと乾杯の音頭で、あとは青島ビールに北京ダックや餃子、焼売などの料理で懇談という形式だった。
 日本の創価大学留学生で、日本人と全く変わらない流暢な日本語を話す程大使だが、挨拶は中国語で、その和文訳が両脇のスクリーンに映し出される仕組みになっていた。挨拶の内容は、中国経済が6.7%成長で順調に発展していることを強調し、対日関係では4つの政治的文書(戦略的互恵関係など)を堅持して経済関係の発展などに努めたいとの内容だった。最後の乾杯の音頭だけは、さすがに日本語を使った。
 政界、経済界をはじめ多くの著名人の姿があったが、安倍晋三首相の姿はなかった。こうした中で筆者が感じたのは、人は沢山集まってくるのだが、日中正常化が実現した1970年代のあの熱気は全く感じられず、なぜかよそよしい空気が漂っていることだった。勿論、この背景には野田佳彦民主党政権時代に日本が尖閣諸島の国有化を閣議決定して以来の「日中冬の時代」があるのだが、それにしても程大使も含めて中国側の親日派が、ずーっと沈黙を決め込んでいることも大きく影響しているのではないかと憶測した。
 正常化前後には廖承志中日友好協会長をはじめ多くの親日派・知日派が周恩来首相ら首脳に直に日中関係に関して進言、時には直言して、それが対日政策に反映されることがあった。しかし、今は習近平体制のもとで王毅外相(元日本駐在大使)、唐家璇中日友好協会会長をはじめ多くの親日派・知日派が頑なに中国の原則論に固執し、柔軟性を欠いている。やはり「御身大切に」というのか、政権の枠内でしか行動しない。
 そこが筆者にとっては不満である。パーティ―の終わりがけに程大使と握手しながら「大使、何とか日中関係を良くしましょうよ」と話しかけた。大使は筆者の手を握ったままで「来年が日中正常化45周年ですから」としきりに強調した。彼も本心では何とか正常化直後のような良好な両国関係に戻したいと願っているだろう。「マスコミも協力しますよ」と告げて私は会場を後にした。
 

「金食い虫」もんじゅの悲劇   宇治敏彦

 一時は「夢の原子炉」とまで言われた高速増殖炉原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)が廃炉に向けて動き出した。福井県の西川一誠知事らは存続を希望しているが、政府は年内に廃炉を正式決定の運びだ。
 当然だと思う。むしろ遅きに失したというべきだろう。1994年に「臨海」(核分裂が持続する状態)に達して本格稼働に入ってから今年で22年になるが、この間、原子炉を動かせたのは延べ250日間しかない。「夢の原子炉」というより「幻の原子炉」と言った方が的確だろう。
 しかも、この間に歴代内閣が使った金は1兆円以上で、運転が停止しても毎年200億円の維持費を要する「金食い虫」だった。炉は停止中でも固まりやすい性質があるナトリウムを温めるため毎月1億円以上の電気代が必要だという。何でこんなにも無駄なことが長期間行われてきたのだろう。
 1995年12月にナトリウム漏れを起こして運転中止になった2年後、原子力委員会の内部に高速増殖炉懇談会がつくられた。その席で吉岡斉九大教授(科学技術史が専門)は「もんじゅを博物館にして技術保存し、技術者は学芸員として再雇用してはどうか」と提案したという(9月23日、毎日新聞朝刊)
 だが、地元の福井県をはじめ関係者の反対が強く、吉岡案は見向きもされなかった。いま廃炉後のもんじゅについて核廃棄物減量の研究拠点に転用すれば地元経済にも寄与するのではないかとの案も浮かんでいる。
 ただ廃炉にすると言っても3000億円超の費用がかかるといわれている(再稼働させる場合には少なくとも5800億円が必要と文科省は見ている)。福島の東京電力福島第一原発の廃炉でも2兆円かかるといわれてきたが、賠償費用を含めて既に6兆円が使われている。もんじゅの廃炉費用も3000億円では済むまい。
 お金だけの問題ではない。1995年のナトリウム漏れ事故後には当時の動燃が撮影現場のビデオを隠蔽したことが発覚し、その責任を感じたのか対外広報担当だった総務部次長(当時)が自殺する事件まで起きている。また消火作業の際に水をいれたバケツリレーをしたということで「そんな原始的作業で作業者が二次災害に巻き込まれたら、どうするんだ」という非難の声も聞かれた。
 「夢の原子炉」は、あまりにも高い授業料だった。原子力発電に関しても、いま一度考え直す必要に迫られている。

金利操作だけで経済は良くならない   宇治敏彦

 日本銀行が9月21日の金融政策決定会合で、金融緩和政策の部分的修正を決定した。その主な内容は①物価上昇率2%目標を超えるまで新たな金融緩和策を継続する②「年80兆円ずつ保有残高を増やす」との国債買い入れペースを「おおむね80兆円を目途に」と変更する③「7~12年程度」としていた国債の平均残存期間を廃止する―などだ。その理由について黒田東彦日銀総裁は「原油安」「2014年4月の消費税率アップ」「新興国経済の減速」という3つの理由を指摘した。
 しかし、筆者の率直な印象は「金利政策で経済全体の構造を変えようという日銀の発想自体に土台無理があるのではないか」という点である。マイナス金利政策を3年半続けても「2%の物価目標」が達成できないのは、日銀の役割の限界を国民に見せつけたに等しい。行天豊雄・国際通貨研究所理事長が「中央銀行にできることは限られている。検証したからすぐにでも必要な対策が打てるわけじゃない。日銀だけじゃどうしょうもない」(9月20日、日経新聞朝刊)とコメントしているように、安倍政権自体が経済政策の内容や規模を大幅に変えないかぎり、日銀の金利政策はゴマメの歯ぎしりに終わるだろう。
 安倍晋三内閣の支持率は50%台後半から60%前半と極めて高い。だが、その中で期待感が逆転している項目が「経済政策」だ。たとえば共同通信社が9月17,18日に実施した全国電話世論調査では、安倍内閣支持率は55.7%(不支持30.0%)で8月調査より3%近く支持が上昇している。ところが「経済政策」では「期待できる」が10.9%に対し「期待できない」は28.6%と悲観論が3倍近い。8月調査より「期待できない」が10%近く増えている。
 言い換えれば景気は良くない。個人は財布の紐を締めているから消費が低迷している。マイナス金利では貯蓄する気にもならない。将来不安が拡大しているから「2%の物価目標」など達成できるはずがないのだ。
 安倍首相は今春の春闘時に「企業はもっと賃上げを」と経団連幹部らに発破を掛けた。しかし、こうした「官製春闘」は邪道である。政府は本来、民間企業の労使交渉に口を差し挟むべきでない。かつての太田薫―岩井章コンビといった総評全盛期なら、その首相発言だけで大問題になったであろう。
 むしろ安倍政権が今までに取り組むべき問題は「同一労働同一賃金」「正規社員と非正規社員の格差解消」「外国人労働力の有用活用」といった社会構造・労働環境の改善であった。それを軽視して日銀の金利政策頼みにしても、物価上昇率2%が達成されるはずがあるまい。
 黒田日銀総裁も「サプライズ戦略」なんて用語は使わないほうがよい。かつて大幅な金融緩和を求めた政府・自民党首脳に敢然と立ち向かい「平成の鬼平」とのあだ名を付けられた三重野康日銀総裁が懐かしくなってくる。

利根川の落ち鮎を食べながらの前橋支局OB会   宇治敏彦

 9月の3連休を利用して群馬県渋川市大正橋脇の落合簗(おちあいやな)で、1960年代(昭和30年代後半)に東京新聞前橋支局に勤務した男たち6人が落ち鮎を肴に昔話をする会合が開かれた。このOB会は1997年以来、伊香保や赤城などで何回かもたれ、八ッ場ダム工事現場の視察などもしたが、今回は少し趣向を変えて渋川通信部の経験者でもある倉林昭次幹事(89歳)の御世話で9月一杯が限度という落ち鮎を味わう会になった。これが最後かもしれないというので当初は12人が参加予定だった。しかし、そこは「腰が痛くて」とか「親戚で不祝儀があって」などと年配者らしい事情が重なって当日には参加者が半減した。
 JR渋川駅からタクシーで15分程度の利根川河川敷にある落合簗からは榛名山が一望出来る。川風を受けながらの会食は賑やかな昔話とともに楽しい時間があっという間に過ぎていった。子持ち鮎の塩焼き2本、魚でん1本、フライ1本、酢の物などに鮎酒。一番うまいのは、やはり塩焼きであった。鮎酒は初めて飲んだ。焼いた鮎を丸ごと1本入れる横長の特製容器で供される燗酒だが、後で中の鮎を食してみたところ、これはそう感心する味ではなかった。
 3連休のせいか、170人は座れるという大座敷もほぼ満席だった。年長ぞろいの我々の個室には椅子も用意されて、瞬く間に3時間が過ぎた。話といえば当然、同僚たちが現役として活躍していた支局時代のことだが、やはり谷川岳遭難者の取材が皆の記憶に強く残っていた。谷川岳一の倉沢で宙吊りになった登山者(遺体)を収容する手掛かりがなく、最終的には自衛隊が出動して銃でザイルを撃ち、遺体を収容した事件が最も有名だ。そのほかにも谷川のマチガ沢でヘたった女性登山者を男性リーダーがザイルを持っていなかったので、自分の革バンドをはずして引き上げようとして起こした事件もあった。バンドが古かったので、引き上げる途中で切れてしまったのだ。リーダーは過失致死容疑で沼田署に送検されたが、最終的には前橋地検で起訴猶予処分になった。
 当時、東京新聞の前橋支局長だった宮路一男氏(故人)が山好きだったこともあって、谷川で事件があると、すぐに沼田通信部の応援に駆り出された。後に私の後任として前橋支局に赴任してきた成川隆顕氏(日本山岳会幹部で、今年から始まった祝日「山の日」の推進役の一人)のような山登りのプロにとっては谷川取材は何の苦もなかったろうが、正直いって運動嫌いの私のような者には谷川岳の遭難事件取材は苦手だった。その成川氏から山の話だけでなく、東京オリンピックの時、マラソンのアベベ選手を取材した時の秘話などを聞いているうちに鮎料理もすべてお腹の中に納まって、OB会はお開きとなった。
 さて来年は、OB会を開けるかどうか分からない。だが皆が元気なうちは、私たちジャーナリスト人生の原点で、決して経済的には豊かではなかったものの、毎日がピカピカと輝いていた支局仲間の会を持ちたいものだと思っている。

安倍晋三長期政権の良し悪し    宇治敏彦

 7月の参院選に勝利して8月3日に第3次再改造内閣を発足させた安倍晋三首相の在職期間が年内に中曽根康弘元首相の在職期間(満5年)に並び、来年6月には小泉純一郎元首相の5年5か月も追い越そうとしている。戦後の総理大臣で在職期間の長さからいえば1位が佐藤栄作氏(7年8か月)、2位が吉田茂氏(7年2か月)だが、ひょっとしたらこの2人を追い抜いて戦後最長の内閣総理大臣になる可能性も出てきた。
二階俊博自民党幹事長は、早くも自民党総裁任期(現在は2期6年間)の改定論(3期9年間に)を示唆している。安倍総裁の任期は2018年9月で切れる。任期延長がなければ、ここで安倍政権は終わり、小泉、中曽根両政権を超えても、佐藤、吉田政権には及ばない戦後3位に留まる。
 旧田中角栄系の二階幹事長が、なぜ安倍総裁の任期延長を唱えているのだろう。一つには2020年夏の東京オリンピック・パラリンピックを安倍政権下で実現してもいいのではないかとの思い。もう一つには2018年12月で任期切れになる次期衆院選挙や2019年夏の次期参院選を、このところの国政選挙で勝利している安倍首相の下でやるのが自民党には得策との読み。勿論この他にも「安倍任期延長」を主導することで二階氏が安倍首相に貸しをつくり、党内での自らの政治的影響力を強めたいとの思惑もある。
 同じ旧田中派系でも石破茂氏は二階幹事長と対照的に「反安倍」の動きを強めている。8月の内閣改造で安倍首相から閣内にとどまって欲しいとの要請を受けたが、それを断って無役に転じた。今後は水月会という派閥を足場に次期総裁選に備える覚悟で、自らの思いを出版する準備に取り掛かっており、もちろん「総裁任期延長論」には反対している。
 こうした中で安倍首相が今後、どういう戦略に出てくるかを政治記者OBとして予測してみよう。いま安倍首相が内心、一番実現したいと思っていることはプーチン・ロシア大統領との首脳会談(12月に安倍首相の選挙区・山口県で開催)で日ロ平和条約の締結に目途を付けることであろう。これが実現すれば1956年(昭和31年)、鳩山一郎首相が日ソ国交回復を実現してからの懸案事項になっていた北方領土返還問題、日ロ平和条約の締結が60年ぶりに前進することになる。鳩山退陣後の岸信介政権における「日米安保条約」改定につぐ「新安保法制」の強行成立と合わせて、安倍政権は「一内閣一仕事」でなく「一内閣二仕事」を成し遂げた大宰相という声が自民党や経済界、さらに保守的な団体や右寄りの論壇から噴出してくることは目に見えている。現在40%台の内閣支持率も50%を超すかもしれない。
 そのときに安倍首相が目論む次の手は、衆院の早期解散だ。2017年夏には東京都議選が予定されているが、都議選とのダブル選挙を決断するかもしれない。そこで勝利すれば、2018年9月の総裁任期切れは「延長」に傾くのが自然の流れだろう。
 「そう安倍氏の思惑通りに進むかい?」という反論があるだろう。確かに「政界は一寸先が闇」といわれるように何が起こるか分からない世界である。首相自身の健康問題をはじめ「米国の新大統領誕生による日米関係、世界情勢の変化」「中国や北朝鮮のさらなる軍事的行動」「アベノミクスの不成功」「大規模震災の発生」など諸々の不安定要因も否定できない。だが現時点では「これが安倍政権崩壊のきっかけになる」と断言できるものはない。ひょっとしたら吉田、佐藤という長期政権を追い越して安倍政権が8年間の戦後最長政権になるかもしれないという想定も頭の片隅に置いておくべきだろう。
 最近は政治家だけでなく国民全体が「今日一日、無事に過ごせれば、それで納得」といった「劣化現象」が目立ってきた。あの3年半の民主党政権の失敗がいまだに尾を引いているようだが、そろそろ日本の進むべき本道を考え直す風が吹き始めても良いころではないだろうか。その責任の一端が私たちマスコミ人にあることは、もちろん強く自覚している。

