悲し過ぎるよ、舛添さん   宇治敏彦

 政治資金流用疑惑で、その公私混同ぶりが厳しく批判されている舛添要一東京都知事の進退問題がヤマ場に差し掛かっている。まんざら知らない仲でもないだけに「舛添さん、潔い責任の取り方を見せてください。それしか舛添要一の名が穢れていくのをストップする道はないですよ」と言いたい。
東大教養学部の助教授をしていた舛添氏ら若手政治学者を囲んで定期的な勉強会をもっていた時期がある。当時の舛添氏は西部邁氏(当時、東大助教授)らとともに「東大改革」を掲げて売り出し中の若手国際政治学者だった。1989年、東大を退官して舛添政治経済研究所を立ち上げ、「朝まで生テレビ」などで名前を売った後、2001年参院選では自民党比例候補として立候補。158万8862票でトップ当選を果たした。以後、安倍、福田、麻生内閣で厚生労働大臣を歴任。そして猪瀬直樹前知事の辞任に伴う2014年2月の東京都知事選では211万2979票を獲得して宇都宮健児(元日弁連会長)、細川護煕(元首相)、田母神俊雄(元航空幕僚長)候補らを破り初当選した。政治思想的には「保守改革派」で、「改革クラブ」「新党改革」を立ち上げたこともある。
私生活に関して筆者は詳しく知らなかったが、1986年、旧大蔵省のエリート官僚だった片山さつきさんとの結婚披露パーティーには招かれて出席した。仲人を務めた近藤鉄雄自民党代議士(当時)が「新郎新婦は共に大変忙しいお仕事を持っているので、すれ違いの新婚生活になるでしょう。しかし、それが夫婦円満の秘訣です」と挨拶して来会者の笑いを取ったことを思い出す。
当時、舛添氏が尊敬していた人に北原秀雄・元フランス大使がいた。「北原さんには本当にお世話になった。北原さんの御用命だったら、いつでもフランスへ飛んでいくよ」と言っていたぐらいだ。1973年にパリ大学客員研究員になり、フランス人女性と結婚した際も北原大使に御世話になったのだろうと想像した。片山さんとは2度目の結婚だったが、週刊誌等の報じるところによると、再婚後5か月ぐらいで別の女性と親しくなり婚外子(男性)をもうけたという。さらに現夫人との3度目の結婚でもうけた子どものほかにも別の女性と婚外子がいると報道された。プライベート面では「改革派政治家」というイメージと大きくかけ離れて、出生地・福岡で認知症になった晩年の母親介護をめぐる実姉とのドロドロの葛藤劇、自閉症になった婚外子男性の養育費・医療費をめぐる元彼女とのトラブルなど想像を絶する人生をたどって来た。
「公職」を表、「私生活」を裏とすれば、表の顔は清新な改革派で、裏の顔はしたたかなドンファン(漁色家)といえるかもしれない。その相反する性格が今回の公私混同疑惑と関係があるのではないかと筆者は見ている。つまりお金とか女性に対する「潔癖性」に乏しく、ご本人も自ら理路整然と外部に説明できないことを自覚しているに違いない。
舛添氏が都知事になった直後、私は「舛添東京都政への期待と不安」という一文を書いた(「行政&情報システム2014年4月号)。
期待は①待機児童問題の早期解決②首都直下型の巨大地震対策③東京オリンピック・パラリンピックの成功。そして不安はトルコやインドネシアの国家予算と同規模の予算を動かしている東京都庁の抜本改革をタレント政治家というだけでは出来ないという指摘だ。この記事は舛添知事が同年、日本記者クラブの会見に来訪した際に直接手渡した。「宇治さんのことだから誉めては書いてないよな」と苦笑いしながらポケットにしまっていた。
今度の一連の問題で私が指摘した「期待」は実現が難しくなったと思う。投票してくれた211万人強の東京都民だけでなく、16万人超の都職員(警察官など含めて)の信頼も失ってしまったからだ。まだ67歳の舛添さん、ここは公私混同の弁済をキチンと済まし、「人生を一からやり直す」決意を今都議会で表明する以外に、貴方の生きる道はないのではありませんか。

Elephant in the room   宇治敏彦

 Elephant in the roomという英語がある。直訳すれば「部屋の中の象」だが、皆そこに象のような大きなものが存在するのは認識しているだが、「見て見ないふりをしている」という意味だ。
今の政権与党(自民党、公明党)における多くの議員の安倍首相に対する態度が、このごろElephant in the roomのようになってきたと筆者は見ている。伊勢志摩サミット後に安倍首相は、消費増税の再延長に関して麻生副総理兼財務・金融相、谷垣自民党幹事長に「2017年4月の再引き上げ時期(8%を10%に)を2019年10月まで2年半ずらしたい」と提案した。その背景には「現在の経済状況が2008年のリーマン・ショック前の状況と似ている」(5月26日夜の伊勢志摩サミットでの発言など)からという基本認識がある。また7月10日投票が予定される参院選を意識して有権者の与党離れを食い止めたいとの思惑も当然働いている。さらに言えば、国会での党首討論会で岡田民進党代表から「消費税の引き上げを再延期すべきだ」と先制攻撃されたことへの対抗策もあったろう。
 だが麻生氏が再延期に反対し、仮に再延期するなら「衆院を解散すべきだ」と述べたように与党内でも異論が出ている。
 そもそも「経済状況がリーマン・ショック前の状況に似ている」との認識にもG7サミットでドイツのメルケル首相から異論が出された。このためサミット宣言では「リーマン・ショック」という言葉は使われず、次のような表現に落ちついた。
 「世界経済の回復は継続しているが、成長は引き続き穏やかでばらつきがある。前回の会合以降、世界経済の見通しに対する下方リスクが高まっている」
 メルケル独首相はG7後の会見で「経済成長に構造改革が必要だ。日本も従来型の財政や金融政策だけでなく、人口減少に対応するための教育や女性の社会進出が重要だ」とコメントした。
 これは経済協力開発機構(OECD)が今春発表した「日本。高齢化社会における成長促進と幸福度の向上」と題する対日提言を踏まえたものとみられる。グリアOECD事務総長は先に来日した際、安倍首相との会談でも消費税増税に関して「予定通り増税し、将来は15%まで引き上げるべきだ」と助言した。その背景には①日本の幸福度は他のOECD加盟国に後れを取っている②急速な高齢化で、日本人の一人当たり所得がOECD主要国に追いつくことを困難にしている③男性の雇用率より18%低い女性の雇用率を改善すべきだ―といった対日提言がある。換言すれば、消費税が高くても、それに見合う国民向けの政策が行われていれば、幸福度は増すというのだ。確かに欧州諸国の消費税は20%前後と日本に比べればはるかに高いが、子育て支援が充実しており、医療費や教育費(大学も含めて)は無料といった見返りもある。費用対効果のバランスが取れている。そこが日本と違うから「リーマン・ショック以前の状況」を理由にして増税を延期しようとの安倍首相の見解に違和感を覚えるのだろう。
 国際通貨基金(IMF)の世界経済見通し(2016年)ではG7のうち米国の成長率が2.4%が最も高く、以下英国(1.9%)、ドイツ、カナダ(1.5%)、フランス(1.1%)、イタリア(1.0%)の順で日本(0.5%)の成長率は最低だ。つまりメルケル氏ら欧州の首脳からすれば「安倍首相の『3本の矢』政策が成功していないのではないか」ということで「同一労働同一賃金」「女性労働者の待遇改善」「出産負担への全面支援策」「外国人労働者への優遇措置」(いずれもOECDの対日提言)といった構造改革が急務と見ている。
 「安倍独裁政権」と言っても過言ではない自公連立政権の政策に最近、与党内でもようやく疑問の声が出てきたのは、日本の政治にとって歓迎すべきだろう。それでも安倍首相が独走するようなら安倍政権はWhite elephant(金がかかり過ぎる厄介者)になる可能性があろう。白い象はタイでは神聖視され、飼育・管理するのに大変なお金がかかったため国王が失脚させようと思った家臣に白象を下賜したという逸話から生まれた言葉だという。
 Elephant in the roomからWhite elephantに発展していくのか。参院選を挟んで政局から目が離せなくなってきた。 

「追っかけ女性」が書いた憲法読本   宇治敏彦

 「僕には“追っかけ女性”がいるんだよ」。信濃毎日新聞の主筆を務めた中馬清福氏(2014年11月没)が生前、筆者にそう言っていた女性フリーライターの金井奈津子さんが最近、「幸せのための憲法レッスン」(かもがわ出版)という本を出版した。彼女は長野県松本市在住で、週3回発行の地域紙「松本平タウン情報」に中馬氏との対話をもとにして5年半、「憲法をお茶の間に 中馬清福さんに聞く」として連載した。その連載は第20回平和・協同ジャーナリスト基金賞の「荒井なみ子賞」(朗読劇団「八月座」座長を記念した賞)に選ばれている。
 「25歳になるまで一度も選挙に行かなかった」というノンポリの金井さんが、信毎に定期掲載されていた中馬主幹のコラム「考」を読んで同氏に「憲法とは何ですか」と教えを乞うたのが連載を始めたきっかけだった。いつも信毎の主筆室で、金井さんが素朴な疑問をぶつけ、中馬氏が懇切丁寧に答えるパターンだったようだが、太平洋戦争末期の沖縄戦に関しては、こんなふうだった(以下、同書からの引用)。
*        *          *
 中馬「金井さんは、長野県民として、沖縄戦をどう考えますか?」
 金井「………?」

 意味がわからなかった。ぼんやり顔の私を尻目に、中馬さんは何やら電話で車の手配をしている。

 中馬「はい、参りますよ!」
 金井「ど、どこへ?」

 バタバタと車に乗せられ向かったのは、長野市にある信毎本社から車で30分の距離にある松代大本営跡だった。
 沖縄戦が行われている間に、「本土での決戦に備えるため」皇居、政府、軍司令部の移転先として掘られた地下壕だった。3つの山の地下にアリの巣のようにトンネルが入り組み、総延長10キロに及ぶ。
 中に入って驚いた。沖縄で見てきた、自然の洞窟を使った地下壕とは全く違う。(中略)まるで地下都市だ。
 沖縄戦は、この工事が終わるまでの時間稼ぎとして行われたのだ。「(沖縄本島の)南部に移動して戦いを継続せよ」との命令は、松代大本営がまだ完成していなかったからだと、多くの史実が語っていた。
 沖縄の9万4000人の人々が逃げ惑いながら殺され、幼い子どもたちも巻き込んで「自決」していたその時、軍の中枢は、自分たちと偉い人だけを守るための巨大な壕を造らせていた。軍とは、何を守るためのものか――。嫌というほどわかった気がした。

 中馬「明治の日本は『富国強兵』を基本に据えて以来、この国の政治は軍を甘やかしました。軍の暴走の結果は、あなたが、知覧や沖縄で見てきた通りです。
 1931年の柳条湖事件から1945年の敗戦までの日本人の犠牲者は310万人、日本軍が命を奪った外国人の数は2000万人。その何倍もの人が、愛する家族や恋人を失い、収入を絶たれ、絶望し、人生を狂わされました。その大きな犠牲のもとに、日本は、天皇が定めた『大日本帝国憲法』から、国民が定めた『日本国憲法』への転換を果たしたんです」
*        *        *
 筆者も2010年11月、「埴輪」同人の小榑雅章君と信州を旅した時、中馬氏に松代の大本営跡(地下壕)やコンクリート庁舎(天皇御座所)などを案内してもらった。「百聞は一見に如かず」で、太平洋戦争末期のこうした史跡を見ると、当時の日本政府と軍部が人間集団としてのコモンセンス(常識)を完全に放棄・忘却して、狂気で行動していたとしか思えない恐怖と戦慄を抱かざるを得なかった。
 古い資料を整理していたら1996年(平成8年)、初の小選挙区比例代表制による第41回総選挙を前に中馬氏が朝日新聞朝刊1面(同年9月25日)に「この国のゆくえ」と題して書いた記事の切り抜きが出てきた(当時、彼は朝日の論説主幹だった)。
 「この国のゆくえを決める選択肢には二つの大きな流れがあるのではないか。第一は、政治家と官僚がデッサンする従来型の上からの改革だ。これが行き詰まりつつあることは明らかで、国民の政治不信や、増える無党派層の一因である。(中略)第二は、政治の目を暮らしのなかの危機に向けさせ、根気よく解消していく。そんな作業の積みあげによって進める、下からのシステム改革だ。その成否は、有権者がどこまで政党や政治家を使いこなし、動かせるかにかかっている」
 残念ながら、日本の政治はまだ有権者が政党や政治家を使いこなすレベルに至っていない。むしろ、その逆の方向へ「上から目線の政治」が加速しているのではないか。それに有権者が早く気づき、舵を修正しないと、太平洋戦争当時の悲劇を再来させることになるのではないか、と筆者は危惧している。金井さんの「幸せのための憲法レッスン」は、こうした時期に特にノンポリの人々に読んでほしい好著である。

