「東日本大震災から5年」が突き付けている課題   宇治敏彦


 東日本大震災から5年を経過しても、なおストンと胸に落ちないことがある。「命が第一」という政(まつりごと)が本当に前進しているのだろうか、という疑問だ。
 大津波などで1万8000人以上が死亡したが、まだ行方不明の方が2500人を超えている。岩手、宮城、福島の3県では今も仮設住宅に暮らす人々が5万8000人いる。災害公営住宅の建設が遅れ、いまだ完成は6割にとどまっているからだ。1995年の阪神淡路大震災では仮設住宅居住者は5年でゼロになったのと大違いである。避難生活者は3県で約17万4000人。特に東京電力福島第一原発事故があった福島県では約4万3000人が県外での避難生活を送っている。言葉を変えた表現でいえば、3県で暮らしていた人々は「故郷を捨てざるを得なかった」のである。もっと厳密にいえば住みたくとも「住めない故郷」なのだ。
 全国的な人口減少傾向の中で、被災地を含む東北各県の人口減が目立っている。震災前の2010年と震災後の2015年の国勢調査比較では、宮城県を除く秋田、青森、岩手、山形、福島5県が人口減少率で全国1~5位となっている。宮城県でも女川町では37%減、南三陸町では29%減などと人口減が際立っている。福島の東電第一原発が廃炉になるまで40年ぐらい廃炉作業が続けられる。浪江、双葉、富岡といった町には町名は残っても通常生活が出来る町とはなっていない。
 「被災者の心に寄り添って」と安倍晋三首相が国会や記者会見で発言しても、何か虚ろに聞こえるのは上記のような復興作業の遅れ、あるいは復興不可能地域もあるからだ。
 そうした中で大津地方裁判所が3月9日、関西電力高浜原発3、4号機(福井県高浜町)の運転差し止め決定を下した。「原発事故が起きれば環境破壊の及ぶ範囲はわが国を越える可能性さえある。発電の効率性は甚大な災禍と引き換えにすべき事情であるとは言い難い」「過ちに真摯に向き合うなら、対策の見落としで過酷事故が生じても、致命的な状態に陥らないようにするとの思想に立ち新規制基準を策定すべきだ」(仮処分決定の骨子)
 この判決こそ一般市民の「心に寄り添う」ものではないだろうか。「のど元過ぎれば熱さ忘れる」の考え方は原発事故には通用しないと思うべきだ。北欧のフィンランドは「クリーン国家」「クリーンエネルギー」を国策にしている。筆者はかねて日本が「クリーン国家」の見本になるべきだと提唱してきたが、安倍政権もフィンランドに見習って「クリーン・ジャパン」の旗を高く掲げてほしい。
 私たち国民も東日本大震災被災地の早期復興に向けて自主的な寄付とは別に実質所得の2.1%相当を「復興特別所得税」という形で平成25年分から平成49年分まで毎年負担することになっている。被災地以外の市民たちが「喜んでこの税金を払おう」という気持ちを持ち続けられるようにするためにも、「命が第一」という政治とは、どのようなものか、安倍首相に限らず与野党の政治家がもう一度、問い直すべきではなかろうか。
 
 

環境省を福島県に移転してはどうか   宇治敏彦

 「地方創生」政策の一環といて中央省庁機関の地方移転が検討されている。文化庁の京都移転が最有力視されている。1月末に開かれた移転に関する政府有識者会議と内閣官房によるヒヤリングで山田啓二京都府知事が「文化財の多い京都こそ文化庁の移転先にふさわしい」と強調し、安倍晋三首相も国会答弁で京都移転に前向きな姿勢を示したからだ。
 政府機関の地方移転の推進役である石破茂地方創生担当相は「移転を希望する地域に、移転でその地域だけでなく、日本全体のプラスになるものであることをお示しいただく」と述べており、3月中には地方移転の基本計画を決める段取りだ。
 文化庁の京都移転のほか消費者庁の徳島県移転なども話題にのぼっている。文化庁の京都移転は、すんなり分かるが、消費者庁がなぜ徳島県なのか分かる人は少ないのではないだろうか。
 目下、中小企業庁、特許庁、気象庁、観光庁なども地方移転の対象機関候補にあがっているが、関係機関はいずれも否定的という。地方移転といっても、多くの人が納得するような意味づけが必要だろう。
 その点からいったら、「環境省を福島県に移転してはどうか」と筆者は提案したい。まもなく東日本大震災・東京電力福島第一原子力発電所の放射能漏れ事故から満5年を迎える。現地の人々から「復興はまだまだ」という声が聞こえてくるが、その通りだろう。特に原発事故で廃炉に最低でも30年から40年の時間を要すると東電は見ている。そうした中で丸川珠代環境相は2月7日、長野県松本市で開かれた会合で、東電福島第1原発事故後に定めた除染などの長期目標について次のように述べた。
 「何の科学的根拠もなく、誰にも相談せず、その時の環境大臣が1ミリシーベルトまで下げた」「その結果、帰れるはずのところにいまだに帰れない人がいる」
 除染などの長期目標は国際放射線防護委員会(ICRP)が事故後に目指すべき線量として勧告する年1~20ミリシーベルトのうち最低の数値である。それを環境大臣が「それは民主党政権当時の決定で意味がない」と言わんばかりの態度では、なにをかいわんやだ。その後、丸川大臣は批判を受けて発言を撤回したが、避難を余儀なくされている福島県の人々からみたら「行政の責任者が私たちの気持ちも知らないで」と怒りが収まらないだろう。
 環境問題の責任者が、こんな認識だからこそ、環境省を福島県に移転して、原子炉の廃炉問題を含めて日本の環境政策全体の見直しを推進し、「クリーン・ジャパン」の国造りを目指したらどうだろうか。

出会った人々⑱若かりし京極純一東大助教授の思い出  宇治敏彦

 計量政治学プラス独自の思潮で「日本の政治」(1983年、東京大学出版会)といったベストセラーを著した京極純一東大名誉教授が2月1日、92歳でなくなった。心からご冥福をお祈りします。学徒出陣を経験した京極さんは、常に戦後民主主義の立場からさまざまな著作や論文を発表するかたわら東大教授の後は千葉大教授、東京女子大学長、年金審議会会長などを歴任した。
 政治記者だった筆者が京極さんと親しくお付き合いしたのは、東大助教授当時の昭和30年代である。当時、京極さんは東京・目黒区東山の高台にあった公務員宿舎に住んでいた。わが家も東山の目黒川近くにあったので坂上の公務員宿舎までは、ゆっくり歩いても5、6分の至近距離だった。京極助教授のご意見を聞いてみたくて最初に宿舎にうかがった時のテーマが何であったかは忘れてしまったが、2Kぐらいの広さしかない宿舎内は書物や資料が積み重なっていて足の踏み場もなかった。
 昭和38年(1963年)のことだが、政治部の渡辺博先輩と2人で「政治を科学する」と題する企画を始めた。「政治から党利党略、派閥意識、政治的な思惑といった“不純物”を除き、もっと客観的な政治分析ができないだろうか」というのが企画の狙いだった。毎週1回、東京新聞朝刊に9か月ほど連載した。国会議員を対象に毎日どんな食事をとっているか、どんな本を読んでいるかなどアンケートを取って、それを医学者(林髞慶大教授)や作家(武田泰淳氏)らに分析してもらい「ビタミンと民主主義」「政治家の知的水準」といった記事にまとめた。当時は「○○を科学する」という表現が新鮮だったせいか、しばらくすると他紙が「野球を科学する」とか、「哲学を科学する」といった企画をやりだして、ちょっとした「科学する」企画ブームになった。
 同年の終戦記念日に掲載した「政治を科学する」では「ハシゴ段評定法」(アメリカの社会心理学者H・キャリントルによって考案された意識調査方法)を採用して、国会議員や一般人を対象に「戦後18年の日本をどう評価するか」の調査を実施した結果を記事にした。「あなたの現在の生活は10段のはしご段でいえば何段目と思いますか」「5年前、5年後は何段目と思いますか」「日本という国は何段目と思いますか」といった意識調査である。その結果をもって京極先生のお宅を訪ねた。京極さんも計量政治学の先駆者として調査結果に大いに関心を示し、私に次のようにコメントしてくれた。
 「現在の日本社会は決して平等の社会とはいえないようだ。つまり自分の生活や国の評価に常に高い位置づけを与えるグループと、逆に常に低い位置づけを与えるグループとにはっきり色分けされる」「過去の日本を高く評価している人は現在・将来の日本も高く評価し、過去の日本を低く評価する人は現在、将来の日本も低く評価する傾向がある」「自分の将来の生活が高くなってゆくことが出来れば日本の国も高くなろうし、生活程度が向上しなければ日本も発展しないと見ている人が多い」
 これらのコメントは記事に生かされた。仕事の話の合間にいろいろ雑談をしたが、私にとって意外だったのは、ちょっと世の中を斜に構えて見ておられたのか、皮肉っぽい表現が先生の口から、しばしば飛び出してくることだった。町中で行き合った時などは、いつもニコニコしておられたが、若き日の京極純一東大助教授には、そんな一面もあったことを付記しておこう。

政治家の資質とは何か?   宇治敏彦

 
 政治家の劣化現象は加速するばかりで、「日本の政治は大丈夫か」と心配になる。
北方領土問題で島尻安伊子(しまじり・あいこ)沖縄・北方、科学技術相(50歳)は、事務局が用意した文書で「歯舞」が読めず、「はぼ?――何だっけ」。そばから秘書官が「ハボマイ諸島です」と囁く(2月9日の記者会見)。上智大を卒業し、沖縄市議や自民党女性局長、参院環境委員長などを歴任した政治家である。瞬間的な度忘れとしても、北方領土担当の責任者が「歯舞」を読めなくてどうする。
 高市早苗総務相が同じ日の衆院予算委員会で「改憲に反対する内容を相当時間、放映した場合、電波停止になる可能性があるか」(民主党の玉木雄一郎氏)との質問に「私の就任中はないだろうが、将来にわたって一切ないとは担保できない」と答弁し、電波停止命令の可能性に言及した。安倍晋三首相もかねて放送法第4条(政治的公平性確保などを規定)をたてに「法規に違反すれば法に則って対応するのは当然」と主張している。しかし憲法21条では「一切の表現の自由は、これを保障する」と規定されている。古館伊知郎(テレビ朝日)、国谷裕子(NHK)、岸井成格(TBS)といったテレビ報道番組キャスターが2月一杯で降板する。いずれも政府・自民党から発言内容にプレッシャーをかけられた人たちである。政治とマスメディアは、お互いに緊張関係を維持しつつ切磋琢磨していくのが本来のあるべき姿で、「俺たちに反対したから」「俺の悪口を言ったから」といった理由で政治家がマスメディアに圧力をかけるべきではない。
 妻の金子恵美衆院議員(自民)が出産のため入院中なのを利用して京都の自宅に女性タレントを泊めていた宮崎謙介・前衆院議員(自民党、35歳)という男も「政治家」というより「人間」として失格だ。彼が議員時代に「妻の出産を機に男性の育児参加を推進したい」と国会議員の育児休暇という新たな問題提起をしたことは記憶に新しい。ヨーロッパでは議員も育児休暇は当たり前だが、日本では初のケースなので興味深い研究テーマと思ったが、提起した本人が何回も不倫を繰り返していた議員とあっては問題外だ。
 さらに、この不倫を聞いた溝手顕正自民党参議院議員会長が2月12日、記者団に「うらやましい」と感想をもらし、「冗談」と弁解したが、思わず男の本音が出たというところか。
 これだけ取り上げただけでも「政治家の劣化」は目にあまる。まともな人間が政治家になりたがらない風潮が強まるだろう。落語家の桂文枝が三枝時代に自民党にかつがれて参院選に出ようと決意した時期があった。ところが家族、特にお嬢さんが猛反対で「政治家は悪いことをするからやめときや」と止めた。三枝は「お父ちゃんが悪いことをするように見えるか」と反論すると、彼女は「朱に交われば悪くなる」と言った。これで三枝は立候補を断念した。
 先の甘利大臣辞任事件のように、談合を有利に進めるために金を積んで政治家に陳情する有権者の側も良くないが、政治家のほうも「賎業」とみられる傾向が続くかぎり、日本の政治に明るい光がさすとは思えない。筆者は「総理大臣には30ぐらいの要件が必要」と書いたことがある(2003年「行政&ADP」6月号)。列記してみる。「組織を動かす力」「説明責任と説得力」「反対されても実行する勇気」「高い人気」「先を読む洞察力、先見性」「注意力」「公平性を重視する姿勢」「着実な実行力、堅実さ」「誠実な対応」「話術の巧みさ」「ユーモア精神」「粘り強さ」「大きな声」「ハンサム・美貌」「人間的魅力・人柄」「機敏な判断力」「危機察知能力」「常に笑顔を絶やさない」「聞き上手」「物事処理のスピード」「物事処理の正確さ」「芸術、文化への理解」「部下を叱る」「バランス感覚」「健康、スタミナ」「発想力、企画力」「交渉能力」「前向きな姿勢と能力」「撤退する勇気」「失敗を恐れない心」。
 これらは思想・信条を除外してもことだが、当時は小泉純一郎首相時代で「話術の巧みさ」「芸術・文化への理解」「高い人気」など10項目は合格点と思った。今の安倍首相は「組織を動かす力」「高い人気」「ハンサム」など3項目では合格点だが、ほかは?マークがつく。小選挙区制の定着で「権力」「カネ」「人事権」などが官邸に集中し、総理大臣の力はますます強まっている。だが「良い政治」「素晴らしい政治」になっているかというと、そうは思えにない。駄目な政治家が増えていることも、安倍首相の「強がり独り芝居」を増長させる結果になっている。小学校のクラス委員長候補にはどんな仲間が適任だろう。国民全部が、そんな原点に返らないと、素晴らしい政治家、素晴らしいリーダーは出てこないだろう。
 