天皇の「生前退位」のご意向表明に思うこと    宇治敏彦

8月9日、ビデオメッセージで国民に伝えられた天皇陛下の「お気持ち」は、憲法第1条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」が求めている「天皇の仕事」と、ご自身の年齢・健康・子孫への思いといった「人間・明仁(あきひと)」との谷間で悩まれた結果であったろう。
 「80歳を超え、身体の衰えを考慮する時、全身全霊で象徴の務めを果たすのが難しくなると案じている」というお気持ちは、よくわかる。特に「戦後70年」に当たった昨年8月15日の全国戦没者追悼式で正午の時報前に「お言葉」を読み始めてしまい、改めて時報後にやり直したといった間違えも精神的に堪えられたに違いない。共同通信、朝日、読売の世論調査で80%以上の人が天皇の「生前退位」というお気持ちを理解できるとしているのも自然なことだろう。
 しかし天皇は、「公務代行」とか「摂政」という形を望んでいない。お言葉でも「摂政を置いても、天皇が務めを果たせないことに変わりはない」とし、きちんと後継天皇を決めてほしいと希望しておられる。父親の昭和天皇は皇太子時代に、大正天皇が病気になり亡くなるまでの5年間、摂政を務められた。だが学友たちによれば現天皇は「責任感が強い」「真面目で何事にも真剣」「嘘を嫌う」などの性格から、摂政では「日本国および日本国民統合の象徴」という仕事を全うできないと考えておられるのだろう。
 自らが昭和天皇の死去に伴い平成天皇になったのは55歳の時。それから28年経って皇太子も56歳と、ご自分の即位年齢を超えている。遅くとも自らの在位期間が30年間になるころには譲位できないものか。そんな思いが「お言葉」冒頭の「戦後70年という大きな節目を過ぎ、2年後には、平成30年を迎えます」という表現になっているのではなかろうか。
 だが、現行憲法に基づく皇室典範では「崩じたとき」以外の天皇交代を認めていないので、「生前退位」を実現するには当然ながら典範改正か特別立法が必要になる。
ここからが問題だ。「女系天皇を認めるか」「譲位後に皇太子がいなくなるので皇太弟を設けるか」といった議論のほかに、次の2つの問題があると私は思っている。
 一つ目。皇室典範の改正に着手することが改憲ムードをあおることになるかもしれないとの危惧だ。先の参院選で改憲勢力が衆参両院で3分の2を占める国会では今後、憲法審査会が憲法改正への具体的手順を検討し始める。憲法改正は安倍晋三首相の悲願である。天皇の思いとは別に、「生前退位」問題に便乗して改憲ムードを高めようとする動きが保守陣営から出てきても不思議ではない。現に作家の高村薫さんは「(天皇の)お気持ちは痛いほどわかるが、大変なことになったというのが率直な感想だ。天皇陛下と昭和天皇は戦争の犠牲者を悼み、平和への思いを表明し続けることで大きな役割を果たしてきた。平和憲法と共に天皇という存在があったのに、場合によっては憲法の見直しまで考える必要が出てくる。個人的には公務を減らしてでも今の陛下に天皇でいてほしい」とコメントしている(8月9日、毎日新聞朝刊)。一般人にも同じ思いがある。「退位は慎重に検討してほしい」と、千葉県在住の男性、酒井弘之さん(無職、80歳)が朝日新聞にこんな投稿をしていた。「陛下は、少年時代だったとはいえ戦争の時代をくぐられた。戦争を体験された最後の天皇である。戦争の反省に立って生まれた新憲法下で即位された最初の天皇でもある。戦後70年の平和を象徴されるお方である。憲法にある通り、天皇陛下は『国民統合の象徴』である。この象徴制が動揺を来さないように、退位については慎重に検討申し上げるべきではないだろうか」(8月10日、朝日新聞朝刊の声欄)
 皇室典範の改正が憲法改正にまで発展していくことは天皇も不本意だろう。政府も国民も難しい対応を迫られている。
 二つ目。これは天皇が持っている「二つの顔」、すなわち国民統合の象徴という「機関としての天皇」の顔と「人間としての天皇」」という顔をいかに調和させていくかである。
 昭和天皇が死去されて平成がスタートした翌日の1989年1月8日から5回にわたり東京新聞・中日新聞1面に「新象徴天皇」という企画を5回連載した。その1回目で私は、昭和天皇が敗戦直後の1945年(昭和20年)9月9日付で皇太子(現天皇)に送った手紙を紹介した。
 「敗因について一言いはしてくれ。我が国人があまりに皇国を信じ過ぎて英米をあなどったことである。⋯⋯⋯明治天皇の時には山縣、大山、山本等の如き陸海軍の名将があったが、
今度の時はあたかも第一次世界大戦の独国の如く軍人がバッコして対局を考へず、進むを知って退くことを知らなかった」(原文のまま)
 と同時マッカーサー元帥との初会見(同年9月27日)の際の天皇の発言も再録した。「責任はすべて自分にある。自分は国民が戦争遂行にあたって政治、軍事の両面で行ったすべての決定と行動に対して、すべての責任を負う者として、あなたが代表する連合国の裁定に委ねるためここに来た」
 ここに「二つの顔」が垣間見える。現天皇も父上の「戦争責任」に対する贖罪の意味も含めて内外で戦没者や犠牲者に深い哀悼の意を表する行動を美智子皇后とともに続けてこられた。また東日本大震災、阪神淡路大震災といった自然災害の現場を訪ねては被災者とその家族たちに膝を接する距離で慰労する姿に国民は深い感動を覚えた。「機関としての天皇」と「人間としての天皇」がマッチしていた。皇太子が天皇に即位しても、今上天皇の精神は引き継がれていくだろう。ただ戦争の悲惨さを自ら体験された天皇と戦後の高度経済成長期に誕生した皇太子では、やはり「お気持ち」に開きが生ずるのは当然だ。先の80歳の男性の投書のように「退位は慎重に」と願う気持ちもよく分かる。
 「国民は何より陛下に一人の人間としてお幸せであってほしいと思うのではないか」(学友のコメント)という側面と、「公務を減らしてでも今の陛下に天皇でいてほしい」(高村薫さん)という要望との狭間で、天皇も国民も双方が納得できる結論を見出すのは至難の業に近い。だが、その決着を付けなければならない時が迫っている。

小池百合子都知事を誕生させた有権者の心理とは  宇治敏彦

 内閣総理大臣は「国会議員の中から国会の議決で、これを指名する」(日本国憲法第67条)とあるように間接民主主義による選出だが、東京都知事をはじめ地方自治体の首長は有権者の一票がそのまま結果に反映する直接民主主義で選ばれる。
 7月31日の東京都知事選挙で、小池百合子氏は前回の知事選で舛添要一氏が獲得した220万票を約70万票上回る291万票の大量得票で当選し、東京初の女性知事になった。ただ得票率で見ると、歴代14位の44%にとどまった。これは候補者が21人と都知事選では最多だったことと自民・公明両党推薦の増田寛也氏、民進党など野党4党推薦の鳥越俊太郎氏など有力候補が揃ったことの影響だろう。
それにしても当初は自民党東京都連に同党の推薦を申請し、途中で返上して「独自の戦い」に挑んだ小池氏の戦略とは、いかなるものだったのだろう。そして有権者は、なぜ「小池知事」に雪崩をうっていったのだろうか?
 自民党は7月初旬まで公認候補として前総務省事務次官の桜井俊氏(アイドルグループ「嵐」の桜井翔の父親)を担ぎ出そうと画策していた。「真面目な高級官僚」「著名タレントの父」という要素で都知事選勝利は濃厚視されていた。安倍晋三首相が直接、声を掛ければ断るわけにはいくまい、との見方も強かった。だが、桜井氏は「家族に迷惑かけたくない」と固辞した。自民党はやむなく同じ官僚出身(元建設省紛争調整官)で岩手県知事3期、総務大臣経験者の増田氏に出馬を働きかけた。ここから小池氏の出馬戦略が加速していった。「自民党を敵に回すことで、都民を味方につける」という計算だ。
 7月31日、筆者は近くの広尾小学校へ投票に出かけながら、こんなことを考えた。
「小池候補に投票する人は、恐らく①女性の有力候補である②キャスター出身の現職衆院議員である③本来なら自民党候補として出るはずが、あえて自民と喧嘩して非政党色を鮮明にした④石原慎太郎元都知事の『厚化粧の女』発言に『今日は薄化粧できました』と機転で切り返した⓹猪瀬、舛添と2代続いたカネがらみ知事にはならないだろう、といった期待感を抱いているのではないか」と。
 「鳥越候補に投票する都民は『反安倍』『護憲』が第一の選択基準だろう」
 「増田候補に投票する有権者は『がちがちの自民支持者』『自民党共同推薦の公明党・創価学会関係者』『体質的に小池百合子嫌い』の人たちではないだろうか」
 要するに「景気・雇用対策」「直下型大震災対策」「4年後の東京オリンピック対策」「深刻さを増す待機児童問題」といった政策的争点よりも、有力3候補の「経歴」または「人間性と、そのイメージ」が主たる投票基準になっているのではないかと思った。
 その点、事前の世論調査で「小池優勢、追う増田、鳥越」と出たことは、政治記者感覚でいえば「有権者は皆よく見ているな」と感じた。告示前日の7月13日の日本記者クラブで行われた立候補予定者の共同会見(この時点では宇都宮健児氏も参加していた)で私が注目したのは直前に立候補を表明した鳥越氏の言動だった。「決意をボードで示してください」と司会に促されて各候補が公約や決意を書いて出席者に示したが、鳥越氏のボードには「ガン検診100%の達成」とあった。私だけでないと思うが、「ああ、これじゃ駄目だな」と思ったジャーナリストは多かったはずだ。これが都政への公約だろうか? 高い知名度と民進党など野党の応援という2つの「武器」でいけると思ったのだろうが、都政改革への具体策は何ら持ち合わせていなかった。しかも同夜、立候補を取りやめて鳥越支持を表明した宇都宮氏が求めていた「中央卸売市場の豊洲移転反対」などは採用しなかったことや鳥越氏の女性スキャンダル報道も影響して、宇都宮氏は一回も鳥越氏の応援演説に行かなかった。前回2年前の都知事選で約98万票を獲得し、舛添氏についで2位だった宇都宮氏も鳥越候補の人物像を見誤っていた。むしろ宇都宮氏は、自らが出馬すべきだったろう。
 さらに増田氏についていえば、日本生産性本部の会合などで「消滅可能都市」など岩手県知事経験者として日本の人口急減事態に警鐘鳴らしてきた実績は、私個人はよく承知しているが、一般都民は「増田って誰だ」という印象を抱いたかもしれない。7月19日夜、都市センターホテルで「故堀内光雄氏を偲ぶ会と堀内詔子衆院議員を励ます会」という会合が開かれたが、その席にもタスキ掛けで飛び入り参加した増田氏は「私は東京生まれです」と何度も強調していた。元岩手県知事といった印象を薄めようとの思惑があったのだろうが、「いまさら、それを強調しても」と聞いていた筆者には異様に思えた。東電の社外取締役だったという経歴も、脱原発を求める都民には違和感があったろう。
 そのころ小池候補は、黒川紀章氏が2007年の都知事選に立候補したとき開発したガラス窓の選挙カーに乗って、グリーンの「戦闘服」でグリーンのスカーフやハンカチを振る支援者を地滑り的に拡大していった。自民党東京都連が「増田候補以外の候補を応援したら処分する」との文書を流したことも、同党都連の石原伸晃会長、内田茂幹事長らの「権威主義」「強権政治」を印象づけて逆効果をもたらした。
 小池百合子氏が環境庁長官だった2003年当時、何回か話を聞く機会があったが、当時はおしゃれな「クールビズ」を開発し、町の景観保全も兼ねて電柱の地中化を図る「無電柱化」運動や通勤ラッシュ緩和のための山手線の2階建て電車導入プランなども披露していた。思いつきのようであって、それを継続してきたことは馬鹿にできない。マスコミの投票日出口調査によると、自民党支持層の5割以上が小池氏に投票し、増田氏への投票は4割未満だった。
 以上見てきたように当初は一見、無謀な挑戦に見えた小池氏の立候補だったが、実は他の候補よりはるかに計算された戦略があり、1100万有権者もしだいに小池戦略に吸い込まれていったというのが実態だろう。
問題は、これから小池知事が「都民ファースト」精神を今後どこまで具体化できるかだ。

出会った人々(20)                                                     遺作になった若宮啓文氏の「ドキュメント 北方領土問題の内幕」     宇治敏彦