憲法学者・小林節慶大名誉教授の参院選出馬   宇治敏彦

 小生が勉強部屋として20年ほど前から借りている日本プレスセンタービル(東京都内幸町)8階の小部屋近くのキュービクルに慶大教授を定年になった憲法学者の小林節さん(67歳)が引っ越してきたのは2年前のことだった。もともとは改憲論者とされていたが、安倍政権の新安保法制には真っ向から「立憲主義に反する行為」と猛反発し、防衛省出身ながら新安保法制に反対し続ける柳沢協二氏と並んで全国各地からお呼びがかかる人気者になった。最近も護憲学者の樋口陽一東大名誉教授との対論集「『憲法改正』の真実」(集英社新書)を発刊し、緊急事態条項の新設などを盛り込んだ憲法改正草案に対して国家の根幹を破壊するものだと激しくかみついている。
 その小林慶大名誉教授が5月9日、日本記者クラブで会見し、夏の参院選に向けて政治団体「国民怒りの声」を立ち上げ、同氏を含む候補者10人以上を立てて新安保法反対や改憲阻止へ本格稼働すると表明した。また原発反対や米軍普天間飛行場の沖縄県内移設反対なども掲げている。
 「民進党と喧嘩しちゃいましてね」。プレスセンターの廊下で行き合ったら、そんな内輪話をしてくれた。当初は夏の参院選に向けて民進党をはじめ野党が比例代表の統一名簿を作るべきだと各野党に働きかけていたが、民進党の同意が得られず、自ら政治団体を立ち上げることを決断したのだ。「それでも全国を歩いていて成算があると感じるのですよ」と別れ際に漏らしていた。
 結果が吉と出るか、凶と出るか―これは判断が難しい。かつて佐藤内閣時代の1969年(昭和44年)2月、学者の青木茂氏や「目白三平シリーズ」で知られる作家の中村武志さんらがクロヨンと呼ばれる税の不公平感に反発して「サラリーマン同盟」を結成し、国会議員も誕生させた。しかし、一時的な支持は得たものの政党活動は、そう長くは続かなかった。
 税の不公平感是正運動と小林氏らの改憲阻止運動では性格を異にするという見方もあるだろう。だが野党の間には「小林氏らの活動が野党統一の分断につながり、結果的に自民党を利することになるのではないか」との見方があるのも事実だ。
 正直なところ安倍首相は、今夏の衆参ダブル選挙を完全に断念したのだろうかという疑念が、まだ残っている。伊勢志摩サミットが終われば、あとは「憲法改正へ向けて最後の政治生命を賭ける」というのが首相の心底にあるだろう。それを阻止するには政党レベルでも有権者レベルでも、相当の覚悟とエネルギーが不可欠だ。1960年代だったら総評とか全学連という組織があった。今の連合は野党支持か与党支持か分からないレーバーユニオンだし、若者たちの戦闘力も60年代には及ばない。
 小林名誉教授らの「国民怒りの声」は、志は良いとしても、本当に改憲阻止の中核エネルギーになりうるだろうか。「御健闘を祈ります」と言って同氏とわかれたが、安倍自民党という頑丈な堤防に水漏れ―洪水を誘発する一針を通すのは容易でないと改めて思う。

歴史的和解と「国際人」たる要件   宇治敏彦

11世紀半ばの1054年に教義の違いから分裂したキリスト教の「ローマ・カトリック教会」と「東方正教会」が歴史的和解へと踏み出した。ローマ・カトリック教会のトップであるフランシスコ・ローマ法王と東方正教会のリーダー、キリル総主教が2月12日、キューバの首都ハバナで会談し東西教会の「共同宣言」を発表した。
その骨子は①歴史的相違を克服するためのあらゆる行動を実施する②中東のキリスト教徒に対する迫害阻止へ国際社会が緊急行動をとるよう要求する③暴力やテロ行為の根絶を国際社会に訴える―など。キリスト教徒がイスラム教スンニ派過激組織IS(イスラム国)に迫害されている事態が両教会の和解を促した側面はあるが、同時に宗派対立を克服して、世界があらゆる面で「和解」を実現すべき時だとの基本認識が両宗派の指導者を動かしたと言える。両首脳の初会談の場所がキューバであったのも象徴的だ。キューバのラウロ・カストロ議長が仲介したと報じられているが、フランシスコ・ローマ法王は米国とキューバの国交回復を仲立ちした経緯もあり、それぞれにつながっている。さらに言えば、ロシアのプーチン大統領は過去に何回かバチカンを訪問してヨハネ・パウロ2世やフランシスコ法王と会見しており、いずれは法王がロシアを訪問するものとみられる。キリスト教の両協会と米ロ及びキューバの3か国が過去の恩讐を乗り越えて「歴史的和解」に動き出していることに日本は、もっと注目すべきではないか。
オバマ米大統領の任期は今年一杯。フィデル・カストロ前政権(現議長の兄)下の1961年、キューバは社会主義化し米国はキューバと断交した。その後、キューバ危機も起きて両国関係は悪化したままだったが、昨年54年ぶりに国交正常化を電撃的に発表した。オバマ大統領の最後の仕事は、キューバとの国交回復、両キリスト教会の歴史的和解を足場に「イスラム国」などの過激派テロをどこまで封じ込めるかにかかっている。
「長年の対立、葛藤を克服した歴史的和解」―この新しい潮流に私たちは、どう対応していくべきだろうか。安倍晋三内閣は中国、北朝鮮の軍事的脅威の増大に対抗して新安保法制の具体化や日米安保協力に積極的な姿勢を見せる一方、中韓両国との歴史認識問題、ロシアとの北方領土返還問題や平和条約締結問題といった未解決の懸案を抱えている。ここは一つ新たな視点で「歴史的和解」に取り組むべきだ。また私たち日本人も視野を広げて「真の国際人」になる努力をすべきであろう。最近、国際的に活躍しているスポーツ選手が目立つ。男子テニスの錦織圭(26歳)、スーパーラグビーの五郎丸歩(29歳)、スキージャンプの高梨沙羅(19歳)など。またノーベル賞の受賞者も毎年のように日本人がノミネートされる。このように国際的に一流とみられる日本人がいる一方で、在日朝鮮人に対するヘイトスピーチ(憎悪表現)のような人権侵害、差別的言動を続ける日本人もいる。拙著「政(まつりごと)の言葉から読み解く戦後70年」(新評論)にも書いたことだが、「半内半外」(ナショナリズムだけでなくヒューマニズムを重視する姿勢)の日本人を増やすことが「国際化」には重要な要素である。
Diversity(ダイバシティー、多様性)がキーワード。漢字、ひらがな、カタカナだけで十分に生活できた時代と違って、在日外国人が約1415万人、訪日観光客が1341万人余(いずれも2014年、法務省入管統計。政府観光局の統計では2015年の訪日外国人数は1973万人)という時代である。特に「爆買い」という言葉が流行語になった中国人観光客の急増などで日本を訪れる外国人は今後ますます増える。2020年の東京オリンピック・パラリンピックが、その傾向を加速させる。「多様性」とは、具体的にどんなことを意味しているだろう。「新・観光立国論」(東洋経済新報社)を著したデービット・アトキンソン小西美術工芸社長(イギリス人)は「多様性」について新聞に、こう書いていた。
「日本は『おもてなし』の国と言われますが、外国人からみると、もてなし不足に見えます。たとえば、京都の龍安寺の石庭を訪れた時、外国人観光客が『ここはもともと、駐車場だったのかな』と話しているのを耳にして衝撃を受けました。『何度も来ているうちに、よさが分かってくる』と言われますが、解説してほしい人もいます。観光に一番大事なのは、多様性です。解説を求める人、不要な人。ガイドと回りたい人、体験を重んじる人。決めるのは観光客です。多様な客が来るのに、限られたメニューでは困ります」(2月18日 、朝日新聞朝刊)
日本人の間では当たり前と思っていることが外国人には新鮮に映ったり、不可解に思えたりする。「爆買い」で来日する中国人観光客も、買い物と富士山見物だけで満足する時代は、既に過ぎた。ある観光業者が中国人グループを府中競馬場に案内したら大変喜ばれたという。中国人は馬好きと言われるが、実際に間近で馬に接する機会は少なく、ましてや馬券を買って遊ぶという機会がないので競馬場訪問が大歓迎されたのだ。
他方、外国人が多く住む地域(大阪市生野区、長野県川上村、群馬県大泉町など)では「ゴミ出しのマナーが出来ない」「大衆浴場での入浴態度が悪い」など様々な生活慣習の違いで日本人とのトラブルを生んできた。お互いに「半内半外」で理解し合うヒューマニズムこそ「国際化」に不可欠な要素である。大は宗派対立から小はゴミ出しルールまで相互理解を深めて「歴史的和解」を促進していこう。
昨年は自爆テロの多発など世界中で「憎しみの連鎖現象」が目立った一年だった。しかし今年は東西キリスト教会の和解というビッグニュースを足場に世界が「多様性の容認」「ヒューマニズム優先」へ大きく動き出すことを期待したい。「我々は兄弟だ」。ローマ法王がキリル総主教に述べた一言に重みを感じる。
(この原稿は行政情報システム研究所発行の「行政&情報システム」4月号に掲載したものを手直ししました)

「本音を語る外交官」谷野作太郎氏の証言録  宇治敏彦

 ちょっと値段が高いので、お勧めするのを躊躇するが、昨年末に刊行された谷野作太郎氏(元中国、インド大使。日中友好会館顧問)の「外交証言録 アジア外交 回顧と考察」(岩波書店 6400円)は、外交官が本音ベースで語っている現代史録として一読に値する。服部龍二中央大学教授ら3人の学者による聞き書きがベースになっている。
 谷野さんといえば、一番知られているのは村山富市内閣当時に政府が出した戦後50年の「村山談話」起草者(当時は内閣外政審議室長)だったことだが、鈴木善幸内閣の秘書官として伊東外相辞任に発展した「日米同盟」問題(ここでは小生の名前も登場するが)や中韓両国から日本批判の一因となっていた歴史教科書問題などにもかかわり、さらに幼馴染の福田康夫元首相には中国問題でのアドバイス役を務めるなど多方面で歴代内閣の外交政策にかかわってきた。
 「村山談話」作成の裏話は貴重だ。当初は村山首相個人の談話で出す手はずだったのが当時の野坂浩賢官房長官(社会党)から「閣議決定にもっていこう」との提起があり、自民党の橋本龍太郎通産相、江藤隆美総務長官、平沼赳夫運輸相(いずれも当時)など「おっかない方々」(谷野氏)をどう説得するかが問題になった。
 「国策を誤り」「植民地支配と侵略」によって「アジア諸国の人々に多大な損害と苦痛を与えた」ことに「痛切な反省と心からのお詫び」を表明する日本国総理大臣談話だから当時、遺族会会長だった橋本氏をはじめ「日本は韓国に良いこともした」発言で後日、閣僚を辞任するタカ派の江藤氏らがOKを出すのか、谷野氏は本書の中で「自民党内閣ではとても無理だったでしょう」と回顧している(257ページ)。ここで興味深いのは橋本氏の態度だった。同氏から「一か所だけ訂正してはどうか」と注文がついた。原案では「終戦」と「敗戦」を書き分けてあったが、「全部『敗戦』で揃えたらどうだ」「遺族会もそれで問題ない」というので、「敗戦」という表現に統一したという。
 谷野氏は後日、「『敗戦』にそろえろとおっしゃったのは、どういう背景があるのですか」と橋本氏に直接問いただした。彼の答えはこうだった。
 「君たちは遺族会を色眼鏡で見過ぎている。遺族会の中枢は純粋なんだよ。あの戦争はやっぱり誤りだった、戦うべき戦争でなかったということで、遺族会の多くの人たちは、自分たちの夫や父親や兄弟は、その犠牲者だと思っている。戦争を引き起こしたA級戦犯の人たちと一緒に祀られていることについて、釈然としない思いを持っている人たちも少なくない。敗けたものは敗け、『敗戦』と表現することについては、遺族会の中枢はまったく異論がないんだよ」
 故橋本氏は筆者と同年齢。初当選後の会見で「マルクスの『資本論』を既に高校時代に読了した」などと述べ、「随分生意気な二世政治家だな」と思ったものだ。ただ「われらの世代(昭和12年生まれ)は戦前の軍国主義と戦後再軍備論に挟まれた絶対平和主義。サンドイッチのパンに挟まれた薄いハムみたいな世代だね」と個人的に漏らした時は共感を覚えた。
 昨年秋、私は満10年間務めた日本新聞協会の国際委員長を退任した。同委員会では毎回、会合の際にゲストを招いて参考になる話を伺うのが恒例になっているが、最後の会合には谷野さんに来ていただいたいと思っていた。谷野さんは出席を快諾してくれたが、「S紙も来るの?」と気にしていた。慰安婦問題などで十分に取材しないままに一方的にS紙に谷野さんのコメントが掲載され、頭に来たと怒っていた。国際委員会での講話は「‟歴史”と如何に向き合うか」で、聞きごたえのある内容だった。特に中国大使経験者として現在の日中関係を憂慮し、陳毅元副総理(故人)が1960年6月、野間宏、亀井勝一郎両氏といった日本作家代表団と会見した時の発言を例に挙げた。
 野間氏らが「過去の日本の行為を忘れない」と言ったのに対して陳毅氏が答えた次の発言である。
 「皆さん、ありがとう。我々は過去のことは過ぎ去ったものにしようと言い、貴方たちは日本人として過去を忘れてはいけないと言われる。そうであるなら、両国人民は本当の友好を実現することができるでしょう。逆に我々がずっと日本を恨み、あなた方日本人が中国を傷つけたことを、きれいさっぱり忘れてしまうようなことになったら、中日両国はいつまで経っても友好関係を実現することができないでしょう」
 谷野さんは第2次世界大戦で敵味方として戦った独仏両国の友好関係にも触れて「ダンスは2人でなくては踊れない」と述べた。過去の日中関係を踏まえて「未来志向の日中」を考える時、まさに陳毅発言は至言である。現在の日中関係は中国の軍事大国化や安倍政権の新安保法制もあって、1972年の日中正常化直後の「ニーハオ友好」が大幅に後退し、冷ややかなムードが続いている。陳毅発言をベースにした日中の友好ダンスは、どうしたら実現できるのか。政治家も外務官僚も谷野証言録に学んで「日中友好の再構築」を真剣に模索して欲しいものだ。