清原和博・元プロ野球選手が覚せい剤に頼った背景は?  宇治敏彦

 筆者が10数年前、調布市内から渋谷区内のマンションに引っ越してきた頃、広尾高校近くを散歩する清原和博に何回か行き合ったことがある。いずれも幼い男の子の手を引いて、今は山種美術館になっているビルの近くにある雑貨店にその子の駄菓子を買いに来てきていたようだった。子どもは100円硬貨を入れると、おもちゃのフィギュアが出て来るのをやりたがって、清原は笑顔で応じていた。本当に幸せそうな親子に見えた。
 2月3日夜、覚せい剤の所持・使用容疑で逮捕され、警視庁に車で連行されていく時の清原は終始うなだれており、短く刈り込んだ頭髪と口の周りの鬚が一層哀れさを誘っていた。
そこには子どもと散歩を楽しんでいた往時の面影は、微塵も感じられなかった。
戦後プロ野球界で有数のホームランバッターの一人だった彼が、なぜ覚せい剤に頼るような「駄目人間」になってしまったのだろうか。2014年9月に離婚を発表し、そのころには2人になっていた息子たちを妻側に渡したことが一つの要因ではないかとみられている。
 彼が昨年11月からインターネット上で始めたブログで、2人の息子と焼き肉を食べた時の感想として「あっという間に時間が過ぎた。別れ際に最後まで手を振る2人に涙がでた。今、一人ぼっちで部屋にいる。さみしい」(昨年12月14日)などと告白していた。
 たまたま「清原逮捕」の日の朝日新聞夕刊に「離婚『子に会わせて』急増。面会調停 年1万件 7割が父」という記事が掲載されていた。「調停で離婚した夫婦の子どもの約9割は、母親が親権者になる」「裁判官は『父親の育児への意識の高まりから、妻と別れても子どもとのつながりを求める父親が増えたのだろう』と話す」。
 私は「父親の育児への意識の高まり」に関係なく、子どもと離れた淋しさを実感する父親が増えたのだと思う。それだけ現代人は「孤独な環境」を意識する機会が増加しているのではないか。特に清原のように現役選手時代が華やかで、金使いも派手だった人物が妻や友達からも冷たい目で見られるようになれば、一般人以上に耐えがたい寂寥感を味わうに違いない。その寂しさを酒や別の女性で紛らわすことも不可能なときに「劇薬」として覚せい剤に走ったのは分からないではない。
 どうして覚せい剤を手にいれたのかは、これからの捜査に待つしかないが、清原の「心の闇」にたどりつけば、本当は死ねるのなら死んでしまいたい、という瀬戸際にあったかもしれない。その救いが覚せい剤の常用だったろう。だが、そこはどんなに苦しくとも踏みとどまって事態の改善に努力する「大人の決意」が出来なかったものか。それを「幼児性」という言葉で表現するのは酷かもしれないが、この寒空に駅の構内などで段ボールを布団代わりに寝ている人たちをみると、「清原よ、こうやってどっこい生きている人たちもいるんだぜ」と言ってみたくなる。

タブーやアキレス腱をどう打破するか  宇治敏彦

 人種差別、貧富の格差拡大、宗教・宗派対立、大規模テロや銃乱射事件…。人類が抱えているタブーやアキレス腱にどう向き合い、いかに解決の道筋をつけていくのか。それが2016年の世界各国に課せられている最大の「宿題」になっています。
 「憎しみの連鎖現象」が目立った2015年でした。特に過激派集団「イスラム国(IS)」によるテロ行為が世界の市民を震撼させました。イスラム過激派には縁遠いと思っていた日本人も、ほぼ1年前の2015年冬、ジャーナリストの後藤健二さんら日本人2人がISに殺害され、「我々も例外ではないのだ」と痛感したのでした。
フランスでは政治週刊紙「シャルリ―・エブト」の本社が銃撃の的になり12人が殺害(2015年1月)され、パリの同時多発テロ(同11月 直後に行われた地方選挙(広域圏議会選)では「移民排斥」「治安強化」などを訴えた極右政党の国民戦線(FN)が躍進し、マリーヌ・ルペン党首は「われわれはイスラム過激派への怒りに燃えている」と語りました。
アメリカでも2015年12月、カリフォルニア州の障害者福祉施設でIS支持者の夫婦による銃乱射事件が起きて14人が死亡しました。オバマ米大統領は「テロの脅威が新たな段階に入った」と述べましたが、「ポスト・オバマ」を決める次期大統領選の共和党有力候補ドナルド・トランプ氏(不動産王)が「イスラム教徒の米国への入国を全面的かつ完全に禁止すべきだ」と発言するなどフランス同様に米国でもイスラム排斥主義が台頭し始めています。
まさに「目には目を」の思想です。オバマ大統領のテロ対策に「なまぬるい」と不満を持つアメリカ人が昨年5月の51%(CNNテレビ調査)から最近では60%に増えているのも右派台頭と同根と言えるでしょう。
だが、行け行けドンドンの勇ましい「アンチIS」「イスラム排除」論で事態が改善するものではありますまい。むしろ火に油を注ぐ危険性を内包しています。
では、銃撃の報復合戦にしない打開策とは? 
第1にはIS支持者の背景にある「人種差別への不満」「経済的貧しさ」「不公平な社会システム」といったテロの火種への改善策を提示できる国家指導者が求められます。2000年にシリアでアサド政権が誕生した際には、民主化を含む政治改革、腐敗官僚の追放など国民から好感をもたれた政治が行われましたが、「絶対的権力は絶対的に腐敗する」といわれるように3選目のアサド大統領の独裁ぶりに同国民の批判が強まっています。
  国連の推計によると紛争などに伴い世界中で約6000万人が国内外への避難を余儀なくされています。特にシリアでは2011年の内戦以来、人口2200万人のうち既に430万人以上が欧州などへの難民になっています(日本に対しては63人のシリア人から難民申請があり、受け入れたのは3人)
 アサド政権にかわる民主的政権の誕生を国際世論が後押しすることが急務です。ミャンマーでは長い軍政のトンネルを抜けて総選挙で民主化推進の「スーチー政権」が誕生しました。これも国際世論の絶え間ないバックアップがあったからです。「アラブの春」で始まった民主化運動がシリアで早く実現し、難民たちが自国に戻ってこられる環境づくりを日本も含めて先進国は今まで以上に強力に推進しなければなりません。
  第2には、「貧困」や「格差」といった社会的矛盾を解決するビジョンや政策の提示・実行です。フランスの経済学者トーマス・ピケティ氏(世界的ベストセラー「21世紀の資本」の著者)が指摘するように「公正な社会発展モデルを実現する」ことが必要です。特にピケティ教授は、エジプトからシリア、イラク、アラビア半島を経てイランに至る人口約3億人の一帯では「石油資源を持つ君主国が地域のGDPの60~70%を占めている。それは人口で10%足らずに過ぎない。ここは世界で最も格差の大きい地域なのだ」(仏ルモンド紙抄訳を朝日新聞が2015年12月1日朝刊に掲載)と指摘しています。人口の1割足らずの金持ちが国を支配しているところにISのような不満過激派を生み出す主因があるというのです。世界の政治指導者は「国富の適正な配分」に汗をかくべきです。
  第3は、特に米国社会に言えることですが、「銃社会」「黒人差別」という長年のタブーがいまだに克服されていないことです。カリフォルニア州での14人殺害事件を受けてニューヨーク・タイムズ紙は1面に「銃の蔓延」と題する社説を掲載し、次のように主張しました。
 「人間を素早く効率的に殺すように作られた武器を市民が合法的に購入できるというのは、国家の恥であり非道徳的だ」
 また黒人差別問題ではローザ・パークス事件(米アラバマ州で白人にバスの席を譲らなかった黒人女性が逮捕された事件)60周年集会で、担当弁護士だったフレッド・グレイさん(84)が「今でも平等と正義を求める戦いが続いている」と訴えました。
 こうした「アメリカの悩み」に筆者は16代大統領リンカーンの言葉を思い出しました。
「The ballot is stronger than the bullet(投票用紙は銃弾より強い)」。
人間は皆平等という信条から奴隷解放を実現した大統領でしたが、1865年、観劇中に皮肉にも上記の言葉とは裏腹に銃弾に倒れて命を落としました。彼が言いたかったことは、銃の打ち合いで勝負を決めるよりは投票用紙に政党名や候補者名を書くことで「明日の政治」を決められるなら、それこそ近代国家ではないか、ということでした。アメリカでは、銃の所持は身を守るための防禦装置として当然という考えが根強いとされてきました。しかし、アメリカ人も今こそ「銃社会」「人種差別」から脱却すべき時です。パリの同時多発テロで愛妻を失った34歳のジャーナリストはネット上で「テロリストを憎まない」と発信し、愛は軍隊より強いと訴えました。
2016年は伊勢志摩でサミットが開催されます。警備当局はテロ防止に全力を挙げています。当然のことですが、同時に安倍首相はこのサミットを世界からISのような過激派が姿を消す世界にするための提案をしてほしいものです。先進諸国がタブーやアキレス腱を克服して「銃規制の強化」「人種差別の撤廃」「公平化に向けた富の再配分」「若者たちの働く場の増大」など希望の持てる「太陽政策」実現をサミット宣言に盛り込んでほしいものです。
(注)これは雑誌「行政&情報システム」2月号に掲載された原稿の転載です。
















「見える化」の必要性  宇治敏彦

甘利明経済再生大臣が建設会社から口利きの見返り名目で現金を受け取っていた疑惑問題で、通常国会は冒頭から波乱含みである。国会後に参院選挙(ひょっとしたら衆参ダブル選挙)を控えているだけに与野党とも、下手な妥協はできない。安倍晋三首相の施政方針演説が行われた1月22日の衆院本会議で、甘利大臣の経済演説が始まると大半の野党議員が退場したのも「辞任しなければ国会審議に応じないぞ」という脅しでもある。審議ボイコットは沢山見てきたが、大臣の所信演説を聞かずに退場というのは、あまり記憶にない。それにしても自民党、いや政界全体の金権腐敗体質は、「三角大福中」時代に比べたら小粒化したとはいえ、根絶とはいかないようだ。大臣室、議員会館といった場を利用しての現金授受は、第三者から「見えない」ケースが大半だ。「人間は見えないところで悪事を働く」のは昔から変わっていない。
 ハインリッヒ・シュリーマン(トロイアの遺跡発掘で知られる考古学者で「古代への情熱」などの著書がある)は、若いとき貿易商をしていたが、ゴールドラッシュのアメリカで巨万の富を築くと、41歳ですべての経済活動を止めて、43歳から念願のトロイア発掘の前に世界漫遊の旅に出た。「シュリーマン旅行記 清国・日本」(石井和子訳、講談社学術文庫)が興味深い。中国(当時の清国)の天津や北京がいかに汚い町で、人々も卑しいかを具体的に記述したあと、横浜港に着いて江戸時代の日本人の潔癖さ、正直、きれい好きにびっくりしたと書き残している。「日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。どんな貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている」「(役人がチップを拒否したことに関して)彼らに対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら『切腹』を選ぶ」などと称賛している。
 ブラジル移民をした日本人に対する現地の評価も「勤勉」「正直」「親切」「真面目」といったものであった。
 筆者の疑問は、こうだ。本当にそうなのだろうか。多くの人が見ているところでは、確かに「正直」「親切」などに見えるが、人が見ていないところでも果たしてそうなのだろうか。甘利大臣のケースに限らず、カレーチェーン壱番屋(愛知県一宮市)が廃棄した冷凍カツの不正転売事件、東芝の不適切会計問題、旭化成、三井不動産子会社などが販売した杭打ち工事のデータ流用、日本マクドナルドホールディングスでの異物混入苦情、いまだに衰えぬオレオレ詐欺など昨年来、さまざまな不正・腐敗・詐欺事件が続いている。名門料亭「吉兆」の食べ残し料理のまわし事件など、まだ鮮明に残っている記憶もある。これらの事件や疑惑に共通するのは「誰も見ていないだろうから」「外部の人間には分かるまいから」という当事者の心理である。
 たまたま乗ったタクシーの運転手さんが漏らした一言が常に私の頭にある。「お客さん、日本人の道徳心はひどいですよ。たばこの吸い殻だけでなく、ジュースの空き缶、噛んだガム、不要のごみ。何でも捨てていくのです。誰も見てないと思って捨てるんですが、タクシーの運転席からは良く見えるんですよ。日本人は模範的な人種なんて私は思っていません」
 多分、彼のいう通りだろう。皆が見ているところでは格好をつけているが、だれも見ていないところでは小悪、中悪、大悪をしがちなのが日本人に限らず、すべての人間の本性に違いない。とすれば「見える化」をさまざまな場で広げていくことしか、皆の心の中にある「悪魔」の出番を食い止める道はないのでないか。