 気心の知れたジャーナリスト仲間が次々に亡くなっていくのは淋しい限りである。今年4月、北京で急死した若宮啓文氏(68歳。日本国際交流センターのシニア・フェロー、元朝日新聞主筆)もその一人だ。昨年春、故鈴木善幸元首相のさち夫人が亡くなった時は一緒に経堂の鈴木邸で善幸さん夫妻の長男・鈴木俊一自民党代議士らを交えて「突然の鈴木首相退陣表明」の思い出話に花を咲かし、秋には日本記者クラブでの「戦後70年シリーズ」会見に相前後してスピーカーとして登板した。彼は朝日の政治記者、論説主幹、主筆として常にリベラルな立場で論陣を張る一方、ソウルに語学留学した経験をもとにサッカー・ワールドカップの日韓共同開催、大野伴睦流の「竹島爆破論」を提起するなど日韓両国の平和共存を主張し続けた。それらが韓国側にも評価され7月29日、帝国ホテルで開かれた偲ぶ会には朴槿恵大統領からの叙勲が届けられていた。
この偲ぶ会で約500人の出席者に配られたのが若宮氏の遺作となった表記の出版「ドキュメント 北方領土問題の内幕」(筑摩書房)である。これは彼が書くべくして書いた本だ。というのも父親・若宮小太郎氏(元朝日の政治記者)は鳩山一郎内閣の発足後、首席秘書官になり、1956年の鳩山訪ソにも同行して日ソ共同宣言の調印を側面援助した。当時の鳩山内閣では河野一郎氏(元朝日新聞記者)が農相を務めており、鳩山訪ソ前に漁業交渉でブルガーニン首相、イシコフ漁業相とやり合っていた。
河野一郎氏の子息・河野洋平氏(元衆院議長)は偲ぶ会で来賓として挨拶し「父も鳩山首相や若宮小太郎氏と日ソ共同宣言に努力した仲だが、膨大な河野資料が昨年亡くなった石川秘書の手元にあり、それを若宮啓文さんに見てもらったことが今回の出版のきっかけになった」と説明した。
 戦後内閣の外交実績では「吉田茂の日米安保」「鳩山一郎の日ソ共同宣言」「佐藤栄作の沖縄返還」「田中角栄の日中国交正常化」が目立つが、反共主義者の鳩山首相がなぜ「日ソ」だったのか。同著で若宮氏は3つの理由を指摘している。
 「一つは、いまだシベリアに抑留されている旧日本兵たちの存在だった。 (中略) 情にもろく
『友愛』を看板にしていた鳩山は、シベリア抑留兵の帰還なくして『戦後は終わらない』と考えた」
 「二つ目は国連への加盟だ。(中略)鳩山はソ連との戦争状態にピリオドを打ち、国連加盟を認めてもらいたいとの思いを強くしていた」
 「そして三つ目だが、おそらくより根本的には徹底的なアメリカとの協調路線をとって『反ソ』を貫いてきた吉田外交への対抗心だ」
 また鳩山の「日ソ復交」は田中角栄の「日中正常化」と重なり合うと若宮氏は指摘する。「アメリカの思惑を超えて行われたことや、党内の激しい抵抗にあったことも共通しているから」と書いている。
 確かにソ連との国交回復には吉田茂、池田勇人など「保守本流」といわれた親米グループが強く反対し、また重光葵外相は河野一郎農相が外交には素人だとして鋭く対立した。外交交渉の裏側では、常にこうした政治家同士の葛藤があったことを本書は具体的に記述している。
 若宮氏自身も朝日主筆時代の2012年3月、各国記者との共同会見でロシアのプーチン首相(当時)から北方領土問題について「引き分け」という柔道用語を引き出している。日ソ共同宣言から満60年に当たる今年、安倍晋三首相は9月にもプーチン大統領の来日を実現し、本格的な領土協議に入りたい意向だが、若宮氏の遺著を読んでおくことを薦めたい。

「憎しみの連鎖」をどう断ち切るのか   宇治敏彦

 連日のように報道されるテロやクーデター。フランスの独立記念日(7月14日)に南仏の景勝地ニースで花火を見ていた人々80人以上が31歳のチュニジア人男性の運転する暴走トラックで殺された。その翌日には中東とヨーロッパを結ぶ国トルコで軍の一部がクーデターを企て160人以上の市民や兵士が犠牲になった。
 なぜテロ事件は、こんなに多発するようになったのだろうか? トルコでのテロは、過激派組織「イスラム国」(IS)絡みが多いといわれるが、昨年来の主な事件だけても下記のように8件に及ぶ。
 ▽2015年7月20日 南東部スルチでISによるとみられる自爆テロで32人死亡。
 ▽同10月10日 首都アンカラ駅付近でISによるとみられる自爆テロで約100人死亡。
 ▽2016年1月12日 イスタンブールの「ブルーモスク」(有名な寺院)近くでISによるとみられる自爆テロ。10人死亡。
 ▽同2月17日 アンカラでクルド系急進派による軍事車両を狙った自爆テロ(29人死亡)。
 ▽同3月13日 アンカラでクルド系による爆弾テロで37人死亡。
 ▽同19日 イスタンブールの繁華街でISによるとみられる自爆テロで4人死亡。
 ▽同6月7日 イスタンブールでクルド系が警察車両を狙った爆弾テロ。11人死亡。
 ▽同28日 イスタンブールのアタチュルク国際空港でISによる自爆テロ。44人以上死亡。
 このようにトルコでは過去1年間で400人以上がテロなどで命を落としている。トルコには日本人が2000人以上滞在しているというが、気が気ではないだろう。筆者も何度かイスタンブールに仕事で出張したが、ボスポラス海峡を挟んでアジアとヨーロッパに分かれる歴史的都市は「長期に住んでもいいな」と思わせるほど魅力的な町だ。だが、現在は、うかうかしているとテロ事件に巻き込まれて命を落とす危険都市と化している。
 昨年来、トルコのほかフランス、イギリス、デンマークなどでも大規模テロ事件が連続的に発生し、今年7月1日にはバングラデシュの首都ダッカで日本人7人を含む23人が死亡するテロ事件もあった。日本人だから安心安全などということは無差別テロの前に通用しない。
 私たちは、これらのテロ事件をいかにして防ぐのか。どうしたら「憎しみの連鎖」を食い止められるのか。安倍首相も含めて世界の政治指導者たちは、早急にテロ対策サミットを開催して「テロの原因解明と防止対策」を講ずべき時だろう。
 「ぼくは君たち(テロリスト)を憎まないことにした」。昨年11月13日、パリ同時多発テロ事件で、劇場にいた愛妻をなくしたフランス人ジャーナリスト、アントワーヌ・レリス氏(元France Info、France Bleu文化担当記者)は、事件後、フェイスブックにテロリスト宛ての手紙を公開し、このように書いた。
 「金曜日の夜、君たちはかけがえのない人の命を奪った。その人はぼくの愛する妻であり、ぼくの息子の母親だった。それでも君たちはぼくの憎しみを手に入れることはないだろう。君たちが誰なのかぼくは知らないし、知ろうとも思わない。君たちは魂を失くしてしまった。君たちが無差別に人を殺すことまでして敬う神が、自分の姿に似せて人間をつくったのだとしたら、妻の体の中の銃弾の一つ一つが神の心を傷つけるはずだ」
 「息子とぼくは二人になった。でも、ぼくたちは世界のどんな軍隊より強い。それにもう君たちに関わっている時間はないんだ。昼寝から覚める息子のところへ行かなければならない。メルヴィルはまだ十七ヶ月。いつもと同じようにおやつを食べ、いつもと同じように遊ぶ。この幼い子供が、幸福に、自由に暮らすことで、君たちは恥じ入るだろう。君たちはあの子の憎しみも手に入れることはできないのだから」
 このメッセージは3日間で20万回以上閲覧され、やがて日本語版を含む「ぼくは君たちを憎まないことにした」(日本語版はポプラ社)という本になった。
 日本語版が出版されたのを機に著者が来日し、日本記者クラブで会見した。「どうしてテロリストたちを憎まない心境に至ったのか」。みんなが聞きたい質問に彼は、こう答えた。
「それは教示のようにやって来たのです」。
 でも筆者には疑問が残った。愛する人の命を奪った「犯人」を本当に憎まずにいられるだろうか。また、「憎まない」ことでテロリストやテロ行為は減っていくだろうか。「憎しみの連鎖」を断ち切ることは、確かに重要だが、憎まないでいればテロリストたちが、ますます付け上がることにつながらないだろうか。
 テロ行為の目的はまちまちだろうが、宗教上の思想信条は別としても「現状への不満」「体制への批判」がテロリストたちの心底にあることは間違いない。でも「自爆テロ」という行為はどう説明できるのだろうか。太平洋戦争末期の特攻隊と同様に自らの命を犠牲にして殺戮行為に出るのである。自ら進んでやるのか、組織からの命令で仕方なくやるのか、ケースバイケースとは思うが、自らの命を犠牲にするのだから、それ相応の覚悟がなければ出来ないことだ。
 その「覚悟」を押しとどめられるモノとか何なのか。そこが解明されないと、テロ行為の絶滅は困難だろう。
 筆者自身もテロ防止案を持ち合わせているわけではない。ただテロを起こしがちといわれる若者たちの心情に迫ってみたいと思っている。

小榑雅章著「花森さん、しずこさん、そして暮しの手帖編集部」を読んでみよう   宇治敏彦

花森さん暮しの手帖
小榑雅章著「花森さん、しずこさん、そして暮しの手帖編集部」暮しの手帖社刊(定価1850円+税)

 「埴輪」同人の小榑雅章君が6月に暮しの手帖社から刊行した著作「花森さん、しずこさん、そして暮しの手帖編集部」は、タイムリーな出版であると同時に、早稲田大学卒業後の一文学青年が「異才」「才人」「名編集者」花森安治氏の下で、いかに葛藤し、反発し、そして心酔していったかを生々しく描いた秀逸なドキュメンタリーでもある。
 小榑君は昭和28年(1953年)、早稲田大付属高等学院に入学した。当時から学院では語学教育に力を入れており、英語のほかに第2語学としてフランス語、ドイツ語、ロシア語などを課し、その語学選択でクラス分けしていた。彼はフランス語、私はドイツ語専攻だったので同じクラスになったことはない。だが、同期生で同人雑誌をつくろうという動きの中で知り合い、以後、63年に及ぶ交遊が続いている。「女房より古い友」だが、それでも「知らなかった小榑雅章」像に同著で出会った。「岸(信介首相)を倒せ」の60年安保闘争に明け暮れた昭和35年(1960年)4月、彼は早大文学部を卒業して暮しの手帖社に入社し、24年間にわたる雑誌ジャーナリストのスタートを切った。
 銀座の本社(当時)で行われた面接試験に臨んだ時、試験官の真ん中に座った女性を見て小榑君は「こりゃまずい」と思ったという(本書24頁)。筆記試験の時、煙草を切らした彼が近くにいた女性試験官に「煙草はないですか」と問いかけた。その人が面接で眼前に座っている。「あなたに煙草を買いに行かされましたよ」とニコニコしながら言った、その女性こそ今、NHK朝ドラ「とと姉ちゃん」の主人公、大橋鎮子さん(暮しの手帖社の社長)だった。
 入社10年後、ベテラン編集者に成長した小榑君は、大きな不満を抱えていた。花森安治という偉大な編集長の下で、しょせんは機械のように使われることに「俺は人間だ」とブチ切れて辞表を書いた(本書352頁)。だが花森氏は、まともに取り合ってくれない。4日目にようやく面談できたが、「辞めてどうするんだ」と聞かれた。まだ決めていないと答えると「ふーん。何も決めないでただ辞めるのか。つまらんな」といわれ、さらに「君はまだ未熟だ。ぼくのそばにいてぼくの考えや取材、レイアウトを盗んでいけ。それを自分の物にしたらさっさと辞めたらいい」と辞表は編集長預かりになった。それから小榑君は翌日以降も出社し、仲間の視線を浴びながら、ひと月以上ルーティンの仕事だけこなしていた。私だったら翌日から出社しなかったろう。と同時に私が思ったのは、彼は心底辞めたいとは考えなかったのではないか。小榑君には失礼な表現になろうが、子どもの反抗期のように花森安治という偉大な親に歯向かってみたかったのではなかろうか。
 3か月ぐらいして「花森さんの声が聞こえるようになってきた」と、ご本人は本書に書いている(358頁)。それ以降の小榑君の暮しの手帖での活躍ぶりが目に浮かぶ。昭和53年(1978年)1月、花森さんが亡くなってから退社するまでの6年間、小榑君は「暮しの手帖」の実質的な編集長を務めた。
 改めて「暮しの手帖」とは、どんな雑誌で、どんな役割を果たし、どんな存在価値があるのか。私なりに考えてみる。先の大戦中、大政翼賛会で宣伝などにかかわったことが花森安治氏の戦争責任の原点にあったとされる。戦後、大橋鎮子さんから頼まれて「衣裳研究所」という出版社を立ち上げ、昭和21年(1946年)6月に雑誌「スタイルブック」を発刊した。それに倣った雑誌が増えたので2人は2年後に「美しい暮しの手帖」(1953年11月からは「暮しの手帖」と改題)として衣食住全般に関する雑誌に切り替えた。
なぜ「暮らし」だったのだろう。一銭五厘の召集葉書で戦地に駆り出され、すべてを国家権力の言いなりにならざるを得なった日本国民。もっと庶民の暮しに根付いて表現の自由も確保出来ていたら父や兄弟が戦地で虫けらのように死んでいくのを防げたろうし、女子供もB29攻撃機群の猛攻撃に遭遇して命を落とすこともなかったろう。国家権力に対抗する庶民の力を強めなければ戦前の誤りを繰り返すことになる――それが花森さん、大橋さんの原点だった。
でもなぜ「生活」でなくて「暮し」なのか、なぜ「読本」でなくて「手帖」なのか。普通の感覚なら「生活読本」というところだ。そこを「美しい」「暮しの」「手帖」としたところに女性的感覚がうかがえる。男性一般は、私も含めて「生活がかかっているから」とか「その程度の月給(年金)じゃ生活出来んよ」などと「生活」は良く使うが、「暮し」は、それほど多くは使わない。女性的視点で「女性よ、強く、美しく、たくましく、したたかであれ」というメッセージが雑誌発足時からあったのではなかろうか。
そして戦後70年、「戦後強くなったものは靴下と女性」という言葉に象徴されるように、各方面での女性の活躍は目覚ましいし、生活的にも文化的にも恵まれるようになった。ウイークデーの歌舞伎や音楽会の観客は大半が女性たちで、男たちは教養一般では女性にかなわなくなってきた。
この春、小榑君ら学友と関西を旅した時、彼が暮しの手帖の元編集者だったことを知った女性たちが「暮しの手帖」を懐かしがる場面に何回も遭遇した。「私は大学卒業時に暮しの手帖社に入りたいと思い、願書もだしたのですが、今年は新入社員を取らないといわれまして断念しました」と残念がる主婦もいた。かくいう宇治の家人も大学生当時に東麻布の暮しの手帖研究室にアルバイトに行ったことがあるそうだ。
 広告を取らないという「暮しの手帖」の大原則も、独立独歩、権力や企業におもねらないという創業精神を強く感じる(1949年の第3号で裏表紙に「資生堂」の広告が載ったのが唯一の例外とか)。
 「手作り」。これも暮しの手帖社の創業精神の一つであろう。大きな評判をもたらした「商品テスト」も、独立独歩、手作り、徹底した力仕事がなければ実現できない仕事だ。学生時代に小榑君と2人で新聞社の都内住民アンケート調査のアルバイトをしたことがある。留守宅が多いと、こちらは面倒になってノ―アンサーが増えていくのだが、小榑君は留守宅があると翌日もさらに次の日も足を運んで回収率を高めていった。もちろん2人ともメーキング(質問者が回答まで作ってしまうこと)は絶対避けたが、小榑君の忍耐強い回収作業に大いに感じ入った。こうした性格は、暮しの手帖の社風とピッタリ合致していたと思う。
 「神変不可思議」(しんぺんふかしぎ)――故徳川夢声氏(放送芸能家、俳優)が花森安治さんを評した言葉だという。オートメーション化、大企業化、自動化、均一化といった戦後経済成長の波のなかで終始、手作り、独立独歩、品質重視、生活者(いや、暮らし)目線にこだわって一時は100万部を超える発行部数を記録した「暮しの手帖」。その編集部には、こんな苦労があったという秘話を本書「花森さん、しずこさん、そして暮しの手帖編集部」を通じて多くの方に知っていただきたいものです。
 