出会った人々⑲ 「あの元気な人が!」と絶句した南原晃さんの死   宇治敏彦

 「丸八会」という親睦組織がある。名古屋に勤務経験を持つ官僚、経済人、ジャーナリスト及びそのOBで作られている団体で、旧制八高にちなんだ名古屋の数字から「丸八会」という。名古屋、東京、大阪、福岡にそれぞれ拠点を持ち、毎月のように懇談会、勉強会、旅行、ゴルフ、囲碁、小唄、飲食といった会合が持たれる全国でも稀有な交友クラブだ。
  東京の総会に名古屋で「夜の商工会議所」との異名をとる高級クラブ「なつめ」のママ、加瀬文恵さん(俳優・宇津井健がなくなる当日に入籍したことで話題になった)たちが顔を出したこともあった。筆者は名古屋勤務ゼロだが、中日新聞社相談役としてメンバーに加えてもらっている。
 その東京丸八会で「これほど頭脳明晰で、タフで、健啖家で、おしゃべりなお年寄りがいるだろうか」と会員の誰もが思っていた南原晃さん(元日本輸出入銀行副総裁、元日銀理事)が今年2月15日、82歳でなくなった。その訃報に接した同17日の朝、「エー、嘘でしょ」と私は思わず叫んでしまった。昨年7月21日、日本プレスセンタービルで開かれた「政(まつりごと)の言葉から読み解く戦後70年」(新評論社)という拙著の出版記念会にもおいでいただき、長い祝辞をいただいた。たまたま当夜は丸八会の会合と重なっていたが、それが終わってから駆けつけてくださったのだった。
 東大野球部の元主将(ポジションはセンター)で、2004年から全日本大学野球連盟の副会長を務めていた。経済の話もさることながら、野球の話になると止まることなく、特に近年は六大学野球で東大が好調な背景を延々と説明してくれた。
 拙著でも紹介したが、1951年に南原さんの父・南原繁元東大総長が日本の「全面講和」論を展開して吉田茂元首相から「曲学阿世の徒」と批判されたときの経緯について「実は父と吉田さんは仲良しでした」と次のような手紙をいただいた。
 「父はあくまで政治学者の立場から昭和21年8月『凡そ戦力なき国家は国家ではない』と発言、憲法9条について同じ反軍国主義の吉田首相をとっちめたことがあり、これが伏線となって曲学阿世の発言になったのです。父は勿論、ソ連との講和など無理と思っていたのですが、中国とは出来ればと思っていたようです。新聞紙上では対立がかっこうの記事となりましたが、吉田さんと父は年賀状の交換は絶やさず、同じく命がけで終戦工作をした吉田さんとは反軍国主義として親しみを感じていたようです。現実問題として安保条約についても反対していませんでした」
 手紙の末尾には「丸八会でお目にかかるのを楽しみにしています」とあった。その丸八会では昨年8月26日、東京では一番古い本格派イタリアンの店「アントニオ南青山」で開催された飲食(おんじき)の会でお目にかかったのが最後だった。この時も南原さんは小生と堀川健次郎氏(元日経新聞経済部長、クイック特別顧問)を相手に赤ワインを何杯もおかわりし、美味なイタリアンを完食しながら独自の経済論を披露してくれた。
 「この人は、ひょっとしたら死なないのではないか」と思ったぐらいだ。ところが最近届いた南原さんの3人の子息連名のお知らせによると、南原夫人の富貴子さんが昨年9月9日、旅行先のロシアで心臓発作で他界、南原さん自身も昨年末の入院でステージ4の肺腺癌と診断され、退院される間もなく他界されたのだという。奥様の外国での不慮の死も堪えたに違いない。大好きな六大学野球のシーズン開幕を見ることなく旅立たれのは心残りだったに違いない。生前のご厚誼に感謝し、心から哀悼の意を表したい。

負けるな! トルコの日刊紙ZAMAN(ザマン)  宇治敏彦

 トルコでは最多部数を誇る日刊紙「ZAMAN」(英字紙を含めて約65万部)が反政府的という理由でエルドアン政権の管理下に置かれた。イスタンブールのザマン・メディアグループ本社前には、これに抗議して1000人を超す読者や一般市民が集まったが、警察隊の催涙ガスと高圧放水銃で排除された。
 イスタンブールの朝日新聞記者(春日芳晃氏)のレポートによると「エルドアン氏が事実上率いる与党・公正発展党(AKP)と密接な関係にある管財人3人が真っ先に編集局長を解任し、以前の記事などをすべて削除した」(3月11日朝日朝刊)という。
 2年前の9月、筆者は国際新聞編集者協会(IPI)理事の一員として「トルコにおける報道の自由を守ろう」と他国の理事とともにザマン・グループ本社を訪れ、明るいビルの社内を見せてもらうとともにザマンの取締役・編集局長エクレム・ドゥマーニ氏らと懇談の機会を持った。既に、そのころからエルドアン政権の「報道管制」は強まっていた。
 ザマン紙は1986年創刊だが、イスラム主義的保守系新聞で、決して進歩的左派系新聞ではない。だが米国に亡命中のイスラム教ギュレン師がエルドアン大統領の強権政治に抗議し、ザマン紙もギュレン師に加担してエルドアン批判を強めるにつれて、政府のザマン紙弾圧が加速した。
 IPI理事と懇談したドゥマーニ編集局長からは後日、私宛に「トルコのメディアとジャーナリズムの最新事情について忌憚ない意見交換が出来たらことに感謝している。私たちザマン・メディアグループは未来へ前向きに進む。再訪を望みます」とのメールが届いた。だが彼も管財人から真っ先に解任された。
 以前にも本誌「埴輪」に書いたと思うが、10年以上前にエルドアン大統領(当時は首相)が来日し、日本記者クラブで会見した際、筆者はクラブの企画委員長として司会役を務めた。国民向けの改革を進める政治家として好感を抱いた記憶がある。だが2年前のトルコ訪問時にヒュリエット紙(ザマン紙につぐ有力紙)のムラト・イエトケン論説委員長が「昔は良かったが、利権供与を条件に私たちマスコミに接してくるようになった」とエルドアン大統領を厳しく批判していた。
 それで思い出したのがルーマニアで1989年に民衆から追放されたチャウシェスク大統領の私邸が最近、一般に公開された。エレナ夫人、3人の子どもと住んでいた私邸は、なんと80の部屋があり、屋内プールや地下貯蔵庫を備え、邸宅内部はベネチアンガラスの鏡や色彩豊かなモザイクなど贅を尽くした装飾だという(今は外国賓客用に使用されているようだ)。彼が追放直前まで建設中だった「冬の宮殿」をイリエスク大統領に代わった1990年5月にルーマニアで見学したが、どんなに後ずさりしても全景がカメラに納まらない巨大宮殿だった。
 新聞報道によるとトルコのエルドアン大統領も近年、豪華な私邸、国内で最大規模もモスクを建築するなど、チャウシェスクそっくりだ。
 2年前、トルコのジャーナリストたちと懇談した際に筆者は「絶対的権力は絶対的に腐敗する」と述べたら、皆頷いていた。それだけにトルコでは今、「権力の暴走をチェックし、国民の多くが望んでいる正常な状態に戻す」というジャーナリズムの仕事が重要性を増している。頑張れ、ZAMN紙! 負けるなトルコのジャーナリスト!

琴奨菊の「挑戦」と「人生観」を応援する   宇治敏彦

 18年ぶりの日本人「横綱」を賭けた大関・琴奨菊の挑戦が13日からの大阪春場所で始まった。2月16日、日本記者クラブで記者会見した大関の語りぶりを聞いていて思ったことは「この関取の魅力は技量もさることながら『素直』『努力家』『研究熱心』なところにあるのではないか」と思った。
 福岡県柳川の生まれで、子どものころから体が大きく子ども相撲でも強かったようだ。なぜ佐渡ケ獄部屋に入門したかについて「私が小学校3年生のとき、地方巡業で柳川に見えた先代の佐渡ケ嶽親方が『坊や、体がでっかいなあ。大きくなって相撲界に入門するなら佐渡ケ嶽部屋に来るんだよ』と言って、指にツバつけて私のおでこにえんがちょしたのです。感激して他の部屋への入門はまったく考えませんでした」と説明した。
 この“純情”なところが良い。
 「相撲の世界では“練習”でなく‟稽古”と言うのです。『怪我も稽古で直せ』というぐらいですから、あきらめずに努力すれば壁を乗り越えて、夢が叶う」「教えてもらったことは鵜飲みで聞く。それから稽古の中で自分なりに吸収して、のりしろをつけていく。横綱の白鵬関は自分の空気感というか、ルーティンの動作を身に着けていて、仕切りを重ねているうちに、いつの間にか横綱のルーティンに自分が合わせてしまっている。それでは駄目と分かったので自分の空気感、ルーティンをつくるよう努力してきた」。
 会見に出席していたロイター通信女性記者のアドバイスで「琴バウワー」と命名した例のパフォーマンスも、自分なりの「空気感」「ルーティン」の一環なのだろう。
 日本人力士として先場所、10年ぶりの優勝を勝ち取って「砂利道から舗装道路に出たかのように周囲の見える景色が変わった」「先代の親方(元横綱・琴桜)も32歳で横綱になった。私もいま32歳。地位も名誉も総て土俵に埋まっている」などと語った。
 表現力が豊富だなあ、というのがジャーナリストとしての感想だった。さて今場所は「18年ぶり」を実現できるか。先場所以来、優勝、結婚のお祝い騒ぎで完全な休日は一日だけだったという琴奨菊の練習量減少が気になるが、春場所初日は高安をよりきって白星スタートを切った。「ルーティン相撲」が出来るかどうか。それは「土俵に埋まっている」のではなく、琴奨菊自身にかかっている。

「東日本大震災から5年」が突き付けている課題   宇治敏彦


 東日本大震災から5年を経過しても、なおストンと胸に落ちないことがある。「命が第一」という政(まつりごと)が本当に前進しているのだろうか、という疑問だ。
 大津波などで1万8000人以上が死亡したが、まだ行方不明の方が2500人を超えている。岩手、宮城、福島の3県では今も仮設住宅に暮らす人々が5万8000人いる。災害公営住宅の建設が遅れ、いまだ完成は6割にとどまっているからだ。1995年の阪神淡路大震災では仮設住宅居住者は5年でゼロになったのと大違いである。避難生活者は3県で約17万4000人。特に東京電力福島第一原発事故があった福島県では約4万3000人が県外での避難生活を送っている。言葉を変えた表現でいえば、3県で暮らしていた人々は「故郷を捨てざるを得なかった」のである。もっと厳密にいえば住みたくとも「住めない故郷」なのだ。
 全国的な人口減少傾向の中で、被災地を含む東北各県の人口減が目立っている。震災前の2010年と震災後の2015年の国勢調査比較では、宮城県を除く秋田、青森、岩手、山形、福島5県が人口減少率で全国1~5位となっている。宮城県でも女川町では37%減、南三陸町では29%減などと人口減が際立っている。福島の東電第一原発が廃炉になるまで40年ぐらい廃炉作業が続けられる。浪江、双葉、富岡といった町には町名は残っても通常生活が出来る町とはなっていない。
 「被災者の心に寄り添って」と安倍晋三首相が国会や記者会見で発言しても、何か虚ろに聞こえるのは上記のような復興作業の遅れ、あるいは復興不可能地域もあるからだ。
 そうした中で大津地方裁判所が3月9日、関西電力高浜原発3、4号機(福井県高浜町)の運転差し止め決定を下した。「原発事故が起きれば環境破壊の及ぶ範囲はわが国を越える可能性さえある。発電の効率性は甚大な災禍と引き換えにすべき事情であるとは言い難い」「過ちに真摯に向き合うなら、対策の見落としで過酷事故が生じても、致命的な状態に陥らないようにするとの思想に立ち新規制基準を策定すべきだ」(仮処分決定の骨子)
 この判決こそ一般市民の「心に寄り添う」ものではないだろうか。「のど元過ぎれば熱さ忘れる」の考え方は原発事故には通用しないと思うべきだ。北欧のフィンランドは「クリーン国家」「クリーンエネルギー」を国策にしている。筆者はかねて日本が「クリーン国家」の見本になるべきだと提唱してきたが、安倍政権もフィンランドに見習って「クリーン・ジャパン」の旗を高く掲げてほしい。
 私たち国民も東日本大震災被災地の早期復興に向けて自主的な寄付とは別に実質所得の2.1%相当を「復興特別所得税」という形で平成25年分から平成49年分まで毎年負担することになっている。被災地以外の市民たちが「喜んでこの税金を払おう」という気持ちを持ち続けられるようにするためにも、「命が第一」という政治とは、どのようなものか、安倍首相に限らず与野党の政治家がもう一度、問い直すべきではなかろうか。
 
 