240万人への期待と不安  宇治 敏彦

 今夏の参院選挙は、選挙権年齢が「18歳以上」(従来は20歳以上)に引き下げられたことにより、従来の選挙より新たに240万人(18歳、19歳)が投票権を得る。これは有権者の約2%に相当するが、選挙権が拡がるのは1945年以来71年ぶりのことなので、こうした若者たちの声が選挙結果にどう反映されるか、大きな関心を集めるに違いない。
 急速に進んだ人口構成の超高齢化現象によって政治も年金・医療・介護といった高齢者対策に重点が置かれがちだ。最近よく言われる「子どもの貧困」問題なども政治上の施策が高齢者対策に向きがちなために子供・若者対策が遅れている一例といえよう。
 18歳選挙権の実施は、若者たちが政治の「世代間格差」に抗議の声をあげる一つのきっかけになるだろう。
 だが心配なことがある。肝心の若者たちが「選挙権」という行為をどれだけ重視しているか。つまり参院選に実際に投票にいくかという問題である。権利はあっても、その権利を行使しなければ宝の持ち腐れだ。過去の国政選挙における年代別投票率をみると、前回参院選(平成25年7月)では50、60歳代の投票率は60%台なのに20歳代は33・37%と約半分の最低であった。衆院選(平成26年12月)でも20歳代の投票率は32・58%だった。つまり20歳代では3分の2は選挙に行かず、納税者としての重要な権利の一つである投票権を自ら放棄しているのである。
 18歳、19歳の若者たちは「初めての選挙権」行使ということで、「初体験だから行ってみるか」という気持ちになるかもしれない。しかし240万人をトータルで見ると「政治に無関心」ないしは「自分たちには関係ない」と思っている人が多いのではないか。確かに安倍政権の新安保法制強行でシールズ(SEALDs 自由と民主主義のための学生緊急行動)など若者たちの政治行動も目立ってはいる。
 だが朝日新聞デジタルでの「18歳アンケート」結果(1月3日、同紙朝刊)によれば、129人の回答のうち「18歳選挙権はいいことだ」と思っている若者(東京外語大学生)は53人で、「どちらとも言えにない」66人、「よくないことだ」9人など、歓迎は半数にも達しない。「18歳からの選挙権で日本の若者は変わるか」にも「変わる」は61人にとどまり、「わからない」30人、「変わらない」37人など、若者たちの「冷めた目」が気にかかるではないか。
 これは若者だけの現象ではあるまい。日本人全体が今の政治や政治家たちに、あまり期待感を持っていないのではないか。前回衆院選(平成26年)の投票率は52・66%と史上最低だった。有権者の半分近くは「投票なんて行ったところで」と投げやりなのだ。安倍首相は今年5月26,27日の伊勢志摩サミット(G7)で「世界のリーダー・安倍晋三」を誇示しようとしているが、一般市民は「暮らし向きを何とか良くしてくれよ」というのが本音だろう。
 さて240万人の18、19歳の諸君よ。確かに政治と庶民感情とのかい離は大きいが、絶望しないでほしい。これからの日本を背負っていくのは君たちじゃないか。まずは参院選に投票に行って、自分の決意を再確認することから、2016年以降の自分とこの国のために「自分は何が出来るだろう」と考えてみてはどうですか。

年賀状に見た日本社会の変化  宇治敏彦

 元日に多くの方々から年賀状を頂き有難うございました。世の中は、とっくにネット社会になっており、メールで年賀の挨拶を頂いた方々もいらっしゃいますが、根がアナログ人間の小生としては52円の葉書・切手を通して皆さんの生活感が伝わってくるのを嬉しく思っています。どんな変化が日本社会に起きているのか、頂いた年賀状から筆者の思いをお伝えします。
 「93歳になりました」とお二人からの年賀状。お一人は志垣民郎さんという元中央官庁の官僚。もう一人が会社の生命保険を担当した内藤美枝さんという元生命保険会社の外交員。俳優・志垣太郎の叔父にあたる志垣民郎さんは昭和18年(1943年)雨降る明治神宮外苑競技場で7万人の「出陣学徒壮行会」に参加した一人。年賀状には「(昨年)9月にはモネ展を40分待ちで見ました。10月には春画展を見ましたが、意外と女性の観客が多いのに驚きました。最近では始皇帝の大兵馬俑展を見ました。曽孫第2子が生まれました」とありました。羨ましい元気さですが、100歳以上が6万人を超えたという現在、90歳代でも「展覧会を40分待ち」しても見る志垣さんのような方々が確実に増えていると実感しました。
 と同時に80歳代の先輩たちからは「脳梗塞の後遺症で2本杖です」「パーキンソンに難渋しています」との年賀状も届きました。近年、ステッキをついて歩いている人を見かける機会が増えました。なかにはスキーのストックのように2本杖の方もいます。急ピッチで進む「超高齢化社会」。私は「逆さ富士型人口構成」と呼んでいるのですが、安倍内閣が目指す希望出生率1・8(現在は1・4)が困難な状況では逆さ富士のV型角度の上部がさらに広がってカルデラ(火山の大釜)型の「超々高齢化」日本になるので、と懸念されます。
 第2の変化は、現在の安倍政治への不満・批判を訴える人が増えていること。「初夢は安倍退陣」(河北新報OB)、「戦後70年の日本の平和を戦える国へ捻じ曲げようとしています。今年も護憲の会を続け、参院選につなげたい」(中日新聞OB)、「安倍政権に対して決める政治・実行する政治と評価する評論家もいるそうですが、果たして大丈夫?」(西日本新OB)、「安倍の『美しい国』にはしたくないものです」(共同通信OB)、「『一億総活躍社会』って何ですか。アベノミクスは先が見えなくなりました。政治家としての”地“が見えてきました。今年は参院選、国民は今度こそ安倍政治に鉄槌を下すべきです」(同)などなど特にマスコミ関係者の安倍批判は強烈です。
それでも安倍一強政治が続いているのは⓵経済界が全面支援しているからか②小選挙区という選挙制度が問題なのか③民主党など野党がだらしないからか④マスコミの力が落ちたからか⑤労組や平和団体の動きが鈍いからか⑥市民がおとなし過ぎるからか―。
田中角栄政権時代の秘書官で、「日本改造論」のまとめ役だった小長啓一さん(元通産事務次官)からの年賀状には「田中ブームのせいか、時々取材を受けています」とありました。小沢一郎氏の新年あいさつではありませんが、「夏の参院選が天下分け目の決戦」ですね。
 「孫の子守に追われています」という年賀状も散見しました。それで思い出したのですが、近年、平日に赤ん坊を乳母車に乗せて買い物に歩く男性を私の住んでいる渋谷、恵比寿周辺でもよく見掛けるようになりました。男性優位社会は着実に変化していくだろうと、私は思っています。それは「男女平等の原則」からも当然のことで、その点では日本も遠からず欧米型社会になっていくだろうと予測しています。

好きな言葉⑦ 死への旅仕度   宇治 敏彦

好きな言葉151226
 これを「好きな言葉」に入れるのは抵抗感があるが、今年の年末は例年以上に「喪中」葉書が多いので、歳末所感として書いてみた。正月休みには仕上げなければならない仕事が詰まっているので早めに500枚ほどの年賀状を書き上げて投函した。ところが、その後に「喪中」お知らせが何通も届くので、手際良すぎるのも考えものと反省した。
 並河信乃さんという行政改革の専門家が11月10日、旅先のプラハで急逝した。みつえ夫人からのお知らせによると「葬儀は現地の方々のご好意で音楽葬にて送ることができた」そうだ。並河さんは経団連の職員だったが、一番活躍したのは国鉄の分割・民営化を打ち出した第2次臨時行政調査会で土光敏夫会長の秘書をしていた頃だろう。筆者も当時、「特殊法人を斬る」という企画を担当していたので何回も並河さんと議論した。彼の行革論は「官の支配からいかに脱皮するか」が主題で、単純明快にして、ぶれないのが特徴だった。
 大分前に千葉県君津市に引っ込んだので「世をはかなんでいるのかな」と思っていた。今年の年賀状に「日本の前途にあまり期待がもてず、毎日ぐーたらな生活を送っております」とあったのも「並河さんらしくないな」と気にかかっていた。
 生産性本部職員から青森公立大の教授になり「コンパクトシティ(青森市の挑戦)」「政策を観光資源に」などの著作を発表していた山本恭逸教授が今年1月に63歳で急死したという知らせも驚きだった。今年の年賀状に拙著「実写1955年体制」(第一法規)の読後感として「同時代を生きた者として思い当たる事の多い現代史のテキストです。官僚制もまた無謬性と批判されましたが、再び復活していることが気がかりです」と書いてあった。16年間にわたる青森での学者生活を経て彼が地方再生にかけた意気込みが少しでも青森で実を結ぶことを祈りたい。
 読売新聞の政治記者として共産党、社会党など戦後革新勢力を取材し、日本大学新聞学科でも教えていた飯塚繁太郎さんは5月に86歳でなくなった。昔の読売新聞には飯塚さんのほか田村祐造、多田実といった革新勢力にも強い大物記者がいたものだ。1985年、飯塚、羽原清雅(朝日新聞)両氏と宇治の3人で「結党40年・日本社会党」(行政問題研究所)という本を出版した時、飯塚氏は社会党の党首としては河上丈太郎氏を一番高く評価していた。
 今年は、そのほかにも知己のある多くのジャーナリストが旅立って行った。「埴輪」同人の小榑雅章氏と会うと、「我々はあと何年生きられるだろう」という話になる。今年、出版した「政(まつりごと)の言葉から読み解く戦後70年」(新評論)の表紙帯に「ジャーナリストの遺言」と打ったところ、多くの方々から「遺言は早すぎるじゃないか」とご指摘を受けた。筆者の気持ちとしては、寿命に関係なく「いまモノを言わずしてジャーナリストといえるか」という気持ちで「遺言」とした。多くの先輩や知人たちの死は、私にも「死への旅仕度」を怠るなと言っているように思える。

文化人を育てた喫茶店「新宿風月堂」   宇治敏彦

 古い資料を整理していたら学生時代によく通った「新宿風月堂」に関する新聞、雑誌記事などが出てきて、半世紀以上前の自分の姿を鏡の中に見た思いがした。
 敗戦直後の1946年に開店し、1973年の閉店まで27年間、名曲喫茶や画廊喫茶として多くの若者を集めた新宿風月堂は、JR新宿駅をマイシティ―側に出て中央通りを四谷方面に歩いて3ブロック目の右側にあった。
 筆者が風月堂を頻繁に利用したのは早稲田大学英文科在学中の1950年代後半だった。同級生の岐部堅二(故人、京都新聞)、今井啓一(故人、日経新聞)、今関健一(松竹助監督)、勝田裕之(NHKアナウンサー)、金原忠雄(故人、静岡銀行)といった仲間が集まっては、ほぼ毎日、授業の合間にトランプゲームをしていた。早稲田高等学院以来の親友で、本誌「埴輪」同人の小榑雅章君とも行ったことがあると思うが、小榑君とは風月堂より「青蛾」という新宿三越裏の民芸調喫茶店の方が多かった。
 風月堂の経営者は、後に知ったことだが、横山五郎という近代絵画のコレクターで、梅原龍三郎、林武、岡鹿之助、小出樽重、三岸節子らの作品を集めていた。そのためか店内に絵画を飾り、名曲を流す喫茶店として画家、音楽家、作家、評論家などに愛されるカフェだった。そんな文化的雰囲気の中で私たち早大の仲間は一杯のコーヒーで何時間もトランプゲームに興じていた。今だったら「学生さん、遊びは好い加減にして」と言われるところだが、店主や店員から一言も注意された記憶はない。
 「新宿TODAY」という地域誌(1987年5月号)が「新宿風月堂の魅力」という特集を組んでいる。こんな声が載っていた。
 清水雅人氏(詩人)「(早大の)同級に寺山修司がおり、彼と『早稲田詩人』を編集しながら(中略)風月堂で火の会という集まりをもっていた。(中略)あの頃の『風月堂』は、詩人や画家、写真家たち、演劇青年たちのサロンだった」
 清水邦夫氏(劇作家)「おかしなことに風月堂にいると、世間をナナメに見ているような感じでコーヒーをのみながら、なぜか“がんばらなくちゃ”と思うところがありました」
 真鍋博氏「喫茶店ではありましたが、入って左側に二階まで吹き抜けの大壁面があって、大作が並べられ、しかも一人15日間もの作品発表の場は、あの頃ほかには無く、22歳の青年にとっては大舞台で、四国からいまは亡き父を呼び、二階でコーヒーをのみつつ絵を見せました」
 またイラストレーターでエッセイストの大橋歩さんが「当時芸術家がたむろしていた風月堂で、背伸びしてブラックコーヒーを飲み、たばこをふかすまねをしました」「トイレに入ったら便器がウエスタンスタイルだったのです。生まれて初めての洋式便器を目の前にして、すくみました。(中略)でもがまん出来ません。ああかな、こうかなとやってみて一番無理のない格好ですませたのでした。後日どこかの洋式便器に使用図が貼ってあり、私の方法は正しかったことをしりました」(2000年10月19日、東京新聞朝刊「わが街わが友」)。前記の地域誌にも「はじめて洋式トイレにしたのもあそこじゃないですか。なにしろ使い方がわからなくて。後で聞いたらみなそうだった」との声も載っている。
 風月堂は若人たちにさまざまなことを教えてくれたわけだ。やがてヒッピーやフーテンが増えるようになり、1973年8月、多くの常連客に惜しまれながら閉店した。
 戦後から今日まで「純喫茶」「レコード喫茶」「歌ごえ喫茶」「落語喫茶」「同伴喫茶」「個室喫茶」などなど沢山の喫茶店が誕生し消えていったが、最近は新宿風月堂のようなカフェに行き合わないのが残念でならない。