国際化の中で沈没する「日本株式会社」の悲劇     宇治 敏彦

 三菱自動車やスズキなどの燃費不正問題、シャープの鴻海(台湾企業)傘下入り、中国資本による北海道「星野リゾートトマム」買収など近年、日本一流企業の不祥事や外国資本による買い占めが目立っている。かつて「政治は三流でも経済は一流」といわれ、「日本株式会社」との流行語まで生まれた戦後日本経済は、どうして駄目になったのだろうか。モノづくりを忘れて、金融中心の経済に走った結果が今日の事態をもたらしたといったら言い過ぎだろうか。
 もう四半世紀前のことだが、毎年実施している中日新聞社の創業記念日行事に経団連副会長だった飯田庸太郎・三菱重工業会長(当時。故人)を案内して記念講演をしてもらったことがある。JR名古屋駅太閤通口(新幹線側)には三菱自動車製の高級車「デ゙ボネア」があらかじめ配車されていた。車内で飯田氏は「この車もようやく他社並みになってきた」と漏らした。筆者は1989年に韓国の現代(ヒョンダイ)自動車工場を見学したことがある。韓国でも乗用車の国産化が急ピッチで進んでいたが、現代の場合、エンジンだけは三菱自動車製を使っていた。当時、日本国内では同じ三菱でも「パジェロ」は1990年代のRVブームを牽引したが、「デボネア」の売れ行きは芳しくなく、「三菱グループ役員の専用車」などという悪口も聞かれた。
飯田氏の講演テーマは「モノづくりの重要性」だった。三菱重工長崎造船所で製造した大型客船「飛鳥」による船旅がブームになりかかっていた。「モノづくりは人々に夢を与えるものでもある」というのが飯田さんの主張だった。もともと彼は1943年東大工学部卒業後、三菱重工に入社して、原動機第一技術部長などを歴任した技術者だった。それだけにモノづくりが単に日本経済を押し上げる要因だけでなく、ソニーのウオークマン(携帯式ヘッドホンステレオ)のように人々に「夢と希望」を与える原動力になることを期待していた。
だが今秋には就航25周年を迎える「飛鳥」の製造基地、長崎造船所も分社化と規模縮小を迫られているのが現実だ。
こうした背景に何があるのだろうか。燃費偽装問題の責任を取って三菱自動車の相川哲郎社長が辞任し、日産自動車が三菱自動車株34%を取得して事実上、傘下に収める資本業務提携がなされた直後の両社首脳の記者会見(5月12日)をテレビで見ていて驚いた。三菱自動車の益子修会長は「自動車を良く知っている相手と一緒になることで、特に技術開発では日産の人にきてもらい、お任せしたい」と述べた。対する日産のカルロス・ゴーン社長は「いや技術開発は従来通り三菱でやってもらいたい」と語った。これを聞いていた筆者の率直な感想は、こうだ。
「なんだ、ブラジル生まれのレバノン人、ゴーン氏のほうが責任感の強い昔気質の日本人で、益子氏のほうが責任放棄の外国人みたいじゃないか」
 自分の社の連中は駄目だからライバルだった日産の技術者におんぶで抱っこというのでは、過去の自分たちを全否定するだけでなく、あまりにも無責任ではないか。対する日産トップが「いやいや技術開発は、今回の反省のうえに従来どおり三菱さんでおやりになるのが筋ですよ」とたしなめるのは正論で、ゴーン氏のほうが、よほど日本人らしい。
しばらくして三菱自動車の開発担当副社長に日産の山下光彦技術顧問が起用される人事が発表された(6月24日付)。かつて飯田庸太郎氏が叫んでいた「モノづくりは夢づくり」という三菱スピリットは、どこへ行ってしまったのか。トップがこんな無責任体質なら下で働く一般社員は、さぞや苦労が多かろう。江田五月参院議員(元参院議長、岡山出身)が自らのブログに「三菱自動車と地域社会」と題して次のような一文を書いている(5月12日付)
「三菱自動車の燃費不正問題が、地元岡山を直撃している。倉敷市にある水島製作所は、軽自動車ラインが年間生産量の6割を占め、現在約1300人が自宅待機している。自動車産業は、完成車メーカーを頂点に、下請け、孫請けと重層的に部品メーカーで作る“ピラミッド構造”で、県内の自動車関連産業の従業員数は約1万4千人。取引先は、倉敷、総社、笠岡などを中心に約200社に上り、問題が地域社会や地域経済に与える影響は甚大だ」
一方、過去10年間に中国から買収された主な日本企業を見ると、ラオックス(2009年、蘇寧電器集団に)、本間ゴルフ(2010年、マーライオンホールディングスに)、レナウン(同年、山東如意科技集団に)、三洋電機の一部(2011年、白もの家電がハイアールに)、星野リゾートトマム(2015年、上海豫園旅游商城に)、東芝の一部(2016年、白もの家電が美的集団に)といった具合である。
先日も民放TV番組で中国企業に買収された温泉宿の特集をやっていたが、中国人団体客が増えた代わりに日本人個人客が減り、また人件費削減で従来のサービス水準を維持するのが困難になり、従業員が労働強化を強いられている状況が放映されていた。
日本もかつて1970年代から80年代にかけてのバブル時代にはアメリカの映画会社や著名ビルを買収してアメリカ人に恨まれ、米政府は「日米構造協議」を提起してきた。国土面積では日本より約17倍の広さを持つ米国の総地価が日本バブル最盛期には、日本の総地価価格の4分の1という試算は、どう見ても狂気の沙汰の経済感覚としか思えない。それと同様な中国バブルがいま日本の企業や不動産の買い占めに走っている。
では今後、日本はどういう道を進むべきなのか。残念ながら安倍政権もそこまでは明示していないので、私なりの見解を述べておこう。
ここ30年ぐらいの間でMade in JAPAN製品ということで世界的に信頼度があり人気の高い商品は「家電製品」「化粧品」「時計」「アニメ・漫画」「ゲームソフト」「各種デザイン」などであった。「前衛の女王」といわれる草間彌生の水玉模様の絵画やデザインもその一例だろう。また鉄道、ダム、発電所、橋梁、トンネルなど大規模公共事業でも日本の技術水準は高いと評価されている。
これらに加えて、日本がもっと力を入れて各国に売り込むべきだと思うことは3つある。第1は「クリーン産業」(きれいな空気、きれいな河川の維持など環境汚染対策、発展途上国での水道・井戸水建設、省エネルギー対策の技術など)である。第2は、芸術面でかつて江戸時代の浮世絵版画がゴッホなど印象派の画家たちに強烈な印象と影響を与えたように、現代日本の絵画、デザイン、陶器、ファッション、映画、アニメ作品及びその技術を積極的に輸出していくことであろう。そして第3は、世界に先駆けるスピードで進んでいる「人口の老齢化」対策である。食品、介助道具、ベッド、補聴器、介助ノウハウなどだ。
原発、鉄道、ダムといった大規模公共事業もさることながら各国の人々(先進国、発展途上国を問わず)が日常必要としていること、あるいは今後、必要になるであろうことにMade in JAPANの技術・ノウハウを提供していくことである。
金融(為替レート、株価など)中心経済では、安倍首相が懸念するように「リーマン・ショックの再来」という事態もなしとはしない。しかし、モノづくり本位の経済に回帰すれば、金融危機の打撃をいくらかでも軽くすることが可能であろう。「モノづくりは夢づくり」という精神に立ち返る時ではなかろうか。そうでないと「日本株式会社」といわれた時代の栄華はもとより、過去25年間のデフレ経済から本格的に脱却するのは困難であろう。
(この一文は「安保政策研究会」リポートに書いた原稿を補足したものです)


悲し過ぎるよ、舛添さん   宇治敏彦

 政治資金流用疑惑で、その公私混同ぶりが厳しく批判されている舛添要一東京都知事の進退問題がヤマ場に差し掛かっている。まんざら知らない仲でもないだけに「舛添さん、潔い責任の取り方を見せてください。それしか舛添要一の名が穢れていくのをストップする道はないですよ」と言いたい。
東大教養学部の助教授をしていた舛添氏ら若手政治学者を囲んで定期的な勉強会をもっていた時期がある。当時の舛添氏は西部邁氏(当時、東大助教授)らとともに「東大改革」を掲げて売り出し中の若手国際政治学者だった。1989年、東大を退官して舛添政治経済研究所を立ち上げ、「朝まで生テレビ」などで名前を売った後、2001年参院選では自民党比例候補として立候補。158万8862票でトップ当選を果たした。以後、安倍、福田、麻生内閣で厚生労働大臣を歴任。そして猪瀬直樹前知事の辞任に伴う2014年2月の東京都知事選では211万2979票を獲得して宇都宮健児(元日弁連会長)、細川護煕(元首相)、田母神俊雄(元航空幕僚長)候補らを破り初当選した。政治思想的には「保守改革派」で、「改革クラブ」「新党改革」を立ち上げたこともある。
私生活に関して筆者は詳しく知らなかったが、1986年、旧大蔵省のエリート官僚だった片山さつきさんとの結婚披露パーティーには招かれて出席した。仲人を務めた近藤鉄雄自民党代議士(当時)が「新郎新婦は共に大変忙しいお仕事を持っているので、すれ違いの新婚生活になるでしょう。しかし、それが夫婦円満の秘訣です」と挨拶して来会者の笑いを取ったことを思い出す。
当時、舛添氏が尊敬していた人に北原秀雄・元フランス大使がいた。「北原さんには本当にお世話になった。北原さんの御用命だったら、いつでもフランスへ飛んでいくよ」と言っていたぐらいだ。1973年にパリ大学客員研究員になり、フランス人女性と結婚した際も北原大使に御世話になったのだろうと想像した。片山さんとは2度目の結婚だったが、週刊誌等の報じるところによると、再婚後5か月ぐらいで別の女性と親しくなり婚外子(男性)をもうけたという。さらに現夫人との3度目の結婚でもうけた子どものほかにも別の女性と婚外子がいると報道された。プライベート面では「改革派政治家」というイメージと大きくかけ離れて、出生地・福岡で認知症になった晩年の母親介護をめぐる実姉とのドロドロの葛藤劇、自閉症になった婚外子男性の養育費・医療費をめぐる元彼女とのトラブルなど想像を絶する人生をたどって来た。
「公職」を表、「私生活」を裏とすれば、表の顔は清新な改革派で、裏の顔はしたたかなドンファン(漁色家)といえるかもしれない。その相反する性格が今回の公私混同疑惑と関係があるのではないかと筆者は見ている。つまりお金とか女性に対する「潔癖性」に乏しく、ご本人も自ら理路整然と外部に説明できないことを自覚しているに違いない。
舛添氏が都知事になった直後、私は「舛添東京都政への期待と不安」という一文を書いた(「行政&情報システム2014年4月号)。
期待は①待機児童問題の早期解決②首都直下型の巨大地震対策③東京オリンピック・パラリンピックの成功。そして不安はトルコやインドネシアの国家予算と同規模の予算を動かしている東京都庁の抜本改革をタレント政治家というだけでは出来ないという指摘だ。この記事は舛添知事が同年、日本記者クラブの会見に来訪した際に直接手渡した。「宇治さんのことだから誉めては書いてないよな」と苦笑いしながらポケットにしまっていた。
今度の一連の問題で私が指摘した「期待」は実現が難しくなったと思う。投票してくれた211万人強の東京都民だけでなく、16万人超の都職員(警察官など含めて)の信頼も失ってしまったからだ。まだ67歳の舛添さん、ここは公私混同の弁済をキチンと済まし、「人生を一からやり直す」決意を今都議会で表明する以外に、貴方の生きる道はないのではありませんか。