環境省を福島県に移転してはどうか   宇治敏彦

 「地方創生」政策の一環といて中央省庁機関の地方移転が検討されている。文化庁の京都移転が最有力視されている。1月末に開かれた移転に関する政府有識者会議と内閣官房によるヒヤリングで山田啓二京都府知事が「文化財の多い京都こそ文化庁の移転先にふさわしい」と強調し、安倍晋三首相も国会答弁で京都移転に前向きな姿勢を示したからだ。
 政府機関の地方移転の推進役である石破茂地方創生担当相は「移転を希望する地域に、移転でその地域だけでなく、日本全体のプラスになるものであることをお示しいただく」と述べており、3月中には地方移転の基本計画を決める段取りだ。
 文化庁の京都移転のほか消費者庁の徳島県移転なども話題にのぼっている。文化庁の京都移転は、すんなり分かるが、消費者庁がなぜ徳島県なのか分かる人は少ないのではないだろうか。
 目下、中小企業庁、特許庁、気象庁、観光庁なども地方移転の対象機関候補にあがっているが、関係機関はいずれも否定的という。地方移転といっても、多くの人が納得するような意味づけが必要だろう。
 その点からいったら、「環境省を福島県に移転してはどうか」と筆者は提案したい。まもなく東日本大震災・東京電力福島第一原子力発電所の放射能漏れ事故から満5年を迎える。現地の人々から「復興はまだまだ」という声が聞こえてくるが、その通りだろう。特に原発事故で廃炉に最低でも30年から40年の時間を要すると東電は見ている。そうした中で丸川珠代環境相は2月7日、長野県松本市で開かれた会合で、東電福島第1原発事故後に定めた除染などの長期目標について次のように述べた。
 「何の科学的根拠もなく、誰にも相談せず、その時の環境大臣が1ミリシーベルトまで下げた」「その結果、帰れるはずのところにいまだに帰れない人がいる」
 除染などの長期目標は国際放射線防護委員会(ICRP)が事故後に目指すべき線量として勧告する年1~20ミリシーベルトのうち最低の数値である。それを環境大臣が「それは民主党政権当時の決定で意味がない」と言わんばかりの態度では、なにをかいわんやだ。その後、丸川大臣は批判を受けて発言を撤回したが、避難を余儀なくされている福島県の人々からみたら「行政の責任者が私たちの気持ちも知らないで」と怒りが収まらないだろう。
 環境問題の責任者が、こんな認識だからこそ、環境省を福島県に移転して、原子炉の廃炉問題を含めて日本の環境政策全体の見直しを推進し、「クリーン・ジャパン」の国造りを目指したらどうだろうか。

出会った人々⑱若かりし京極純一東大助教授の思い出  宇治敏彦

 計量政治学プラス独自の思潮で「日本の政治」(1983年、東京大学出版会)といったベストセラーを著した京極純一東大名誉教授が2月1日、92歳でなくなった。心からご冥福をお祈りします。学徒出陣を経験した京極さんは、常に戦後民主主義の立場からさまざまな著作や論文を発表するかたわら東大教授の後は千葉大教授、東京女子大学長、年金審議会会長などを歴任した。
 政治記者だった筆者が京極さんと親しくお付き合いしたのは、東大助教授当時の昭和30年代である。当時、京極さんは東京・目黒区東山の高台にあった公務員宿舎に住んでいた。わが家も東山の目黒川近くにあったので坂上の公務員宿舎までは、ゆっくり歩いても5、6分の至近距離だった。京極助教授のご意見を聞いてみたくて最初に宿舎にうかがった時のテーマが何であったかは忘れてしまったが、2Kぐらいの広さしかない宿舎内は書物や資料が積み重なっていて足の踏み場もなかった。
 昭和38年(1963年)のことだが、政治部の渡辺博先輩と2人で「政治を科学する」と題する企画を始めた。「政治から党利党略、派閥意識、政治的な思惑といった“不純物”を除き、もっと客観的な政治分析ができないだろうか」というのが企画の狙いだった。毎週1回、東京新聞朝刊に9か月ほど連載した。国会議員を対象に毎日どんな食事をとっているか、どんな本を読んでいるかなどアンケートを取って、それを医学者(林髞慶大教授)や作家(武田泰淳氏)らに分析してもらい「ビタミンと民主主義」「政治家の知的水準」といった記事にまとめた。当時は「○○を科学する」という表現が新鮮だったせいか、しばらくすると他紙が「野球を科学する」とか、「哲学を科学する」といった企画をやりだして、ちょっとした「科学する」企画ブームになった。
 同年の終戦記念日に掲載した「政治を科学する」では「ハシゴ段評定法」(アメリカの社会心理学者H・キャリントルによって考案された意識調査方法)を採用して、国会議員や一般人を対象に「戦後18年の日本をどう評価するか」の調査を実施した結果を記事にした。「あなたの現在の生活は10段のはしご段でいえば何段目と思いますか」「5年前、5年後は何段目と思いますか」「日本という国は何段目と思いますか」といった意識調査である。その結果をもって京極先生のお宅を訪ねた。京極さんも計量政治学の先駆者として調査結果に大いに関心を示し、私に次のようにコメントしてくれた。
 「現在の日本社会は決して平等の社会とはいえないようだ。つまり自分の生活や国の評価に常に高い位置づけを与えるグループと、逆に常に低い位置づけを与えるグループとにはっきり色分けされる」「過去の日本を高く評価している人は現在・将来の日本も高く評価し、過去の日本を低く評価する人は現在、将来の日本も低く評価する傾向がある」「自分の将来の生活が高くなってゆくことが出来れば日本の国も高くなろうし、生活程度が向上しなければ日本も発展しないと見ている人が多い」
 これらのコメントは記事に生かされた。仕事の話の合間にいろいろ雑談をしたが、私にとって意外だったのは、ちょっと世の中を斜に構えて見ておられたのか、皮肉っぽい表現が先生の口から、しばしば飛び出してくることだった。町中で行き合った時などは、いつもニコニコしておられたが、若き日の京極純一東大助教授には、そんな一面もあったことを付記しておこう。

政治家の資質とは何か?   宇治敏彦

 
 政治家の劣化現象は加速するばかりで、「日本の政治は大丈夫か」と心配になる。
北方領土問題で島尻安伊子(しまじり・あいこ)沖縄・北方、科学技術相(50歳)は、事務局が用意した文書で「歯舞」が読めず、「はぼ?――何だっけ」。そばから秘書官が「ハボマイ諸島です」と囁く(2月9日の記者会見)。上智大を卒業し、沖縄市議や自民党女性局長、参院環境委員長などを歴任した政治家である。瞬間的な度忘れとしても、北方領土担当の責任者が「歯舞」を読めなくてどうする。
 高市早苗総務相が同じ日の衆院予算委員会で「改憲に反対する内容を相当時間、放映した場合、電波停止になる可能性があるか」(民主党の玉木雄一郎氏)との質問に「私の就任中はないだろうが、将来にわたって一切ないとは担保できない」と答弁し、電波停止命令の可能性に言及した。安倍晋三首相もかねて放送法第4条(政治的公平性確保などを規定)をたてに「法規に違反すれば法に則って対応するのは当然」と主張している。しかし憲法21条では「一切の表現の自由は、これを保障する」と規定されている。古館伊知郎(テレビ朝日)、国谷裕子(NHK)、岸井成格(TBS)といったテレビ報道番組キャスターが2月一杯で降板する。いずれも政府・自民党から発言内容にプレッシャーをかけられた人たちである。政治とマスメディアは、お互いに緊張関係を維持しつつ切磋琢磨していくのが本来のあるべき姿で、「俺たちに反対したから」「俺の悪口を言ったから」といった理由で政治家がマスメディアに圧力をかけるべきではない。
 妻の金子恵美衆院議員(自民)が出産のため入院中なのを利用して京都の自宅に女性タレントを泊めていた宮崎謙介・前衆院議員(自民党、35歳)という男も「政治家」というより「人間」として失格だ。彼が議員時代に「妻の出産を機に男性の育児参加を推進したい」と国会議員の育児休暇という新たな問題提起をしたことは記憶に新しい。ヨーロッパでは議員も育児休暇は当たり前だが、日本では初のケースなので興味深い研究テーマと思ったが、提起した本人が何回も不倫を繰り返していた議員とあっては問題外だ。
 さらに、この不倫を聞いた溝手顕正自民党参議院議員会長が2月12日、記者団に「うらやましい」と感想をもらし、「冗談」と弁解したが、思わず男の本音が出たというところか。
 これだけ取り上げただけでも「政治家の劣化」は目にあまる。まともな人間が政治家になりたがらない風潮が強まるだろう。落語家の桂文枝が三枝時代に自民党にかつがれて参院選に出ようと決意した時期があった。ところが家族、特にお嬢さんが猛反対で「政治家は悪いことをするからやめときや」と止めた。三枝は「お父ちゃんが悪いことをするように見えるか」と反論すると、彼女は「朱に交われば悪くなる」と言った。これで三枝は立候補を断念した。
 先の甘利大臣辞任事件のように、談合を有利に進めるために金を積んで政治家に陳情する有権者の側も良くないが、政治家のほうも「賎業」とみられる傾向が続くかぎり、日本の政治に明るい光がさすとは思えない。筆者は「総理大臣には30ぐらいの要件が必要」と書いたことがある(2003年「行政&ADP」6月号)。列記してみる。「組織を動かす力」「説明責任と説得力」「反対されても実行する勇気」「高い人気」「先を読む洞察力、先見性」「注意力」「公平性を重視する姿勢」「着実な実行力、堅実さ」「誠実な対応」「話術の巧みさ」「ユーモア精神」「粘り強さ」「大きな声」「ハンサム・美貌」「人間的魅力・人柄」「機敏な判断力」「危機察知能力」「常に笑顔を絶やさない」「聞き上手」「物事処理のスピード」「物事処理の正確さ」「芸術、文化への理解」「部下を叱る」「バランス感覚」「健康、スタミナ」「発想力、企画力」「交渉能力」「前向きな姿勢と能力」「撤退する勇気」「失敗を恐れない心」。
 これらは思想・信条を除外してもことだが、当時は小泉純一郎首相時代で「話術の巧みさ」「芸術・文化への理解」「高い人気」など10項目は合格点と思った。今の安倍首相は「組織を動かす力」「高い人気」「ハンサム」など3項目では合格点だが、ほかは?マークがつく。小選挙区制の定着で「権力」「カネ」「人事権」などが官邸に集中し、総理大臣の力はますます強まっている。だが「良い政治」「素晴らしい政治」になっているかというと、そうは思えにない。駄目な政治家が増えていることも、安倍首相の「強がり独り芝居」を増長させる結果になっている。小学校のクラス委員長候補にはどんな仲間が適任だろう。国民全部が、そんな原点に返らないと、素晴らしい政治家、素晴らしいリーダーは出てこないだろう。
 



清原和博・元プロ野球選手が覚せい剤に頼った背景は?  宇治敏彦

 筆者が10数年前、調布市内から渋谷区内のマンションに引っ越してきた頃、広尾高校近くを散歩する清原和博に何回か行き合ったことがある。いずれも幼い男の子の手を引いて、今は山種美術館になっているビルの近くにある雑貨店にその子の駄菓子を買いに来てきていたようだった。子どもは100円硬貨を入れると、おもちゃのフィギュアが出て来るのをやりたがって、清原は笑顔で応じていた。本当に幸せそうな親子に見えた。
 2月3日夜、覚せい剤の所持・使用容疑で逮捕され、警視庁に車で連行されていく時の清原は終始うなだれており、短く刈り込んだ頭髪と口の周りの鬚が一層哀れさを誘っていた。
そこには子どもと散歩を楽しんでいた往時の面影は、微塵も感じられなかった。
戦後プロ野球界で有数のホームランバッターの一人だった彼が、なぜ覚せい剤に頼るような「駄目人間」になってしまったのだろうか。2014年9月に離婚を発表し、そのころには2人になっていた息子たちを妻側に渡したことが一つの要因ではないかとみられている。
 彼が昨年11月からインターネット上で始めたブログで、2人の息子と焼き肉を食べた時の感想として「あっという間に時間が過ぎた。別れ際に最後まで手を振る2人に涙がでた。今、一人ぼっちで部屋にいる。さみしい」(昨年12月14日)などと告白していた。
 たまたま「清原逮捕」の日の朝日新聞夕刊に「離婚『子に会わせて』急増。面会調停 年1万件 7割が父」という記事が掲載されていた。「調停で離婚した夫婦の子どもの約9割は、母親が親権者になる」「裁判官は『父親の育児への意識の高まりから、妻と別れても子どもとのつながりを求める父親が増えたのだろう』と話す」。
 私は「父親の育児への意識の高まり」に関係なく、子どもと離れた淋しさを実感する父親が増えたのだと思う。それだけ現代人は「孤独な環境」を意識する機会が増加しているのではないか。特に清原のように現役選手時代が華やかで、金使いも派手だった人物が妻や友達からも冷たい目で見られるようになれば、一般人以上に耐えがたい寂寥感を味わうに違いない。その寂しさを酒や別の女性で紛らわすことも不可能なときに「劇薬」として覚せい剤に走ったのは分からないではない。
 どうして覚せい剤を手にいれたのかは、これからの捜査に待つしかないが、清原の「心の闇」にたどりつけば、本当は死ねるのなら死んでしまいたい、という瀬戸際にあったかもしれない。その救いが覚せい剤の常用だったろう。だが、そこはどんなに苦しくとも踏みとどまって事態の改善に努力する「大人の決意」が出来なかったものか。それを「幼児性」という言葉で表現するのは酷かもしれないが、この寒空に駅の構内などで段ボールを布団代わりに寝ている人たちをみると、「清原よ、こうやってどっこい生きている人たちもいるんだぜ」と言ってみたくなる。