好きな言葉⑥) いい加減と良い加減   宇治敏彦

いい加減
 自分は結構、いい加減なところがあって、着るものには無頓着だし、部屋の整理などは苦手である。しかし、そんな側面が「神経質にならない」「細かいことにこだわらない」という良い加減(好い加減)にも繋がっているではないかと思う。たとえば趣味の木版画づくりでも、彫り間違えた個所は、ペン画や水彩画と違ってやり直しが効かないので、そのまま生かしておく。やり直しが出来ない人生に似ている。「心の師匠」でもある版画家・棟方志功が彫り違えた個所に拘ることなく、物凄いスピードでエネルギッシュに彫り進める映像を見たことがある。ミスを瞬時に「良い加減」で逆転させてしまったのである。
 12月1日、拙著「政の言葉から読み解く戦後70年」(新評論)に関連して日本記者クラブで「戦後70年の政治 ジャーナリストから見た評価と課題」というテーマで講演・記者会見をした。司会の橋本五郎氏(読売新聞)から「安倍政権は過大に特殊な政権とみられているが、小泉政権、中曽根政権の方がもっと特殊ではなかったか。安倍政権でハト派はいなくなったと嘆くのはいかがなものか」との質問を受けた。
 その瞬間、私の頭に去来したのは昭和30年代に取材していた内閣憲法調査会での論議のことであった。「神川彦松、大西邦敏といった憲法学者からは『自衛隊違憲論など現実に合わない『いい加減』な憲法だから、早急に憲法を現実に合わせるべきだという改憲論が主張された。彼らはドイツ法的な考えで条文と現実が一致しなければ気がすまないとの考えだった。一方、高柳賢三会長などは英米法的考え方で、大事なのは実態であり運用であるとの考えだった。確かに自衛隊の存在と憲法9条(戦争放棄)の間には開きがあるが、それを克服して平和主義を貫くという国家運営をしてきたからこそ日本の平和主義が中国や韓国などに理解されて『良い加減』につながったのではないか」「もし60年安保の時に岸首相が要請した自衛隊の出動が防衛庁からハイハイと受け入れられていたら社会的混乱はさらに拡大していただろう。防衛費の国内総生産(GNP)1%枠、非核3原則、国連平和維持活動(PKO)協力法など歴代政権の政策が軍拡に抑制的に展開されてきたからこそ『良い加減』になった」「安倍政権も憲法学者やマスコミなどの批判があるからこそ『良い加減』にとどまっていられるのであり、もっとマスコミに感謝してもいいのではないか」などと答えた。この時、最前列に座っていた浅野勝人氏(元官房副長官、NHK出身)が一人盛大に拍手してくれたのには驚いたが、傍聴に来てくれた複数の学友たちの反応も小生の見解を支持してくれるものであった。私にとっては、まさに「良い加減」であった。


スポンサーサイト

出会った人々⑰ 村歌舞伎から日中友好まで幅広く活躍した 町医者・池田精孝さん 宇治敏彦

師走が近づくと毎日のように届く「喪中お知らせ葉書」。ああ、この人も逝ったのかと淋しい思いが募る。先日届いた「父 池田精孝が5月24日に91歳にて永眠いたしました」という池田秋比古氏からの葉書には、ひとしお強い寂寥感を覚えた。
 池田先生は、筆者が20年余り住んだ東京・調布市内で内科医を開業していた評判の「優しい先生」だった。同時に写真家でもあり、奥様の故郷・長野県大鹿村の村歌舞伎を撮り続け、信濃毎日新聞社から写真集「大鹿歌舞伎」を出版した。
大鹿歌舞伎は、村人たちが毎年春(5月)秋(10月)の2回、神社の境内で250年以上続けている素人歌舞伎で、ドイツやオーストリアで海外公演をした経験もあり、日本でも有数の村歌舞伎として知られている。1994年の秋公演に私も池田さんに誘われて文化部の米山郁夫記者とともに見に行った。
この時、長年の協力で大鹿村から池田先生に感謝状が贈られ、同時に村内に開館した郷土資料館「ろくべん館」(ろくべんとは段重ねの弁当箱のこと)で先生撮影の大鹿歌舞伎写真展も開催された。会場の市場神社には朝から多くの村人が参集し、庭一面に敷かれたゴザの上では午後1時からの開演を待ちかねるようにキノコ料理など満載の「ろくべん」弁当を食べていた。当日の出し物は「義経腰越状、泉三郎の段」などだったが、浄瑠璃を語る竹本登太夫は大鹿村文化財調査委員長の片桐登さんといった具合。村人たちが務める役者たちが舞台で大見栄を切るたびに大拍手で、おひねりの投げ銭がいくつも舞台に飛んだ。
 池田先生も長野県生まれだが、日本が旧満州の黒竜江省につくったジャムス(佳木斮)医科大学に学んだ。敗戦後、どうにか引き揚げて慈恵医大を卒業した。しかし旧満州でなくなった学友や日本人のことを思い、長野県日中友好協会の協力も得てジャムスに「日中友好」碑を建立するため70歳を過ぎても毎年のように中国東北部を訪れていた。「ようやく友好碑ができましてね」と報告に来られた時の嬉しそうな顔を忘れることができない。
 本業の内科医のほかに大鹿歌舞伎の記録写真、日中友好で実績を挙げた池田さんとは近年、年賀状の往来も途絶えがちだった。あの優しい人柄に触れられなくなって、ひときわ淋しい年の瀬になりそうだ。

映画「海難1890」に見る人間愛   宇治敏彦

 久しぶりに「泣ける」映画を観た。「海難1890」(東映)の試写会だった。12月5日からロードショーが予定されている。
 1890年(明治23年)9月16日夜、紀伊半島沖で台風のために座礁・沈没したトルコ(当時はオスマン帝国)の軍艦エルトゥールル号。587人の死者を出したが、69人が地元、和歌山県串本町(当時は大島村)の村人たち挙げての救援作業で救助された。一行は1887年、小松宮夫妻のイスタンブール訪問への答礼も兼ねてオスマントルコ政府が日本へ派遣したもので、明治天皇への表敬を終えて帰国の途中だった。
 串本の漁民をはじめ村長、医師、漁民から遊女に至るまでの救助活動と介護のお蔭で生存者69人は翌年1月、日本海軍の軍艦に乗って帰国することが出来た。いまでも5年ごとに串本町では慰霊碑の前でトルコ人犠牲者を悼む催事が行われているという。
 トルコ人の間で親日感情が強いのは、この難破事件に対する日本人の献身的な行動への感謝があるからだとされる。この話は筆者が今年、上梓した「政(まつりごと)から読み解く戦後70年」(新評論)でも「ナショナリズム(国家主義)以上に大事なヒューマニズム(人間愛)」の一例として紹介した。
 串本における村人たちのヒューマニズムは、95年後にトルコ人たちのヒューマニズムとして日本人に返ってくる。イラン・イラク戦争の激化で1985年(昭和60年)、当時テヘランに暮らしていた約500人の日本人にも避難勧告が出た。イラクのサダム・フセイン大統領(当時)が3月17日、「48時間後にイラン上空を無差別攻撃する」と宣言したからだ。しかし、当時は日本航空などがテヘラン空港に乗り入れておらず、日本からの救援機は飛んでこない。他国の便も自国民優先なので、338人の邦人が同空港で足止めを食っていた。野村駐イラン大使らはトルコに救援機を要請した。トルコのオザル首相(当時)はこの要請に応じて救援機をテヘランに飛ばした。多くのトルコ人もテヘラン空港で順番待ちしていたが、「自分たちは陸路脱出するから」と譲歩し、200人強の日本人が無事テヘランを離れることが出来たのだった。
 「国家」の存在は無論、重要であり、ナショナリズムが生まれるのも自然なことだ。と同時に、生きるか死ぬかという危機に直面した時には、その人の「国籍」よりも「一人間」としての存在が問われることになる。東日本大震災のような大惨事に遭遇した時の救助活動でも「日本人だから助ける。外国人は後回し」という選択ではなく「困っている人は皆助ける」というのが大原則だろう。そういう危機に直面した時に真価を発揮するヒューマニズムの力を忘れてはならない。日本人とトルコ人の心にあるヒューマニズムの力を描き出した「海難1890」は、乾き切った現代人の心に「人間性の原点」を蘇らせてくれた。
    ⁂       ⁂       ⁂      *
 「学院28会」という早稲田大学付属高等学院の同窓会(昭和28年入学組)がある。11月16日夜、日本プレスセンタービルのレストランに14人が集まって同会がもたれたとき、押田重継君から「僕はブログ『埴輪』の愛読者だが、最近、更新されていませんね」と言われた。恐縮した。実は「埴輪」をやっている小榑雅章と宇治の二人が現在、出版用の物書きに追われており、ブログの更新作業にご無沙汰が続いています。発信したいことは一杯あるので、押田君のように、思いつたら開いて下さる読者をがっかりさせないよう努力いたします。

「報道の自由」と「ジャーナリストの安全」  宇治敏彦

 中東を中心に世界各地でテロや紛争が続いており、それらを取材するジャーナリストたちも生命の危険にさらされている。かつてのベトナム戦争のように戦火が飛び交う中での取材ではなくても、いつどこで何が起こるか分からないテロなどの不気味さが記者たちを不安に陥れている。
 トルコの首都アンカラ中心部で10月10日に発生したテロ事件の死者は97人(同12日時点)。さらの多数の重傷者がいるとの報道だから犠牲者の数は最終的には100人以上に達するだろう。同国のエルドアン大統領はPKK(反政府左派組織クルド労働者党)との対立を深めているが、一般市民もPKKほどではないにしても近年、独裁体制を強めるエルドアン大統領に不満・批判を強めている。
 筆者は昨年9月、イスタンブールを訪ねてIPI(国際新聞編集者協会)理事会に出席するとともにCPJ(ジャーナリスト保護委員会)のメンバーと一緒にトルコの新聞社や放送局を訪問して報道の自由度を調査した。その時も「ザーマン」「ミリエット」といった主要新聞社の幹部から聞いたのは「エルドアン大統領の独裁ぶりが一段と強まっている」ということだった。「以前は進取性に富んでいたエルドアン氏は最近、批判的記事を書いた記者を次々に処罰している」と語った大手紙の編集幹部も私の帰国後、投獄されたと耳にした。また私たちを案内してくれたトルコIPIメンバーのカドリ氏も職を解かれたようだ。反政府的と目されるジャーナリストが次々と大統領の標的になっている。
 今年来日したトルコのジャーナリスト6人が9月30日、日本記者クラブで会見した。出席者は「トルコにはもうメディアの自由がない」と嘆息していた。「ミリエット」紙に23年間、記者として働き、ひと月前に解雇された女性記者、メフメシュ・エビンさんは「既に1000人以上の市民が大統領を侮辱したとの理由で起訴されているが、大半はジャーナリストです」と報告した。
 10年以上前のことだが、当時首相だったエルドアン氏が来日した際、日本記者クラブでの会見を筆者が司会した。その当時のエルドアン氏は、進取精神にあふれた政治家に思えた。ところが権力の座につく時間が長くなるにつれ、「政敵に殺されないようエルドアン大統領には食事のお毒味役がついている」「ルーマニアの故チャウシェスク元大統領のような豪華な大統領公邸をつくった」「厳しい経済情勢にもかかわらずトルコ随一のモスクを建設した」などなど芳しくない噂が伝わってくる。いわば「絶対的権力は絶対的に腐敗する」を地で行くような指導者ぶりで、イスタンブールでもヒトラーに似せたエルドアン大統領の戯画が町中に登場したこともあったという。
 11月の総選挙を挟んでジャーナリズムとエルドアン大統領の対立が続くだろう。最終的には数年前の大市民行動に発展するかもしれないが、それだけトルコの記者たちの危険度も増大することは間違いない。
 トルコだけではない。日本新聞協会が30年以上続けているアセアン記者招聘計画で今秋来日した4人の記者のうちフィリピンから来たバーニス・カミール・バウゾン記者(マニラ・タイムズ国際部記者)は10月1日、プレスセンターで開かれた会合で次のように報告した。
 「2014年に公表された世界における報道の自由度ランキングで、フィリピンは180か国中149位だった。一時は156位に下がったこともある。アキノ三世が政権を取った2010年以降、フィリピンでは26人の記者が殺害されている。フィリピン・ジャーナリスト同盟は政府の無関心が攻撃者をつけあがらせ、記者が殺害される危険性が依然なくなっていない」
 もっとも同記者によると、マニラ市内は安全で、危険度が高いのは地方都市だという。フィリピンには10の高級日刊紙、22の大衆紙、52の地域紙があるそうだが、パウゾン記者によると「マニラ・タイムズのような主要メディアはアキノ政権に極めて批判的で、ほぼ毎日、現政権に対して論議を呼ぶような暴露記事やリポートを掲載している。名誉棄損訴訟や脅迫電話を除けば、マニラ・タイムズは自由に意見表明し、記事を出すことができる」という。
 NGO「国境なき記者団」によると、日本の報道自由度は2011年の民主党政権下で11位にまで上がったが、現在は61位に大幅後退している。その理由は2011年の東日本大震災時の東電福島第一原発の放射能漏れ事故で国民が知りたがった放射能被害の実態が十分報道されなかったことや、2013年に特定秘密保護法が成立したことなどが大きく影響している。ちなみに報道の自由度が高い国はフィンランド、オランダ、ノルウェーなど北欧諸国。反対に自由度が低い国は中国、北朝鮮、ソマリアなど。特に中国では最近、紙の新聞以上にネット取り締まりが強まっているようだ。「京華時報」の8月26日の記事によれば、国家インターネット情報弁公室というセクションが300近いサイトを反社会的として削除したという。既に中国では「インターネット安全法」の草案が公表されており、国家安全のためアクセス制限をすることがあるとしている。
 一方、IPIは「デス・リスト」といって毎年、報道取材中に死亡したジャーナリストのリストを発表しているが、2009年以来、その数は毎年100人を超えており、近年では2012年の133人が一番多かった(2015年は原稿執筆時点で62人)。
 政治権力と報道界の関係は昔から緊張関係にあるが、報道が核心に迫るほど記者の身に危険が及ぶというのはいかがなものだろうか。もとより根拠なき報道(ガセネタ)であれば記者側がペナルティーを受けるのも当然だが、まっとうな報道や批判に対してもペナルティーを科すというのは政権の横暴と言わざるを得ない。トルコなどが一日も早く「報道の自由」「記者活動の自由」を取り戻すよう願っている。
(注)この原稿は安保研究会のリポート用に作成したものです。