Elephant in the room   宇治敏彦

 Elephant in the roomという英語がある。直訳すれば「部屋の中の象」だが、皆そこに象のような大きなものが存在するのは認識しているだが、「見て見ないふりをしている」という意味だ。
今の政権与党(自民党、公明党)における多くの議員の安倍首相に対する態度が、このごろElephant in the roomのようになってきたと筆者は見ている。伊勢志摩サミット後に安倍首相は、消費増税の再延長に関して麻生副総理兼財務・金融相、谷垣自民党幹事長に「2017年4月の再引き上げ時期(8%を10%に)を2019年10月まで2年半ずらしたい」と提案した。その背景には「現在の経済状況が2008年のリーマン・ショック前の状況と似ている」(5月26日夜の伊勢志摩サミットでの発言など)からという基本認識がある。また7月10日投票が予定される参院選を意識して有権者の与党離れを食い止めたいとの思惑も当然働いている。さらに言えば、国会での党首討論会で岡田民進党代表から「消費税の引き上げを再延期すべきだ」と先制攻撃されたことへの対抗策もあったろう。
 だが麻生氏が再延期に反対し、仮に再延期するなら「衆院を解散すべきだ」と述べたように与党内でも異論が出ている。
 そもそも「経済状況がリーマン・ショック前の状況に似ている」との認識にもG7サミットでドイツのメルケル首相から異論が出された。このためサミット宣言では「リーマン・ショック」という言葉は使われず、次のような表現に落ちついた。
 「世界経済の回復は継続しているが、成長は引き続き穏やかでばらつきがある。前回の会合以降、世界経済の見通しに対する下方リスクが高まっている」
 メルケル独首相はG7後の会見で「経済成長に構造改革が必要だ。日本も従来型の財政や金融政策だけでなく、人口減少に対応するための教育や女性の社会進出が重要だ」とコメントした。
 これは経済協力開発機構(OECD)が今春発表した「日本。高齢化社会における成長促進と幸福度の向上」と題する対日提言を踏まえたものとみられる。グリアOECD事務総長は先に来日した際、安倍首相との会談でも消費税増税に関して「予定通り増税し、将来は15%まで引き上げるべきだ」と助言した。その背景には①日本の幸福度は他のOECD加盟国に後れを取っている②急速な高齢化で、日本人の一人当たり所得がOECD主要国に追いつくことを困難にしている③男性の雇用率より18%低い女性の雇用率を改善すべきだ―といった対日提言がある。換言すれば、消費税が高くても、それに見合う国民向けの政策が行われていれば、幸福度は増すというのだ。確かに欧州諸国の消費税は20%前後と日本に比べればはるかに高いが、子育て支援が充実しており、医療費や教育費(大学も含めて)は無料といった見返りもある。費用対効果のバランスが取れている。そこが日本と違うから「リーマン・ショック以前の状況」を理由にして増税を延期しようとの安倍首相の見解に違和感を覚えるのだろう。
 国際通貨基金(IMF)の世界経済見通し(2016年)ではG7のうち米国の成長率が2.4%が最も高く、以下英国(1.9%)、ドイツ、カナダ(1.5%)、フランス(1.1%)、イタリア(1.0%)の順で日本(0.5%)の成長率は最低だ。つまりメルケル氏ら欧州の首脳からすれば「安倍首相の『3本の矢』政策が成功していないのではないか」ということで「同一労働同一賃金」「女性労働者の待遇改善」「出産負担への全面支援策」「外国人労働者への優遇措置」(いずれもOECDの対日提言)といった構造改革が急務と見ている。
 「安倍独裁政権」と言っても過言ではない自公連立政権の政策に最近、与党内でもようやく疑問の声が出てきたのは、日本の政治にとって歓迎すべきだろう。それでも安倍首相が独走するようなら安倍政権はWhite elephant(金がかかり過ぎる厄介者)になる可能性があろう。白い象はタイでは神聖視され、飼育・管理するのに大変なお金がかかったため国王が失脚させようと思った家臣に白象を下賜したという逸話から生まれた言葉だという。
 Elephant in the roomからWhite elephantに発展していくのか。参院選を挟んで政局から目が離せなくなってきた。 

「追っかけ女性」が書いた憲法読本   宇治敏彦

 「僕には“追っかけ女性”がいるんだよ」。信濃毎日新聞の主筆を務めた中馬清福氏(2014年11月没)が生前、筆者にそう言っていた女性フリーライターの金井奈津子さんが最近、「幸せのための憲法レッスン」(かもがわ出版)という本を出版した。彼女は長野県松本市在住で、週3回発行の地域紙「松本平タウン情報」に中馬氏との対話をもとにして5年半、「憲法をお茶の間に 中馬清福さんに聞く」として連載した。その連載は第20回平和・協同ジャーナリスト基金賞の「荒井なみ子賞」(朗読劇団「八月座」座長を記念した賞)に選ばれている。
 「25歳になるまで一度も選挙に行かなかった」というノンポリの金井さんが、信毎に定期掲載されていた中馬主幹のコラム「考」を読んで同氏に「憲法とは何ですか」と教えを乞うたのが連載を始めたきっかけだった。いつも信毎の主筆室で、金井さんが素朴な疑問をぶつけ、中馬氏が懇切丁寧に答えるパターンだったようだが、太平洋戦争末期の沖縄戦に関しては、こんなふうだった(以下、同書からの引用)。
*        *          *
 中馬「金井さんは、長野県民として、沖縄戦をどう考えますか?」
 金井「………?」

 意味がわからなかった。ぼんやり顔の私を尻目に、中馬さんは何やら電話で車の手配をしている。

 中馬「はい、参りますよ!」
 金井「ど、どこへ?」

 バタバタと車に乗せられ向かったのは、長野市にある信毎本社から車で30分の距離にある松代大本営跡だった。
 沖縄戦が行われている間に、「本土での決戦に備えるため」皇居、政府、軍司令部の移転先として掘られた地下壕だった。3つの山の地下にアリの巣のようにトンネルが入り組み、総延長10キロに及ぶ。
 中に入って驚いた。沖縄で見てきた、自然の洞窟を使った地下壕とは全く違う。(中略)まるで地下都市だ。
 沖縄戦は、この工事が終わるまでの時間稼ぎとして行われたのだ。「(沖縄本島の)南部に移動して戦いを継続せよ」との命令は、松代大本営がまだ完成していなかったからだと、多くの史実が語っていた。
 沖縄の9万4000人の人々が逃げ惑いながら殺され、幼い子どもたちも巻き込んで「自決」していたその時、軍の中枢は、自分たちと偉い人だけを守るための巨大な壕を造らせていた。軍とは、何を守るためのものか――。嫌というほどわかった気がした。

 中馬「明治の日本は『富国強兵』を基本に据えて以来、この国の政治は軍を甘やかしました。軍の暴走の結果は、あなたが、知覧や沖縄で見てきた通りです。
 1931年の柳条湖事件から1945年の敗戦までの日本人の犠牲者は310万人、日本軍が命を奪った外国人の数は2000万人。その何倍もの人が、愛する家族や恋人を失い、収入を絶たれ、絶望し、人生を狂わされました。その大きな犠牲のもとに、日本は、天皇が定めた『大日本帝国憲法』から、国民が定めた『日本国憲法』への転換を果たしたんです」
*        *        *
 筆者も2010年11月、「埴輪」同人の小榑雅章君と信州を旅した時、中馬氏に松代の大本営跡(地下壕)やコンクリート庁舎(天皇御座所)などを案内してもらった。「百聞は一見に如かず」で、太平洋戦争末期のこうした史跡を見ると、当時の日本政府と軍部が人間集団としてのコモンセンス(常識)を完全に放棄・忘却して、狂気で行動していたとしか思えない恐怖と戦慄を抱かざるを得なかった。
 古い資料を整理していたら1996年(平成8年)、初の小選挙区比例代表制による第41回総選挙を前に中馬氏が朝日新聞朝刊1面(同年9月25日)に「この国のゆくえ」と題して書いた記事の切り抜きが出てきた(当時、彼は朝日の論説主幹だった)。
 「この国のゆくえを決める選択肢には二つの大きな流れがあるのではないか。第一は、政治家と官僚がデッサンする従来型の上からの改革だ。これが行き詰まりつつあることは明らかで、国民の政治不信や、増える無党派層の一因である。(中略)第二は、政治の目を暮らしのなかの危機に向けさせ、根気よく解消していく。そんな作業の積みあげによって進める、下からのシステム改革だ。その成否は、有権者がどこまで政党や政治家を使いこなし、動かせるかにかかっている」
 残念ながら、日本の政治はまだ有権者が政党や政治家を使いこなすレベルに至っていない。むしろ、その逆の方向へ「上から目線の政治」が加速しているのではないか。それに有権者が早く気づき、舵を修正しないと、太平洋戦争当時の悲劇を再来させることになるのではないか、と筆者は危惧している。金井さんの「幸せのための憲法レッスン」は、こうした時期に特にノンポリの人々に読んでほしい好著である。

憲法学者・小林節慶大名誉教授の参院選出馬   宇治敏彦

 小生が勉強部屋として20年ほど前から借りている日本プレスセンタービル(東京都内幸町)8階の小部屋近くのキュービクルに慶大教授を定年になった憲法学者の小林節さん(67歳)が引っ越してきたのは2年前のことだった。もともとは改憲論者とされていたが、安倍政権の新安保法制には真っ向から「立憲主義に反する行為」と猛反発し、防衛省出身ながら新安保法制に反対し続ける柳沢協二氏と並んで全国各地からお呼びがかかる人気者になった。最近も護憲学者の樋口陽一東大名誉教授との対論集「『憲法改正』の真実」(集英社新書)を発刊し、緊急事態条項の新設などを盛り込んだ憲法改正草案に対して国家の根幹を破壊するものだと激しくかみついている。
 その小林慶大名誉教授が5月9日、日本記者クラブで会見し、夏の参院選に向けて政治団体「国民怒りの声」を立ち上げ、同氏を含む候補者10人以上を立てて新安保法反対や改憲阻止へ本格稼働すると表明した。また原発反対や米軍普天間飛行場の沖縄県内移設反対なども掲げている。
 「民進党と喧嘩しちゃいましてね」。プレスセンターの廊下で行き合ったら、そんな内輪話をしてくれた。当初は夏の参院選に向けて民進党をはじめ野党が比例代表の統一名簿を作るべきだと各野党に働きかけていたが、民進党の同意が得られず、自ら政治団体を立ち上げることを決断したのだ。「それでも全国を歩いていて成算があると感じるのですよ」と別れ際に漏らしていた。
 結果が吉と出るか、凶と出るか―これは判断が難しい。かつて佐藤内閣時代の1969年(昭和44年)2月、学者の青木茂氏や「目白三平シリーズ」で知られる作家の中村武志さんらがクロヨンと呼ばれる税の不公平感に反発して「サラリーマン同盟」を結成し、国会議員も誕生させた。しかし、一時的な支持は得たものの政党活動は、そう長くは続かなかった。
 税の不公平感是正運動と小林氏らの改憲阻止運動では性格を異にするという見方もあるだろう。だが野党の間には「小林氏らの活動が野党統一の分断につながり、結果的に自民党を利することになるのではないか」との見方があるのも事実だ。
 正直なところ安倍首相は、今夏の衆参ダブル選挙を完全に断念したのだろうかという疑念が、まだ残っている。伊勢志摩サミットが終われば、あとは「憲法改正へ向けて最後の政治生命を賭ける」というのが首相の心底にあるだろう。それを阻止するには政党レベルでも有権者レベルでも、相当の覚悟とエネルギーが不可欠だ。1960年代だったら総評とか全学連という組織があった。今の連合は野党支持か与党支持か分からないレーバーユニオンだし、若者たちの戦闘力も60年代には及ばない。
 小林名誉教授らの「国民怒りの声」は、志は良いとしても、本当に改憲阻止の中核エネルギーになりうるだろうか。「御健闘を祈ります」と言って同氏とわかれたが、安倍自民党という頑丈な堤防に水漏れ―洪水を誘発する一針を通すのは容易でないと改めて思う。