タブーやアキレス腱をどう打破するか  宇治敏彦

 人種差別、貧富の格差拡大、宗教・宗派対立、大規模テロや銃乱射事件…。人類が抱えているタブーやアキレス腱にどう向き合い、いかに解決の道筋をつけていくのか。それが2016年の世界各国に課せられている最大の「宿題」になっています。
 「憎しみの連鎖現象」が目立った2015年でした。特に過激派集団「イスラム国(IS)」によるテロ行為が世界の市民を震撼させました。イスラム過激派には縁遠いと思っていた日本人も、ほぼ1年前の2015年冬、ジャーナリストの後藤健二さんら日本人2人がISに殺害され、「我々も例外ではないのだ」と痛感したのでした。
フランスでは政治週刊紙「シャルリ―・エブト」の本社が銃撃の的になり12人が殺害(2015年1月)され、パリの同時多発テロ(同11月 直後に行われた地方選挙(広域圏議会選)では「移民排斥」「治安強化」などを訴えた極右政党の国民戦線(FN)が躍進し、マリーヌ・ルペン党首は「われわれはイスラム過激派への怒りに燃えている」と語りました。
アメリカでも2015年12月、カリフォルニア州の障害者福祉施設でIS支持者の夫婦による銃乱射事件が起きて14人が死亡しました。オバマ米大統領は「テロの脅威が新たな段階に入った」と述べましたが、「ポスト・オバマ」を決める次期大統領選の共和党有力候補ドナルド・トランプ氏(不動産王)が「イスラム教徒の米国への入国を全面的かつ完全に禁止すべきだ」と発言するなどフランス同様に米国でもイスラム排斥主義が台頭し始めています。
まさに「目には目を」の思想です。オバマ大統領のテロ対策に「なまぬるい」と不満を持つアメリカ人が昨年5月の51%(CNNテレビ調査)から最近では60%に増えているのも右派台頭と同根と言えるでしょう。
だが、行け行けドンドンの勇ましい「アンチIS」「イスラム排除」論で事態が改善するものではありますまい。むしろ火に油を注ぐ危険性を内包しています。
では、銃撃の報復合戦にしない打開策とは? 
第1にはIS支持者の背景にある「人種差別への不満」「経済的貧しさ」「不公平な社会システム」といったテロの火種への改善策を提示できる国家指導者が求められます。2000年にシリアでアサド政権が誕生した際には、民主化を含む政治改革、腐敗官僚の追放など国民から好感をもたれた政治が行われましたが、「絶対的権力は絶対的に腐敗する」といわれるように3選目のアサド大統領の独裁ぶりに同国民の批判が強まっています。
  国連の推計によると紛争などに伴い世界中で約6000万人が国内外への避難を余儀なくされています。特にシリアでは2011年の内戦以来、人口2200万人のうち既に430万人以上が欧州などへの難民になっています(日本に対しては63人のシリア人から難民申請があり、受け入れたのは3人)
 アサド政権にかわる民主的政権の誕生を国際世論が後押しすることが急務です。ミャンマーでは長い軍政のトンネルを抜けて総選挙で民主化推進の「スーチー政権」が誕生しました。これも国際世論の絶え間ないバックアップがあったからです。「アラブの春」で始まった民主化運動がシリアで早く実現し、難民たちが自国に戻ってこられる環境づくりを日本も含めて先進国は今まで以上に強力に推進しなければなりません。
  第2には、「貧困」や「格差」といった社会的矛盾を解決するビジョンや政策の提示・実行です。フランスの経済学者トーマス・ピケティ氏(世界的ベストセラー「21世紀の資本」の著者)が指摘するように「公正な社会発展モデルを実現する」ことが必要です。特にピケティ教授は、エジプトからシリア、イラク、アラビア半島を経てイランに至る人口約3億人の一帯では「石油資源を持つ君主国が地域のGDPの60~70%を占めている。それは人口で10%足らずに過ぎない。ここは世界で最も格差の大きい地域なのだ」(仏ルモンド紙抄訳を朝日新聞が2015年12月1日朝刊に掲載)と指摘しています。人口の1割足らずの金持ちが国を支配しているところにISのような不満過激派を生み出す主因があるというのです。世界の政治指導者は「国富の適正な配分」に汗をかくべきです。
  第3は、特に米国社会に言えることですが、「銃社会」「黒人差別」という長年のタブーがいまだに克服されていないことです。カリフォルニア州での14人殺害事件を受けてニューヨーク・タイムズ紙は1面に「銃の蔓延」と題する社説を掲載し、次のように主張しました。
 「人間を素早く効率的に殺すように作られた武器を市民が合法的に購入できるというのは、国家の恥であり非道徳的だ」
 また黒人差別問題ではローザ・パークス事件(米アラバマ州で白人にバスの席を譲らなかった黒人女性が逮捕された事件)60周年集会で、担当弁護士だったフレッド・グレイさん(84)が「今でも平等と正義を求める戦いが続いている」と訴えました。
 こうした「アメリカの悩み」に筆者は16代大統領リンカーンの言葉を思い出しました。
「The ballot is stronger than the bullet(投票用紙は銃弾より強い)」。
人間は皆平等という信条から奴隷解放を実現した大統領でしたが、1865年、観劇中に皮肉にも上記の言葉とは裏腹に銃弾に倒れて命を落としました。彼が言いたかったことは、銃の打ち合いで勝負を決めるよりは投票用紙に政党名や候補者名を書くことで「明日の政治」を決められるなら、それこそ近代国家ではないか、ということでした。アメリカでは、銃の所持は身を守るための防禦装置として当然という考えが根強いとされてきました。しかし、アメリカ人も今こそ「銃社会」「人種差別」から脱却すべき時です。パリの同時多発テロで愛妻を失った34歳のジャーナリストはネット上で「テロリストを憎まない」と発信し、愛は軍隊より強いと訴えました。
2016年は伊勢志摩でサミットが開催されます。警備当局はテロ防止に全力を挙げています。当然のことですが、同時に安倍首相はこのサミットを世界からISのような過激派が姿を消す世界にするための提案をしてほしいものです。先進諸国がタブーやアキレス腱を克服して「銃規制の強化」「人種差別の撤廃」「公平化に向けた富の再配分」「若者たちの働く場の増大」など希望の持てる「太陽政策」実現をサミット宣言に盛り込んでほしいものです。
(注)これは雑誌「行政&情報システム」2月号に掲載された原稿の転載です。
















「見える化」の必要性  宇治敏彦

甘利明経済再生大臣が建設会社から口利きの見返り名目で現金を受け取っていた疑惑問題で、通常国会は冒頭から波乱含みである。国会後に参院選挙(ひょっとしたら衆参ダブル選挙)を控えているだけに与野党とも、下手な妥協はできない。安倍晋三首相の施政方針演説が行われた1月22日の衆院本会議で、甘利大臣の経済演説が始まると大半の野党議員が退場したのも「辞任しなければ国会審議に応じないぞ」という脅しでもある。審議ボイコットは沢山見てきたが、大臣の所信演説を聞かずに退場というのは、あまり記憶にない。それにしても自民党、いや政界全体の金権腐敗体質は、「三角大福中」時代に比べたら小粒化したとはいえ、根絶とはいかないようだ。大臣室、議員会館といった場を利用しての現金授受は、第三者から「見えない」ケースが大半だ。「人間は見えないところで悪事を働く」のは昔から変わっていない。
 ハインリッヒ・シュリーマン(トロイアの遺跡発掘で知られる考古学者で「古代への情熱」などの著書がある)は、若いとき貿易商をしていたが、ゴールドラッシュのアメリカで巨万の富を築くと、41歳ですべての経済活動を止めて、43歳から念願のトロイア発掘の前に世界漫遊の旅に出た。「シュリーマン旅行記 清国・日本」(石井和子訳、講談社学術文庫)が興味深い。中国(当時の清国)の天津や北京がいかに汚い町で、人々も卑しいかを具体的に記述したあと、横浜港に着いて江戸時代の日本人の潔癖さ、正直、きれい好きにびっくりしたと書き残している。「日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。どんな貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている」「(役人がチップを拒否したことに関して)彼らに対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら『切腹』を選ぶ」などと称賛している。
 ブラジル移民をした日本人に対する現地の評価も「勤勉」「正直」「親切」「真面目」といったものであった。
 筆者の疑問は、こうだ。本当にそうなのだろうか。多くの人が見ているところでは、確かに「正直」「親切」などに見えるが、人が見ていないところでも果たしてそうなのだろうか。甘利大臣のケースに限らず、カレーチェーン壱番屋(愛知県一宮市)が廃棄した冷凍カツの不正転売事件、東芝の不適切会計問題、旭化成、三井不動産子会社などが販売した杭打ち工事のデータ流用、日本マクドナルドホールディングスでの異物混入苦情、いまだに衰えぬオレオレ詐欺など昨年来、さまざまな不正・腐敗・詐欺事件が続いている。名門料亭「吉兆」の食べ残し料理のまわし事件など、まだ鮮明に残っている記憶もある。これらの事件や疑惑に共通するのは「誰も見ていないだろうから」「外部の人間には分かるまいから」という当事者の心理である。
 たまたま乗ったタクシーの運転手さんが漏らした一言が常に私の頭にある。「お客さん、日本人の道徳心はひどいですよ。たばこの吸い殻だけでなく、ジュースの空き缶、噛んだガム、不要のごみ。何でも捨てていくのです。誰も見てないと思って捨てるんですが、タクシーの運転席からは良く見えるんですよ。日本人は模範的な人種なんて私は思っていません」
 多分、彼のいう通りだろう。皆が見ているところでは格好をつけているが、だれも見ていないところでは小悪、中悪、大悪をしがちなのが日本人に限らず、すべての人間の本性に違いない。とすれば「見える化」をさまざまな場で広げていくことしか、皆の心の中にある「悪魔」の出番を食い止める道はないのでないか。

240万人への期待と不安  宇治 敏彦

 今夏の参院選挙は、選挙権年齢が「18歳以上」(従来は20歳以上)に引き下げられたことにより、従来の選挙より新たに240万人(18歳、19歳)が投票権を得る。これは有権者の約2%に相当するが、選挙権が拡がるのは1945年以来71年ぶりのことなので、こうした若者たちの声が選挙結果にどう反映されるか、大きな関心を集めるに違いない。
 急速に進んだ人口構成の超高齢化現象によって政治も年金・医療・介護といった高齢者対策に重点が置かれがちだ。最近よく言われる「子どもの貧困」問題なども政治上の施策が高齢者対策に向きがちなために子供・若者対策が遅れている一例といえよう。
 18歳選挙権の実施は、若者たちが政治の「世代間格差」に抗議の声をあげる一つのきっかけになるだろう。
 だが心配なことがある。肝心の若者たちが「選挙権」という行為をどれだけ重視しているか。つまり参院選に実際に投票にいくかという問題である。権利はあっても、その権利を行使しなければ宝の持ち腐れだ。過去の国政選挙における年代別投票率をみると、前回参院選(平成25年7月)では50、60歳代の投票率は60%台なのに20歳代は33・37%と約半分の最低であった。衆院選(平成26年12月)でも20歳代の投票率は32・58%だった。つまり20歳代では3分の2は選挙に行かず、納税者としての重要な権利の一つである投票権を自ら放棄しているのである。
 18歳、19歳の若者たちは「初めての選挙権」行使ということで、「初体験だから行ってみるか」という気持ちになるかもしれない。しかし240万人をトータルで見ると「政治に無関心」ないしは「自分たちには関係ない」と思っている人が多いのではないか。確かに安倍政権の新安保法制強行でシールズ(SEALDs 自由と民主主義のための学生緊急行動)など若者たちの政治行動も目立ってはいる。
 だが朝日新聞デジタルでの「18歳アンケート」結果(1月3日、同紙朝刊)によれば、129人の回答のうち「18歳選挙権はいいことだ」と思っている若者(東京外語大学生)は53人で、「どちらとも言えにない」66人、「よくないことだ」9人など、歓迎は半数にも達しない。「18歳からの選挙権で日本の若者は変わるか」にも「変わる」は61人にとどまり、「わからない」30人、「変わらない」37人など、若者たちの「冷めた目」が気にかかるではないか。
 これは若者だけの現象ではあるまい。日本人全体が今の政治や政治家たちに、あまり期待感を持っていないのではないか。前回衆院選(平成26年)の投票率は52・66%と史上最低だった。有権者の半分近くは「投票なんて行ったところで」と投げやりなのだ。安倍首相は今年5月26,27日の伊勢志摩サミット(G7)で「世界のリーダー・安倍晋三」を誇示しようとしているが、一般市民は「暮らし向きを何とか良くしてくれよ」というのが本音だろう。
 さて240万人の18、19歳の諸君よ。確かに政治と庶民感情とのかい離は大きいが、絶望しないでほしい。これからの日本を背負っていくのは君たちじゃないか。まずは参院選に投票に行って、自分の決意を再確認することから、2016年以降の自分とこの国のために「自分は何が出来るだろう」と考えてみてはどうですか。