好きな言葉⑤ 木を見て森を見よ  宇治敏彦

好きな言葉
 「木を見て森を見ず」という言葉がある。「細かい点に注意し過ぎて大きく全体をつかまない」(広辞苑)という意味だが、私はこれを「木を見て森を見よ」と言い換えたい。「細かい点も大きな全体像も共に見よ」ということだ。
 憲法学者をはじめ多くの市民の反対意見に耳を貸さず新安保法制を自民、公明両党の数の力で押し切った安倍晋三首相に言いたい。「アメリカへの軍事的協力」という木だけに目がいって「憲法9条」「不戦70年」「戦後民主主義」「中国、韓国などアジア諸国との友好促進」「世界平和」といった森を少しも見ていないのではないか、と。
 8月14日に発表された戦後70年の「安倍首相談話」も「侵略」「おわび」といった村山談話以来のキーワードは入っているものの、その表現は第三者的で政治家・安倍晋三の心が入っていない。これは複数の関係者から聞いた話だが、安倍首相と「談話」問題で話し合った有識者は、首相が「日本は中国に侵略行為を行っていない」「何回もおわびする必要はない」などというので非常に驚くと同時に、さすがに「そういわない方が良い」と諌めたという。
 安倍首相の歴史観は、明らかに母方の祖父・岸信介元首相の歴史観の複写である。岸首相の場合は自らの退陣で一区切りつけ、後任の池田首相の「所得倍増政策」によって国民を目くらましにした。だが安倍政権の場合は「2015新安保」になっても多くの国民の反発と抵抗は長く続くだろう。目くらましにする材料がないからだ。「木を見て森を見よ」の精神を忘れて「木を見て森を見ず」に終わった安倍政権の寿命は先が見えてきたように思える。
 遅くとも来年夏の参院選が、そのヤマ場になろう。戦後70年かけて築いた平和・不戦国家像がそう簡単には崩壊しないことを今度は国民・有権者が安倍さんに見せつけてあげる番ではないか。

好きな言葉④ 道を聞くなら盲人に聞け  宇治敏彦

IMG_20150906_0001_convert_20150906124615 (2)

 大分前の事だが、女優の水沢アキさんが盲人の音楽家と目黒区の広報で対談しているのを読んで「そういうことか」と感心したことがある。水沢さんのお父さんが出勤途上の駅で毎日、盲人女性と出会うのでホームから転落しないよう案内をしてあげたそうな。ところが某日、お父さんが風邪をひいて案内が出来なかった日があった。その時に盲人女性はホームから転落する事故を起こした。普通ならここで「やっぱり私が同道できなくて済まなかった」と反省するところが、父親の反省は違っていた。「私が毎日案内してあげたせいで彼女の持ち前の能力を弱めてしまったのではないか」と。
 対談相手の盲人音楽家は、これに応えて次のような話を披露した。「私が横断歩道を渡ろうとしていたときオートバイの青年と接触事故を起こした。青年は陳謝したが、私は『早く行ってください。盲人を傷つけたと分かると罪が重くなるから』と。彼を許してあげたことで、私も救われた気持ちになり、その後の人生に自信が持てた」
 盲人は確かに弱者ではある。だが弱者扱いされることを嫌う側面もある。前回の「好きな言葉」で取り上げた瞽女の小林ハルさんは、相手の着物の色まで分かったという。
 「道を聞くなら盲人に聞け」。私も通勤の際に地下鉄霞ヶ関駅で下車する盲人男性に行き合うことがある。白い杖は使っているが、彼の歩く速さに私はついていけない。健常者とは違う能力が自然に備わっているのかもしれない。道を尋ねるのに健常者に聞くより盲人に聞いた方が的確に分かりやすく教えてくれるというのも、そのようなことを指す言葉だ。盲人ではないが、「これは道案内の名人だ」と感じ入った人がいる。将棋の永世名人だった大山康晴さん(1992年没)と赤阪見附に近いフグ料理屋で会食した際の事だが、確か当時は杉並方面にお住まいだったと思う。会食が終わりに近づくと奥様に「車で迎えに来てほしい」と電話した。その道順説明がまことに見事で、まるで詰将棋をしているように感じた。大山さんにとっては初めてのお店であった。瞽女の人たちも同様に道に精通していたのであろう。程好い時間に「大山先生の奥様がお迎えに見えました」と店の人から連絡があった。

「芥川賞」又吉直樹がうける訳とは  宇治敏彦

 毎年2回の芥川賞・直木賞の贈呈式には、時間が許す限り出席しているが、今年8月21日の贈呈式ほど賑わったことはなかった。お笑い芸人の又吉直樹さん(35歳)が小説「火花」で芥川賞を受賞したからであろう。帝国ホテルの大きな部屋には、表彰台の前を大きく取り囲むように記者とカメラマン用のコーナーがロープでつくられていた。芥川賞選考委員の代表が遅れたので、講評は直木賞の東山彰良さん(受賞作「流」)から始まり、そして芥川賞の羽田圭介さん(受賞作「スクラップ・アンド・ビルド」)と又吉直樹さんへと移った。両賞の選考委員によれば「直木賞は満場一致という稀有な例」で「芥川賞も文句なく2人に決まった」という。又吉さんの「火花」は既に230万部以上発売されており、芥川賞受賞作品としては村上龍さんの「限りなく透明に近いブルー」を上回る人気だという。
 実は小生も受賞式当日に「火花」を求めて、途中まで読んだところで出席した。あわよくばサインをとの私欲もあったが、残念ながら主催者側の御達しでサインは駄目だった。ジャケットにネクタイというお笑いタレントらしからぬ出で立ちの又吉さんに対する第一印象は「この人、ホンマにお笑い芸人なの?」だった。式後に名刺を出してあいさつした際も「無口な学者か評論家」といった感じを受けた。
 受賞作の「火花」は徳永というお笑い芸人が主人公で、奇想天外な言動に終始する先輩のお笑い芸人・神谷と行動をともにしていく物語だ。作者自身を連想させる徳永が、多大の借金を抱えながらも自分を飲み食いさせてくれ神谷の芸熱心さに惹かれつつ、最後は先輩が胸にシリコンを入れて巨乳にする姿にあきれ返る。
「神谷さんは、窓の外から僕に向かって『おい、とんでもない漫才思いついたぞ』と言って、全裸のまま垂直に何度も跳ね美しい乳房を揺らし続けている」。
これがラストシーン。作者は、この小説で一体何を言いたい、書きたいのだろう。贈呈式のパンフに乗った又吉さんの「受賞のことば」にこんなエピソードが載っている。
「久しぶりに帰省した。父は痩せ細り、そこだけ以上に膨らんだ腹をさすりながら『こうなったら、もうあかんのぉ』と弱弱しくつぶやくと、自分の部屋に戻った。朝が来る前に僕は家を出ることにした。父の部屋から啜り泣くような声が聞こえた。真っ暗な廊下に立ち、僕はドアに耳を近付けた。耳を澄ますと、父はバラエティ番組を観ながら、楽しそうに笑っていた。全く泣いてなどいなかった。僕の安易な想定を現実は簡単に乗り越えて行く。そんな現実を、越える表現を目指したい」
つまり父は神谷先輩と同じように、真面目人間・又吉さんの心配をよそに現実の人生を堪能し、したたかに生きているのだ。そこを巧みに描写しているのが「火花」である。お笑い芸人の芥川賞。それは外面の「うけ」であって、作家・又吉直樹が小川洋子さんなど9人の選考委員から「うけた」内面の理由は、「人間とはよそ様が想像するより意外にしたたかな存在」という上記のような人間観察にあったのではなかろうか。

好きな言葉③ いい人と歩けば祭 悪い人と歩けば修行  宇治敏彦

いい人と

 「人間国宝」だった瞽女(ごぜ)小林ハルさん(1900~2005)の言葉。下重暁子さん(作家、元NHKアナウンサー)が書いた「鋼(はがね)の女(ひと)」のモデル。瞽女とは「三味線を弾き、唄を歌うなどして米や金銭を得た盲目の女」(広辞苑)のことで、越後地方に多かった。篠田正浩監督の「はなれ瞽女おりん」という映画もある。下重さんの実家(新潟県高田)は瞽女たちが泊まる「瞽女宿」だったそうだが、今年3月、富山市で開催された日本ペンクラブ(浅田次郎会長)の「平和の日」集会で、1700年代から昭和期まで存在した瞽女の役割について下重さんは、次のように語っている。
 「瞽女さんをみんなが大事にした理由が3つある。一つは、昔は芸能をテレビで見るなんてことはなかったから、瞽女さんたちが来て、歌を聴かせてくれたりしないと、辺ぴなところでは聴けなかった。だから芸能者としてすごく大事にされた。その次には、巫女的な存在だった。養蚕をやっていた家が多かったですから、瞽女さんが来てくれると、その家のお蚕の糸の出が良くなるとか、そういうふうにお祈りしてもらった。3つ目は、これが面白いのですが、ニュースですね。瞽女はずっと歩いて来ますから、いろいろなことを見聞きしているわけです」
 「最後の瞽女」といわれた小林ハルさんは生後3か月で白内障により失明。5歳で瞽女修行をして8歳で初巡業に参加し、主として新潟、山形、会津などを回った。瞽女たちは集団で行動した。それだけに姉弟子が意地悪だと苦労し、気の良い仲間と一緒だと毎日が祭りのように楽しかったという。ハルさんが最初についた姉弟子は相当の意地悪をハルさんにしたらしい。それを「修行」と割り切って耐えに耐えたハルさん。この苦労があったからこそ「人間国宝」にもなれたのだろう。
 いじめに会わない子供はいないと思う。私も小学生の頃はチビだったし、よく学友から「ウジ虫、ウジ虫」などと苗字に引っ掛けていじめられたものだ。しかし、同時にそういう悪童に立ち向かって懲らしめてくれる友もいた。新聞社に勤めることになってからも同様だった。やっかみもあれば、足を引っ張る同僚もいる。と同時に、そんな同僚をたしなめ、自ら喧嘩を買ってくれた先輩もいた。それは全盲の瞽女・小林ハルさんの心痛に比べたら1万分の1程度の苦労だったかもしれない。しかし、「いい人と歩けば祭、悪い人と歩けば修行」を実感した。特に「悪い人」と一緒でも、そこで絶望せず、「これも修行のうち」と前向きに捉えて芸に打ち込んだハルさんを見事と思うし、その心意気に見習いたいと思う。

「私は」が聞こえて来なかった安倍首相談話  宇治敏彦

 安倍晋三首相は戦後70年にあたり8月14日、閣議決定を経て首相談話を発表したが、総じて「評論家的表現」「第三者的表現」が多く、内閣総理大臣たる政治家・安倍晋三個人が先の大戦について何を反省・謝罪し、それらの教訓を今後にどう生かして平和を維持していくのか、といった決意・覚悟のほどが伝わってこなかった。
 新聞各紙には談話全文が日本語、英語で掲載されているが、2つを対比すると、以上の指摘がより鮮明になる。たとえば「戦後70年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます」「今なお言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じえません」との個所では、英文で「I express my feelings of profound grief…」「I find myself speechless and my heart is rent with the utmost grief」などと主語が安倍個人であることを補っている。
しかし、日本語全文では「私は」という個人表現は見当たらず、「私たち」(we)、「日本」(Japan)で統一されている。わずかに談話発表前の冒頭発言で「世界の中で日本がどういう道を進むべきか、深く模索し、構想すべきである、私はそう考えました」「政治的、外交的な意図によって歴史がゆがめられるようなことはあってはならない、このことも私の強い信念であります」などと3か所、「私は」を使っているだけだ。
 「日本国の総理大臣だから」「閣議決定した談話だから」、あえて「私は」という一人称を使う必要はあるまい、との見解もあるだろう。また有識者懇談会「21世紀構想懇談会」の報告書や連立を組む公明党の主張に配慮したことも「私は」をあえて避けた理由の一つかもしれない。
だが無機質な日本国代表が出している戦後70年談話ではない。政治家・安倍晋三が日本国首相として世界に発信しているメッセージなのだから「安倍色」を出して当然だし、出すべきだったろう。同じ米大統領でもリンカーンとオバマでは違うのと同様だ。
 20年前の終戦記念日に「村山談話」を出した村山富市元首相が「安倍談話」に対して「私の談話が引き継がれた印象はない」「『植民地支配』『侵略』という村山談話のキーワードを薄めたい気持ちだったのだろう」(14日夜の会見)との印象を述べているのも、もっともだ。
 もし今回の「安倍談話」に「私は」という主語を入れたらどうであったろう。たとえば14日発表談話の中ごろに「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります」(Such position articulated by the previous cabinets will remain unshakable into the future)との一文がある。これを「私はこうした歴代内閣の立場を今後も死守してまいります」と宣言するだけで、談話全体に対する印象は大幅に変わったであろう。
 そうしなかった安倍首相の真意は何か? 「そんな言い方したら、なんで集団的自衛権容認の新安保法制を国会に出して、強行成立しようとするのか、と責められるじゃないか」。
あえて一人称「私は」を避けた意図が透けて見える。