歴史的和解と「国際人」たる要件   宇治敏彦

11世紀半ばの1054年に教義の違いから分裂したキリスト教の「ローマ・カトリック教会」と「東方正教会」が歴史的和解へと踏み出した。ローマ・カトリック教会のトップであるフランシスコ・ローマ法王と東方正教会のリーダー、キリル総主教が2月12日、キューバの首都ハバナで会談し東西教会の「共同宣言」を発表した。
その骨子は①歴史的相違を克服するためのあらゆる行動を実施する②中東のキリスト教徒に対する迫害阻止へ国際社会が緊急行動をとるよう要求する③暴力やテロ行為の根絶を国際社会に訴える―など。キリスト教徒がイスラム教スンニ派過激組織IS(イスラム国)に迫害されている事態が両教会の和解を促した側面はあるが、同時に宗派対立を克服して、世界があらゆる面で「和解」を実現すべき時だとの基本認識が両宗派の指導者を動かしたと言える。両首脳の初会談の場所がキューバであったのも象徴的だ。キューバのラウロ・カストロ議長が仲介したと報じられているが、フランシスコ・ローマ法王は米国とキューバの国交回復を仲立ちした経緯もあり、それぞれにつながっている。さらに言えば、ロシアのプーチン大統領は過去に何回かバチカンを訪問してヨハネ・パウロ2世やフランシスコ法王と会見しており、いずれは法王がロシアを訪問するものとみられる。キリスト教の両協会と米ロ及びキューバの3か国が過去の恩讐を乗り越えて「歴史的和解」に動き出していることに日本は、もっと注目すべきではないか。
オバマ米大統領の任期は今年一杯。フィデル・カストロ前政権(現議長の兄)下の1961年、キューバは社会主義化し米国はキューバと断交した。その後、キューバ危機も起きて両国関係は悪化したままだったが、昨年54年ぶりに国交正常化を電撃的に発表した。オバマ大統領の最後の仕事は、キューバとの国交回復、両キリスト教会の歴史的和解を足場に「イスラム国」などの過激派テロをどこまで封じ込めるかにかかっている。
「長年の対立、葛藤を克服した歴史的和解」―この新しい潮流に私たちは、どう対応していくべきだろうか。安倍晋三内閣は中国、北朝鮮の軍事的脅威の増大に対抗して新安保法制の具体化や日米安保協力に積極的な姿勢を見せる一方、中韓両国との歴史認識問題、ロシアとの北方領土返還問題や平和条約締結問題といった未解決の懸案を抱えている。ここは一つ新たな視点で「歴史的和解」に取り組むべきだ。また私たち日本人も視野を広げて「真の国際人」になる努力をすべきであろう。最近、国際的に活躍しているスポーツ選手が目立つ。男子テニスの錦織圭(26歳)、スーパーラグビーの五郎丸歩(29歳)、スキージャンプの高梨沙羅(19歳)など。またノーベル賞の受賞者も毎年のように日本人がノミネートされる。このように国際的に一流とみられる日本人がいる一方で、在日朝鮮人に対するヘイトスピーチ(憎悪表現)のような人権侵害、差別的言動を続ける日本人もいる。拙著「政(まつりごと)の言葉から読み解く戦後70年」(新評論)にも書いたことだが、「半内半外」(ナショナリズムだけでなくヒューマニズムを重視する姿勢)の日本人を増やすことが「国際化」には重要な要素である。
Diversity(ダイバシティー、多様性)がキーワード。漢字、ひらがな、カタカナだけで十分に生活できた時代と違って、在日外国人が約1415万人、訪日観光客が1341万人余(いずれも2014年、法務省入管統計。政府観光局の統計では2015年の訪日外国人数は1973万人)という時代である。特に「爆買い」という言葉が流行語になった中国人観光客の急増などで日本を訪れる外国人は今後ますます増える。2020年の東京オリンピック・パラリンピックが、その傾向を加速させる。「多様性」とは、具体的にどんなことを意味しているだろう。「新・観光立国論」(東洋経済新報社)を著したデービット・アトキンソン小西美術工芸社長(イギリス人)は「多様性」について新聞に、こう書いていた。
「日本は『おもてなし』の国と言われますが、外国人からみると、もてなし不足に見えます。たとえば、京都の龍安寺の石庭を訪れた時、外国人観光客が『ここはもともと、駐車場だったのかな』と話しているのを耳にして衝撃を受けました。『何度も来ているうちに、よさが分かってくる』と言われますが、解説してほしい人もいます。観光に一番大事なのは、多様性です。解説を求める人、不要な人。ガイドと回りたい人、体験を重んじる人。決めるのは観光客です。多様な客が来るのに、限られたメニューでは困ります」(2月18日 、朝日新聞朝刊)
日本人の間では当たり前と思っていることが外国人には新鮮に映ったり、不可解に思えたりする。「爆買い」で来日する中国人観光客も、買い物と富士山見物だけで満足する時代は、既に過ぎた。ある観光業者が中国人グループを府中競馬場に案内したら大変喜ばれたという。中国人は馬好きと言われるが、実際に間近で馬に接する機会は少なく、ましてや馬券を買って遊ぶという機会がないので競馬場訪問が大歓迎されたのだ。
他方、外国人が多く住む地域(大阪市生野区、長野県川上村、群馬県大泉町など)では「ゴミ出しのマナーが出来ない」「大衆浴場での入浴態度が悪い」など様々な生活慣習の違いで日本人とのトラブルを生んできた。お互いに「半内半外」で理解し合うヒューマニズムこそ「国際化」に不可欠な要素である。大は宗派対立から小はゴミ出しルールまで相互理解を深めて「歴史的和解」を促進していこう。
昨年は自爆テロの多発など世界中で「憎しみの連鎖現象」が目立った一年だった。しかし今年は東西キリスト教会の和解というビッグニュースを足場に世界が「多様性の容認」「ヒューマニズム優先」へ大きく動き出すことを期待したい。「我々は兄弟だ」。ローマ法王がキリル総主教に述べた一言に重みを感じる。
(この原稿は行政情報システム研究所発行の「行政&情報システム」4月号に掲載したものを手直ししました)

「本音を語る外交官」谷野作太郎氏の証言録  宇治敏彦

 ちょっと値段が高いので、お勧めするのを躊躇するが、昨年末に刊行された谷野作太郎氏(元中国、インド大使。日中友好会館顧問)の「外交証言録 アジア外交 回顧と考察」(岩波書店 6400円)は、外交官が本音ベースで語っている現代史録として一読に値する。服部龍二中央大学教授ら3人の学者による聞き書きがベースになっている。
 谷野さんといえば、一番知られているのは村山富市内閣当時に政府が出した戦後50年の「村山談話」起草者(当時は内閣外政審議室長)だったことだが、鈴木善幸内閣の秘書官として伊東外相辞任に発展した「日米同盟」問題(ここでは小生の名前も登場するが)や中韓両国から日本批判の一因となっていた歴史教科書問題などにもかかわり、さらに幼馴染の福田康夫元首相には中国問題でのアドバイス役を務めるなど多方面で歴代内閣の外交政策にかかわってきた。
 「村山談話」作成の裏話は貴重だ。当初は村山首相個人の談話で出す手はずだったのが当時の野坂浩賢官房長官(社会党)から「閣議決定にもっていこう」との提起があり、自民党の橋本龍太郎通産相、江藤隆美総務長官、平沼赳夫運輸相(いずれも当時)など「おっかない方々」(谷野氏)をどう説得するかが問題になった。
 「国策を誤り」「植民地支配と侵略」によって「アジア諸国の人々に多大な損害と苦痛を与えた」ことに「痛切な反省と心からのお詫び」を表明する日本国総理大臣談話だから当時、遺族会会長だった橋本氏をはじめ「日本は韓国に良いこともした」発言で後日、閣僚を辞任するタカ派の江藤氏らがOKを出すのか、谷野氏は本書の中で「自民党内閣ではとても無理だったでしょう」と回顧している(257ページ)。ここで興味深いのは橋本氏の態度だった。同氏から「一か所だけ訂正してはどうか」と注文がついた。原案では「終戦」と「敗戦」を書き分けてあったが、「全部『敗戦』で揃えたらどうだ」「遺族会もそれで問題ない」というので、「敗戦」という表現に統一したという。
 谷野氏は後日、「『敗戦』にそろえろとおっしゃったのは、どういう背景があるのですか」と橋本氏に直接問いただした。彼の答えはこうだった。
 「君たちは遺族会を色眼鏡で見過ぎている。遺族会の中枢は純粋なんだよ。あの戦争はやっぱり誤りだった、戦うべき戦争でなかったということで、遺族会の多くの人たちは、自分たちの夫や父親や兄弟は、その犠牲者だと思っている。戦争を引き起こしたA級戦犯の人たちと一緒に祀られていることについて、釈然としない思いを持っている人たちも少なくない。敗けたものは敗け、『敗戦』と表現することについては、遺族会の中枢はまったく異論がないんだよ」
 故橋本氏は筆者と同年齢。初当選後の会見で「マルクスの『資本論』を既に高校時代に読了した」などと述べ、「随分生意気な二世政治家だな」と思ったものだ。ただ「われらの世代(昭和12年生まれ)は戦前の軍国主義と戦後再軍備論に挟まれた絶対平和主義。サンドイッチのパンに挟まれた薄いハムみたいな世代だね」と個人的に漏らした時は共感を覚えた。
 昨年秋、私は満10年間務めた日本新聞協会の国際委員長を退任した。同委員会では毎回、会合の際にゲストを招いて参考になる話を伺うのが恒例になっているが、最後の会合には谷野さんに来ていただいたいと思っていた。谷野さんは出席を快諾してくれたが、「S紙も来るの?」と気にしていた。慰安婦問題などで十分に取材しないままに一方的にS紙に谷野さんのコメントが掲載され、頭に来たと怒っていた。国際委員会での講話は「‟歴史”と如何に向き合うか」で、聞きごたえのある内容だった。特に中国大使経験者として現在の日中関係を憂慮し、陳毅元副総理(故人)が1960年6月、野間宏、亀井勝一郎両氏といった日本作家代表団と会見した時の発言を例に挙げた。
 野間氏らが「過去の日本の行為を忘れない」と言ったのに対して陳毅氏が答えた次の発言である。
 「皆さん、ありがとう。我々は過去のことは過ぎ去ったものにしようと言い、貴方たちは日本人として過去を忘れてはいけないと言われる。そうであるなら、両国人民は本当の友好を実現することができるでしょう。逆に我々がずっと日本を恨み、あなた方日本人が中国を傷つけたことを、きれいさっぱり忘れてしまうようなことになったら、中日両国はいつまで経っても友好関係を実現することができないでしょう」
 谷野さんは第2次世界大戦で敵味方として戦った独仏両国の友好関係にも触れて「ダンスは2人でなくては踊れない」と述べた。過去の日中関係を踏まえて「未来志向の日中」を考える時、まさに陳毅発言は至言である。現在の日中関係は中国の軍事大国化や安倍政権の新安保法制もあって、1972年の日中正常化直後の「ニーハオ友好」が大幅に後退し、冷ややかなムードが続いている。陳毅発言をベースにした日中の友好ダンスは、どうしたら実現できるのか。政治家も外務官僚も谷野証言録に学んで「日中友好の再構築」を真剣に模索して欲しいものだ。

出会った人々⑲ 「あの元気な人が!」と絶句した南原晃さんの死   宇治敏彦

 「丸八会」という親睦組織がある。名古屋に勤務経験を持つ官僚、経済人、ジャーナリスト及びそのOBで作られている団体で、旧制八高にちなんだ名古屋の数字から「丸八会」という。名古屋、東京、大阪、福岡にそれぞれ拠点を持ち、毎月のように懇談会、勉強会、旅行、ゴルフ、囲碁、小唄、飲食といった会合が持たれる全国でも稀有な交友クラブだ。
  東京の総会に名古屋で「夜の商工会議所」との異名をとる高級クラブ「なつめ」のママ、加瀬文恵さん(俳優・宇津井健がなくなる当日に入籍したことで話題になった)たちが顔を出したこともあった。筆者は名古屋勤務ゼロだが、中日新聞社相談役としてメンバーに加えてもらっている。
 その東京丸八会で「これほど頭脳明晰で、タフで、健啖家で、おしゃべりなお年寄りがいるだろうか」と会員の誰もが思っていた南原晃さん(元日本輸出入銀行副総裁、元日銀理事)が今年2月15日、82歳でなくなった。その訃報に接した同17日の朝、「エー、嘘でしょ」と私は思わず叫んでしまった。昨年7月21日、日本プレスセンタービルで開かれた「政(まつりごと)の言葉から読み解く戦後70年」(新評論社)という拙著の出版記念会にもおいでいただき、長い祝辞をいただいた。たまたま当夜は丸八会の会合と重なっていたが、それが終わってから駆けつけてくださったのだった。
 東大野球部の元主将(ポジションはセンター)で、2004年から全日本大学野球連盟の副会長を務めていた。経済の話もさることながら、野球の話になると止まることなく、特に近年は六大学野球で東大が好調な背景を延々と説明してくれた。
 拙著でも紹介したが、1951年に南原さんの父・南原繁元東大総長が日本の「全面講和」論を展開して吉田茂元首相から「曲学阿世の徒」と批判されたときの経緯について「実は父と吉田さんは仲良しでした」と次のような手紙をいただいた。
 「父はあくまで政治学者の立場から昭和21年8月『凡そ戦力なき国家は国家ではない』と発言、憲法9条について同じ反軍国主義の吉田首相をとっちめたことがあり、これが伏線となって曲学阿世の発言になったのです。父は勿論、ソ連との講和など無理と思っていたのですが、中国とは出来ればと思っていたようです。新聞紙上では対立がかっこうの記事となりましたが、吉田さんと父は年賀状の交換は絶やさず、同じく命がけで終戦工作をした吉田さんとは反軍国主義として親しみを感じていたようです。現実問題として安保条約についても反対していませんでした」
 手紙の末尾には「丸八会でお目にかかるのを楽しみにしています」とあった。その丸八会では昨年8月26日、東京では一番古い本格派イタリアンの店「アントニオ南青山」で開催された飲食(おんじき)の会でお目にかかったのが最後だった。この時も南原さんは小生と堀川健次郎氏(元日経新聞経済部長、クイック特別顧問)を相手に赤ワインを何杯もおかわりし、美味なイタリアンを完食しながら独自の経済論を披露してくれた。
 「この人は、ひょっとしたら死なないのではないか」と思ったぐらいだ。ところが最近届いた南原さんの3人の子息連名のお知らせによると、南原夫人の富貴子さんが昨年9月9日、旅行先のロシアで心臓発作で他界、南原さん自身も昨年末の入院でステージ4の肺腺癌と診断され、退院される間もなく他界されたのだという。奥様の外国での不慮の死も堪えたに違いない。大好きな六大学野球のシーズン開幕を見ることなく旅立たれのは心残りだったに違いない。生前のご厚誼に感謝し、心から哀悼の意を表したい。