年賀状に見た日本社会の変化  宇治敏彦

 元日に多くの方々から年賀状を頂き有難うございました。世の中は、とっくにネット社会になっており、メールで年賀の挨拶を頂いた方々もいらっしゃいますが、根がアナログ人間の小生としては52円の葉書・切手を通して皆さんの生活感が伝わってくるのを嬉しく思っています。どんな変化が日本社会に起きているのか、頂いた年賀状から筆者の思いをお伝えします。
 「93歳になりました」とお二人からの年賀状。お一人は志垣民郎さんという元中央官庁の官僚。もう一人が会社の生命保険を担当した内藤美枝さんという元生命保険会社の外交員。俳優・志垣太郎の叔父にあたる志垣民郎さんは昭和18年(1943年)雨降る明治神宮外苑競技場で7万人の「出陣学徒壮行会」に参加した一人。年賀状には「(昨年)9月にはモネ展を40分待ちで見ました。10月には春画展を見ましたが、意外と女性の観客が多いのに驚きました。最近では始皇帝の大兵馬俑展を見ました。曽孫第2子が生まれました」とありました。羨ましい元気さですが、100歳以上が6万人を超えたという現在、90歳代でも「展覧会を40分待ち」しても見る志垣さんのような方々が確実に増えていると実感しました。
 と同時に80歳代の先輩たちからは「脳梗塞の後遺症で2本杖です」「パーキンソンに難渋しています」との年賀状も届きました。近年、ステッキをついて歩いている人を見かける機会が増えました。なかにはスキーのストックのように2本杖の方もいます。急ピッチで進む「超高齢化社会」。私は「逆さ富士型人口構成」と呼んでいるのですが、安倍内閣が目指す希望出生率1・8(現在は1・4)が困難な状況では逆さ富士のV型角度の上部がさらに広がってカルデラ(火山の大釜)型の「超々高齢化」日本になるので、と懸念されます。
 第2の変化は、現在の安倍政治への不満・批判を訴える人が増えていること。「初夢は安倍退陣」(河北新報OB)、「戦後70年の日本の平和を戦える国へ捻じ曲げようとしています。今年も護憲の会を続け、参院選につなげたい」(中日新聞OB)、「安倍政権に対して決める政治・実行する政治と評価する評論家もいるそうですが、果たして大丈夫?」(西日本新OB)、「安倍の『美しい国』にはしたくないものです」(共同通信OB)、「『一億総活躍社会』って何ですか。アベノミクスは先が見えなくなりました。政治家としての”地“が見えてきました。今年は参院選、国民は今度こそ安倍政治に鉄槌を下すべきです」(同)などなど特にマスコミ関係者の安倍批判は強烈です。
それでも安倍一強政治が続いているのは⓵経済界が全面支援しているからか②小選挙区という選挙制度が問題なのか③民主党など野党がだらしないからか④マスコミの力が落ちたからか⑤労組や平和団体の動きが鈍いからか⑥市民がおとなし過ぎるからか―。
田中角栄政権時代の秘書官で、「日本改造論」のまとめ役だった小長啓一さん(元通産事務次官)からの年賀状には「田中ブームのせいか、時々取材を受けています」とありました。小沢一郎氏の新年あいさつではありませんが、「夏の参院選が天下分け目の決戦」ですね。
 「孫の子守に追われています」という年賀状も散見しました。それで思い出したのですが、近年、平日に赤ん坊を乳母車に乗せて買い物に歩く男性を私の住んでいる渋谷、恵比寿周辺でもよく見掛けるようになりました。男性優位社会は着実に変化していくだろうと、私は思っています。それは「男女平等の原則」からも当然のことで、その点では日本も遠からず欧米型社会になっていくだろうと予測しています。

好きな言葉⑦ 死への旅仕度   宇治 敏彦

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 これを「好きな言葉」に入れるのは抵抗感があるが、今年の年末は例年以上に「喪中」葉書が多いので、歳末所感として書いてみた。正月休みには仕上げなければならない仕事が詰まっているので早めに500枚ほどの年賀状を書き上げて投函した。ところが、その後に「喪中」お知らせが何通も届くので、手際良すぎるのも考えものと反省した。
 並河信乃さんという行政改革の専門家が11月10日、旅先のプラハで急逝した。みつえ夫人からのお知らせによると「葬儀は現地の方々のご好意で音楽葬にて送ることができた」そうだ。並河さんは経団連の職員だったが、一番活躍したのは国鉄の分割・民営化を打ち出した第2次臨時行政調査会で土光敏夫会長の秘書をしていた頃だろう。筆者も当時、「特殊法人を斬る」という企画を担当していたので何回も並河さんと議論した。彼の行革論は「官の支配からいかに脱皮するか」が主題で、単純明快にして、ぶれないのが特徴だった。
 大分前に千葉県君津市に引っ込んだので「世をはかなんでいるのかな」と思っていた。今年の年賀状に「日本の前途にあまり期待がもてず、毎日ぐーたらな生活を送っております」とあったのも「並河さんらしくないな」と気にかかっていた。
 生産性本部職員から青森公立大の教授になり「コンパクトシティ(青森市の挑戦)」「政策を観光資源に」などの著作を発表していた山本恭逸教授が今年1月に63歳で急死したという知らせも驚きだった。今年の年賀状に拙著「実写1955年体制」(第一法規)の読後感として「同時代を生きた者として思い当たる事の多い現代史のテキストです。官僚制もまた無謬性と批判されましたが、再び復活していることが気がかりです」と書いてあった。16年間にわたる青森での学者生活を経て彼が地方再生にかけた意気込みが少しでも青森で実を結ぶことを祈りたい。
 読売新聞の政治記者として共産党、社会党など戦後革新勢力を取材し、日本大学新聞学科でも教えていた飯塚繁太郎さんは5月に86歳でなくなった。昔の読売新聞には飯塚さんのほか田村祐造、多田実といった革新勢力にも強い大物記者がいたものだ。1985年、飯塚、羽原清雅(朝日新聞)両氏と宇治の3人で「結党40年・日本社会党」(行政問題研究所)という本を出版した時、飯塚氏は社会党の党首としては河上丈太郎氏を一番高く評価していた。
 今年は、そのほかにも知己のある多くのジャーナリストが旅立って行った。「埴輪」同人の小榑雅章氏と会うと、「我々はあと何年生きられるだろう」という話になる。今年、出版した「政(まつりごと)の言葉から読み解く戦後70年」(新評論)の表紙帯に「ジャーナリストの遺言」と打ったところ、多くの方々から「遺言は早すぎるじゃないか」とご指摘を受けた。筆者の気持ちとしては、寿命に関係なく「いまモノを言わずしてジャーナリストといえるか」という気持ちで「遺言」とした。多くの先輩や知人たちの死は、私にも「死への旅仕度」を怠るなと言っているように思える。

文化人を育てた喫茶店「新宿風月堂」   宇治敏彦

 古い資料を整理していたら学生時代によく通った「新宿風月堂」に関する新聞、雑誌記事などが出てきて、半世紀以上前の自分の姿を鏡の中に見た思いがした。
 敗戦直後の1946年に開店し、1973年の閉店まで27年間、名曲喫茶や画廊喫茶として多くの若者を集めた新宿風月堂は、JR新宿駅をマイシティ―側に出て中央通りを四谷方面に歩いて3ブロック目の右側にあった。
 筆者が風月堂を頻繁に利用したのは早稲田大学英文科在学中の1950年代後半だった。同級生の岐部堅二(故人、京都新聞)、今井啓一(故人、日経新聞)、今関健一(松竹助監督)、勝田裕之(NHKアナウンサー)、金原忠雄(故人、静岡銀行)といった仲間が集まっては、ほぼ毎日、授業の合間にトランプゲームをしていた。早稲田高等学院以来の親友で、本誌「埴輪」同人の小榑雅章君とも行ったことがあると思うが、小榑君とは風月堂より「青蛾」という新宿三越裏の民芸調喫茶店の方が多かった。
 風月堂の経営者は、後に知ったことだが、横山五郎という近代絵画のコレクターで、梅原龍三郎、林武、岡鹿之助、小出樽重、三岸節子らの作品を集めていた。そのためか店内に絵画を飾り、名曲を流す喫茶店として画家、音楽家、作家、評論家などに愛されるカフェだった。そんな文化的雰囲気の中で私たち早大の仲間は一杯のコーヒーで何時間もトランプゲームに興じていた。今だったら「学生さん、遊びは好い加減にして」と言われるところだが、店主や店員から一言も注意された記憶はない。
 「新宿TODAY」という地域誌(1987年5月号)が「新宿風月堂の魅力」という特集を組んでいる。こんな声が載っていた。
 清水雅人氏(詩人)「(早大の)同級に寺山修司がおり、彼と『早稲田詩人』を編集しながら(中略)風月堂で火の会という集まりをもっていた。(中略)あの頃の『風月堂』は、詩人や画家、写真家たち、演劇青年たちのサロンだった」
 清水邦夫氏(劇作家)「おかしなことに風月堂にいると、世間をナナメに見ているような感じでコーヒーをのみながら、なぜか“がんばらなくちゃ”と思うところがありました」
 真鍋博氏「喫茶店ではありましたが、入って左側に二階まで吹き抜けの大壁面があって、大作が並べられ、しかも一人15日間もの作品発表の場は、あの頃ほかには無く、22歳の青年にとっては大舞台で、四国からいまは亡き父を呼び、二階でコーヒーをのみつつ絵を見せました」
 またイラストレーターでエッセイストの大橋歩さんが「当時芸術家がたむろしていた風月堂で、背伸びしてブラックコーヒーを飲み、たばこをふかすまねをしました」「トイレに入ったら便器がウエスタンスタイルだったのです。生まれて初めての洋式便器を目の前にして、すくみました。(中略)でもがまん出来ません。ああかな、こうかなとやってみて一番無理のない格好ですませたのでした。後日どこかの洋式便器に使用図が貼ってあり、私の方法は正しかったことをしりました」(2000年10月19日、東京新聞朝刊「わが街わが友」)。前記の地域誌にも「はじめて洋式トイレにしたのもあそこじゃないですか。なにしろ使い方がわからなくて。後で聞いたらみなそうだった」との声も載っている。
 風月堂は若人たちにさまざまなことを教えてくれたわけだ。やがてヒッピーやフーテンが増えるようになり、1973年8月、多くの常連客に惜しまれながら閉店した。
 戦後から今日まで「純喫茶」「レコード喫茶」「歌ごえ喫茶」「落語喫茶」「同伴喫茶」「個室喫茶」などなど沢山の喫茶店が誕生し消えていったが、最近は新宿風月堂のようなカフェに行き合わないのが残念でならない。

好きな言葉⑥) いい加減と良い加減   宇治敏彦

いい加減
 自分は結構、いい加減なところがあって、着るものには無頓着だし、部屋の整理などは苦手である。しかし、そんな側面が「神経質にならない」「細かいことにこだわらない」という良い加減(好い加減)にも繋がっているではないかと思う。たとえば趣味の木版画づくりでも、彫り間違えた個所は、ペン画や水彩画と違ってやり直しが効かないので、そのまま生かしておく。やり直しが出来ない人生に似ている。「心の師匠」でもある版画家・棟方志功が彫り違えた個所に拘ることなく、物凄いスピードでエネルギッシュに彫り進める映像を見たことがある。ミスを瞬時に「良い加減」で逆転させてしまったのである。
 12月1日、拙著「政の言葉から読み解く戦後70年」(新評論)に関連して日本記者クラブで「戦後70年の政治 ジャーナリストから見た評価と課題」というテーマで講演・記者会見をした。司会の橋本五郎氏(読売新聞)から「安倍政権は過大に特殊な政権とみられているが、小泉政権、中曽根政権の方がもっと特殊ではなかったか。安倍政権でハト派はいなくなったと嘆くのはいかがなものか」との質問を受けた。
 その瞬間、私の頭に去来したのは昭和30年代に取材していた内閣憲法調査会での論議のことであった。「神川彦松、大西邦敏といった憲法学者からは『自衛隊違憲論など現実に合わない『いい加減』な憲法だから、早急に憲法を現実に合わせるべきだという改憲論が主張された。彼らはドイツ法的な考えで条文と現実が一致しなければ気がすまないとの考えだった。一方、高柳賢三会長などは英米法的考え方で、大事なのは実態であり運用であるとの考えだった。確かに自衛隊の存在と憲法9条(戦争放棄)の間には開きがあるが、それを克服して平和主義を貫くという国家運営をしてきたからこそ日本の平和主義が中国や韓国などに理解されて『良い加減』につながったのではないか」「もし60年安保の時に岸首相が要請した自衛隊の出動が防衛庁からハイハイと受け入れられていたら社会的混乱はさらに拡大していただろう。防衛費の国内総生産(GNP)1%枠、非核3原則、国連平和維持活動(PKO)協力法など歴代政権の政策が軍拡に抑制的に展開されてきたからこそ『良い加減』になった」「安倍政権も憲法学者やマスコミなどの批判があるからこそ『良い加減』にとどまっていられるのであり、もっとマスコミに感謝してもいいのではないか」などと答えた。この時、最前列に座っていた浅野勝人氏(元官房副長官、NHK出身)が一人盛大に拍手してくれたのには驚いたが、傍聴に来てくれた複数の学友たちの反応も小生の見解を支持してくれるものであった。私にとっては、まさに「良い加減」であった。


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出会った人々⑰ 村歌舞伎から日中友好まで幅広く活躍した 町医者・池田精孝さん 宇治敏彦