自殺・死体・遺骨の映像が訴えること  宇治敏彦

 新聞もテレビも日本のマスコミは、人の死や殺人行為を報道しても死体(遺体)の写真・映像を新聞紙面やテレビ画面に原則として出さないというのが慣例になっている。読者や視聴者が嫌悪感・不快感を覚えるし、被害者家族などにとっては耐えられないケースも多いからだ。
 東日本大震災の直後に東南アジアからやってきたジャーナリストたちが「わが国では台風被害の大きさを報道するために遺体の写真を新聞に掲載するケースもある。日本ではそうした写真を避けながら被害の実態を報道する姿勢に感心した」との感想を述べていたことを思い出す。
 だが戦後70年の特集番組で、NHKをはじめテレビ映像に当時の米軍などが撮影した戦死者の映像や死骸写真が、このところ頻繁にテレビ画面に映し出される。なかでも筆者が一番ショックを受けたのは昭和20年春のサイパン島や沖縄決戦の際に米軍が撮影した母子自殺の映像だった。母親が断崖絶壁から幼児を海に向かって投げ捨てる。海中に沈んだわが子を見届けた後、今度は母親自身も断崖から身を翻す。カメラマンの目は、海に漂う幼児の死体を容赦なく写していく。私は言葉をなくした。
 そのほかにも日米双方の兵士の死体、さらには遺体に向かっても攻撃を続ける米軍兵の姿や、岸辺に無造作に並ぶ死体の山など、正視するのが苦痛な映像が続く。
 同年8月6日、広島に原爆が投下された直後の写真も痛々しい。日本人が撮影したもので、米側に没収されて写真の中には、皮膚がはがれ、髪の毛がチリジリに焦げた子供の姿もあった。
 さる8月8日夜、放映された「特攻作戦」(NHKテレビ)特集では、特攻の成果が虚偽報告(米側記録では米艦船の特攻による破損は58艦に対して日本側記録では228艦)され、嘘の上塗りが重ねられていった。その理由の一つに「一撃講和」(何か米側に被害を与えて、それをきっかけに終戦に持ち込む)という考えがあったと当時の軍関係者が証言している。しかし、沖縄では全員が特攻になって、結果的に特攻攻撃での死者は4500人以上に達した。直接の死体映像ではないが、米側撮影のフィルムで日本側の特攻機が次々に上空で撃ち落とされ、機体がバラバラになって海中に没していく様は、まさに若き日本兵の死を見るに等しい。
 普段の報道では目にしない、また見たくもない、これらの映像を見て思うことは、戦争の悲惨さと同時に、「人間尊重」と相反する日本の戦前教育の大罪である。
 「日本兵は勝ち目がなくなると、最後の手りゅう弾を敵に投げるのではなく、自分の胸にたたきつけて自決した。そんな遺体が散らばっていた。全滅ではなく玉砕。他の国ではあり得ない光景だった」(8月9日、東京新聞朝刊)。戦時中、米海軍通訳士官だったドナルド・キーン氏は、こう書いたうえで、「日露戦争当時は多くの日本兵が捕虜になった記録が残っている」「それが太平洋戦争時には一変していた」と分析している。
 その原因は、どこにあったのか。それを突き止めることが政治家やジャーナリスト、ひいては日本人全体の責任ではないだろうか。

昭和8年(1933年)の教訓に学ぶ 宇治敏彦

  先に拙著(「政の言葉から読み解く戦後70年」新評論)の出版記念会があったとき、私はお礼の挨拶の中で「思想動向調査」という昭和期に発行された文部省思想局(当時)のマル秘文書「思想調査資料」を参会者に示して「昭和8年(1933年)について改めて研究すべきときではないか」と問題提起した。
  まず、昭和8年とは、どんな年だったか、概略を列記してみよう。
1月1日 日本軍が山海関で中国軍と衝突。関東軍が出動して3日に山海関を占領。
1月10日 東京商大教授・大塚金之助検挙、12日、河上肇検挙。
1月30日 ヒトラー、ドイツ首相に就任。3月5日の総選挙でナチス党が288議席の過半数(社
      民党は120、共産党は81議席)を獲得。
2月4日 長野県で教員などの一斉検挙始まる。4月までに65校、138人検挙(長野県教員赤
     化事件)
2月20日 閣議で国際連盟が日本軍の満州撤退対日勧告案(リットン報告)を採択した場合は
      連盟脱退を決定。作家・小林多喜二が検挙され、築地署で虐殺(31歳)
2月23日 日満軍、熱河省へ侵攻。
2月24日 国際連盟がリットン報告を42対1で採択。松岡洋祐日本代表が抗議して退場。
3月3日 三陸地方に大地震・大津波。死者約3,000人、流失倒壊家屋約7000戸。
3月27日 内田康哉外相が国際連盟脱退を通告。
4月10日 英国、日印通商条約破棄を通告。関東軍、華北へ侵入開始。
4月22日 文部省、京大の滝川幸辰教授の「刑法読本」を共産主義的であるとして辞任要求。
      5月26日、休職発令。法学部長以下が抗議して辞表を提出(滝川事件)。7月1日、
      京大、東大の学生らが滝川事件に関連して大学自由擁護連盟を結成。
6月   内務省が検閲制度の強化と出版警察の拡充をはかる。
8月9日 第1回関東防空大演習。同11日、信濃毎日新聞の社説に桐生悠々が「関東防空
     演習を嗤う」を執筆し問題化。
10月14日 ドイツが国際連盟脱退を通告。
11月28日 野呂栄太郎、検挙さる。翌年、獄死。
12月9日 陸軍・海軍が「軍部批判は軍民離間の行動で黙視できない」と共同声明。
12月23日 皇太子明仁(現天皇)誕生。

 こうした略史を見ただけで、日本が「軍部独走」のもとに、いかに国民の「自由を拘束」し「言論の自由」を弾圧し、国際的にも「孤立」していったかが一目瞭然だ。
 この昭和8年に私の父(宇治伸雄)は京大法学部に在学していた。当時、趣味で川柳をやっていた父は「三月は主義も引っ込む地獄かな」などと学生たちの苦しい立場を詠んでいる。父時自身も翌年の卒業時期に就職先がなく、名古屋タイムズ(後に新愛知と合併して中部日本新聞、今日の中日新聞)に入って大阪支社勤務となった。その大阪で昭和12年(1937年)に生まれたのが私である。この年、1937年7月7日には盧溝橋で日中両軍が衝突し、日中戦争が始まった。その予兆は既に昭和8年にあったのだ。私たちは昭和8年という時代を「反面教師」として学び直すべきだろう。





友ありて・・・の出版記念会を終えて  宇治敏彦

 「政(まつりごと)の言葉から読み解く戦後70年」(新評論)という拙著の出版記念会が7月21日、東京・プレスセンタービルで90人近くが出席して開かれた。鈴木俊一自民党総務会長代理(故鈴木善幸元首相の長男)、福川伸次東洋大理事長(元通産事務次官)、白鳥令日本政治総合研究所理事長(東海大名誉教授)をはじめジャーナリスト仲間や小学校・中学校・高校・大学時代の友達が参集して、本人が言うのもおかしいが、和気あいあいの素晴らしい会合になった。
 それもひとえに早稲田高等学院の同窓生、小榑雅章、松田光敏、野口哲亮、高田浩雄、川原静也の各氏が発起人になって具体化に動いてくれたお蔭と深く感謝している。また出版記念会の言いだしっぺ、冨田光彦君(元滋賀大教授。銘酒「七本鎗」をつくっている冨田酒造のオーナー)も滋賀県木之本から駆けつけてくれた。
 小生にとっての本づくりは2年前の「実写1955年体制」(第一法規)以来で、10冊目(共著を含めると26冊目ぐらい)だが、戦後70年の節目ということもあってか、毎日新聞が7月19日朝刊の書評欄で取り上げてくれたほか、東京新聞、「暮らすめいと」、日本新聞協会報、日本記者クラブ会報などでも紹介してもらった。
 出版記念会は処女出版だった「新中国への旅」(平河出版)以来、40年ぶりのことだった。その時も小榑君らが参加してくれたが、当時は出版社主導の記念会だったのに対して、今回は友達主導の記念会だったのが、何より嬉しいことだった。プレスセンタービルの幹部たちから「小中高校そして大学の同窓生が揃って出席なんて珍しいし、羨ましいですね」と言われた。筆者は戦争中の疎開もあって小学校は4回変わっているが、最後の横浜市立東台小学校(鶴見)の同窓生とは、数えてみると70年近い付き合いになる。早稲田高等学院に入学したのは1953年だから、こちらも60年余の友達で、もちろん妻との生活より長い。会社での先輩、同僚、後輩と違って、直接の利害関係がなく、何時までも「友達」として付き合えるというのが、何よりの宝である。
 今回の拙著は「政治上の言葉」について分析したものだが、昨年あたりから安倍晋三首相が集団的自衛権に本格的に踏み込んでいくのを見て「いま黙っていることは、マスコミ人の自殺に等しい」と思い、単に「言葉の解説」ではなく、「戦後100年、2045年への提言」という一章を加えて5つの提言を盛り込んだ。「『戦後』という言葉を残さなくてはならない」(「戦後」が消えることは、新しい「戦争」が始まることにつながるから)、「『半内半外』視線の日本人になろう」(ヒューマニズムを大事にしよう)、「若者たちへの遺言『戦争が始まったら正論は通らない』」(だから戦争の足音がするようになったら国民は体を張って止めなければならない)などである。
 本の帯に「ジャーナリストの遺言」と大書したことに藤原作弥氏(元日銀副総裁、元時事通信解説委員長)など多くの方から「遺言とは、早過ぎるじゃないですか」とのお手紙を頂いたが、私は出版記念会で戦前と戦後の違いを具体的に指摘して、安倍政権が「いつか来た道」の日本に戻ろうとしていることへの強い危機感を訴えた。後日、出席者の何人もから「同じ思いです」とのメールをもらった。その懸念を若い世代に伝え、日本が戦後70年続けてきた「平和ブランド」や「言論・報道の自由」を失わないようにしなかればならない。その決意を90人近い出席者に話す機会を与えてくれた小榑君ら発起人の友人たちに重ねて感謝の気持ちを伝えたい。「有難うございました。大事な友達の皆さん」。

「戦後70年」を書き終えて思ったこと  宇治敏彦

 先ごろ出版した「政(まつりごと)の言葉から読み解く戦後70年」(新評論)について「埴輪」同人の小榑雅章さんが過分の紹介をしてくれて、拙著の「まえがき」をブログに転載してくれた。
 2年前に「実写1955年体制」(第一法規)を上梓した際にも思ったことだが、何か一つのまとまった仕事をし終えた虚脱感がある。だが、それに加えて今回は、まだまだ書かねばならない時代なのか、という新たな圧迫感が迫ってくる。それというのも6月25日、自民党本部で開催された安倍晋三首相に近い議員たちによる勉強会「文化芸術懇話会」で参加議員や講師に招かれた百田尚樹氏(作家)の口から「沖縄の新聞社はつぶさなあかん」「マスコミを懲らしめるには広告を減らすことを経団連に働きかけるのが一番」などといった暴言・妄言が飛び交ったと知ったからである。
 「本当にそんなこと言ったのか」と初めは信じられなかったが、新聞・テレビ報道によれば百田氏は「軽口・冗談のつもりだった」という。私は「冗談じゃない」と言い返したい。「軽口・冗談」の中に百田氏らの本音が出ている。
 百田氏の「影法師」という小説を読んで武士同士の「男の友情」に感動した覚えがある。だが作品と作者の人格は別物と改めて思った。「沖縄の2つの新聞社は絶対つぶさなあかん」「沖縄で米兵が犯したレイプ犯罪より沖縄人自身が犯したレイプ犯罪の方が、はるかに率が高い」「基地の地主たちは大金持ちなんですよ」といった認識は、沖縄県民の感情を逆なでするものだ。
 勉強会主催者の自民党代議士たちは百田氏と違って公職だから、より罪が重い。
 「マスコミを懲らしめるには広告料収入を減らすのが一番。経団連などに働きかけてほしい」(大西秀男氏。東京16区、当選2回)
 「青年会議所理事長のときマスコミをたたいた。スポンサーにならないことが彼らに一番こたえることを知った」(井上貴博氏、福岡1区、当選2回)
 「沖縄の新聞社は左翼勢力に完全に乗っ取られている」(長尾敬氏、比例近畿ブロック、当選2回)
 筆者は拙著で「戦前・戦中の反省があったからこそマスコミは日本が戦争に巻き込まれるような行動をとることに神経過敏と言ってもいいほど警告や反対論を唱えてきた」「国民が自由にものを言い、政府を批判することが出来ない世の中がじわじわ進んでいる現実を私たちは看過できない」と書いた。
 まさに、その傾向が加速している。せっかく皆で70年間、大事にしてきた「戦後民主主義」がここで崩れるのを私たちは必死になって食い止めなくてはならない。