負けるな! トルコの日刊紙ZAMAN(ザマン)  宇治敏彦

 トルコでは最多部数を誇る日刊紙「ZAMAN」(英字紙を含めて約65万部)が反政府的という理由でエルドアン政権の管理下に置かれた。イスタンブールのザマン・メディアグループ本社前には、これに抗議して1000人を超す読者や一般市民が集まったが、警察隊の催涙ガスと高圧放水銃で排除された。
 イスタンブールの朝日新聞記者(春日芳晃氏)のレポートによると「エルドアン氏が事実上率いる与党・公正発展党(AKP)と密接な関係にある管財人3人が真っ先に編集局長を解任し、以前の記事などをすべて削除した」(3月11日朝日朝刊)という。
 2年前の9月、筆者は国際新聞編集者協会(IPI)理事の一員として「トルコにおける報道の自由を守ろう」と他国の理事とともにザマン・グループ本社を訪れ、明るいビルの社内を見せてもらうとともにザマンの取締役・編集局長エクレム・ドゥマーニ氏らと懇談の機会を持った。既に、そのころからエルドアン政権の「報道管制」は強まっていた。
 ザマン紙は1986年創刊だが、イスラム主義的保守系新聞で、決して進歩的左派系新聞ではない。だが米国に亡命中のイスラム教ギュレン師がエルドアン大統領の強権政治に抗議し、ザマン紙もギュレン師に加担してエルドアン批判を強めるにつれて、政府のザマン紙弾圧が加速した。
 IPI理事と懇談したドゥマーニ編集局長からは後日、私宛に「トルコのメディアとジャーナリズムの最新事情について忌憚ない意見交換が出来たらことに感謝している。私たちザマン・メディアグループは未来へ前向きに進む。再訪を望みます」とのメールが届いた。だが彼も管財人から真っ先に解任された。
 以前にも本誌「埴輪」に書いたと思うが、10年以上前にエルドアン大統領(当時は首相)が来日し、日本記者クラブで会見した際、筆者はクラブの企画委員長として司会役を務めた。国民向けの改革を進める政治家として好感を抱いた記憶がある。だが2年前のトルコ訪問時にヒュリエット紙(ザマン紙につぐ有力紙)のムラト・イエトケン論説委員長が「昔は良かったが、利権供与を条件に私たちマスコミに接してくるようになった」とエルドアン大統領を厳しく批判していた。
 それで思い出したのがルーマニアで1989年に民衆から追放されたチャウシェスク大統領の私邸が最近、一般に公開された。エレナ夫人、3人の子どもと住んでいた私邸は、なんと80の部屋があり、屋内プールや地下貯蔵庫を備え、邸宅内部はベネチアンガラスの鏡や色彩豊かなモザイクなど贅を尽くした装飾だという(今は外国賓客用に使用されているようだ)。彼が追放直前まで建設中だった「冬の宮殿」をイリエスク大統領に代わった1990年5月にルーマニアで見学したが、どんなに後ずさりしても全景がカメラに納まらない巨大宮殿だった。
 新聞報道によるとトルコのエルドアン大統領も近年、豪華な私邸、国内で最大規模もモスクを建築するなど、チャウシェスクそっくりだ。
 2年前、トルコのジャーナリストたちと懇談した際に筆者は「絶対的権力は絶対的に腐敗する」と述べたら、皆頷いていた。それだけにトルコでは今、「権力の暴走をチェックし、国民の多くが望んでいる正常な状態に戻す」というジャーナリズムの仕事が重要性を増している。頑張れ、ZAMN紙! 負けるなトルコのジャーナリスト!

琴奨菊の「挑戦」と「人生観」を応援する   宇治敏彦

 18年ぶりの日本人「横綱」を賭けた大関・琴奨菊の挑戦が13日からの大阪春場所で始まった。2月16日、日本記者クラブで記者会見した大関の語りぶりを聞いていて思ったことは「この関取の魅力は技量もさることながら『素直』『努力家』『研究熱心』なところにあるのではないか」と思った。
 福岡県柳川の生まれで、子どものころから体が大きく子ども相撲でも強かったようだ。なぜ佐渡ケ獄部屋に入門したかについて「私が小学校3年生のとき、地方巡業で柳川に見えた先代の佐渡ケ嶽親方が『坊や、体がでっかいなあ。大きくなって相撲界に入門するなら佐渡ケ嶽部屋に来るんだよ』と言って、指にツバつけて私のおでこにえんがちょしたのです。感激して他の部屋への入門はまったく考えませんでした」と説明した。
 この“純情”なところが良い。
 「相撲の世界では“練習”でなく‟稽古”と言うのです。『怪我も稽古で直せ』というぐらいですから、あきらめずに努力すれば壁を乗り越えて、夢が叶う」「教えてもらったことは鵜飲みで聞く。それから稽古の中で自分なりに吸収して、のりしろをつけていく。横綱の白鵬関は自分の空気感というか、ルーティンの動作を身に着けていて、仕切りを重ねているうちに、いつの間にか横綱のルーティンに自分が合わせてしまっている。それでは駄目と分かったので自分の空気感、ルーティンをつくるよう努力してきた」。
 会見に出席していたロイター通信女性記者のアドバイスで「琴バウワー」と命名した例のパフォーマンスも、自分なりの「空気感」「ルーティン」の一環なのだろう。
 日本人力士として先場所、10年ぶりの優勝を勝ち取って「砂利道から舗装道路に出たかのように周囲の見える景色が変わった」「先代の親方(元横綱・琴桜)も32歳で横綱になった。私もいま32歳。地位も名誉も総て土俵に埋まっている」などと語った。
 表現力が豊富だなあ、というのがジャーナリストとしての感想だった。さて今場所は「18年ぶり」を実現できるか。先場所以来、優勝、結婚のお祝い騒ぎで完全な休日は一日だけだったという琴奨菊の練習量減少が気になるが、春場所初日は高安をよりきって白星スタートを切った。「ルーティン相撲」が出来るかどうか。それは「土俵に埋まっている」のではなく、琴奨菊自身にかかっている。

「東日本大震災から5年」が突き付けている課題   宇治敏彦


 東日本大震災から5年を経過しても、なおストンと胸に落ちないことがある。「命が第一」という政(まつりごと)が本当に前進しているのだろうか、という疑問だ。
 大津波などで1万8000人以上が死亡したが、まだ行方不明の方が2500人を超えている。岩手、宮城、福島の3県では今も仮設住宅に暮らす人々が5万8000人いる。災害公営住宅の建設が遅れ、いまだ完成は6割にとどまっているからだ。1995年の阪神淡路大震災では仮設住宅居住者は5年でゼロになったのと大違いである。避難生活者は3県で約17万4000人。特に東京電力福島第一原発事故があった福島県では約4万3000人が県外での避難生活を送っている。言葉を変えた表現でいえば、3県で暮らしていた人々は「故郷を捨てざるを得なかった」のである。もっと厳密にいえば住みたくとも「住めない故郷」なのだ。
 全国的な人口減少傾向の中で、被災地を含む東北各県の人口減が目立っている。震災前の2010年と震災後の2015年の国勢調査比較では、宮城県を除く秋田、青森、岩手、山形、福島5県が人口減少率で全国1~5位となっている。宮城県でも女川町では37%減、南三陸町では29%減などと人口減が際立っている。福島の東電第一原発が廃炉になるまで40年ぐらい廃炉作業が続けられる。浪江、双葉、富岡といった町には町名は残っても通常生活が出来る町とはなっていない。
 「被災者の心に寄り添って」と安倍晋三首相が国会や記者会見で発言しても、何か虚ろに聞こえるのは上記のような復興作業の遅れ、あるいは復興不可能地域もあるからだ。
 そうした中で大津地方裁判所が3月9日、関西電力高浜原発3、4号機(福井県高浜町)の運転差し止め決定を下した。「原発事故が起きれば環境破壊の及ぶ範囲はわが国を越える可能性さえある。発電の効率性は甚大な災禍と引き換えにすべき事情であるとは言い難い」「過ちに真摯に向き合うなら、対策の見落としで過酷事故が生じても、致命的な状態に陥らないようにするとの思想に立ち新規制基準を策定すべきだ」(仮処分決定の骨子)
 この判決こそ一般市民の「心に寄り添う」ものではないだろうか。「のど元過ぎれば熱さ忘れる」の考え方は原発事故には通用しないと思うべきだ。北欧のフィンランドは「クリーン国家」「クリーンエネルギー」を国策にしている。筆者はかねて日本が「クリーン国家」の見本になるべきだと提唱してきたが、安倍政権もフィンランドに見習って「クリーン・ジャパン」の旗を高く掲げてほしい。
 私たち国民も東日本大震災被災地の早期復興に向けて自主的な寄付とは別に実質所得の2.1%相当を「復興特別所得税」という形で平成25年分から平成49年分まで毎年負担することになっている。被災地以外の市民たちが「喜んでこの税金を払おう」という気持ちを持ち続けられるようにするためにも、「命が第一」という政治とは、どのようなものか、安倍首相に限らず与野党の政治家がもう一度、問い直すべきではなかろうか。
 
 

環境省を福島県に移転してはどうか   宇治敏彦

 「地方創生」政策の一環といて中央省庁機関の地方移転が検討されている。文化庁の京都移転が最有力視されている。1月末に開かれた移転に関する政府有識者会議と内閣官房によるヒヤリングで山田啓二京都府知事が「文化財の多い京都こそ文化庁の移転先にふさわしい」と強調し、安倍晋三首相も国会答弁で京都移転に前向きな姿勢を示したからだ。
 政府機関の地方移転の推進役である石破茂地方創生担当相は「移転を希望する地域に、移転でその地域だけでなく、日本全体のプラスになるものであることをお示しいただく」と述べており、3月中には地方移転の基本計画を決める段取りだ。
 文化庁の京都移転のほか消費者庁の徳島県移転なども話題にのぼっている。文化庁の京都移転は、すんなり分かるが、消費者庁がなぜ徳島県なのか分かる人は少ないのではないだろうか。
 目下、中小企業庁、特許庁、気象庁、観光庁なども地方移転の対象機関候補にあがっているが、関係機関はいずれも否定的という。地方移転といっても、多くの人が納得するような意味づけが必要だろう。
 その点からいったら、「環境省を福島県に移転してはどうか」と筆者は提案したい。まもなく東日本大震災・東京電力福島第一原子力発電所の放射能漏れ事故から満5年を迎える。現地の人々から「復興はまだまだ」という声が聞こえてくるが、その通りだろう。特に原発事故で廃炉に最低でも30年から40年の時間を要すると東電は見ている。そうした中で丸川珠代環境相は2月7日、長野県松本市で開かれた会合で、東電福島第1原発事故後に定めた除染などの長期目標について次のように述べた。
 「何の科学的根拠もなく、誰にも相談せず、その時の環境大臣が1ミリシーベルトまで下げた」「その結果、帰れるはずのところにいまだに帰れない人がいる」
 除染などの長期目標は国際放射線防護委員会(ICRP)が事故後に目指すべき線量として勧告する年1~20ミリシーベルトのうち最低の数値である。それを環境大臣が「それは民主党政権当時の決定で意味がない」と言わんばかりの態度では、なにをかいわんやだ。その後、丸川大臣は批判を受けて発言を撤回したが、避難を余儀なくされている福島県の人々からみたら「行政の責任者が私たちの気持ちも知らないで」と怒りが収まらないだろう。
 環境問題の責任者が、こんな認識だからこそ、環境省を福島県に移転して、原子炉の廃炉問題を含めて日本の環境政策全体の見直しを推進し、「クリーン・ジャパン」の国造りを目指したらどうだろうか。

出会った人々⑱若かりし京極純一東大助教授の思い出  宇治敏彦

 計量政治学プラス独自の思潮で「日本の政治」(1983年、東京大学出版会)といったベストセラーを著した京極純一東大名誉教授が2月1日、92歳でなくなった。心からご冥福をお祈りします。学徒出陣を経験した京極さんは、常に戦後民主主義の立場からさまざまな著作や論文を発表するかたわら東大教授の後は千葉大教授、東京女子大学長、年金審議会会長などを歴任した。
 政治記者だった筆者が京極さんと親しくお付き合いしたのは、東大助教授当時の昭和30年代である。当時、京極さんは東京・目黒区東山の高台にあった公務員宿舎に住んでいた。わが家も東山の目黒川近くにあったので坂上の公務員宿舎までは、ゆっくり歩いても5、6分の至近距離だった。京極助教授のご意見を聞いてみたくて最初に宿舎にうかがった時のテーマが何であったかは忘れてしまったが、2Kぐらいの広さしかない宿舎内は書物や資料が積み重なっていて足の踏み場もなかった。
 昭和38年(1963年)のことだが、政治部の渡辺博先輩と2人で「政治を科学する」と題する企画を始めた。「政治から党利党略、派閥意識、政治的な思惑といった“不純物”を除き、もっと客観的な政治分析ができないだろうか」というのが企画の狙いだった。毎週1回、東京新聞朝刊に9か月ほど連載した。国会議員を対象に毎日どんな食事をとっているか、どんな本を読んでいるかなどアンケートを取って、それを医学者(林髞慶大教授)や作家(武田泰淳氏)らに分析してもらい「ビタミンと民主主義」「政治家の知的水準」といった記事にまとめた。当時は「○○を科学する」という表現が新鮮だったせいか、しばらくすると他紙が「野球を科学する」とか、「哲学を科学する」といった企画をやりだして、ちょっとした「科学する」企画ブームになった。
 同年の終戦記念日に掲載した「政治を科学する」では「ハシゴ段評定法」(アメリカの社会心理学者H・キャリントルによって考案された意識調査方法)を採用して、国会議員や一般人を対象に「戦後18年の日本をどう評価するか」の調査を実施した結果を記事にした。「あなたの現在の生活は10段のはしご段でいえば何段目と思いますか」「5年前、5年後は何段目と思いますか」「日本という国は何段目と思いますか」といった意識調査である。その結果をもって京極先生のお宅を訪ねた。京極さんも計量政治学の先駆者として調査結果に大いに関心を示し、私に次のようにコメントしてくれた。
 「現在の日本社会は決して平等の社会とはいえないようだ。つまり自分の生活や国の評価に常に高い位置づけを与えるグループと、逆に常に低い位置づけを与えるグループとにはっきり色分けされる」「過去の日本を高く評価している人は現在・将来の日本も高く評価し、過去の日本を低く評価する人は現在、将来の日本も低く評価する傾向がある」「自分の将来の生活が高くなってゆくことが出来れば日本の国も高くなろうし、生活程度が向上しなければ日本も発展しないと見ている人が多い」
 これらのコメントは記事に生かされた。仕事の話の合間にいろいろ雑談をしたが、私にとって意外だったのは、ちょっと世の中を斜に構えて見ておられたのか、皮肉っぽい表現が先生の口から、しばしば飛び出してくることだった。町中で行き合った時などは、いつもニコニコしておられたが、若き日の京極純一東大助教授には、そんな一面もあったことを付記しておこう。