師走が近づくと毎日のように届く「喪中お知らせ葉書」。ああ、この人も逝ったのかと淋しい思いが募る。先日届いた「父 池田精孝が5月24日に91歳にて永眠いたしました」という池田秋比古氏からの葉書には、ひとしお強い寂寥感を覚えた。
 池田先生は、筆者が20年余り住んだ東京・調布市内で内科医を開業していた評判の「優しい先生」だった。同時に写真家でもあり、奥様の故郷・長野県大鹿村の村歌舞伎を撮り続け、信濃毎日新聞社から写真集「大鹿歌舞伎」を出版した。
大鹿歌舞伎は、村人たちが毎年春(5月)秋(10月)の2回、神社の境内で250年以上続けている素人歌舞伎で、ドイツやオーストリアで海外公演をした経験もあり、日本でも有数の村歌舞伎として知られている。1994年の秋公演に私も池田さんに誘われて文化部の米山郁夫記者とともに見に行った。
この時、長年の協力で大鹿村から池田先生に感謝状が贈られ、同時に村内に開館した郷土資料館「ろくべん館」(ろくべんとは段重ねの弁当箱のこと)で先生撮影の大鹿歌舞伎写真展も開催された。会場の市場神社には朝から多くの村人が参集し、庭一面に敷かれたゴザの上では午後1時からの開演を待ちかねるようにキノコ料理など満載の「ろくべん」弁当を食べていた。当日の出し物は「義経腰越状、泉三郎の段」などだったが、浄瑠璃を語る竹本登太夫は大鹿村文化財調査委員長の片桐登さんといった具合。村人たちが務める役者たちが舞台で大見栄を切るたびに大拍手で、おひねりの投げ銭がいくつも舞台に飛んだ。
 池田先生も長野県生まれだが、日本が旧満州の黒竜江省につくったジャムス(佳木斮)医科大学に学んだ。敗戦後、どうにか引き揚げて慈恵医大を卒業した。しかし旧満州でなくなった学友や日本人のことを思い、長野県日中友好協会の協力も得てジャムスに「日中友好」碑を建立するため70歳を過ぎても毎年のように中国東北部を訪れていた。「ようやく友好碑ができましてね」と報告に来られた時の嬉しそうな顔を忘れることができない。
 本業の内科医のほかに大鹿歌舞伎の記録写真、日中友好で実績を挙げた池田さんとは近年、年賀状の往来も途絶えがちだった。あの優しい人柄に触れられなくなって、ひときわ淋しい年の瀬になりそうだ。

映画「海難1890」に見る人間愛   宇治敏彦

 久しぶりに「泣ける」映画を観た。「海難1890」(東映)の試写会だった。12月5日からロードショーが予定されている。
 1890年(明治23年)9月16日夜、紀伊半島沖で台風のために座礁・沈没したトルコ(当時はオスマン帝国)の軍艦エルトゥールル号。587人の死者を出したが、69人が地元、和歌山県串本町(当時は大島村)の村人たち挙げての救援作業で救助された。一行は1887年、小松宮夫妻のイスタンブール訪問への答礼も兼ねてオスマントルコ政府が日本へ派遣したもので、明治天皇への表敬を終えて帰国の途中だった。
 串本の漁民をはじめ村長、医師、漁民から遊女に至るまでの救助活動と介護のお蔭で生存者69人は翌年1月、日本海軍の軍艦に乗って帰国することが出来た。いまでも5年ごとに串本町では慰霊碑の前でトルコ人犠牲者を悼む催事が行われているという。
 トルコ人の間で親日感情が強いのは、この難破事件に対する日本人の献身的な行動への感謝があるからだとされる。この話は筆者が今年、上梓した「政(まつりごと)から読み解く戦後70年」(新評論)でも「ナショナリズム(国家主義)以上に大事なヒューマニズム(人間愛)」の一例として紹介した。
 串本における村人たちのヒューマニズムは、95年後にトルコ人たちのヒューマニズムとして日本人に返ってくる。イラン・イラク戦争の激化で1985年(昭和60年)、当時テヘランに暮らしていた約500人の日本人にも避難勧告が出た。イラクのサダム・フセイン大統領(当時)が3月17日、「48時間後にイラン上空を無差別攻撃する」と宣言したからだ。しかし、当時は日本航空などがテヘラン空港に乗り入れておらず、日本からの救援機は飛んでこない。他国の便も自国民優先なので、338人の邦人が同空港で足止めを食っていた。野村駐イラン大使らはトルコに救援機を要請した。トルコのオザル首相(当時)はこの要請に応じて救援機をテヘランに飛ばした。多くのトルコ人もテヘラン空港で順番待ちしていたが、「自分たちは陸路脱出するから」と譲歩し、200人強の日本人が無事テヘランを離れることが出来たのだった。
 「国家」の存在は無論、重要であり、ナショナリズムが生まれるのも自然なことだ。と同時に、生きるか死ぬかという危機に直面した時には、その人の「国籍」よりも「一人間」としての存在が問われることになる。東日本大震災のような大惨事に遭遇した時の救助活動でも「日本人だから助ける。外国人は後回し」という選択ではなく「困っている人は皆助ける」というのが大原則だろう。そういう危機に直面した時に真価を発揮するヒューマニズムの力を忘れてはならない。日本人とトルコ人の心にあるヒューマニズムの力を描き出した「海難1890」は、乾き切った現代人の心に「人間性の原点」を蘇らせてくれた。
    ⁂       ⁂       ⁂      *
 「学院28会」という早稲田大学付属高等学院の同窓会(昭和28年入学組)がある。11月16日夜、日本プレスセンタービルのレストランに14人が集まって同会がもたれたとき、押田重継君から「僕はブログ『埴輪』の愛読者だが、最近、更新されていませんね」と言われた。恐縮した。実は「埴輪」をやっている小榑雅章と宇治の二人が現在、出版用の物書きに追われており、ブログの更新作業にご無沙汰が続いています。発信したいことは一杯あるので、押田君のように、思いつたら開いて下さる読者をがっかりさせないよう努力いたします。

「報道の自由」と「ジャーナリストの安全」  宇治敏彦

 中東を中心に世界各地でテロや紛争が続いており、それらを取材するジャーナリストたちも生命の危険にさらされている。かつてのベトナム戦争のように戦火が飛び交う中での取材ではなくても、いつどこで何が起こるか分からないテロなどの不気味さが記者たちを不安に陥れている。
 トルコの首都アンカラ中心部で10月10日に発生したテロ事件の死者は97人(同12日時点)。さらの多数の重傷者がいるとの報道だから犠牲者の数は最終的には100人以上に達するだろう。同国のエルドアン大統領はPKK(反政府左派組織クルド労働者党)との対立を深めているが、一般市民もPKKほどではないにしても近年、独裁体制を強めるエルドアン大統領に不満・批判を強めている。
 筆者は昨年9月、イスタンブールを訪ねてIPI(国際新聞編集者協会)理事会に出席するとともにCPJ(ジャーナリスト保護委員会)のメンバーと一緒にトルコの新聞社や放送局を訪問して報道の自由度を調査した。その時も「ザーマン」「ミリエット」といった主要新聞社の幹部から聞いたのは「エルドアン大統領の独裁ぶりが一段と強まっている」ということだった。「以前は進取性に富んでいたエルドアン氏は最近、批判的記事を書いた記者を次々に処罰している」と語った大手紙の編集幹部も私の帰国後、投獄されたと耳にした。また私たちを案内してくれたトルコIPIメンバーのカドリ氏も職を解かれたようだ。反政府的と目されるジャーナリストが次々と大統領の標的になっている。
 今年来日したトルコのジャーナリスト6人が9月30日、日本記者クラブで会見した。出席者は「トルコにはもうメディアの自由がない」と嘆息していた。「ミリエット」紙に23年間、記者として働き、ひと月前に解雇された女性記者、メフメシュ・エビンさんは「既に1000人以上の市民が大統領を侮辱したとの理由で起訴されているが、大半はジャーナリストです」と報告した。
 10年以上前のことだが、当時首相だったエルドアン氏が来日した際、日本記者クラブでの会見を筆者が司会した。その当時のエルドアン氏は、進取精神にあふれた政治家に思えた。ところが権力の座につく時間が長くなるにつれ、「政敵に殺されないようエルドアン大統領には食事のお毒味役がついている」「ルーマニアの故チャウシェスク元大統領のような豪華な大統領公邸をつくった」「厳しい経済情勢にもかかわらずトルコ随一のモスクを建設した」などなど芳しくない噂が伝わってくる。いわば「絶対的権力は絶対的に腐敗する」を地で行くような指導者ぶりで、イスタンブールでもヒトラーに似せたエルドアン大統領の戯画が町中に登場したこともあったという。
 11月の総選挙を挟んでジャーナリズムとエルドアン大統領の対立が続くだろう。最終的には数年前の大市民行動に発展するかもしれないが、それだけトルコの記者たちの危険度も増大することは間違いない。
 トルコだけではない。日本新聞協会が30年以上続けているアセアン記者招聘計画で今秋来日した4人の記者のうちフィリピンから来たバーニス・カミール・バウゾン記者(マニラ・タイムズ国際部記者)は10月1日、プレスセンターで開かれた会合で次のように報告した。
 「2014年に公表された世界における報道の自由度ランキングで、フィリピンは180か国中149位だった。一時は156位に下がったこともある。アキノ三世が政権を取った2010年以降、フィリピンでは26人の記者が殺害されている。フィリピン・ジャーナリスト同盟は政府の無関心が攻撃者をつけあがらせ、記者が殺害される危険性が依然なくなっていない」
 もっとも同記者によると、マニラ市内は安全で、危険度が高いのは地方都市だという。フィリピンには10の高級日刊紙、22の大衆紙、52の地域紙があるそうだが、パウゾン記者によると「マニラ・タイムズのような主要メディアはアキノ政権に極めて批判的で、ほぼ毎日、現政権に対して論議を呼ぶような暴露記事やリポートを掲載している。名誉棄損訴訟や脅迫電話を除けば、マニラ・タイムズは自由に意見表明し、記事を出すことができる」という。
 NGO「国境なき記者団」によると、日本の報道自由度は2011年の民主党政権下で11位にまで上がったが、現在は61位に大幅後退している。その理由は2011年の東日本大震災時の東電福島第一原発の放射能漏れ事故で国民が知りたがった放射能被害の実態が十分報道されなかったことや、2013年に特定秘密保護法が成立したことなどが大きく影響している。ちなみに報道の自由度が高い国はフィンランド、オランダ、ノルウェーなど北欧諸国。反対に自由度が低い国は中国、北朝鮮、ソマリアなど。特に中国では最近、紙の新聞以上にネット取り締まりが強まっているようだ。「京華時報」の8月26日の記事によれば、国家インターネット情報弁公室というセクションが300近いサイトを反社会的として削除したという。既に中国では「インターネット安全法」の草案が公表されており、国家安全のためアクセス制限をすることがあるとしている。
 一方、IPIは「デス・リスト」といって毎年、報道取材中に死亡したジャーナリストのリストを発表しているが、2009年以来、その数は毎年100人を超えており、近年では2012年の133人が一番多かった(2015年は原稿執筆時点で62人)。
 政治権力と報道界の関係は昔から緊張関係にあるが、報道が核心に迫るほど記者の身に危険が及ぶというのはいかがなものだろうか。もとより根拠なき報道(ガセネタ)であれば記者側がペナルティーを受けるのも当然だが、まっとうな報道や批判に対してもペナルティーを科すというのは政権の横暴と言わざるを得ない。トルコなどが一日も早く「報道の自由」「記者活動の自由」を取り戻すよう願っている。
(注)この原稿は安保研究会のリポート用に作成したものです。

好きな言葉⑤ 木を見て森を見よ  宇治敏彦

好きな言葉
 「木を見て森を見ず」という言葉がある。「細かい点に注意し過ぎて大きく全体をつかまない」(広辞苑)という意味だが、私はこれを「木を見て森を見よ」と言い換えたい。「細かい点も大きな全体像も共に見よ」ということだ。
 憲法学者をはじめ多くの市民の反対意見に耳を貸さず新安保法制を自民、公明両党の数の力で押し切った安倍晋三首相に言いたい。「アメリカへの軍事的協力」という木だけに目がいって「憲法9条」「不戦70年」「戦後民主主義」「中国、韓国などアジア諸国との友好促進」「世界平和」といった森を少しも見ていないのではないか、と。
 8月14日に発表された戦後70年の「安倍首相談話」も「侵略」「おわび」といった村山談話以来のキーワードは入っているものの、その表現は第三者的で政治家・安倍晋三の心が入っていない。これは複数の関係者から聞いた話だが、安倍首相と「談話」問題で話し合った有識者は、首相が「日本は中国に侵略行為を行っていない」「何回もおわびする必要はない」などというので非常に驚くと同時に、さすがに「そういわない方が良い」と諌めたという。
 安倍首相の歴史観は、明らかに母方の祖父・岸信介元首相の歴史観の複写である。岸首相の場合は自らの退陣で一区切りつけ、後任の池田首相の「所得倍増政策」によって国民を目くらましにした。だが安倍政権の場合は「2015新安保」になっても多くの国民の反発と抵抗は長く続くだろう。目くらましにする材料がないからだ。「木を見て森を見よ」の精神を忘れて「木を見て森を見ず」に終わった安倍政権の寿命は先が見えてきたように思える。
 遅くとも来年夏の参院選が、そのヤマ場になろう。戦後70年かけて築いた平和・不戦国家像がそう簡単には崩壊しないことを今度は国民・有権者が安倍さんに見せつけてあげる番ではないか。