世界はどう変わろうとしているのか   宇治 敏彦

 北京にある天壇公園の一角に「ここが世界の中心」と明記した石の台座がある。観光客は、喜んでその台座に飛び乗って記念写真をとる。私が初めて天壇を訪ねたのは日中国交正常化が成った1972年(昭和47年)のことだが、当時は歴代皇帝が豊作を祈る三重の円筒堂があるだけの歴史的建造物だった。その後、立派な公園として整備され、「世界の中心」という台座もつくられた。
 いま中国が米国という世界の超大国を追い抜いてナンバーワン国家になるのではないかと取りざたされている。まさに「世界の中心」という座が近づいているのだ。
国際通貨金基金(IMF)が2014年10月13日に発表した推計によると、購買力平価に基づく中国の国内総生産(GDP)は17兆6000億ドル(約1900兆円)で、米国の17兆4000億ドル(約1880兆円)を追い越して既に「世界一国家」になっているという。
 名目GDPでは昨年、日本を抜いて世界第2位の経済大国になり、2030年ごろには米国を追い越すだろうというのが経済専門家の一般的見方だが、もっと早く中国の「世界一」が実現すると見ていいかもしれない。
 もとより経済には「量」と「質」の両面があるので、「量的ナンバーワン」だから「質的ナンバーワン」ということにはならない。円安傾向もあって急増する訪日中国人が買って帰るお土産のナンバーワンが「温水便座」(約4万円弱)だというのも、よくわかる話だ。
化粧品、時計、刃物、電気釜、テレビなど日本製の方が中国製より優れていることは、中国人自身がよく知っていて、秋葉原だけでなく銀座のメイン通りも今、中国人の買い物客で賑わっている。
 今年は戦後70年で、安倍晋三首相が8月に出す「首相談話」が中国、韓国、米国など世界各国から注視されている。中韓両国は「侵略」「慰安婦」といった表現が継承されるかなど20年前の村山富市首相談話(戦後50年の首相談話)との比較に強い関心を示している。米国はどちらかというと「日米関係」「対中戦略」への日本の対応により強い関心を抱いているようだ。5月の安倍訪米を国賓級待遇でもてなしたのも、迫りくる中国の「米国を抜きナンバーワン国家に」が現実化していくことへの危機感、不安感及び対抗準備からに違いない。中国が始めたアジアインフラ投資銀行(AIIB)への不参加も、同銀行のガバナンス(統治)への不安感もさることながら「中国主導の計画には慎重に」という対抗心があるからだろう。
キューバ危機以来の半世紀にわたるキューバとの断交状態を断ち切って「歴史的和解」に踏み切ったのもオバマ大統領の対中戦略と無関係ではあるまい。米議会上下両院合同会議での演説という機会を朴槿恵韓国大統領(2013年)と安倍首相(今年)に提供したことも、バックには中国を意識している米国の思惑が読み取れる。岸田文雄外相は5月2日、15人の経済人を引き連れてキューバを訪問し、フィデル・カストロ前国家評議会議長と会談した。米国・キューバの和解に歩調を合わせたかのような行動だが、外相が歴史的和解の背景に「米国の対中戦略」がどれだけ含まれていたかを十分理解していたかどうかは分からない。岸田外相は5月13日、東京都内のホテルで開かれた岸田派(宏池会)総会で挨拶し、「今年は宏池会が池田勇人先生により結成されて58年。池田、大平、鈴木、宮澤と4人の総理大臣を輩出し、現在の安倍政権にも5人の閣僚を送り込んでいる。宏池会の長い伝統と保守本流の思想・政策が日本政治の中核をなしている」と強調した。しかし、乾杯の音頭を取った古賀誠宏池会名誉会長は「腹ふくるる思いだが、今日は乾杯だけといわれているので」と言葉を濁した。宏池会の「伝統」「保守本流」が安倍一強政治の中で埋没しているのは多くの人が承知しており、世界の変化の核心をどれだけ現役政治家たちが認識しているのか、はなはだ心もとないものがある。
 20年前の1995年(平成7年)、日本は阪神淡路大地震や地下鉄サリン事件が発生し、戦後50年と重なったこともあって「日本第2の敗戦」の年ともいわれた。作家の堺屋太一氏が「俯き加減の男の肖像」と題する小説を発表するなど、日本列島全体を陰鬱な空気が覆っていた。当時、米国スタンフォード大学のオクセンバーグ教授が言ったという次の言葉が話題になった。
 「舞い上がる鷲」「吠える竜」「さまよえる熊」「しおれる菊」
 こう書くと、賢明な読者はすぐお分かりと思うが、「舞い上がる鷲」とは米国のことである。一時は日本に追い上げられ、経済摩擦が深刻化したが、リストラ効果も出て、アメリカというイーグルが再び大空に舞い上がっているというのだ。
 「吠える竜」とは中国のことで、一時は二桁台の経済成長率でドラゴンが吠えている元気な国を象徴している。
 一方、「さまよえる熊」はロシアを指し、共産党政権の崩壊でグラスノスチ(公開性)などペレストロイカ(立て直し)に踏み出したゴルバチョフ大統領だったが、必ずしもうまくいかず大きなベアがさまよっているというのだ。「しおれる菊」はベネディクトの名著「菊と刀」に象徴される日本のことで、バブル経済がはじけた日本はしおれた菊のようだというのである。
 この4つの譬えを述べた米国の学者は、次のように分析した。
 「われわれは2つの判断ミスをした」。1つのミスはロシアについてであり、宇宙に初めて人工衛星を打ち上げたソ連(当時)という国はすごい科学技術を持った国に違いないと思い、「追いつけ追い越せ」で一生懸命にスプートニクに追いつく技術を開発し、月に人工衛星を打ち上げたことで、ようやく勝ったが、振り返ってみると、ソ連という国もそうたいしたことではなかったのではないか。
 もう1つの判断ミスは、日本についてで、1980年代から90年代への日本経済の対外進出ぶりを見ていると第1次世界大戦前のドイツのように今にも日本が米国に「追いつき追い越す」のかと思ったが、バブル崩壊後の日本を見ていると、我々の判断は間違っていたのではないか。
 「そして私たちは、第3の判断ミスをするかもしれない。それは中国の成長についてであって、今の中国の勢いが21世紀になっても続くかどうかは、慎重に分析する必要がある」
 オクセンバーグ教授は既にこの世にいないが、「吠える竜」はますます吠え続けている。
21世紀が「新冷戦の時代」と呼ばれ、過激派テロの動きに世界の視線が集まりがちだが、それと並行して中国の台頭―独走がもたらす世界への影響を私たちは、もっと分析しなければならない。もし中国が米国を抜いて「世界一の大国」になったとしたらどう対応すべきだろうか。
 私自身を含めて日本人の多くは「こんなに速く中国が成長大国になるとは思わなかった」と感じているのではないだろうか。私が初めて中国の地に足を運んだ1972年当時はもとより、4人組が逮捕され自由化・解放政策が始まった1978年当時でも、現地を取材した私の率直な感想は「少なくともあと30年ぐらい経たないと経済大国化は無理かな」と思えた。
 それが急展開を見せたのは鄧小平が「先冨論」を唱えて「先に富める者は先に富んだら良い。それ以外の人も後から富めるようについていけばよい」と主張し、「黒い猫も白い猫もネズミをとる猫はいい猫だ」と言い出したあたりからだった。
「為人民服務」(ウエイレンミンフーウー)という中国語がある。「人民のために働く」という毛沢東語録だが、赤い表紙の毛沢東語録が必携の時代だった文革当時は、電話を掛けるにも毛語録をまず言わないと交換手が相手につないでくれなかったという。このため中国人は毛語録の中で最も短いフレーズを探した。それが「為人民服務」で、「ウエイウエイ(もしもし)、ウエイレンミンフーウー」が常態化したという。
しかし鄧小平の「先冨論」が浸透してくると、人民は「為人民弊服務」(ウエイレンミンビーフーウー)と変わっていった。「人民のため」が「人民元のため」に変じたのだ。その進化した姿が今日の中国といっても過言でない。
 その結果、世界がどう変わっただろうか。安い労働賃金につられて中国進出を図った日本企業も現在はタイ、ベトナム、ミャンマーなどへと進出先を移しつつある。いまミャンマー(ヤンゴン)へは成田から一日一便、直行便(ANA)も飛んでいる。今春ミャンマーへ出張したが、行きの便はビジネス姿も含めて日本人でほぼ満席だった。同国が外国からの投資を呼び込むため同国南部のダウェーに大型経済特区を設けているため、日本の投資が急増している。ちなみに渋滞が激しいヤンゴン市内を走っている車は9割以上が日本車だ。現地の日本人ジャーナリストによると「日本からさまざまな投資家がやってくる。最近は暴力団も来ているようだ」と、ミャンマー人気(?)の高さを教えてくれた。
 だがミャンマーも含めてアジアの国々も日本同様に「世界一の大国」にならんとしている中国とどう付き合っていくかを模索中だ。カシミール地方で中国との領土問題を抱えるインドのモディ首相が今年5月中旬、初訪中して習近平主席と会談した。習主席はモディ首相を西安の大雁塔(玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典が保存されていた塔で、西安のシンボル)を案内するなど異例の厚遇ぶりを見せた。「一帯一路」(現代のシルクロード計画)やAIIBへのインドの協力を取り付けると同時に、中印両国の蜜月関係を日米両国などに見せつける中国側の狙いもあったのだろう。これに先立ち習主席は5月8日、モスクワでのプーチン・ロシア大統領との会談では「ともに戦勝国として第2次大戦の歴史を否定・歪曲・改ざんする試みに反対する」との共同声明を出し、日本の安倍政権にくぎを刺した。
 一方、米国のケリー国務長官は5月16日、北京での王毅中国外相との会談で「南シナ海の南沙諸島で中国が急ピッチで進めている岩礁埋め立てに懸念を持っている」とけん制した。王毅外相は「完全に中国の主権の範囲内のことである」と反論したが、アジアを舞台にさまざまな側面で中国と米国の駆け引きが今後盛んになるだろう。日本は安倍首相の「平和安全法制」への異常なのめり込みに見られるように米国全面支援だが、経済面で苦慮しているヨーロッパは「頭はアメリカ、体は中国」という二面性を見せている。
 徐静波・アジア通信社社長は2001年から「中国経済新聞」(日本語)を日本国内で発行し、中国最新事情を伝えている。彼は最近「2023年の中国」(習近平政権後、中国と世界はどうなっているか?)という興味深い本を出版した。その中で中国経済の未来について次のように予測している。
「2015年 購買力平価ベースで世界最大のGDPに
 2017年 世界最大の『消費大国』に
 2018年 世界最大の『投資大国」に
 2020年 世界最大の『製造大国』に
 2023年 世界最大の『GDP(名目)大国』に」
 そして2023年にポスト習近平政権が誕生し、文字通り中国は世界ナンバーワンになるというのだ。具体的には「消費額が15兆ドルを超え、世界一の市場になる」「世界上位企業500社は、半分以上が中国企業となる」「パナソニックなど日本企業の多くが中国に買収される」「年間1000万人の中国人観光客が日本に押し掛ける」などとみる。
 良かれあしかれ、当分は「吠える竜」が中心になって世界は回転していくだろう。故オクセンバーグ教授が言った「ひょっとしたら我々は『第3の判断ミス』をするかもしれない』という事態は、目下のところ、その可能性が低いように見えるのだが⋯―。                          (この原稿は安保研究会用に書いたレポートを手直ししたものです)            

出会った人々⑯ 没後40年、棟方志功   宇治敏彦

 板画家・棟方志功が肝臓がんで1975年9月、72歳で亡くなってから今年で40年になる。随所で彼の板画に接するので、もうそんなに時間が経ったのだろうかと愕然とする。
 日本板画院を主宰していた志功に自作の木版画を見てもらおうと故友・岐部堅二君の助けを借りて「ベートーベンに捧ぐ」と題する90センチ四方の作品を手に、予約もせずに東京・荻窪の志功宅を訪ねたのは、半世紀以上前の1958年のことだった。
 志功は不在だったが、間もなくご本人から「立派な、大きな御作拝見よろこびでした。その後の御仕事とともに何卒にこの會に出品くださる様ねがい上げます」(原文のまま)との葉書が届いた。当時、日本橋にあった白木屋デパートで同年秋に開催する第10回日本板画展への応募を促す内容だった。早速、応募して「ベートーベン」板画は一角に飾られた。それからしばらく志功先生と書面を通じての交流が続き、手元には手刷りの版画葉書も残っている。私の「お宝」の一つである。
 破顔一笑、エネルギッシュな製作力、純粋無垢、無鉄砲でいて計画的、何事にも精一杯、大胆不敵で慈悲深い、天才か狂人か、小人ゆえの大作主義…さまざまに矛盾した側面を持ち合わせながら、決して悪人にはなれない大芸術家であった。あるサイン会の時、日付で「昭和」何年と書くべきところを、いつもの癖か版木に書くように反転した文字になってしまったのにも気づかず、終始ニコニコしていたのが印象的だった。
 棟方志功の芸術論で心に残っているのは、彼が1974年11月、米国ワシントン大学で行った「塵も仏だよ」と題する人生最後の講演である。
茶人・千利休が3人の弟子に庭の掃除を頼んだ。一番若い弟子は一生懸命掃いて道をきれいにした。利休は何も言わず、次の弟子に「じゃあお前が掃除せい」といった。次の弟子はきれいになった庭の石に水をかけた。だが利休は何も言わず、3番目の弟子を呼んだ。その弟子は、庭を見て、そこにある木をゆすった。
「そうしたら木の葉がサラサラと水の上に、石の上に落ちました。『オー、ワンダフル! あなたは一番の弟子です』と、利休はいいました。これは一生懸命掃除しても、きれいにするばかりではだめということですねえ。やっぱりそのきれいな中に、ある趣をつけなくてはだめだということですね。一つぐらい足りないところがほしいということですね。一回掃いたところを、もう一度わざとよごすんですね、葉で」(「グッドバイ棟方志功」1976年、講談社)
そういう目で、志功の作品を見ると、また違った印象を受けるに違いない。没後40年経っても棟方志功は、まだまだ生き続けるだろう。