政治家の資質とは何か?   宇治敏彦

 
 政治家の劣化現象は加速するばかりで、「日本の政治は大丈夫か」と心配になる。
北方領土問題で島尻安伊子(しまじり・あいこ)沖縄・北方、科学技術相(50歳)は、事務局が用意した文書で「歯舞」が読めず、「はぼ?――何だっけ」。そばから秘書官が「ハボマイ諸島です」と囁く(2月9日の記者会見)。上智大を卒業し、沖縄市議や自民党女性局長、参院環境委員長などを歴任した政治家である。瞬間的な度忘れとしても、北方領土担当の責任者が「歯舞」を読めなくてどうする。
 高市早苗総務相が同じ日の衆院予算委員会で「改憲に反対する内容を相当時間、放映した場合、電波停止になる可能性があるか」(民主党の玉木雄一郎氏)との質問に「私の就任中はないだろうが、将来にわたって一切ないとは担保できない」と答弁し、電波停止命令の可能性に言及した。安倍晋三首相もかねて放送法第4条(政治的公平性確保などを規定)をたてに「法規に違反すれば法に則って対応するのは当然」と主張している。しかし憲法21条では「一切の表現の自由は、これを保障する」と規定されている。古館伊知郎(テレビ朝日)、国谷裕子(NHK)、岸井成格(TBS)といったテレビ報道番組キャスターが2月一杯で降板する。いずれも政府・自民党から発言内容にプレッシャーをかけられた人たちである。政治とマスメディアは、お互いに緊張関係を維持しつつ切磋琢磨していくのが本来のあるべき姿で、「俺たちに反対したから」「俺の悪口を言ったから」といった理由で政治家がマスメディアに圧力をかけるべきではない。
 妻の金子恵美衆院議員(自民)が出産のため入院中なのを利用して京都の自宅に女性タレントを泊めていた宮崎謙介・前衆院議員(自民党、35歳)という男も「政治家」というより「人間」として失格だ。彼が議員時代に「妻の出産を機に男性の育児参加を推進したい」と国会議員の育児休暇という新たな問題提起をしたことは記憶に新しい。ヨーロッパでは議員も育児休暇は当たり前だが、日本では初のケースなので興味深い研究テーマと思ったが、提起した本人が何回も不倫を繰り返していた議員とあっては問題外だ。
 さらに、この不倫を聞いた溝手顕正自民党参議院議員会長が2月12日、記者団に「うらやましい」と感想をもらし、「冗談」と弁解したが、思わず男の本音が出たというところか。
 これだけ取り上げただけでも「政治家の劣化」は目にあまる。まともな人間が政治家になりたがらない風潮が強まるだろう。落語家の桂文枝が三枝時代に自民党にかつがれて参院選に出ようと決意した時期があった。ところが家族、特にお嬢さんが猛反対で「政治家は悪いことをするからやめときや」と止めた。三枝は「お父ちゃんが悪いことをするように見えるか」と反論すると、彼女は「朱に交われば悪くなる」と言った。これで三枝は立候補を断念した。
 先の甘利大臣辞任事件のように、談合を有利に進めるために金を積んで政治家に陳情する有権者の側も良くないが、政治家のほうも「賎業」とみられる傾向が続くかぎり、日本の政治に明るい光がさすとは思えない。筆者は「総理大臣には30ぐらいの要件が必要」と書いたことがある(2003年「行政&ADP」6月号)。列記してみる。「組織を動かす力」「説明責任と説得力」「反対されても実行する勇気」「高い人気」「先を読む洞察力、先見性」「注意力」「公平性を重視する姿勢」「着実な実行力、堅実さ」「誠実な対応」「話術の巧みさ」「ユーモア精神」「粘り強さ」「大きな声」「ハンサム・美貌」「人間的魅力・人柄」「機敏な判断力」「危機察知能力」「常に笑顔を絶やさない」「聞き上手」「物事処理のスピード」「物事処理の正確さ」「芸術、文化への理解」「部下を叱る」「バランス感覚」「健康、スタミナ」「発想力、企画力」「交渉能力」「前向きな姿勢と能力」「撤退する勇気」「失敗を恐れない心」。
 これらは思想・信条を除外してもことだが、当時は小泉純一郎首相時代で「話術の巧みさ」「芸術・文化への理解」「高い人気」など10項目は合格点と思った。今の安倍首相は「組織を動かす力」「高い人気」「ハンサム」など3項目では合格点だが、ほかは?マークがつく。小選挙区制の定着で「権力」「カネ」「人事権」などが官邸に集中し、総理大臣の力はますます強まっている。だが「良い政治」「素晴らしい政治」になっているかというと、そうは思えにない。駄目な政治家が増えていることも、安倍首相の「強がり独り芝居」を増長させる結果になっている。小学校のクラス委員長候補にはどんな仲間が適任だろう。国民全部が、そんな原点に返らないと、素晴らしい政治家、素晴らしいリーダーは出てこないだろう。
 



清原和博・元プロ野球選手が覚せい剤に頼った背景は?  宇治敏彦

 筆者が10数年前、調布市内から渋谷区内のマンションに引っ越してきた頃、広尾高校近くを散歩する清原和博に何回か行き合ったことがある。いずれも幼い男の子の手を引いて、今は山種美術館になっているビルの近くにある雑貨店にその子の駄菓子を買いに来てきていたようだった。子どもは100円硬貨を入れると、おもちゃのフィギュアが出て来るのをやりたがって、清原は笑顔で応じていた。本当に幸せそうな親子に見えた。
 2月3日夜、覚せい剤の所持・使用容疑で逮捕され、警視庁に車で連行されていく時の清原は終始うなだれており、短く刈り込んだ頭髪と口の周りの鬚が一層哀れさを誘っていた。
そこには子どもと散歩を楽しんでいた往時の面影は、微塵も感じられなかった。
戦後プロ野球界で有数のホームランバッターの一人だった彼が、なぜ覚せい剤に頼るような「駄目人間」になってしまったのだろうか。2014年9月に離婚を発表し、そのころには2人になっていた息子たちを妻側に渡したことが一つの要因ではないかとみられている。
 彼が昨年11月からインターネット上で始めたブログで、2人の息子と焼き肉を食べた時の感想として「あっという間に時間が過ぎた。別れ際に最後まで手を振る2人に涙がでた。今、一人ぼっちで部屋にいる。さみしい」(昨年12月14日)などと告白していた。
 たまたま「清原逮捕」の日の朝日新聞夕刊に「離婚『子に会わせて』急増。面会調停 年1万件 7割が父」という記事が掲載されていた。「調停で離婚した夫婦の子どもの約9割は、母親が親権者になる」「裁判官は『父親の育児への意識の高まりから、妻と別れても子どもとのつながりを求める父親が増えたのだろう』と話す」。
 私は「父親の育児への意識の高まり」に関係なく、子どもと離れた淋しさを実感する父親が増えたのだと思う。それだけ現代人は「孤独な環境」を意識する機会が増加しているのではないか。特に清原のように現役選手時代が華やかで、金使いも派手だった人物が妻や友達からも冷たい目で見られるようになれば、一般人以上に耐えがたい寂寥感を味わうに違いない。その寂しさを酒や別の女性で紛らわすことも不可能なときに「劇薬」として覚せい剤に走ったのは分からないではない。
 どうして覚せい剤を手にいれたのかは、これからの捜査に待つしかないが、清原の「心の闇」にたどりつけば、本当は死ねるのなら死んでしまいたい、という瀬戸際にあったかもしれない。その救いが覚せい剤の常用だったろう。だが、そこはどんなに苦しくとも踏みとどまって事態の改善に努力する「大人の決意」が出来なかったものか。それを「幼児性」という言葉で表現するのは酷かもしれないが、この寒空に駅の構内などで段ボールを布団代わりに寝ている人たちをみると、「清原よ、こうやってどっこい生きている人たちもいるんだぜ」と言ってみたくなる。

タブーやアキレス腱をどう打破するか  宇治敏彦

 人種差別、貧富の格差拡大、宗教・宗派対立、大規模テロや銃乱射事件…。人類が抱えているタブーやアキレス腱にどう向き合い、いかに解決の道筋をつけていくのか。それが2016年の世界各国に課せられている最大の「宿題」になっています。
 「憎しみの連鎖現象」が目立った2015年でした。特に過激派集団「イスラム国(IS)」によるテロ行為が世界の市民を震撼させました。イスラム過激派には縁遠いと思っていた日本人も、ほぼ1年前の2015年冬、ジャーナリストの後藤健二さんら日本人2人がISに殺害され、「我々も例外ではないのだ」と痛感したのでした。
フランスでは政治週刊紙「シャルリ―・エブト」の本社が銃撃の的になり12人が殺害(2015年1月)され、パリの同時多発テロ(同11月 直後に行われた地方選挙(広域圏議会選)では「移民排斥」「治安強化」などを訴えた極右政党の国民戦線(FN)が躍進し、マリーヌ・ルペン党首は「われわれはイスラム過激派への怒りに燃えている」と語りました。
アメリカでも2015年12月、カリフォルニア州の障害者福祉施設でIS支持者の夫婦による銃乱射事件が起きて14人が死亡しました。オバマ米大統領は「テロの脅威が新たな段階に入った」と述べましたが、「ポスト・オバマ」を決める次期大統領選の共和党有力候補ドナルド・トランプ氏(不動産王)が「イスラム教徒の米国への入国を全面的かつ完全に禁止すべきだ」と発言するなどフランス同様に米国でもイスラム排斥主義が台頭し始めています。
まさに「目には目を」の思想です。オバマ大統領のテロ対策に「なまぬるい」と不満を持つアメリカ人が昨年5月の51%(CNNテレビ調査)から最近では60%に増えているのも右派台頭と同根と言えるでしょう。
だが、行け行けドンドンの勇ましい「アンチIS」「イスラム排除」論で事態が改善するものではありますまい。むしろ火に油を注ぐ危険性を内包しています。
では、銃撃の報復合戦にしない打開策とは? 
第1にはIS支持者の背景にある「人種差別への不満」「経済的貧しさ」「不公平な社会システム」といったテロの火種への改善策を提示できる国家指導者が求められます。2000年にシリアでアサド政権が誕生した際には、民主化を含む政治改革、腐敗官僚の追放など国民から好感をもたれた政治が行われましたが、「絶対的権力は絶対的に腐敗する」といわれるように3選目のアサド大統領の独裁ぶりに同国民の批判が強まっています。
  国連の推計によると紛争などに伴い世界中で約6000万人が国内外への避難を余儀なくされています。特にシリアでは2011年の内戦以来、人口2200万人のうち既に430万人以上が欧州などへの難民になっています(日本に対しては63人のシリア人から難民申請があり、受け入れたのは3人)
 アサド政権にかわる民主的政権の誕生を国際世論が後押しすることが急務です。ミャンマーでは長い軍政のトンネルを抜けて総選挙で民主化推進の「スーチー政権」が誕生しました。これも国際世論の絶え間ないバックアップがあったからです。「アラブの春」で始まった民主化運動がシリアで早く実現し、難民たちが自国に戻ってこられる環境づくりを日本も含めて先進国は今まで以上に強力に推進しなければなりません。
  第2には、「貧困」や「格差」といった社会的矛盾を解決するビジョンや政策の提示・実行です。フランスの経済学者トーマス・ピケティ氏(世界的ベストセラー「21世紀の資本」の著者)が指摘するように「公正な社会発展モデルを実現する」ことが必要です。特にピケティ教授は、エジプトからシリア、イラク、アラビア半島を経てイランに至る人口約3億人の一帯では「石油資源を持つ君主国が地域のGDPの60~70%を占めている。それは人口で10%足らずに過ぎない。ここは世界で最も格差の大きい地域なのだ」(仏ルモンド紙抄訳を朝日新聞が2015年12月1日朝刊に掲載)と指摘しています。人口の1割足らずの金持ちが国を支配しているところにISのような不満過激派を生み出す主因があるというのです。世界の政治指導者は「国富の適正な配分」に汗をかくべきです。
  第3は、特に米国社会に言えることですが、「銃社会」「黒人差別」という長年のタブーがいまだに克服されていないことです。カリフォルニア州での14人殺害事件を受けてニューヨーク・タイムズ紙は1面に「銃の蔓延」と題する社説を掲載し、次のように主張しました。
 「人間を素早く効率的に殺すように作られた武器を市民が合法的に購入できるというのは、国家の恥であり非道徳的だ」
 また黒人差別問題ではローザ・パークス事件(米アラバマ州で白人にバスの席を譲らなかった黒人女性が逮捕された事件)60周年集会で、担当弁護士だったフレッド・グレイさん(84)が「今でも平等と正義を求める戦いが続いている」と訴えました。
 こうした「アメリカの悩み」に筆者は16代大統領リンカーンの言葉を思い出しました。
「The ballot is stronger than the bullet(投票用紙は銃弾より強い)」。
人間は皆平等という信条から奴隷解放を実現した大統領でしたが、1865年、観劇中に皮肉にも上記の言葉とは裏腹に銃弾に倒れて命を落としました。彼が言いたかったことは、銃の打ち合いで勝負を決めるよりは投票用紙に政党名や候補者名を書くことで「明日の政治」を決められるなら、それこそ近代国家ではないか、ということでした。アメリカでは、銃の所持は身を守るための防禦装置として当然という考えが根強いとされてきました。しかし、アメリカ人も今こそ「銃社会」「人種差別」から脱却すべき時です。パリの同時多発テロで愛妻を失った34歳のジャーナリストはネット上で「テロリストを憎まない」と発信し、愛は軍隊より強いと訴えました。
2016年は伊勢志摩でサミットが開催されます。警備当局はテロ防止に全力を挙げています。当然のことですが、同時に安倍首相はこのサミットを世界からISのような過激派が姿を消す世界にするための提案をしてほしいものです。先進諸国がタブーやアキレス腱を克服して「銃規制の強化」「人種差別の撤廃」「公平化に向けた富の再配分」「若者たちの働く場の増大」など希望の持てる「太陽政策」実現をサミット宣言に盛り込んでほしいものです。
(注)これは雑誌「行政&情報システム」2月号に掲載された原稿の転載です。
















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