好きな言葉④ 道を聞くなら盲人に聞け  宇治敏彦

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 大分前の事だが、女優の水沢アキさんが盲人の音楽家と目黒区の広報で対談しているのを読んで「そういうことか」と感心したことがある。水沢さんのお父さんが出勤途上の駅で毎日、盲人女性と出会うのでホームから転落しないよう案内をしてあげたそうな。ところが某日、お父さんが風邪をひいて案内が出来なかった日があった。その時に盲人女性はホームから転落する事故を起こした。普通ならここで「やっぱり私が同道できなくて済まなかった」と反省するところが、父親の反省は違っていた。「私が毎日案内してあげたせいで彼女の持ち前の能力を弱めてしまったのではないか」と。
 対談相手の盲人音楽家は、これに応えて次のような話を披露した。「私が横断歩道を渡ろうとしていたときオートバイの青年と接触事故を起こした。青年は陳謝したが、私は『早く行ってください。盲人を傷つけたと分かると罪が重くなるから』と。彼を許してあげたことで、私も救われた気持ちになり、その後の人生に自信が持てた」
 盲人は確かに弱者ではある。だが弱者扱いされることを嫌う側面もある。前回の「好きな言葉」で取り上げた瞽女の小林ハルさんは、相手の着物の色まで分かったという。
 「道を聞くなら盲人に聞け」。私も通勤の際に地下鉄霞ヶ関駅で下車する盲人男性に行き合うことがある。白い杖は使っているが、彼の歩く速さに私はついていけない。健常者とは違う能力が自然に備わっているのかもしれない。道を尋ねるのに健常者に聞くより盲人に聞いた方が的確に分かりやすく教えてくれるというのも、そのようなことを指す言葉だ。盲人ではないが、「これは道案内の名人だ」と感じ入った人がいる。将棋の永世名人だった大山康晴さん(1992年没)と赤阪見附に近いフグ料理屋で会食した際の事だが、確か当時は杉並方面にお住まいだったと思う。会食が終わりに近づくと奥様に「車で迎えに来てほしい」と電話した。その道順説明がまことに見事で、まるで詰将棋をしているように感じた。大山さんにとっては初めてのお店であった。瞽女の人たちも同様に道に精通していたのであろう。程好い時間に「大山先生の奥様がお迎えに見えました」と店の人から連絡があった。

「芥川賞」又吉直樹がうける訳とは  宇治敏彦

 毎年2回の芥川賞・直木賞の贈呈式には、時間が許す限り出席しているが、今年8月21日の贈呈式ほど賑わったことはなかった。お笑い芸人の又吉直樹さん(35歳)が小説「火花」で芥川賞を受賞したからであろう。帝国ホテルの大きな部屋には、表彰台の前を大きく取り囲むように記者とカメラマン用のコーナーがロープでつくられていた。芥川賞選考委員の代表が遅れたので、講評は直木賞の東山彰良さん(受賞作「流」)から始まり、そして芥川賞の羽田圭介さん(受賞作「スクラップ・アンド・ビルド」)と又吉直樹さんへと移った。両賞の選考委員によれば「直木賞は満場一致という稀有な例」で「芥川賞も文句なく2人に決まった」という。又吉さんの「火花」は既に230万部以上発売されており、芥川賞受賞作品としては村上龍さんの「限りなく透明に近いブルー」を上回る人気だという。
 実は小生も受賞式当日に「火花」を求めて、途中まで読んだところで出席した。あわよくばサインをとの私欲もあったが、残念ながら主催者側の御達しでサインは駄目だった。ジャケットにネクタイというお笑いタレントらしからぬ出で立ちの又吉さんに対する第一印象は「この人、ホンマにお笑い芸人なの?」だった。式後に名刺を出してあいさつした際も「無口な学者か評論家」といった感じを受けた。
 受賞作の「火花」は徳永というお笑い芸人が主人公で、奇想天外な言動に終始する先輩のお笑い芸人・神谷と行動をともにしていく物語だ。作者自身を連想させる徳永が、多大の借金を抱えながらも自分を飲み食いさせてくれ神谷の芸熱心さに惹かれつつ、最後は先輩が胸にシリコンを入れて巨乳にする姿にあきれ返る。
「神谷さんは、窓の外から僕に向かって『おい、とんでもない漫才思いついたぞ』と言って、全裸のまま垂直に何度も跳ね美しい乳房を揺らし続けている」。
これがラストシーン。作者は、この小説で一体何を言いたい、書きたいのだろう。贈呈式のパンフに乗った又吉さんの「受賞のことば」にこんなエピソードが載っている。
「久しぶりに帰省した。父は痩せ細り、そこだけ以上に膨らんだ腹をさすりながら『こうなったら、もうあかんのぉ』と弱弱しくつぶやくと、自分の部屋に戻った。朝が来る前に僕は家を出ることにした。父の部屋から啜り泣くような声が聞こえた。真っ暗な廊下に立ち、僕はドアに耳を近付けた。耳を澄ますと、父はバラエティ番組を観ながら、楽しそうに笑っていた。全く泣いてなどいなかった。僕の安易な想定を現実は簡単に乗り越えて行く。そんな現実を、越える表現を目指したい」
つまり父は神谷先輩と同じように、真面目人間・又吉さんの心配をよそに現実の人生を堪能し、したたかに生きているのだ。そこを巧みに描写しているのが「火花」である。お笑い芸人の芥川賞。それは外面の「うけ」であって、作家・又吉直樹が小川洋子さんなど9人の選考委員から「うけた」内面の理由は、「人間とはよそ様が想像するより意外にしたたかな存在」という上記のような人間観察にあったのではなかろうか。

好きな言葉③ いい人と歩けば祭 悪い人と歩けば修行  宇治敏彦

いい人と

 「人間国宝」だった瞽女(ごぜ)小林ハルさん(1900~2005)の言葉。下重暁子さん(作家、元NHKアナウンサー)が書いた「鋼(はがね)の女(ひと)」のモデル。瞽女とは「三味線を弾き、唄を歌うなどして米や金銭を得た盲目の女」(広辞苑)のことで、越後地方に多かった。篠田正浩監督の「はなれ瞽女おりん」という映画もある。下重さんの実家(新潟県高田)は瞽女たちが泊まる「瞽女宿」だったそうだが、今年3月、富山市で開催された日本ペンクラブ(浅田次郎会長)の「平和の日」集会で、1700年代から昭和期まで存在した瞽女の役割について下重さんは、次のように語っている。
 「瞽女さんをみんなが大事にした理由が3つある。一つは、昔は芸能をテレビで見るなんてことはなかったから、瞽女さんたちが来て、歌を聴かせてくれたりしないと、辺ぴなところでは聴けなかった。だから芸能者としてすごく大事にされた。その次には、巫女的な存在だった。養蚕をやっていた家が多かったですから、瞽女さんが来てくれると、その家のお蚕の糸の出が良くなるとか、そういうふうにお祈りしてもらった。3つ目は、これが面白いのですが、ニュースですね。瞽女はずっと歩いて来ますから、いろいろなことを見聞きしているわけです」
 「最後の瞽女」といわれた小林ハルさんは生後3か月で白内障により失明。5歳で瞽女修行をして8歳で初巡業に参加し、主として新潟、山形、会津などを回った。瞽女たちは集団で行動した。それだけに姉弟子が意地悪だと苦労し、気の良い仲間と一緒だと毎日が祭りのように楽しかったという。ハルさんが最初についた姉弟子は相当の意地悪をハルさんにしたらしい。それを「修行」と割り切って耐えに耐えたハルさん。この苦労があったからこそ「人間国宝」にもなれたのだろう。
 いじめに会わない子供はいないと思う。私も小学生の頃はチビだったし、よく学友から「ウジ虫、ウジ虫」などと苗字に引っ掛けていじめられたものだ。しかし、同時にそういう悪童に立ち向かって懲らしめてくれる友もいた。新聞社に勤めることになってからも同様だった。やっかみもあれば、足を引っ張る同僚もいる。と同時に、そんな同僚をたしなめ、自ら喧嘩を買ってくれた先輩もいた。それは全盲の瞽女・小林ハルさんの心痛に比べたら1万分の1程度の苦労だったかもしれない。しかし、「いい人と歩けば祭、悪い人と歩けば修行」を実感した。特に「悪い人」と一緒でも、そこで絶望せず、「これも修行のうち」と前向きに捉えて芸に打ち込んだハルさんを見事と思うし、その心意気に見習いたいと思う。

「私は」が聞こえて来なかった安倍首相談話  宇治敏彦

 安倍晋三首相は戦後70年にあたり8月14日、閣議決定を経て首相談話を発表したが、総じて「評論家的表現」「第三者的表現」が多く、内閣総理大臣たる政治家・安倍晋三個人が先の大戦について何を反省・謝罪し、それらの教訓を今後にどう生かして平和を維持していくのか、といった決意・覚悟のほどが伝わってこなかった。
 新聞各紙には談話全文が日本語、英語で掲載されているが、2つを対比すると、以上の指摘がより鮮明になる。たとえば「戦後70年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます」「今なお言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じえません」との個所では、英文で「I express my feelings of profound grief…」「I find myself speechless and my heart is rent with the utmost grief」などと主語が安倍個人であることを補っている。
しかし、日本語全文では「私は」という個人表現は見当たらず、「私たち」(we)、「日本」(Japan)で統一されている。わずかに談話発表前の冒頭発言で「世界の中で日本がどういう道を進むべきか、深く模索し、構想すべきである、私はそう考えました」「政治的、外交的な意図によって歴史がゆがめられるようなことはあってはならない、このことも私の強い信念であります」などと3か所、「私は」を使っているだけだ。
 「日本国の総理大臣だから」「閣議決定した談話だから」、あえて「私は」という一人称を使う必要はあるまい、との見解もあるだろう。また有識者懇談会「21世紀構想懇談会」の報告書や連立を組む公明党の主張に配慮したことも「私は」をあえて避けた理由の一つかもしれない。
だが無機質な日本国代表が出している戦後70年談話ではない。政治家・安倍晋三が日本国首相として世界に発信しているメッセージなのだから「安倍色」を出して当然だし、出すべきだったろう。同じ米大統領でもリンカーンとオバマでは違うのと同様だ。
 20年前の終戦記念日に「村山談話」を出した村山富市元首相が「安倍談話」に対して「私の談話が引き継がれた印象はない」「『植民地支配』『侵略』という村山談話のキーワードを薄めたい気持ちだったのだろう」(14日夜の会見)との印象を述べているのも、もっともだ。
 もし今回の「安倍談話」に「私は」という主語を入れたらどうであったろう。たとえば14日発表談話の中ごろに「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります」(Such position articulated by the previous cabinets will remain unshakable into the future)との一文がある。これを「私はこうした歴代内閣の立場を今後も死守してまいります」と宣言するだけで、談話全体に対する印象は大幅に変わったであろう。
 そうしなかった安倍首相の真意は何か? 「そんな言い方したら、なんで集団的自衛権容認の新安保法制を国会に出して、強行成立しようとするのか、と責められるじゃないか」。
あえて一人称「私は」を避けた意図が透けて見える。

自殺・死体・遺骨の映像が訴えること  宇治敏彦

 新聞もテレビも日本のマスコミは、人の死や殺人行為を報道しても死体(遺体)の写真・映像を新聞紙面やテレビ画面に原則として出さないというのが慣例になっている。読者や視聴者が嫌悪感・不快感を覚えるし、被害者家族などにとっては耐えられないケースも多いからだ。
 東日本大震災の直後に東南アジアからやってきたジャーナリストたちが「わが国では台風被害の大きさを報道するために遺体の写真を新聞に掲載するケースもある。日本ではそうした写真を避けながら被害の実態を報道する姿勢に感心した」との感想を述べていたことを思い出す。
 だが戦後70年の特集番組で、NHKをはじめテレビ映像に当時の米軍などが撮影した戦死者の映像や死骸写真が、このところ頻繁にテレビ画面に映し出される。なかでも筆者が一番ショックを受けたのは昭和20年春のサイパン島や沖縄決戦の際に米軍が撮影した母子自殺の映像だった。母親が断崖絶壁から幼児を海に向かって投げ捨てる。海中に沈んだわが子を見届けた後、今度は母親自身も断崖から身を翻す。カメラマンの目は、海に漂う幼児の死体を容赦なく写していく。私は言葉をなくした。
 そのほかにも日米双方の兵士の死体、さらには遺体に向かっても攻撃を続ける米軍兵の姿や、岸辺に無造作に並ぶ死体の山など、正視するのが苦痛な映像が続く。
 同年8月6日、広島に原爆が投下された直後の写真も痛々しい。日本人が撮影したもので、米側に没収されて写真の中には、皮膚がはがれ、髪の毛がチリジリに焦げた子供の姿もあった。
 さる8月8日夜、放映された「特攻作戦」(NHKテレビ)特集では、特攻の成果が虚偽報告(米側記録では米艦船の特攻による破損は58艦に対して日本側記録では228艦)され、嘘の上塗りが重ねられていった。その理由の一つに「一撃講和」(何か米側に被害を与えて、それをきっかけに終戦に持ち込む)という考えがあったと当時の軍関係者が証言している。しかし、沖縄では全員が特攻になって、結果的に特攻攻撃での死者は4500人以上に達した。直接の死体映像ではないが、米側撮影のフィルムで日本側の特攻機が次々に上空で撃ち落とされ、機体がバラバラになって海中に没していく様は、まさに若き日本兵の死を見るに等しい。
 普段の報道では目にしない、また見たくもない、これらの映像を見て思うことは、戦争の悲惨さと同時に、「人間尊重」と相反する日本の戦前教育の大罪である。
 「日本兵は勝ち目がなくなると、最後の手りゅう弾を敵に投げるのではなく、自分の胸にたたきつけて自決した。そんな遺体が散らばっていた。全滅ではなく玉砕。他の国ではあり得ない光景だった」(8月9日、東京新聞朝刊)。戦時中、米海軍通訳士官だったドナルド・キーン氏は、こう書いたうえで、「日露戦争当時は多くの日本兵が捕虜になった記録が残っている」「それが太平洋戦争時には一変していた」と分析している。
 その原因は、どこにあったのか。それを突き止めることが政治家やジャーナリスト、ひいては日本人全体の責任ではないだろうか。
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