愉快な広報仲間たちの卒業会  宇治敏彦

湯島天満宮(湯島天神)参集殿で「お江戸場所 卒業祝賀会」と題する地方公務員3人の定年退職を祝す会合が4月中旬にあって出席した。約60人の広報関係者が全国各地から集まってきた。3人の公務員は岩手県雫石町の米沢一好さん、群馬県大泉町の岩瀬寿夫さん、福岡県福津町の黒田俊彦さんで、いずれも今年60歳でお役所を「卒業」する広報担当経験者だ。
 以前、「埴輪」にも「広報の神様」加藤透さん(秋田県男鹿市)の卒業会のことを書いたが、どうして広報関係の公務員って、こんなにも仲が良く、広報担当からはずれてもポストに関係なく集まってくるのだろう? なかには成長した息子さんを連れてきた鳥取県鳥取市の元広報ウーマン・浜崎厚子さんもいた。元内閣報道室長の近藤卯一さん(日本広報協会元幹部)や広島県でレモン農園を経営している峠哲夫さん(同県大崎上島町の元広報マン)らもやってきた。かく言う筆者も以前から日本広報協会(会長・石原信夫元官房副長官)のアドバイザーとして地方自治体の広報広聴にかかわってきた一員だが、多くの公務員に取材で接してきた一ジャーナリストとしての印象からすれば、プライベートでもこんなに本音ベースで付き合う公務員は「広報」経験者以外にいないかもしれない。要するに肩書に関係なく裸の人間同士としてバカ騒ぎできる仲間たちなのだ。
 もちろん、その背景には世話好きの渡邊昭彦さん(日本広報協会幹部)という男の存在も無視できないが、広報仲間の田上富久長崎市長(彼も長崎市の広報担当だった。改選期の市長選に重なったので今回は欠席)は、こんなメッセージを寄せていた。
 「『出会いは奇跡』と言いますが、全国の広報仲間との出会いは、まさに奇跡のようなものでした。今も続く素晴らしいご縁をいただいたことに改めて感謝します」
 湯島天神には何回か参拝したことはあるが、その参集殿には初めて入った。料理はイタリアンで天神様とは違和感があったが、なかなか美味だった。アルコールは各地の広報パーソンが持参した自慢の地酒や焼酎で飲み放題。ドラマー&ボーカル、ギター弾き語り&ハーモニカのシンガーソングライター、清家みえ子さんの演奏あたりまでは祝辞も含めて、まあまあまともな「卒業会」だったが、その後は席も乱れでぐっちゃぐちゃ。年長の近藤さんや小生はお先に失礼したが、一行は2次会にホテル泊で、翌朝は江戸東京博物館見学というスケジュール。山崎利男さん(福島県須賀川市)から5月9、10日に開く「第27回すかがわ国際短編映画祭」においでくださいと誘われた。「世界一小さな映画祭」が売りだという。いつか訪ねてみたい。
 それにしても、こうした人間関係はいつまでも大事にしたいものだ。仕掛け人の渡邊氏は「こんな集まりも、今回が最後かもしれませんが」というのだが⋯―。
 

出会った人々⑮ ユーモアで首相を支えた鈴木さちさん  宇治敏彦

 海外出張先のミャンマーで鈴木善幸元首相のさち夫人(95歳)がなくなったとの報道に接した。そういえば大平正芳元首相の志げ子夫人が1990年になくなった時も筆者は東欧に出張中だった。さち夫人は「金平糖」というニックネームの大平夫人(島柱次・元NHK会長が大平夫人に付けた愛称で、「すぐ角を出す」という意味)とは対照的で、ユーモアに富み、何時でも、だれにも明るく接する賢婦人だった。俳句をはじめ趣味でも多彩な人で、晩年は緑内障が悪化して失明したにもかかわらず、入院先の病院でも看護婦さんたちに常に冗談を飛ばして人気者だったという。
 まだ鈴木氏が自民党総務会長の時代から毎年正月には大勢の人が東京・世田谷の経堂にある鈴木邸に集まった。「カラカラ亭」と呼ばれていた。善幸さんが愛したジョニ赤の水割りをカラカラと音を立てながら飲むので、何時しかそう呼ばれるようになった。ある年の正月に日経の宏池会担当だったM記者が大学生の息子さんを連れて年賀の挨拶に来た。M氏は身長が150センチ後半で男性としては小柄なのに、彼の息子さんは180センチ近い長身だった。挨拶する親子にさち夫人は、息子さんの方を見て即座に言ったものだ。「あなた、お米を縦に食べて育ったのでしょ」。
 巧まずしてユーモアが出るのは、ご主人の鈴木氏に対しても同じだった。前尾繁三郎氏が宏池会会長になって佐藤栄作首相(自民党総裁)の総裁3選阻止に立ち上がったとき、鈴木氏は選挙参謀だった。東京・芝のプリンスホテルに泊まり込んで指揮を取ったが、惨敗して「佐藤3選」を阻止できなかった。その夜、経堂のカラカラ亭に夜回りすると、間もなく帰宅した善幸さんにさち夫人は、即座にこう言った。「前尾先生も貴方のズボンの皺ほど票がお取りになれればよろしゅうございましたのにね」。思わず善幸さんも苦笑いしたが、これは最大の慰労の言葉だと筆者は思った。実は、この時の総裁選で、前尾氏は本格的に「佐藤打倒」の意思がなく、総裁選直前には鈴木氏らに「打ち方止め」を指示していた。それだけに参謀役の鈴木氏は、苦渋していたのだった。
 政治家にとって家族は、選挙の時、「戦友」のような存在だが、鈴木元首相にとってさち夫人は、常時「戦友」の存在だったと思う。再選確実と言われた中で1982年11月、突然の辞意表明した鈴木首相の心境について、さち夫人は「(自民党内の怨念政治にスットプをかけるため)一緒に滝壺に落ちましょう、という心境でした」と語っていた。

ミャンマーでの「民主化」への闘い   宇治敏彦

 「報道の自由への道のり」。3月27日から3日間、ミャンマーで開催された国際新聞編集者協会(IPI)の第64回大会に参加した。そこでは政治体制の変革過程で「表現の自由」を確保するのに苦闘しているジャーナリストの姿が印象的だった。世界45国から約270人の報道関係者が参加し、「紛争報道」「ヘイトスピーチ(憎悪表現)」などをめぐり活発な議論が展開された。
 町を走る車の9割強が日本製というヤンゴンでは渋滞が激しく、ミャンマー経済が着実に発展していることを実感した。大会の開会式に来賓として出席したイエ・トゥ情報省担当大臣は「わが国は民主主義国家への改革過程にある。後戻りはしない」と明言し、国際ジャーナリスト社会との関係緊密化にも言及した。
 しかし会場ではマスクをした一青年が情報相の挨拶中に立ち上がって「ジャーナリストへの暴力を止めよ、逮捕を止めよ、投獄を止めよ」と書いたプラカードを掲げて抗議する場面もあった。3日目のメディアツアーで「セブン・デー・デーリー」紙の編集局を訪れた際、検閲対象になった紙面を見せてもらった。なかにはアウンサンスーチーさんの写真もあった。「最近は緩和される傾向にあるが、以前はスーチー女史の好きな赤いバラを紙面に載せるのもご法度。だから黄色のバラに変えざるをえなかった」と女性編集者が説明してくれた。
 地元有力メディアグループ「ミィツィマ」はメディア特集を組み、「ミャンマー・ジャーナリストたちのジレンマ」と題して次のように書いていた。「イエ情報相の態度は『不誠実』だ。最近も『ミャンマー・ポスト』紙が軍関係の国会議員に批判的記事をのせたとして編集局長と記者が2か月間の投獄処分になった。記者たちは用心深くならざるを得ない」。大会に来賓として出席した情報相が挨拶後も丸2日間、大会論議を傍聴していたのも「地元メディアに無言の圧力をかけているのかな」と詮索したくなった。同国における「報道の自由」はまだまだ発展途上というところだろうか。
 「ヘイトスピーチ問題」も今大会では焦点の一つだった。日本では在日韓国人へのヘイトスピーチが社会問題化したが、中東やアジア諸国でもイスラム教徒、仏教徒、キリスト教徒などの間で、さまざまな敵対表現が使われ、大きな問題になっている。仏教徒が約7割を占めるスリランカから参加した人権擁護活動家、マノリ・カルガンピティヤさん(サバミマ新聞編集者)は「昨年1月にコロンボ南西部で開かれた過激派仏教集団の抗議集会で4人が死亡、約80人がけがをする事件があった。イスラム教徒の商店や家が焼かれ、破壊された」と報告するとともに「主要メディアを活用してヘイトスピーチを止めさせる動きを強めるべきだ」と強調した。大会を傍聴していたドイツ人女性は「言葉だけでなく絵画や音楽を通じての嫌悪表現もなされている。これらの行為を防ぐには教育が必要で、国際機関による防止キャンペーンをやるべきだ」と感想を漏らしていた。筆者は「ナショナリズムよりヒューマニズム」の人類愛的精神を広める以外に、この問題を解決するのは難しいと思う。宗教問題のパネラーとして登壇した立正佼成会の庭野光祥次代会長は「人間の弱いところを救うのが宗教の役割であり、宗教間の対話も重要だ」と指摘していた。
 「危機や緊急事態での倫理的報道」に関するセッションに登壇した河北新報の山崎敦記者は、4年前の東京電力福島第一原発事故直後の自らの体験を具体的に語った。「放射能汚染を避けるため記者たちは現場に近づけなかったが、良心の呵責に耐えきれず社を辞めた記者もいた」。
 大会中に各国事情を報告する国内委員会も開催された。筆者は①フリージャナリスト後藤健二氏の救出に各国が協力してくれたことへの感謝②特定秘密保護法に対する新聞協会の声明③産経新聞前ソウル支局長の拘束に対する抗議、の3点を報告した。
 今大会で理事会議長はガリーナ・シドロバさん(ロシア)からジョン・イヤーウッド氏(米国)に代わった。また日本側理事も宇治から小松浩毎日新聞論説委員長に交代した。理事在任中の新聞協会事務局の全面的な協力に深く感謝したい。会員や会費の減少でIPIも厳しい運営に直面しているが、表現の自由確保に欠かせない国際組織である。協会国際委員長として今後も支援を惜しまないつもりだ。次回大会は来年、ドーハ(カタール)で開催される。(この原稿は4月14日の新聞協会報に掲載された記事を手直ししたものです)









好きな言葉②「先用後利」   宇治敏彦

 ご存じ富山の薬売りのキャッチフレーズ。昨年5月、黒部ダムを見学した後、富山市民民俗村にある売薬資料館で300年以上の歴史を持つ富山売薬の歴史を勉強した。富山の薬売りたちは「懸場帳」という全国のお得意様名簿をもとに春と秋の2回、手分けして薬を担いで家々を訪問し、使った薬の補てんをしていった。「先用後利」とは、まず薬を置いて行き、利用者に役立ててもらう。代金は使った後で結構ですという考え方だ。
先用後利b
 富山の薬売りが栄えた江戸時代は「反魂丹」という万能薬が有名だったようで、彼らが必ず持参した薬品の一つだったのだろう。紙風船とか折り紙など子供が喜ぶ景品も薬ととともに持参してサービスとして無料配布していたようだ。
普通の商売は品物と代金を同時に引き換えるものだが、「まずお役に立てください」と薬を先に置いていく心持ちが嬉しいではないか。
 現代は世知辛い世の中になったもので息子を装った電話をかけては巨額な預金を引き出させる「俺々詐欺」事件が毎日のように報道されている。いつの時代にも詐欺師や悪人はいるものだが、貧富の格差が広がったり、明日に希望が持てない状況が強まれば、悪事を働く人間も増えていく。こんな時代状況だからこそ「お先にどうぞ。お代は後で」という「先用後利」の精神が必要だし、そうした考えを何事にも広げていくことで世直しにもつなげられるのではないかと思う。
 富山県で製薬事業が栄えた時には包装業、木工業、運輸業など関連企業も栄えるなど薬を中心にしてすそ野が広がっていった。それは同時に「先用後利」精神の広がりにもつながっていった。いまでも日本国内で住み良い都道府県の上位に富山県がランクされるのは、住居面積の広さ、魚介類や野菜が豊富などの理由のほかに「先用後利」の思いが一般市民の間に残っているからではないか、と筆者は想像している。
プロフィール

magazinehaniwa

Author:magazinehaniwa
ブログ雑誌埴輪へようこそ!
埴輪同人 宇治敏彦・小榑雅章
連絡先
 magazinehaniwa@yahoo.co.jp

最新記事
カテゴリ
最新コメント
月別アーカイブ
FC2カウンター
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR