憲法9条はどのように誕生したのか    小榑雅章

 一月ほど前の6月4日、衆院憲法審査会は憲法学者3氏を参考人として招き、立憲主義などをテーマに意見聴取と質疑を行ないました。この席で、集団的自衛権の行使容認について見解を問われた3氏全員が「憲法違反だ」と明言しました。
 時事通信の記事によると、「招かれたのは早大教授の長谷部恭男氏と笹田栄司氏、慶大名誉教授の小林節氏。長谷部氏は、安倍政権が進める安全保障法制整備について「憲法違反だ。従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかないし、法的な安定性を大きく揺るがすものだ」と批判した。
 小林氏も「憲法9条2項で軍隊と交戦権が与えられていない。仲間の国を助けるために海外に戦争に行くことは憲法9条違反だ」と強調し、9条改正を訴えた。笹田氏は、従来の憲法解釈に関し「ガラス細工で、ぎりぎりのところで保ってきていた」とした上で、集団的自衛権行使については「違憲だ」と述べた。」
(http://www.jiji.com/jc/zc?k=201506/2015060400318)
 自民党推薦の長谷部氏をはじめ、3氏全員がそろって「憲法9条違反」と断じたことは、国民の間に大きな衝撃を与えました。この憲法審査会を境に、潮目が大きく変わってきたといいます。
 ところで、この憲法9条がどのような経緯で誕生したのか、ご存知でしょうか。アメリカの押しつけだ、いや日本国民の敗戦の反省から生じたものだ、などいろいろ意見が分かれています。
 同人宇治敏彦は、先にご紹介した新著「政(まつりごと)の言葉から読み解く戦後70年」の中で、「マッカーサー三原則(マッカーサーノート)」と題して、憲法9条の誕生の経緯を詳しく記述しています。重要なことですので、筆者にことわってその記述の全文を下記に転載させていただきます。ぜひご参考にしていただけたらと存じます。
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マッカーサー三原則(マッカーサーノート)

 マッカーサー三原則とは,一九四六年二月三日、マッカーサー元帥が日本国憲法草案に関してコートニー・ホイットニー(Courtney Whitney,1897~1969・陸軍の将官)GHQ民政局長に示した三つの方針、いわゆる「マッカーサー・ノート」のことである。
 第一は天皇制。「天皇は国の元首の地位にあり、皇位は世襲される。職務と権限は憲法に従って行使され、憲法に示された国民の基本的意思に応えるものとする」
 第二は戦争放棄。「国権の発動たる戦争は廃止する。日本は、紛争解決の手段としての戦争、さらには自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸空海軍を持つ権能は、将来も与えられることなく、交戦権が日本軍に与えられることもない」
 第三は封建制度の廃止。「日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、皇族を除き一代以上に及ばない。華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。予算の型は、イギリスの制度にならうこと」(大友一郎編「日本国憲法制定経過に関する年表と主要な文書」私家版)
 松本丞治国務相を中心にまとめた日本側の憲法改正要綱に、マッカーサー元帥が「現状維持にすぎない」と強い不満を表明した結果だった。
 二月一三日、ホイットニーは吉田外相と松本国務相を訪ね、松本案は承認できないとして、マッカーサー・ノートに肉付けした11章92条からなる憲法改正案(マッカーサー草案)を日本側に提示した。幣原内閣は、同二六日の閣議でマッカーサー草案に沿って起草することを決め、三月二日には脱稿してGHQに提出している。そして六日、憲法改正草案要綱が日本政府とGHQから同時に発表された。松本国務相らがまとめた日本案は見る影もなかったが、ただ一つ、立法府の一院制については、松本からの強い反対を踏まえてGHQも二院制採用に譲歩した。六月からはじまった芦田均(第四七代総理大臣)を委員長とする憲法改正小委員会の審議では、何回にもわたって修正が行われている。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸空海軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」
ご存じのとおり、これが現行の憲法九条だが、審議の途中で「芦田修正」が加えられている。事実、第二項の「前項の目的を達するため」という文言が芦田の提案で付加された。
 芦田はその経緯について、後年(1957年一二月)、憲法調査会(高柳賢三会長)で「ひとつの含意をもって」提案したと証言した。その含意とは、「自衛のためであれば 陸空海軍その他の戦力を保持できる」と解釈できるようにしたということである。だが、一九九五年に公表された芦田小委員会の秘密議事録には「含意」の意味は記録されていない。したがって吉田首相などは、一九四六年、国会で「自衛権の発動としての戦争も、交戦権も放棄した」と答弁している。「戦力なき軍隊」という吉田の国会答弁は流行語にもなったが、吉田は細川隆元との対談で、「戦力なき軍隊」の真意について次のように説明している。
「実際、日本はそうあるべきだと思うんですよ。今日ね、再軍備しようたって、それは非常な金ですわね。(中略)イギリスだって、イギリスの真ん中にアメリカの航空隊がいるんですしね。ドイツ、フランスはもちろんのこと、一国をもって独立を守るなんてしゃれたことを言ったって、今日はもう時代が違って、それはできない話だと思うんですね。共同防衛といいますかね。コレクティブ・ディフェンスというのが原則であると思うんです。他国の援助を加えて、初めてここに戦力ある軍隊ができるんで、一国だけでイギリスといえども、フランスといえども、あるいはドイツ、アメリカまでも含めて、戦力なき軍隊といったほうが正しくありませんかね。日本ばかしじゃなくて。ですから戦力なき軍隊を持っているからといって、不名誉でも何でもないとあたしは思うんです。時代が違うんですからね」(細川隆元『隆元のわが宰相論』山手書房、一九七八年)

吉田の考えが実によく出ている。要するに、「戦力なき軍隊」論とは自衛隊違憲論をかわすための強弁(詭弁?)と同時に、一国単独主義の安保・防衛政策は時代遅れという外交官的な感覚からくる持論でもあった。
 GHQは、芦田修正に強い関心と懸念を示した。自衛のためとはいえ軍隊が復活し、戦前のように日本政治をコントロールするようになることは危険であると感じたのであろう。軍の責任者が閣僚になることを禁止する、すなわち「文民統制」(シビリアン・コントロール)条項を新憲法に追加するよう日本に迫った。それが現憲法六六条での「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」という規定である。憲法学者の西修駒澤大教授は、「芦田修正は日本側の思惑をはるかに超えて、文民条項の新たな誕生という大きな副産物を生み出した」(読売新聞、一九九五年九月三〇日付朝刊)と評価している。
 こうした経過を経て誕生した日本国憲法(一九四六年一一月三日公布、一九四七年五月三日施行)を、GHQからの「押しつけ」と見るかどうかの議論が長く続いている。また、自民党など保守政党の自主憲法制定論の根拠の一つにもなっている。
「押しつけ」という表現を使ったのは岸信介、松本丞治らで、松本は一九五四年七月、自民党憲法調査会総会に出席して憲法草案作成の経過について口述した。このときの速記録によると、憲法全体についてではなく、第九条に関して「押しつけ」という表現を使っている。
「軍の廃止は最初向こうからこしらえて押しつけ(、、、、)て来たので、これに対してこちらは相当反抗したのでありますが、それをこちらの意思で何か軍の廃止をしたいからと言ったからマッカーサーがそういうことを書いたのだろうと言われるのは、前後まったく転倒している。はなはだしい間違いだと思います」
 第九条の発想は幣原首相の提案ではなく、マッカーサー元帥側からの「押しつけ」だというのだ。日本国憲法の制定経過を調べてみると、松本が中心となって取りまとめた日本案はマッカーサー元帥およびGHQ側から「保守的」としてことごとく退うけられたほか、「戦争の放棄」に関しては、幣原首相がマッカーサー元帥との会談において基本認識で一致した経緯などを十分承知していなかったこともあって、松本の怒りやいら立ちが随所から伝わってくる。そのため、松本は「押しつけ」という表現を使ったのであろう。
 この「押しつけ」かどうかについては、当時、内閣法制局参事官として憲法改正作業にかかわった佐藤功(一九一五~二〇〇六・上智大学名誉教授)成蹊大教授が新聞へのインタビューで次のように語っている。
「確かにGHQが原案をつくり、修正も、全部その承認が必要だった。それをけしからんというなら、戦争をやらなければよかった。しかし、その枠の中で、相当多数の条項が自発的に修正された。それを司令部は承認した。日本側が何もできなかったということではない」(朝日新聞、一九九五年九月三〇日付朝刊)
 手続き的には、マッカーサー草案を受けて幣原内閣がGHQと修正協議を行い、一九四六年三月、憲法改正草案として発表している。そして、同年七月から衆議院、貴族院での約一〇〇日審議を経て成立し、一一月三日に公布された。」したがって、立法手続き上から「押しつけ」と断定するには無理がある。
 問題は、何をもって「押しつけ」と見るかであり、日本側が最初からGHQ案的な内容の草案を提出していたら、松本が指摘するような「押しつけ」はなかったであろう。だが、それほどの大改革という認識は当時の日本側指導者にはまったくなかった、いやできなかったというのが正確なところだろう。新右翼団体「一水会」の鈴木邦男顧問は、安倍晋三首相が示している憲法改正への意欲について「自由のない自主憲法になるよりは、自由のある押し付け憲法の方がいい。形じゃない」(毎日新聞、二〇一四年三月一日付朝刊)とコメントしている。
 筆者は現役記者時代に内閣の憲法調査会(高柳賢三会長)を答申まで取材したが、今でも一番印象に残っているのは、事務局で参事官を務めていた大友一郎が、筆者のインタビューに答えた次の言葉である。
「マッカーサー・ノートなどで示された『戦争放棄』の表現は最終的条文になるまでさまざまに変化しているが、最初は『戦争の放棄(renounce)』ではなく『戦争は廃止する(is Abolished)』と受動形だった。なぜ受動形なのか。私は長く考え続けた。原子爆弾といった人類を破滅に導く新兵器の誕生に伴い、もはや戦争は廃止される時代になった、との時代認識からではないか」
 それは、一九四六年一月二四日の幣原・マッカーサー会談で両者が一致した「戦争放棄」の認識をそのまま表現した英語ではないか、というのが大友の結論だった。一九九八年、憲法九条制定経過の再検証を東京新聞、中日新聞に掲載するため、大友と第一生命ビルの「マッカーサー執務室」で会った。そのとき、大友は次のような感想を筆者に漏らした。
「日本のイニシアチブでできた憲法ではないが、第九条については、日本の首相の提案を米側が取り入れたことを若者たちに分かってもらいたい。私も米側の草案を見たときはおやっと思った記憶があるが、九条に背く行為はすべきでない。九条の精神を生かす国連の成長が待たれますね」

 現在、安倍政権下で集団的自衛権の立法化作業が進んでいるが、日本も含めて世界各国首脳に求められているのは「war is abolished」という時代認識ではないかと思う。



宇治敏彦著「政(まつりごと)の言葉から読み解く戦後70年」 小榑雅章

政の言葉から読み解く戦後70年
宇治敏彦著「政(まつりごと)の言葉から読み解く戦後70年」新評論刊 2800円+税

埴輪の同人、宇治敏彦が新著を出版した。
「政(まつりごと)の言葉から読み解く戦後70年」という少し長いタイトルの本だ。
早速、読んでみたが、これがとても面白い。そして役に立つ。考えるよすがになる。へえー、そうだったのか、という発見がある。
今年2015年から70年を引くと1945年。日本が敗戦した年であり、新生日本が始まった年である。安倍総理が70年談話を発表するといわれ、それが物議を醸すかもしれないと取りざたされてもいる。
取りざたするのもいいし、危惧するのも喝采するのもいいだろう。
だが、取りざたするにも材料がいる。この70年がどんな年月だったのか、だれがどのようにこの国の戦後70年を運転してきたのか、それを知ってからとやかく論じるほうが、はるかに楽しい。
本書は、まさに楽しく論じるための手引書だ。
それをかいつまんで紹介するよりも、宇治がこの本の「まえがき」に書いていることを読んでいただくのが、この本の良さを知っていただくには一番いいと思うので、少し長いが、以下に掲載させていただく。

宇治敏彦著「政(まつりごと)の言葉から読み解く戦後70年」
まえがき
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 人間がもつ最大の「武器」、それは「言葉」であろう。他人を感動させることも、激怒させることもできる。[言葉」は道具であるだけでなく、生き物だといえる。受け手も、その言葉がきっかけで結婚に発展したり、怨念から殺人に走ったりもする。なかでも、政治家、企業経営者といった他人を引っ張っていく立場にある人々、あるいは未来のある子どもたちを教育する教師の言葉は、一般市民以上にその責任が重いといえる。
 古代日本には「言霊」とか「言挙げ」といった表現があり、言葉と行為は言行一致、すなわち「言」は「事」なりという概念が存在した。『古事記』によれば、ヤマトタケル(日本武尊、倭建命)は伊吹山の神を征伐する際、途中で大きな白イノシシに出合ったが、それを神の使いと誤解して、「今殺さなくとも帰りに殺せばいいだろう」と言挙げした。
 しかし、実はそれが山の神の化身であった。怒った山神は氷雨を降らせた。雨に打たれたヤマトタケルは高熱に冒され、最後は能煩野(三重県亀山市)で命を落とすことになる。 「言挙げ」が漫心から出た場合は悪い結果をもたらすという代表例である。

  磯城島の 日本の国は 言霊の たすくる国ぞ ま幸くありこそ

 『万葉集』(巻十三)に掲載されている柿本人麻呂の一首である。遣唐使が無事であるよう祈って詠まれた歌で、「日本は、言葉の魂が人を助ける国である。無事であってほしい」という意味だ。このように、日本人は古代から言葉と行動の関連性を重視する民族であった。
 もちろん、どこの国においても「言葉」が人々を感動させたり、激怒させることはある。アメリカの第一六代大統領エブラハム・リンカーン(Abraham Lincolon,1809~1865)の南北戦争に関連したゲティスバーグ演説は、不朽の名演説として知られている。

 戦死者の死を決して無駄にしないために、この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさ
 せるために、そして人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させない
 ために、われわれはここで固く決意する。(在日米国大使館資料から)

 日本においても、戦前戦後を通じて尾崎行雄、田中正造、永井柳太郎、河上丈太郎らをはじめとして議会での名演説でならした政治家は数多い。そのなかで、戦後政治の名演説といえば何といっても池田勇人首相の浅沼稲次郎追悼演説(一九六〇年一〇月一八日)であろう。日比谷公会堂で開催された党首演説会において、演説中に右翼少年の山口二矢に刺殺された浅沼社会党委員長を悼んでのことだが、追悼演説に首相が立つというのは珍しいケースだった。

君は、大衆のために奉仕することを、その政治的信条としておられました。文字通り東
奔西走、比類なき雄弁と情熱をもって、直接国民大衆に訴え続けられたのであります。
 沼は演説百姓よ
 よごれた服にボロカバン
 きょうは本所の公会堂
 あすは京都の辻の寺
 これは大正末期、日労党結成当時、浅沼君の友人がうたったものであります。委員長と
 なってからも、この演説百姓の精神は、いささかも衰えをみせませんでした。全国各地
で演説をおこなう君の姿は、いまなおほうふつたるものがあります。

 この追悼演説は大きな反響を呼び、与野党議員から賛辞が聞かれた。「俺が(演説原稿を)読んだら、議場がシーンとしてしまう追悼文を書いてくれ」と池田から頼まれて、この原稿を書いたのは、当時の総理秘書官・伊藤昌哉だった。太った体型から「ブーチャン」との愛称で呼ばれていた伊藤は、著書『池田勇人その生と死』(至誠堂、一九六六年)のなかで、この演説原稿の裏話を披露している。
 後日、池田首相は「あの演説は五億円か一○億円の価値があった」と漏らしたという。「沼は演説百姓よ」という詩を取り入れたことが大きい。当初はこの詩を二度繰り返して読む予定だったが、衆議院議院運営委員会の理事たちから「あまりにも型破りだから詩の部分は省いたほうがいい」という意見が出たと聞いて、朗読するのを一度だけにした。政治家センセイたちのセンスのなさが嘆かわしい。
 筆者も、鈴木善幸元首相が二〇〇四年に亡くなったとき、宏池会の会長だった宮澤喜一元首相から依頼されて内閣・自民党葬の弔辞を書いたことがある。拙著『実写1955年体制』(第一法規、二〇一三年)でも紹介したが、鈴木善幸夫人さちさん(二〇一五年二月死去)の俳句「女ひげそりて旅立つ萩の朝」を草稿に織り込んだ。
 鈴水首相は中国から帰国後、自民党総裁再選確実という情勢下で、突然、辞意を表明して政界やマスコミを騒がせたが、実は中国に出発する際、さち夫人が総裁選不出馬の覚悟を機中で俳句に託して記者団に披露していたのである。
 俳人だった夫人は、筆者に「萩の朝」がよいか「萩の露」がよいかと問うた。これから北京へ向かうときに「萩の露」というのは何かいかにも縁起がよくない気がして、「萩の朝のほうがよろしいのでは」と進言した。だが、迂闊にも、それが帰国後の首相退陣を前提にした一句だったとは筆者も含めて同行の記者団はまったく気付かなかった。
 弔辞を読む際、宮澤首相(当時)は追悼文案からこの部分をカットしている。公式行事での追悼文ではプライベートなことは極力避けたい、という宮澤らしい配慮であった。
 このように、その場その場での言葉の選択が難しいように、職業の選択、人生の選択となるともっと難しい。筆者は、新聞記者という職業は「I字型人間」(アルファベットのIのように間口は狭いが、奥行きの深いスペシャリスト型人間)より「T字型人間」(さまざまな問題に関心をもちながら、一つの専門分野をもつマージナル人間)のほうが向いているように思う。事実、そのように新人記者教育もしてきた。
 入社時の研修を終えた新人記者はまず地方支局に配属されるのが一般的だが、そこで地元警察の記者クラブ、そして次の新人が来れば市政や県政記者クラブに入会するのが通常のパターンである。ここで肝心なことは、記者クラブとはあくまでも取材の出発点であって、終着駅ではないということである。警察や市役所、県当局からクラブで発表されるデータは記事を書く材料のほんの一部にすぎないが、その発表をもって取材が完了したかのように錯覚している記者も多い。
 日本の記者クラブ制度が欧米から批判にさらされた時期があった。 一九九〇年代初めのころだったが、その内容は次のようなものだった。
・記者クラブは閉鎖的で、日本のマーケット(市場)が外国企業の参入に消極的なのとそっくり。
・事実上の取材制限ではないか。
・日本の新聞がみんな、横並びの記事を書いているのは記者クラブ制度のせいではないか。

 具体的なクレームをつけてきたのは、東京駅近くにオフィスを構える米国の経済通信社「ブルームバーグ・ビジネス・ニュース」だった。同社の日本代表から、「わが社はオブザーバーとして兜クラブ(東京証券取引所の記者クラブ)に入っているが、三月の決算発表期に、クラブ正会員のボックスから資料配布がはじまってオブザーバーたる当社のボックスに配られるまでに一分半の時間差がある」との抗議とともに、「イコール・アクセスの原則からしておかしい。改善策がとられないなら当社も正会員にしてもらいたい」という要請だった。
 この時代は、金融・証券の自由化に伴いアメリカでもトヨタやソニーなど日本企業の株を持つ人が増えていたころだから、決算報道での「一分半の遅れ」は、米国での日本株保有者の売買取引に損害をもたらすとの主張も、それなりに説得力をもつていた。
クラブ側は、部屋に余裕がないことや、同社には日本の新聞社と同様の幹事業務ができないなどの理由で「ノー」の回答を出した。しかし、ブルーム側は納得せず、結局、日本新聞協会が、一九九三年一月、「記者クラブ問題に関する小委員会」を設置し、外国報道機関のクラブ大会の是非を検討することになった。
 小委員会は一三社の編集幹部からなり、委員長を朝日新聞の村上吉男・東京本社編集局次長(ロッキード事件でコーチャン証言を記事にした)、副委員長を筆者(当時、東京新聞編集局次長兼経済部長)と片岡繁雄・北海道新聞東京支社編集局長が務めた。「外国報道機関に記者クラブを開放するなら国内の政党機関紙にも開放しなければならなくなるのではないか」、「英国のBBCみたいな国営放送局も入ってくると、記者クラブヘの日本政府の関与を強める契機になりはしないか」など、さまざまな議論が飛び交い、結論を出すまでに五か月を要した。
 最終的には、①日本新聞協会に届けを出している在日記者、②二社以上の日本報道機関の推薦、を条件に、「参入を希望する外国報道機関の記者については、原則として正会員の資格でクラブヘの加入を認めるべきである」との答申をまとめた。
これを受けて海外メディア八社が、「兜クラブ」にかぎらず、最大の記者クラブである「内閣記者会」(首相官邸のクラブで「永田クラブ」ともいう)を筆頭に、二〇のクラブに加盟申請を出した。それで円満解決したかというと、必ずしもそうではなかった。やはりクラブ正会員の「満場一致」という不文律が残っていて、たとえば「霞クラブ」(外務省記者クラブ)では、中国・北京で発行されている新聞〈北京日報〉の東京特派員からの入会申請には、産経新聞が「中国共産党の支配下にある新聞」との理由で反対し、入会が認められるまでに、その後もかなりの時間を要している。
 日本における記者クラブの歴史は一八九〇(明治二三)年に遡る。帝国議会開設に際して「議会出入り記者団」(のちの「同盟記者倶楽部」を結成したのが最初だった。現在は、首相官邸前にある四階建ての「国会記者会館」が国会取材のベースキヤンプとして使用されている。
 大平洋戦争中、「大本営発表」以外の報道が禁止され、国民は誇大な戦勝報道に沸き立ち、敗戦に至るまで真実を知らされなかった。もちろん、それに加担したマスコミの責任も重い。戦後はGHQ(連合国軍総司令部)の指導もあり、記者クラブは「取材活動を通じて相互の啓発と親睦を図る」ことを主眼に活動を続けてきた。政府も「新聞や放送を通じて広報・広聴をもつと徹底する必要がある」と認識して、各省庁の記者クラブは大臣室のあるフロアに設けるなどマスコミ対策を重視するようになった。
 同時に、記者会見も官庁側と記者側の共同開催という形で、取材される側(官庁)と取材する側(記者)が対等の立場で運営してきた。しかし、近年の首相会見などを見ていると、主導権を首相官邸側に完全に握られているようで、「なぜ、そこでもっと追及しないのだ」とテレビ中継を見ながら歯がゆく思う場面が多い。後輩の記者諸君、「国民の代わりに質問している気概をもつてくれ―」、そう叱咤激励したい気持ちでいっぱいだ。
 二〇一五(平成二七)年で、日本は大平洋戦争の敗戦から満七〇年を迎えた。 一九五五年体制(自民党一党支配体制)以来、新聞社の政治記者・デスク、経済部長、論説主幹、編集・論説担当取締役などとポストは変わっても、半世紀以上にわたって日本の政治・経済をウオッチしてきた一ジャーナリストとして、 政に使われた「言葉」や流行語ともなった社会現象を通して、戦後日本の実相を読み解いてみようというのが本書の狙いである。
 「吉田ワンマン」「グズ哲」「二ワトリからアヒルヘ」「昔陸軍今総評」「エコノミック・アニマル」「日本列島不沈空母論」など人口に膾炙する言葉には、 一般的な解釈とは別の意味があったり、誤訳だったりして俗説が独り歩きしている向きもある。その背景も紹介しつつ、戦後七〇年の日本を総括して、日本および日本人はいま何を「言挙げ」すべきなのかを読者とともに考えたい。とくに、「総人口の一億人切れ問題」「若者の保守化」「地方の衰退」「独居老人の急増」といった国力衰退現象が目立つなかで、過去を見つめ直すことから日本の新しい未来を拓くヒントが得られるに違いないと思い、最終章において筆者なりの提言を列記させていただいた。

G7サミットで安倍首相の表明する数字のトリック  小榑雅章

  G7ドイツエルマウサミット(主要国首脳会議)のニュースが、たびたび報道されています。安倍首相が、もっともらしくふるまっている映像も流れていますが、このサミットで行われる日本の主張にもっと注目すべきことがあることを知らされました。
  生態学者で生物多様性のリーダーの一人である足立直樹さんが主導しているレスポンスアビリティという会社があります。
  その会社は「持続可能な社会にとって必要とされる企業を作ることをお手伝いすること、しかもそれを 2025 年までに実現することです。 なぜなら、現在の社会も、また地球の環境も、今のままのやり方では持続不可能であり、その限界がもうすぐ目の前に迫っているからです」と明確な目標を掲げて、企業に持続可能性に取り組むよう熱く呼びかけています。http://www.responseability.jp/
その足立直樹さんが発行しているメルマガ「サステナブルCSRレター6月4日発行」の231号で、サミットでの日本の温室効果ガスの排出量削減目標について取り上げていますが、とても重要だと思いますので、一部を転載させていただきます。
  「…政府は2030年に向けての日本の温室効果ガス(GHG)の排出量削減目標を2013年比26%に決め、日曜日からのG7サミットで表明することになりました。
  『国際的に遜色のない野心的な目標をまとめることができた。COP21に向け、全ての国が参加する公平で実効的な枠組みの実現を目指し、世界をリードしていく決意だ』(日経)と首相は自画自賛しているそうですが、実際にはこの数値にかなりトリックがあることは、もうご存じだと思います。
  つまり、東日本大震災後の火力発電の増加でGHG排出量が増えた2013年を基準にしていることで、削減割合が大きいように見えるのです。EUは1990年比で40%減ですが、日本は同じ1990年比ですと18%減でしかありません。基準年をずらすことで「欧米に遜色ない」とするのは姑息ですが、そもそもこの目標は何のために設定しているかを理解していないようにも映ります。
  一方、リコーや富士通など先進的な企業10社による「日本気候リーダーズ・パートナーシップ(Japan-CLP)」は、2030年の日本のGHG排出削減目標を1990年比30%減以上とすることが望ましいとの意見表明をしています。
  その論拠はこうです。国際社会の合意である気温上昇を2℃以内に抑えるためには2050年には80%以上の削減が必要であり、これは日本でも既に閣議決定されています。それに整合性を取るためには2030年には最低でも30%にするのが望ましいということであり、きわめてロジカルです。…」
  恥ずかしながら、見事数字のトリックに引っかかって、日本も頑張っているではないか、と思っていました。
  スタンドプレーの目立つ安倍内閣ですが、サミットの舞台でも白を黒と言いはるようなまやかしの数字を発表するとは、なんとも恥ずかしいし情けない。こんな首相に高い支持を続けている国民も、そろそろ目を覚まさないと取り返しがつかなくなるのではないかと恐れます。

ジャーナズムは安部首相の応援団なのか  小榑雅章

放送会社の友人と話していたら、ぽつりと「近頃、安倍首相の扱いがうるさくてしんどくてかなわん」とこぼす。何がしんどいのだと聞くと、「国民のために行動している安倍さん、頑張っている安倍さん」の姿を出来るだけ流すように、というお達しなんだ、と声を潜める。
「おいおい、そんなことありえんだろう、そんなお達しが出るはずがない。表沙汰になったら大騒動だぞ」と言うと、「当たり前だ、文書で出るはずがあるか。空気だよ、空気」そして、わかるだろ、と首を振った。
山本七平さんが唱えたように、この国は「空気」に支配されている。
自民党の圧勝で、党内は磐石。野党は全くの無力で遠吠えしか出来ない。やりたい放題の安倍さんに逆らえるような「空気」はどこもない。しかし、ジャーナリズムは違うはずだ。ダメなものはダメと報道するのがジャーナリストの使命である。だが、言われてみれば、どのテレビも、安倍さんの元気な姿をせっせと報道している(ような気がする)。
テレビやラジオの放送局は、電波の許認可を総務省に握られているから、強い政権には怖くて逆らえないのかも。ましてNHKの会長人事やキャスターの更迭などの露骨な仕打ちをみたら、恭順の旗をかかげなければという空気があふれる。
しかし、それじゃあジャーナリズムとはいえないよ。
ボヤキを聞いて、放送ジャーナリズムの危うさを思ったが、待てよ、ジャーナリズムの本家の新聞はどうなっているのだと思う。
そして、新聞ジャーナリズムも目を覆いたくなるような惨状にあることに、あらためて気づかされた。
まるで、安倍政権の応援団のような論陣をはっている巨大新聞がある。そのコバンザメのような新聞もせっせと提灯持ちをしている。
そのほかの新聞も、舌鋒は鋭くない。原発事故も憲法9条についても、集団的自衛権の論調も、賛成反対両論併記の腰の引けた論述が多く、空気を読んで御身大切を最優先にしているような気がしてならない。
これでは、大政翼賛的ジャーナリズムではないか。
国論をミスリードして、この国の未来に禍根を残さないかと危惧をする。
ジャーナリズムの存在意義は何か。
暮しの手帖の編集長の花森安治に「ジャーナリストの使命は何か」と問うたとき、こう答えた。
「権力に抗すること。権力を糺すこと」
「権力に迎合する、まして応援するなど、ジャーナリズムの最も恥ずべきことで、やるべきことでない」
でも、自分たちも賛同できるような政治をしている政府だったら、ジャーナリズムも応援したほうがよいのではないですか、と聞いたら、お前は何にもわかっていないなという顔をして、答えた。
「政権は、それ自体、権力で、自らのほしいままにできるのだから、ジャーナリズムがそれを応援する必要などまったくない。自分たちの主張と同じだったら、ただ黙ってみていたらいいのだ。権力に迎合したり応援するようなのはジャーナリズムではない」
ジャーナリズムの使命は、「権力に抗すること。権力を糺すこと」
ジャーナリストたちよ、心してペンを握ってほしい。

ジャーナリストってなんですか、花森さんに聞きました  小榑雅章

フリージャーナリストの後藤健二さんがイスラム国の人質になって以来、報道の自由、渡航の自由などと同時に、ジャーナリストの使命についての議論も盛んになっています。
とくに、政府や外務省は、ジャーナリストであろうとなんであろうと、面倒なことはやめてくれ、迷惑だという物言いが前面に出てきています。
それに対して世論も、新聞やテレビであっても、国に迷惑をかけるのはよくないという模範解答が優勢のように思われます。
もう何十年もまえのことですが、暮しの手帖に入社してしばらくの間、編集長の花森安治さんから、「君はそれでもジャーナリストか」とたびたび叱責されました。叱責と言うより、なかば呆れられたり慨嘆されたという感じです。
その都度、「えっ、おれはジャーナリストなのか」と自分のほっぺたをつねったものです。
自分は雑誌の編集者ではあるけれど、新聞記者のように毎日飛び回って、政治記事や経済記事を書いたり、警察署から犯罪情報を取材したりはしないのに、それでもジャーナリストなのか。
密かにコンサイスの英和辞典を開いてみると、「ジャーナリスト 新聞雑誌記者」と書いてあります。なるほど、俺もジャーナリストだ、とは思いましたが、どうも花森さんの言っている「君はそれでもジャーナリストか」というジャーナリストとは少し違う気がしていました。
花森さんのいうジャーナリストはどういう人物?職業?能力?志?をいうのだろう。
青二才の新米記者は一生懸命考えました。
考えてもよくわからないので、恐る恐る「ジャーナリストになるためには、どうしたらいいのですか」と聞きに行きました。
花森さんは、こいつは何を言っているのか、訝しげに私をながめて、こりゃダメだという感じで、ふーっと息を吐きました。
そして一言、「本物か偽物か、みきわめる力だ」
それで、あっちへいってしまいました。

朝日記者がシリア国内で取材「外務省幹部が強い懸念」という記事について―― ジャーナリストの使命は何か 小榑雅章

 1月31日(土)の産経新聞に「朝日記者がシリア国内で取材 「非常に危険」外務省幹部が強い懸念」という次の記事が掲載されていました。
 「朝日新聞のイスタンブール支局長が、シリア国内で取材していることが31日、分かった。イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」による日本人殺害脅迫事件を受け、外務省は1月21日、報道各社にシリアへの渡航について「いかなる理由であっても」見合わせるよう求めている。外務省幹部は「記者も当事者意識を持ってほしい。非常に危険で、いつ拘束されてもおかしくない」と強い懸念を示した。支局長はツイッターで、26日にシリア北部のアレッポに入ったと伝え、現地の様子を写真を交えてリポートしている。
 朝日新聞社広報部は「当該記者は、シリア政府の取材ビザを取得し、取材のために同国に入った。記者は当初の予定・計画に従って行動・取材をしている。この件に関しては弊社も了解している」と回答。見解については「お答えを差し控える」としている。」
 この記事を読んで、なんとも居心地の悪い、違和感に襲われました。
 ええーっ、なんで産経新聞はこういう記事を掲載したのだろう、なんでなんだろう。
 読んだ感じでは、朝日新聞が国禁を犯して、国益を損なうような非常識なことをやっている、ということを訴えたいのかな、と思われます。
 そうなのでしょうか。違和感はこの点にあります。朝日新聞のシリア取材は、国の方針に反した非常識な行いなのでしょうか。
 ジャーナリズムとは何なのでしょうか。
 真実を追求し、それを明らかにする使命を担っているのではないのですか。
 対岸の火事を、安全なコタツにでも入って遠望しながら記事を書けというのでしょうか。実際に現場に行ったら、たくさんの人が焼け出されているし、亡くなった方もいた、というような事態になっているかもしれません。そんな状況を自分の目で見、叫び声を耳で聞き、火の粉に焼かれながら、少しでも早く、正確に読者市民に送り届けるのがジャーナリストの使命ではないのですか。 
 シリアの状況は、確かに危険だと思います。物見遊山や観光のために行かないでほしいという政府の意向は正しいと思います。
 でも、ジャーナリストは違います。
 シリアやイラクやアフリカの惨状を、私たち日本の市民はどうやって知ることが出来るのでしょうか。何も知らなくていい、ということなのですか。
 実情を知らなければ、市民は何も出来ません。いやアメリカやイギリスなどの外国の報道があるというのでしょうか。ではアメリカやイギリスの記者は、危険な場所で取材をしてもかまわないが、日本の記者は危険だから行ってはダメだというのでしょうか。
 産経新聞の記事を読むと、政府や外務省は、国民や報道機関を檻の中に閉じ込めておくのが安全対策だと決めたようです。面倒なことはやめてくれ、海外旅行も企業活動も自粛せよ、と思っているのでしょうね。  
 しかし、ジャーナリストは違います。 
 国民の目となり耳となって、世界中の情報を取材し、国民に届けてもらわなければなりません。そうでなければ、国民は見ざる聞かざるで何事も知らないことになります。まさか、政府が責任を持って情報を伝えます、などというわけではないでしょうね。
 70年より前、国民は官製の国策情報しか知らされず、連戦連勝だとばかり思っていました。そのあげく、塗炭の苦しみを味わいました。
 ジャーナリストは、用意周到の上に、危険を覚悟で、真実を求めて世界中へ飛び立つべきなのです。

「勇気と希望をありがとう」阪神大震災と放送の役割  小榑雅章

朝日新聞声欄

今日は、1月17日。20年前の今日、神戸は未曾有の大震災に襲われた。
このとき、筆者は新神戸駅近くのマンションの7階で一人で寝ていた。
ガーンと強い衝撃があり、ベッドの脇の食器戸棚が倒れてきて、茶碗や皿が砕ける音が響いた。
真っ暗。電気はつかない。恐怖で、何をしたらいいのか震えた。・・・
こういうことは、テレビや新聞で山ほど語られている。
いまさら、語るほどのことではないだろう。
筆者は、この時、神戸のFM放送、KissFM Kobeで働いていた。
普段は音楽主体の放送局だが、ラジオ局として災害放送の責務も負っている。
暗闇の中で震えながら、大きな地震に襲われたことはわかった。となれば、一刻も早く放送局へ行かなければならない。ガラスに気をつけながら、身なりを整え、階段を下りて、街へ出て、暗がりの中、倒壊家屋の間を1時間近く歩いて、中突堤にある局にたどり着いた。
放送局も大きな損害を受けて足の踏み場もなかったが、非常用電源が機能して放送は継続していた。泊まりのディレクターが、6時13分大阪管区気象台発表の地震情報の第一報を放送していた。
KissFM には放送機能があり、関西一円2千万人に電波を届ける能力があるが、取材記者は一人もいない。
しかし、被災者は、今何が起こっているのか、これからどうなるのか、とにかく情報がほしい。そういう被災者の役に立ちたい。
どうするか。そしてどうしたか。
上に掲げたのは、震災から40日あまりたった2月28日の朝日新聞声欄に掲載された被災者の声である。
「勇気と希望をありがとう」 大震災時の被災者の心情に寄り添って、放送局として少しでもお役に立てたのではないかと、この投稿を拝見したとき、涙が出て止まらなかった。

花森さんの心配・恐れ  小榑雅章

今日、1月14日は、花森安治さんの命日です。
昭和53年、1978年の今日、なくなりました。
私は、亡くなった花森さんのひげをカミソリで剃り、医師から死亡診断書をもらって、荼毘の準備をしました。
その花森さんが、最も心配していたのは、「国とはなにか」ということです。
「国を愛する」とか、「この国のために」とか、まるで崇高な使命感のように語られる「くに」とは、私たち庶民にとって「何」なのか、ということです。
安倍首相は、ことあるごとに「この国のために」と叫んでいます。
今年の「安倍内閣総理大臣年頭所感」でも、「日本を、再び、世界の中心で輝く国としていく。その決意を、新年にあたって、新たにしております。」と宣言をしています。
私たち庶民が、日本という国をいつ輝く国にしてくれなどと頼んだのでしょうか。
「日本を、再び、世界の中心で輝く国としていく」というが、「再び」というからには、以前に「世界の中心で輝いた時代」があったのか、世界の中心だった時代なんてあったのだろうか。それはいつだったのか、聞きたいです。
たしか八紘一宇だとか大東亜共栄圏だとか、世界の中心になるんだと妄想して、この国の民を塗炭の苦しみに落とし込んだ時代がありましたが、まさか、まさか。

アベノミクス解散とアベノミクスの正体  小榑雅章

 今日、11月21日、衆議院は解散した。
 安倍晋三首相は解散を受けて記者会見し、今回の解散は「アベノミクス解散だ」とし、アベノミクスを進めるかどうかを争点に選挙を行う考えを示した。
 安倍首相は、ことあるごとにアベノミクスの成果として、株価の上昇と企業の業績がすごいことを誇示する。
 その企業業績について、昨日20日の東京新聞の記事は、刮目するに値する。
 「大企業にも広がる格差 上位30社で利益の半分」という記事である。
 記事の一部を引用すると、
 「上場企業約1380社の本年度上半期(4~9月)の最終的な利益が14兆3070億円になり、過去最高を記録した。だが、半分の7兆円はトヨタ自動車や三菱UFJフィナンシャル・グループなど全体の2%程度にすぎない上位30社で占めている。中小企業の景況感は一向に回復しないうえ、大企業の中でも業種や円安の恩恵の有無で業績の格差は広がっている。」
 東証一部上場企業は1841社あるが、三月期決算企業で、すでに決算発表を行った1380社の中間決算を集計した記事である。
 東証一部上場企業の1380社のうちのたった2%の上位30社で、利益の半分の7兆円を専有している、これがアベノミクスの実情だということを、この記事は語っている。まことにわかりやすい。富がいかに一部に偏在しているかがよくわかる。
 ましてこの利潤は、国民の暮らしとは全く関係のない企業の懐にとどまっているお金である。アベノミクスの成果を問う「アベノミクス解散だ」と安倍さんがいうのなら、この数字は投票の大きな判断材料になるだろう。
 この記事でもう一つ注目すべきは、東京電力が上位30社のうちの第7位に登場し、2901億円の純利益を上げているという事実だ。
 あの大惨事を引き起こし、とうに倒産しているような会社が、なぜ3千億円近い利益が上げられるのか。えっつ、全く理解できない。国から何兆円も支援を受けて、しかも燃料代がかかるといって8.46%も電気代を値上げして国民を泣かしている企業がどうして儲けが日本大企業の堂々第7位なの? 
 不確かな記憶だが、去年、国が肩代わりした除染費用を返さずに、環境庁から督促されており、それでも返さずに居直っているので、会計検査院から300億円返還しろと催促されたのではなかったのか。
そんな東京電力が、なんで2901億円も純利益があるのだ。
 これは、不可思議ではなく、怒りだ。

3.10と3.11  小榑雅章

 東日本大震災から、3年経つ。3.11は私たち日本国民にとって、忘れえぬつらい日にちである。
 そして、その1日前の今日3.10も、決して忘れてはならない日であることを、あえて言いたい。
 69年前の今日、1945年3月10日未明、東京は火の海と化した。300機もの米軍爆撃機B29による東京大空襲である。この空襲によって罹災者は100万人を越え、死者は10万人を越えた。
 この時、筆者は東京市芝区新橋で罹災した。父親は召集され二等兵として戦地に赴いており、姉と弟は親類に疎開していて、家には満7歳、国民学校1年生の筆者と母親の二人だけだった。
 敵機襲来のサイレンは毎日のように鳴り響いていた。恐るべき焼夷弾の攻撃がいつあるかもしれず、母親に厳しく言われて、空襲に備え、毎晩、寝巻には着替えずにズボンを穿いたまま眠った。枕元に教科書を詰めたランドセルと防空頭巾を置き、いつでも飛び出せるように準備をさせられていた。3月9日の夜もそうした準備をして眠った。
 どれほど眠ったのだろうか、突然強くゆり動かされた。「起きなさい、早く起きなさい、空襲空襲!」
 眠かった、とても眠かった。しかし、無理やり引きずり起こされて、家の外へ出ると、100メートルほど離れた大通りの歩道に掘られた防空壕に連れて行かれた。かねて空襲になったらここへ入るんだといわれていたその防空壕の中には、もう7,8人はいただろうか、薄暗いロウソクの光で、顔見知りの足の悪いおばさんと小さな女の子の姿が見えた。
 母は、「ここから絶対に出たらダメだよ、じっとしているんだよ」と言ってすぐにどこかに行ってしまった。町内のおじいさんが、「坊主、ここは大丈夫だ、ここは防空壕だからな、爆弾が落ちても大丈夫なんだ」と何度も怒鳴っていた。なるほど、ここは、大丈夫なのだ、と思った。
 どれほど時が経ったか。入口の戸が開いて、母親が私を叫ぶように呼んだ。「早くおいで、早く出るんだ」
 私は、ここなら大丈夫なのに、なぜ出るのかと思ったが、急いで母のもとに行った。外はなぜか明るかった。母に引っ張られて、急いで家に戻ると、もうすぐ隣の家が燃えている。家の前に家財道具を積んだリヤカーがあり、鬼のような顔をした母は、さらに家から幾つかの荷物を持ち出して積んだ。火はすでに我が家に燃え移り、あちこち燃えはじめた。
 「うちが燃えちゃうよー」と私は泣き叫んだ。
 母はこれ以上の荷物は諦めて、リヤカーを引っ張り、私が後を押した。
火の粉が降りかかり、防空頭巾が燃えだした。あわてて頭巾を脱ぎ、叩いたり踏みつけたりして消して、またかぶった。
 リヤカーは重く、必死の母は、もっと押せ、がんばってもっと押してくれ、と叫んだ。後ろから火の粉が追いかけてきた。
 この夜は、強風が吹いていて火はどこまでも広がっていった。みんな風上へ風上へ逃げていた。逃げていく先も燃えていたが、それでも火の中を風上へ進んだ。
 向かい風が強く、息ができなかった苦しかった。「苦しいよ、息ができないよー」と叫んだが、母は止まらなかった。リヤカーを放棄したらもっと楽なのにと思ったが、母は歯を食いしばってリヤカーを引き続けた。
 どれほど行ったのか、くたびれ果て寒くてもうどうにもならなくなったとき、夜がしらじらと明けて、リヤカーは止まった。母が言った。「生き延びた」。
 防空頭巾の外側は焼けて真っ黒。服のあちこちも焼け焦げていた。
 知らない町だった。見ず知らずの空家の商店があった。疎開して誰もいない空家だ。そこへリヤカーと私を押し込むと、気丈な母は、「お前は男なのだから、一人でも大丈夫だね。母さんはもう一度、家がどうなっているか見てくるから、ここで待っていなさい」と言うなり、取って返して戻っていった。
 あたりには、避難してきた人々がたくさんいた。誰もが自分のいのちを長らえるのに一生懸命で、坊主が一人でいても見向きもしなかった。
 一体どのくらいの時が経ったか分からないが、疲れきった母がおにぎりと水筒をもって戻ってきた。
 そして言った。「家は全部燃えた。取り出せるものは何もない。」
 そして、私を抱きしめた。「あの防空壕から連れ出して良かった。あの中にいた人たちは、みんな焼け死んだ。防空壕もみんな燃えちゃった」
 足の悪いおばさんも女の子も、おじいさんも、みんな死んだ。
 この無差別な空襲で、10万人以上の人が亡くなったのだ。
 3月10日。3.10。
 私は、忘れない。忘れられない。

宇治敏彦著「実写 1955年体制」  小榑雅章

実写1955年体制
「実写 1955年体制」宇治敏彦著 第一法規発行 2500円(税別)

参議院選挙も終わり、安倍首相は得意満面です。しかし内心はどんな思いなのでしょうか。難問山積、一国のリーダーとして、これから大変ですよ。歴代の首相たちも、一喜一憂、得意から失意へ、握手から闘争へ。みんな苦労をしてきたのですよ。
このブログ「雑誌埴輪」の同人、宇治敏彦が「実写 1955年体制」という本を、第一法規から出版しました。早速、その本を読んでみたら、これがじつにおもしろい。日本政治の裏面史というか舞台裏というか、歴代の首相や著名な政治家、労働界のリーダーなどの乙にすました表舞台とは異なった実像が、どれも具体的に語られているのです。「実写」と銘打っているのも、むべなるかなで、すべてが宇治自身が現場で実感し体験した事象を、自身の記録と記憶に基いて、実写されているのです。
宇治が、いかなることを意図してこの本を書こうとしたか、序章の一部を以下に抜粋してみましょう。
「一九五五年当時の第五四代首相・鳩山一郎から一九九三年の第七八代首相・宮澤喜一に至るまで一五人の内閣総理大臣による三八年間の自民党一党支配時代は、私たち日本人にとってどんな時代であったのか、それを政治記者として取材し、現在も“後期高齢者”の一員でありながら特任論説委員として社説を書いている五〇年余の現役ジャーナリストとしての眼も、資料、記憶から再現して、戦後日本の中でも力強い日々であった『五五年体制』の光と影を再現してみたいというのが筆者の思いである。」
ところで、いま、若い人に「55年体制」って知っている?と聞くと、それなんですか、聞いたことがない、と聞き返されました。
「55年体制」について、宇治は、次のように説明しています。
・・・東西冷戦(米ソ対立)、イデオロギー対立(資本主義対社会主義)が五五体制の大きな特徴だった。…日本国内で五五体制を特徴づけるキーワードないしは流行語を拾い上げると、「日本株式会社」「タカ派、ハト派」「総資本対総労働」「社会党・総評ブロック」「昔陸軍、今総評」「政治は三流、経済は一流」「政界一寸先は闇」「鉄の三角同盟(アイアン・トライアングル)「族議員」「行政指導」「護送船団方式」「一内閣一仕事」「もはや戦後ではない」「神武景気」「総中流」「みんなで渡ればこわくない」などを列記できよう。いずれも五五年体制の断面を見事に象徴している表現と思う。…
ここで、宇治がキーワードないしは流行語としてあげた事象のほとんどが、この「実写 1955年体制」の中で取り上げられ、その意味や内幕が生き生きと語られています。政治というのは、私たち庶民とかけ離れた白亜の議事堂の中で行なわれている別世界のできごとのようですが、この本を読むと、政治家の先生方も私たちと同じちょぼちょぼの人間で、悩み苦しみ、のたうちまわっていることも、よく分かりました。
おなじ埴輪同人の私が、いい本だ、面白い、と仲間を褒めそやすのは、それこそあまりほめられることではないのですが、本当に面白かったので、あえて紹介をさせていただきました。ご海容賜りますように。

富士山の眺めは三保の松原だけではない 小榑雅章

20100211富士山
今日7月1日は富士山の山開きで大変賑わっているという。富士山が世界遺産に認定されたからだそうだが、一時拒否されそうだった三保の松原も加えられて、ご同慶のいたりである。
ところで、富士山の眺めは床の間に掛け軸をかけ、三保という座敷から眺めるだけではない。3年半ほど前に、上の写真とともに下記の記事を別のところに書いたが、世界中から神聖なる富士山に憧れてやってくる人々に、下記のような感想をもってもらいたくないなあ、と思って再掲させていただく。

富士山は美しい。
とくに今頃の富士山は美しい。
冠雪した富士は神々しいばかりの美しさだ。
日本の宝である。
日本を一つのことで表現しなさいと言われたら、いろいろ考えられるだろうが、筆者は富士山を上げる。人間がどんなにがんばっても、富士山を作ることは出来ない。世界には似たような山はあるが、これほど美しい山は二つとない。天がこの日本に富士山を与えてくださったと思う。
よく晴れた冬の朝、東京から新幹線に乗る。新丹那トンネルをぬけて三島を過ぎると、次第に富士山は姿を現してくる。隣に座って新聞を読んでいる見ず知らずの外人に、下手な英語で、ほら、富士山が見えるよ、きょうは晴れていてよく見える、あなたはラッキーだ、と語りかけると、オーオー、マウント富士すばらしい、と喜んでいる。筆者もうれしくなって、どうだ、これが日本の誇る富士山だぞ、と胸をそらす。
すると、その外人が、オーマイ・ガッド!と顔を顰めた。何でだ、何がオーマイ・ガッドなのだ。富士山はみごとに美しいではないか。
すると、お前にはこの煙突が見えないのか、この煙は何だ、折角すばらしい自然の造形物に見惚れているのに、林立する煙突が、なんで邪魔をするのだ。この国は、発展途上国なのか、自然を大事にする国ではないのか、と言って、悲しげに両手を広げた。
新幹線はいつの間にか新富士駅を過ぎ、富士川を渡って、富士山は姿を消していた。
新富士駅のあたりの富士市は、昔から和紙づくりの盛んな地域である。富士山の豊富な水は紙をすくのに適していたのが由来だそうだが、大正時代から本格的な製紙工場が出来てきたという。だから現在も、多くの製紙工場がこの地域で活動し、日夜エントツから煙を上げている、というのは当然の風景だと思っていた。
しかし、この外人の見方は違っていた。
日本は、第二次産業の国なのか。日本は観光立国だと聞いたが違うのか。日本といえば富士山だ。富士山は世界中のどこにもないすばらしい観光資源だ。その大事な目玉をなんで煙突で汚すのだ。製紙工場は人間の作ったことだから、やめることも移すことも出来る。しかし富士山は創ることも移すことも出来ない。日本は観光立国だと言うのなら、この最も美しく富士山の見える地域から、煙突をなくすぐらいのことをやるべきだ、とその外人は主張した。
そんな無茶な、と言いかけたが、待てよ、なるほど、そういう考えもあるのかな、もぐもぐと口ごもって、筆者は寝たふりをした。

丸谷才一さんからの最後の手紙  小榑雅章

丸谷さん手紙_convert_20121126225425

明日、11月27日の夜、帝国ホテルで丸谷さんのお別れ会が開かれる。
1年前の12月1日の夜は、同じ帝国ホテルで文化勲章受章のお祝い会だったのに、今度はなんでお別れ会になってしまうのか。かなしい。
「そんなに、もっともらしく悲しんでくれなくてもいいんだよ、もう十分に生きたからね」と、丸谷さんは言われるだろうな。
10月13日に亡くなられたのだが、そのひと月ほどまえの9月6日に、丸谷さんからお手紙をいただいた。(上掲)
いつもは手書きの文章が、めずらしくワープロなので、おやっと思って読む。個人的な私信ではなく、知人たちに送った手紙なので、以下に転載させていただく。

拝呈
 前書きその他挨拶めいたことはすべて抜きにして、近況について
報告いたします。
わたしはこの一月に、心不全になり、二月にNTT病院でステント、
四月に金沢大学病院でハイパスの手術を受け、心臓のほうはうまく
行つたのですが、これと相前後して腎孟癌が見つかりました。いろ
いろな条件から、手術その他はむづかしいやうです。余命は数ヶ月
から数年とのこと。それで、家に帰つて、原稿を書いたり、本を読
んだり、残務整理めいたことをしたりしてゐます。
 これだけ生きればもう十分だといふのが今の気持の大部分です。
長いあひだいろいろありがたう。
 平安を祈る。
                                   頓首

文化勲章受章のお祝いにご自宅を訪ねたとき、先生はお一人で、話し相手がほしかったのか、2時間近くも話してくれた。アップルのジョブズの「デザインは美しくなければならない」という思い。ああでなければだめだよ。日本の町には美しくないデザインがありすぎる。君はJRという文字のデザインをどう思う。あれは美しくない。品がないよ。
それに比べれば、JTBはまだマシだ。もっとも和田誠さんにそういったら、JTBも悪いとたしなめられたよ、と言ってあははは、と笑っていた。
のどがかわいたなと言って、ご自分で冷蔵庫からアイスクリームを出してきてくれて、ふたりで食べた。うまかったな。
先生、やっぱり、さびしいです。



国会事故調にみる美しき?日本文化と新聞の責任  小榑雅章

7月11日に行われた五輪壮行試合と銘打った対ニュージーランド戦の男子サッカーは、1対1の引き分けに終わった。後半26分に先制点を上げながら、終了間際に味方のミスで同点にされてしまった。この試合で、縦横無尽に活躍をした清武弘嗣選手は、試合後「決めるところで決めないと、最後こうなる。点が入らないとしようがない。全員のせい」と悔しさをあらわにしたという。(スポニチ)
別の記事では「試合終了間際の失点で引き分け、ボールを奪われた村松に詰め寄るGK権田」という記述もある。失点の発端は村松がボールを奪われた結果、カウンターを受けた日本は、同点に追いつかれてしまったのだった。
だが、清武は「全員のせい」と言い、権田も「ミスをせめて怒ったのではない」とかばった。
美しきかな、個人の責任は問わない日本の文化! 
ところで、この美しい?日本の文化が問題になっている。
福島第一原発事故を調査する国会事故調査委員会の最終報告書が7月6日に出されたが、その英語版の報告書の冒頭にあるMessage from the Chairmanの中で、黒川委員長が、あの大事故大災害は"Made in Japan."であり、「その根本的原因は日本の文化のしみついた慣習」にある、と記述したからである。
What must be admitted . very painfully . is that this was a disaster "Made in Japan." Its fundamental causes are to be found in the ingrained conventions of Japanese culture:
そして、その染みついた慣習の例として「われわれの反射的な従順さ」「権威に対して問いたださない姿勢」「集団主義」「島国根性」などをあげている。
この英文のメッセージを読んだ外国の特派員たちは、早速「原発事故の責任を、日本特有の文化のせいにするな」という記事を書いて発信した。
その一つ、フィナンシャルタイムスのMure Dickie記者はBeware post-crisis ‘Made in Japan’ labelsという記事を書いているが、その中で、次のように記述している。
「福島第一原発の事故を文化的な文脈で説明しようとするのは、本当に危険だ。」
Yet there are real risks to explaining the Fukushima Daiichi crisis in cultural terms.
「文化に極度に注目しすぎると、あの事故につながる決定を実際に下した組織や個人の責任がどこかにとんでしまいかねない。」
Focusing too heavily on culture could merely shift responsibility from the institutions and individuals that actually took the decisions that led to disaster.
事故の原因を「日本文化のせい」だとすると、上述の日本サッカーチームのように個人の責任は問わず、清武選手のいう「全員のせい」になってしまうことと、共通しているように思える。
黒川委員長が、「根本的原因は日本の文化のしみついた慣習」にあるという記述は英文だけで、日本語の報告にはなかったので、日本の新聞各紙には、この日本文化原罪論は登場していない。もし、日本語の報告にもこの記述があったら、当然問題視していた、という言い訳めいた論述が見られる。
しかし、文化論は登場しなくても、「われわれの反射的な従順さ」「権威に対して問いたださない姿勢」からきた「根本の責任を追及しない大甘の体質」は、日本の大新聞の特性ではないか。
国会事故調の報告書の発表を受けて、各紙社説は論評しているので、それを見てみたい。
朝日新聞
  …事故は「人災」である。国会の事故調査委員会(黒川清委員長)がそう結論づけた。
  根本的な原因が政界・官僚・事業者が一体となった原発推進構造と責任感の欠如にある
  という認識は、私たちも同じだ。…
東京新聞
  ・・・事故は東電や政府による「人災」と断じた。原発規制の枠組み見直しは急務だ。
  個々人の資質や能力の問題でなく、組織的、制度的な問題が、このような『人災』を引
  き起こした。この根本原因の解決なくして再発防止は不可能である。…
毎日新聞
  事故は自然災害ではなく「人災」だ。事前に対策を立てる機会が何度もあったのに実行
  されなかった。根本的原因は、日本の高度経済成長期にまでさかのぼった政府、規制当
  局、事業者が一体となった原子力推進体制と、人々の命と社会を守るという責任感の欠
  如にあった−−。
読売新聞
  国会の東京電力福島原子力発電所事故調査委員会が、報告書で「事故は自然災害ではな
  「人災」と結論づけた。
   政府と東電は、厳しく受け止めるべきだ。重大事故は起こらないという「安全神話」と
   決別し、原発の安全性向上に全力を挙げねばならない。
どの新聞も、国会事故調の報告書をなぞっているのだから、どこも同じような記述になるのは当然だろう。しかし、「事故は人災」だと断じている。にもかかわらず、どの新聞も根本的な原因が「政界・官僚・事業者」とか「政府、規制当局、事業者」、「政府と東電」というとらえどころのない組織や制度を指さしているのはどうしたことか。これでは日本文化論とまったく同じではないか。
「事故は人災」というなら、「それは誰なんだ」「どこの役所の誰に責任なんだ」「東電のどの社長の責任なんだ」「原子力安全委員会の誰なんだ」と追及するべきではないのか。
大新聞の論説担当者は、事故調の報告書をうのみにする「反射的な従順さ」「権威に対して問いたださない姿勢」という黒川委員長のいう日本文化そのものではないか。
「事故は人災」という意見に同調するなら、それをオウム返しになぞるだけではなく、個人の責任の追及にまで行かなければ、原子力事故を文化のせいにするな、個人の責任をうやむやにしては、原子力事故はまた起こる、という外国の論調の方が、正論だと思えてならない。
太平洋戦争の一億総ざんげみたいな無責任な結論は、もうたくさんだ。

安保闘争と「依ってきたる所以」そして花森安治 小榑雅章

いまから52年前、1960年5月、6月の日本は騒然としていた。
国論を二分する日米安全保障条約改定の新条約案が、5月19日に衆議院の特別委員会で、警察官の力を借りて強行採決された。翌20日には衆議院を通過したが、これには与党自民党の中からも強い反対の声が上がり、石橋湛山や河野一郎、三木武夫などが欠席や棄権をした。
アメリカのアイゼンハワー大統領が6月19日に来日する予定なので、それまでに新条約を承認しておきたいためのきわめて強引な強行採決だった。
市民の間でも、在日米軍とその基地の固定化正当化を意図する新安保条約に反対の世論は強く、くりかえし反対デモが行われていたが、この強行採決は「民主主義を破壊するものだ」と、さらに激しい反対運動が連日繰り広げられた。何事にもことなかれ、長いものには巻かれろ主義の日本人にはきわめて稀な、多くの国民をまきこんだ激しい闘争行動であった。
そして、6月15日夕刻、「国会請願デモに押し掛けた全学連主流派約七千人は衆議院南通用門に殺到、門にツナをかけてこじあけるなど再三国会構内へ突入をはかり、これを阻止する警官と乱闘した。」…「午後五時廿分ごろ参院第二通用門を埋めていた全学連主流、同反主流と国民会議神奈川県代表などのデモ隊に維新行動隊のノボリをたてた右翼の車が突っこみ、大乱闘となった。この二つの乱闘事件で、十六日午前零分半現在東京消防庁の調べによると、東大文科四年生、樺美智子さん(二二)が死亡、病院で手当てをうけた重軽傷者四百八十一人、このほか多数の負傷者があるみこみである。(6月16日朝日新聞朝刊1面)
この日の反対行動は東京の国会周辺だけでなく、全国で行われていた。
「警察庁の調べによると、全国の状況はつぎの通り。生産点の職場大会とストは全国の一万百九カ所で行なわれ、六十四万九千人がこれに参加した。また集会は五百十八カ所、四十四万七千人。デモ五百カ所、四十一万三千人が各所で行なわれたが、東京を除いては比較的平穏だった。」(同紙同頁)
この結果、アイゼンハワー大統領の来日は中止になった。
7社共同宣言
問題は、6月17日付の朝刊各紙に掲載された7社共同宣言である。
「暴力を排し、議会主義を守れ」と大書した共同宣言は「六月十五日夜の国会内外における流血事件は、その事の依ってきたる所以は別として、議会主義を危機に陥れる痛恨事であった。われわれは、日本の将来に対して、今日ほど、深い憂慮をもつことはない。/民主主義は言論を以て争われるべきものである。その理由のいかんを問わず、またいかなる政治的難局に立とうと、暴力を用いて事を運ばんとすることは、断じて許されるべきではない。…」と続く。そして最後に「ここにわれわれは、政府与党と野党が、国民の熱望に応え、議会主義を守るという一点に一致し、今日国民が抱く常ならざる憂慮を除き去ることを心から訴えるものである。」と結ぶ。
とにかく暴力はよくない。なんでもいいから、とにかく暴力はやめて議会にもどれ、議会主義を守れ、というのである。
もっともらしい言説だ。
この共同宣言をみて、花森安治さんは怒った。
「新聞は、相撲の行司ではない。新聞はジャーナリズムだ。その新聞が<その事の依ってきたる所以は別として>とは何ごとか。<依ってきたる所以>こそ、ジャーナリストにとって最も重要なことで、新聞の追求すべき最大の使命ではないか。それを<別として>、何をしようというのか」
花森さんは、大声でどなるかと思ったが、むしろ静かにつぶやくように、怒りを吐き出していた。
連日の安保闘争の報道に、暮しの手帖の編集部もおちおちしておられず、みな夜も寝不足になっていた。
花森さんに「デモに行きたい」と私が申し出ると、「君は暮しの手帖の編集者だ、馬鹿なことを言うな、いまは仕事に専念しろ、もし、本当に必要だという事態になったら、デモではなくて、暮しの手帖の誌面で闘うのだ。その時は、<依ってきたる所以>を初めから終わりまで全頁全誌面をさいて検証し、自分たちの主張をして闘うのだ」
それを聞いて、からだがカーッと熱くなった。
それから半世紀。新聞の軌跡をみるにつけ、<その事の依ってきたる所以は別として>と宣言したあの時に、新聞はジャーナリズムとしての使命を見失ったのではないか、という気がしてならない。


不当表示の民主党は営業停止、商品回収すべき 小榑雅章

去年の秋のことですが、「リーボックが19億円支払い 運動靴性能で不当表示」という新聞記事があったことを、覚えておいででしょうか。
去年9月29日の共同通信の記事は次のような文面でした。
「米連邦取引委員会(FTC)は28日、スポーツ用品大手のリーボック・インターナショナルが、同社製の運動靴を『履いて歩くだけで通常以上の運動効果がある』などと宣伝していることが不当表示に当たると指摘し、リーボックが2500万ドル(約19億円)を支払うことで合意したと発表した。
  問題とした運動靴は、『イージートーン』や『ラントーン』の商品名で販売。靴底を膨らませて不安定感を出すことで、歩いた時に脚やお尻の筋肉が引き締まる効果があると宣伝しており、日本でも人気が高い。」
運動靴も「よく走れる」とか「洒落てる」などというセールスポイントとは違った全く新しい美容の機能性を謳った製品だったので、強く印象に残った運動靴でした。ところが、その運動靴が「不当表示」だとして19億円も違反金?を支払ったということに、えらいことだ、ウソをついてはいけないな、とてつもなく高いツケを払うことになる、と思いました。
これはアメリカのことですが、不当表示がいけないのは、日本でも同じで、当然だめです。
製造年月日を偽ったり、外国産の牛肉を松坂牛と表示して売ったら、これは間違いなく犯罪です。包装に「純粋はちみつ」と書いてあるのに調べたら水あめが混ぜてあったり、栗羊羹と書いてあるのに、栗が全く入っていなかったら、これも大ウソつきとして不当景品類及び不当表示防止法で処罰されます。
不当表示とか優良誤認表示、有利誤認表示とか法律上はいろいろ言われますが、要するに、ウソをついて売りつけたり買わせたりしたら、法律違反で発売停止とか商品回収とか、罰金とかの罪に問われるのだ、ということは、小学生でもみーんな知っていることです。
ところで、平成21年8月30日に衆議院議員総選挙が行われ、民主党が大勝利、自民党麻生内閣にかわって、鳩山政権が誕生しました。
民主党がなぜ勝利したのか。自民党にうんざりしていたとか、麻生さんが失言をしたとか、自民党のネガティブキャンペーンが失敗だったとか、いろいろ理由はあるでしょう。
しかし、最も大きな理由は、民主党の掲げた国民への約束、マニフェストであることは間違いありません。
商品を買うときに包装に書かれている産地や効能や賞味期限の日付をみて買います。
選挙の投票(いわば商品の購入)も、マニフェスト(包装表示)を吟味して投票します。
もう一度2年9か月前の民主党のマニフェストとその後の現状を見てみましょう。
* 「コンクリートから人へ」八ッ場ダム建設中止 →建設再開、凍結の新幹線着工へ
* 高速道路無料化 →実験後中止
* ガソリン暫定税率廃止 →廃止はやめて税率そのまま
* 普天間飛行場国外に、少なくとも県外 →沖縄県内
* 議員定数80議席削減 →実現せず
* 公務員人件費2割削減 →実現せず
* 消費税は引き上げない →身命を賭しても実現へ?
どれもこれも、表示違反の不当表示です。国民との約束で選挙に勝ち、政権の座に着けたのに、その国民との約束は何一つ守らない。こんなウソがまかり通っているのはおかしいです。
そんなことは、政治にはよくあることだよ、目くじら立てるだけ損だ、と言われることは承知の上で、なお目くじらを立てようと思ったのは、4月30日、ワシントンでの野田首相の次の発言です。
「何人たりとも党員なら従ってほしい。消費税増税賛成は、当然だ。党の方針通りまとめることに何の迷いもない」
マニフェストでは、消費税は上げないと言っている。そのほかの国民との公約も、どれもこれも、一言の言い訳もなく完全に反故にしておいて、党内のいわば私的な約束は絶対まもるべきだ、という発言は、まったく国民をばかにしているとしか思えません。国民との公約より党内の決定の方が上位概念だとしたら、民主主義そのものが成り立たない。
消費者庁の不当表示に対する罰則を見ると、不当表示の民主党は、商品回収や発売停止で営業停止。議員活動そのものが出来ないはずですよ。






木曽岬干拓地を海にもどそう  小榑雅章

木曽川河口に広がっていた浅海干潟を農地にする目的で干拓した、木曽岬干拓地という土地がある。443ヘクタールというから東京ドーム(4.7ha)の約94コ分の広大な土地である。
干拓に当っては、この海を漁場にしていた漁師たちの猛烈な反対もあって、国が干拓事業に着工したのは1970年であり、完成したのは1988年だった。この時にはすでに、農業用地の需要はなくなり、何の役にも立たない、無駄遣いの広大な原っぱが残った。
工場用地として利用するには、まだ3mから6mもの土地のかさ上げが必要であり、巨額の費用を要する。さらに、船舶の着岸港の造成には不向きであり、東海地震の恐れを考えると、工場用地としての可能性は全くない。使い道のない典型的な無為無策無駄遣いの干拓地は、誰も責任を取らず、今日、ただ荒れるがままに放置されている。
そこへ、東日本大震災が起こり、原発事故が発生。自然エネルギーが叫ばれるようになった。国からこの干拓地を購入した三重県は、この干拓地にメガソーラの企業誘致を図っているという。使い道に苦慮していた県にとって渡りに舟のアイディアだったろう。
しかし、本当に、そんな単純な政策でいいのですか、と疑問を呈している専門家がいる。
「海の博物館」館長の石原義剛さんだ。
石原さんは、次のように主張している。
「…干拓にされる以前のこの地は、豊饒な浅い河口海であり、ハマグリ、アサリ、シジミを産していた。・・・
 県が購入を決めた後、わたしはこの地の『海拓』を提案した。海に戻そうという提案である。干拓地を囲む防波堤を一部破却して、埋立られた薄い土を少し剥がせば以前の干潟面が現れる。そこに海水を導入すれば間もなく昔の干潟はハマグリやシジミを産むようになる。僅かに睦部を残して森を作り、子どもたちの自然観察施設や学習施設を、それも干拓地から生産される漁獲物の販売代金で整備運営すればいい。また、この干潟に藻場を造成して、伊勢湾に魚類を蘇らせる稚魚の成育場にすればいい。漁師さんたちに働く場も提供できることは間違いない。
 わたしは単に、『海拓』で漁師だけの漁場を回復させればいいと言っているのではない。子どもたちが海の環境を体験する場にし、県民が誰でも潮干狩りをし、漁師さんとの交流の機会をつくり、海を楽しむ場所づくりが出来ればいいと思う。
 干拓地は長く放置されていたので野ネズミなどの棲みかになり、これを餌とするチユウヒ(タカの一種)も住み着くようになっているが、『海拓』が進めば、水辺の動植物群が還り、豊かな自然環境が回復するから、今以上に多種な野鳥の飛来は間違いない。
 木曽岬干拓にメガソーラを、という考えがどこから発想されたのか、この発想には疑問がある。この発想には県民を納得させるどんなメッセージが込められているのか知りたい。それとも単に遊んでいる土地だから使おう、少しでも金銭的に利益を生めばいい、というだけかしら。それだけなら余りにもお粗末な発想だ。と云うよりも悲しい発想だ。
 新しい三重県を開いてくれるだろうと期待して日本一若い知事さんを選んだ県民の希望に、知事はどう応えてくれるのだろうか。」(SOS海と人間No.198)
 豊饒の海を、人間の欲と浅知恵でもてあそび、散々荒廃させてしまった。自然の「海よ、すまない、ごめんなさい。元の自然の姿に戻しますよ」という素直な発想が石原さんの考えだ。
メガソーラを設置するのには、また莫大な資金が投入されなければならないだろう。またぞろ、浅知恵で時流に飛びつき、莫大な費用をつぎ込む。そのあげく、どうにもならなくなり、誰も責任はとらない。そんなこと、もうやめましょうや。
石原さんの、素直なまっとうな発想が、一番いい。海にも人間にも子どもたちにも一番いい。大賛成だ。金もかからない。私たちに必要なのは、かけがえのない豊かな海なのだ。

クロネコヤマトのボランティア活動  小榑雅章

東日本大震災後、1年が経ちました。思い出すのもつらい災害でした。
筆者は、阪神大震災の被災者でもあったので、東北の被災者の方々のつらさが、ことさら伝わってきます。神戸では、3か月後には響き始めた復興の槌音も、東北では1年も経つのに響きは小さくにぶく、なかなか先が見えないのが、またつらいです。
 ここでは、少しでもよかったと思える出来事を記してみたいと思います。
震災直後から、日本中、いや世界中から多くの救いの手が差しのべられ、多くのボランティアが直接被災地に入って、援助活動をしました。その数は90万人とも100万人とも言われています。個人でボランティア活動に参加した人が多いのですが、中には、企業が後押しをして、ボランティアに参加した人も少なくありません。
その中の一つに、クロネコヤマトという会社のボランティア活動があります。この会社の援助行動は、括目すべき企業活動だと思いますので、ここに記してみたいと思います。
宅急便のクロネコヤマト、この会社の正式な名称はヤマト運輸、その親会社がヤマトホールディングス株式会社と言います。
 1年前の3月11日に、宮城、福島、岩手、茨城の地域にあるクロネコヤマトの事業所のうち9か所が全壊し、5か所が使用不能の半壊になりました。現地のヤマトの多くの社員もまた、被災し、避難所暮らしを余儀なくされていました。 
 震災発生から3、4日後から、救援物資が全国から送られてきて自治体や大きな避難所に山積みされるようになりました。しかし、その山は高くなるばかりです。そこから先の肝心の被災者には届けることが出来ないのです。自治体の市役所や町役場も被災し混乱し、機能を減衰していて、救援物資を仕分けしたり配ったりする能力がないからです。
気仙沼市の避難所で避難生活をしていたヤマトのセールスドライバーたちが、いち早くこの状態に気づきました。市に申し出て集積所の物資を分類し、在庫管理を行ない、同時に多くの避難所を効率的に回る配送ルートやどこにどれだけ配るかという計画を立てて配送を始めました。
救援物資を配布するにしても、無計画にただ配るだけだと、必要なところへ必要なものが届かない。例えば粉ミルクが必要な人に下着が届けられたり、防寒着がほしい人におむつが届いたり、ということが起こっていたのです。その点、地域の事情を熟知しているセールスドライバーは、きめ細かに計画を立て、必要な物資を必要な人のところに届けることが出来たのでした。
岩手県の釜石市でも同じように配送しました。ヤマトの社員たちの同じような動きは、ほかの地域でも同時多発的に始っていました。
 物資の仕分けも在庫管理も効率的配送も、どれも日常的に行なっているベテランで、お手の物の作業です。いままで滞っていた救援物資が、たちまち小さな避難所や自宅避難者のもとに届くようになりました。
 じつは、この作業は現地社員たちの全くの独断のボランティア作業でした。会社の指示でも諒解でもないのに、宅急便の自動車を使うなどということは決して許されていることではありません。会社の資材や車を勝手に使うとは何ごとか、と叱責されても仕方がないことです。
 しかし、こうした動きを知った本社の木川真社長は、叱責するどころか「これぞヤマトの本来の使命だ」と判断して、直ちに従来の宅急便の組織とは別に、「救援物資輸送隊」を組織し、現場独自の活動を全面的にバックアップすることを表明したのです。
 救援物資輸送隊は岩手、宮城、福島の三県の自治体と連携を取り、全国からの応援社員とともに、救援物資の仕分けや避難所、集落、施設などへの配送を行ないました。
この大規模なボランティア活動は、今年の1月15日まで、約10か月にわたって続けられました。その間、救援物資輸送隊への参加人数は、延べ14000名、稼働車両数は4500台になりました。
ヤマトには17万という大勢の社員が働いています。そのほとんどは一人で車を運転し配達するセールスドライバーです。その大勢の社員たちが、「救援物資輸送隊」に共鳴し、被災者の役に立てたという向社会的活動を誇りに思ったと言います。
 株式会社は、利益を稼ぐための組織です。しかし、独走した現地社員のボランティア行動を、咎めるどころか賞賛しただけでなく、多額の経費のかかる本格的な「救援物資輸送隊」を組織した木川社長の決断は、ヤマトという会社に働く17万の社員の心を熱くし、この会社に働くことを誇りに思うという、大きな価値をもたらしたのでした。

福島の若者たちの声を聞こう  小榑雅章

先週、福島に行ってきました。
間もなく、あの大震災から1年になろうというのに、復旧はおろか何の展望も開けずに、ただ立ち尽くす人々の姿に出会いました。
福島第一原発事故により、現在でも、約3万700人が仮設住宅、約6万2700人が民間の借り上げ住宅で暮らしており、自主避難を含めた県外避難は6万人を超えているとのことです。
なんと、15万人を超える人たちが、故郷を離れて、いつ戻れるかも分からず、日夜を異郷で暮らしているのです。
そんな中でも、少しでも住民の役に立とうとNPOとして苦闘している地元の若者たちの話を聞きました。
若者たちは語ってくれました。
瓦礫は片付けました。援助物資も配りました。避難所の世話もしました。話し相手にもなっています。しかし、その先は、どうしたらいいのでしょう。いつまで、どこまでいったら、こういう状況は解決するのでしょうか。警戒区域や計画的避難は、いつになったら解除されるのですか。5年ですか、10年ですか。30年ですか。いつか分からない。展望が開けない。それは、まるで牢獄の中の未決の囚人と同じではないですか。これほどの苦役はありません。
避難区域ではないところの住民も苦しんでいます。苦労してやっと収穫したコメが、放射能基準値を超えていた。そのニュースが流れたら、他の地域のコメは基準値以下でも、もう福島産のコメは、行き先がなくなってしまいました。農産物も、おなじような被害にあっています。風評被害というのでしょうが、これはだれの責任なのですか。そういう農産物は食べたくないという人が良くないのかもしれないが、原発の事故さえなければ、こんなことは起こらなかったのです。
自分たちは、農業こそ福島県の資産だと考えています。農業を再興することが、福島を再建することだと確信して、農業に従事しようとしているのですが、風評は、いつやむのでしょうか。水田や農地を除染しても、山から引く水が汚染されているので、また土が汚染される。山全体を除染できるのでしょうか。
・・・・・・・
NPOとして災害復興に取り組んでいる地元の若者たちは、宝です。希望です。
しかし、彼らの前に横たわる現実は、彼らの努力や熱意だけではどうしようもないのです。一生懸命に話してくれる若者を前に、何も答えることが出来ず、ただ黙るしかありませんでした。しかし、それではだめなのです。日本中が、この福島の若者たちの声を聞くべきなのだと思いました。
そのためにも、問題の本質をつきつめる必要があります。
ある仮設住宅で話を聞いた時、その主婦がたまりかねたように言いました。「東電は、安全だ、絶対安全だと何度も言いました。それはウソだった。ご先祖から何代も受けついできた田畑も屋敷も放り出してきました。私たちは何も悪いことをしていないのに、なぜこんな目に合わなければならないのでしょうね。悪いことをした東電の人達は、ボーナスや給料もたくさんもらって、自分の家で暮らしている。おかしいと思いませんか」
原発事故は天災ではありません。人災です。何の罪とがもない普通の市民の生活を破壊し、苦境に追いやる悪行は、犯罪です。
東京電力は、とてつもない加害者であり、犯罪者なのです。
最近の東電の言行や姿勢をみていると、とてもその自覚があるとは思えません。国営化の動きに対しても、民間でいたい、株は3分の2所有したい、子会社は整理したくない、資産は処分したくない、値上げは権利だ・・・そういうことが許される立場だとは、とても思えません。
と同時に、これほどの苦難を福島の人達に与え、多くの国民にも不便を強いながら、脱原発をあいまいにし、原発再開をもくろむ政府や経済界も、加害者、共犯者の自覚が感じられません。
絶対に安全だと保証してきた原子力安全委員会も、原子力安全・保安院も、誰一人として責任をとっていません。
侵した罪を償うのです。なんとしても償うべきなのです。
正義のない国家は、かならず衰退します。



むのたけじ「希望は絶望のど真ん中に」 小榑雅章

むのたけじ

去年の11月に、岩波新書のこの本を知人から贈られた。そして、すぐに読んだ。読んで、いろいろなことが、頭の中をぐるぐると駆け巡った。いまでもまだ駆け巡っている。
むのたけじさんのお名前は、当然のことながら以前から存じ上げてはいる。しかし、知っていることと言えば、元朝日新聞記者で「たいまつ」の発行者という程度でしかない。著書は、今回、この本を読むのが初めてである。
何が、頭の中を駆け巡っているかと言えば、言い訳である。
むのさんが、日本人に、特にジャーナリストに対し、鋭く突きつけている根源的な問いかけに対し、何とか知らん顔ができないか、もっともらしい言い訳はないか、おろおろしながら、頭をかかえて2か月も過ぎてしまった。
むのさんは、大正4年、1915年生まれ、96才の現役のジャーナリストである。
1945年8月の敗戦の日、それまで戦争を推進してきた新聞記者の一人として、その責任を感じて、朝日新聞を辞した。
あの戦争に、結果的に協力した新聞人はたくさんいる。というより、ほとんど全部である。敗戦の報を知り、内心忸怩たる思いのジャーナリストは、少なくなかっただろう。しかし、戦争の実態に目をつぶり、戦意高揚の記事ばかり書き続けた責任を表明して、即日辞職した新聞記者は、むのたけじしかいなかった。
「八月一五日に新聞社を辞めた新聞社員は他に一人もいなかったそうで、それゆえに私の行動は新聞界で話の種の一つにはなったようだ。」と、むのは書いている。
むのさんは、96才のいま、なぜこの本を書くのか、こう言っている。
「目的は、この世のありさまを造り変えたいのだ。私たち人間みんなが人間らしく生き、喜べる世に造り変えたい。そのための根本の仕事は何か。この世から戦争を無くすことだ。…では、どうしたら戦争をなくせるか、戦争をなくすために、私たち人間は何をなすべきか。何をしてはならないか。…『反戦平和』と発声するだけのビラや行進や集会や決議を幾ら繰り返したって、それだけでは戦争勢力には立ち向かえない。」
そのためには、まず敵を知ることだ、と人間700万年前からの戦争の種々相を解き明かす。
そして言明する。「問題の本質をごまかしたり、すり替えたりしてはいけないよ。常に問題の本質と真正面から取り組んで、やるべきことをやり抜かないといけないよ、その努力を続ければ、きっと活路が拓ける」
ええっ、いまさら戦争論かよ、という声が、我が身の中からも聞こえる。
だが、むのは言う。国際連合の常任理事国5か国だけが、なぜ核爆弾の製造も貯蔵も許されるのか。おかしいではないか。「どこのどなたが、何を根拠に五か国にそんな許しを与えたのか。納得のいく説明を私は全くどこからも聞いたことがない」
私たちが、「そんなこと言ってもしょうがないじゃないか」「いまさら、そんなわかりきっていることをほじくりかえしても、どうにもならないよ」「子供じみたことをいうなよ」…そう言って、自分を納得させ、問題の本質に触れず、正面から取り組むことを避けてきた。
しかし、むのの言う「常に問題の本質と真正面から取り組め」とは、こういうことだ。その本質的なことを避けて、賢しらに、世故にたけたジャーナリストが、したり顔でのさばっている。
この言葉を、じつは私は何度も聞いている。花森安治から聞いている。賢しらに妥協するな、そんなことで本質が見えるのか、---どれほど花森に叱責されたことか。花森の根源も、ジャーナリストとしての戦争責任だった。人間性を根底から否定し暮しを破壊する戦争こそが、われわれの敵だ、庶民の敵だ、そんな戦争を起こさせないためには、守るべき暮しを作らなければならない。守るべき暮しがあれば、戦争なんて起らない。起こそうとしても抵抗する。それが暮しの手帖の原点だった。
しかし、その根源的な努力を、世故にたけたジャーナリストたちは、書生論だ、子供じみている、世の中はそうはいかんのだよと、さも分かったことを言い、目をそらし軽視する。
むのたけじと花森安治は、その取り組み方に於いてはいささか異なるが、「常に問題の本質と真正面から取り組め」という姿勢は同じだった。
むのさんのこの本を読んで、いつの間にか物わかりのいい、世故にたけた自分を見出し、首をすくめ、言い訳を考えている自分に、花森さんの叱声が響いている。
*むのたけじ著「希望は絶望のど真ん中に」岩波新書 700円+税  


ソフトバンク孫正義社長とダイエー中内功社長  小榑雅章

経団連が先月11月11日に「エネルギー政策に関する第2次提言」をとりまとめた。原発の早期再稼働を要望し、再生可能エネルギー計画は慎重に定めるべきだとする内容で、会長・副会長会議では事前に了承されていた。定例理事会では異議なしで追認するはずだったが、ソフトバンクの孫正義社長が立ち上がって、「原子力発電所の早期再稼働について、安全・安心の検証がなされていないうちに再稼働を求めるのは遺憾」と発言した。
議長の米倉弘昌経団連会長は「提言は担当委員会で十分に議論した」と反論。原発再稼働については「安全性の確認が大前提と提言にも書いてある」と説明した。
理事会には約300人が出席していたが、他の誰からも異論は出ず、提言は承認された。
経団連の米倉会長は10日後の21日の記者会見でも、この孫社長の発言に触れ、「ああいう強行な、それもちゃんとした理屈ではなく単に反対だ反対だと。困った発言だなと思った」と重ねて苦言を呈した。
このやりとりをみて、思い出すことがある。
1980年6月、稲山嘉寛経団連会長(当時)が記者会見で「いま増えているのはスーパーなんかの第三次産業ばかり。これらの投資は消費を奪い合うための過剰投資であって国全体の利益にならない」と発言した。
これを知ったダイエーの中内功社長は、記者会見を開いて「スーパーみたいな第三次産業とはけしからん。時代の変化についていけない人が、経団連のトップにすわっているのは、まことに残念」と反論した。
失礼ながら、いまの日本経団連とはちがって、30年前の経団連会長は、財界総理と称されて絶対的存在だった。稲山さんは鉄は国家なりの新日本製鐵の会長でもあった。新興のスーパーごときは、すぐにスーと消えるような存在だと軽んじていたのである。
中内社長は、切歯扼腕、本当に悔しい思いをした。そして堂々と反論をした。これに対して、当時の新聞も世論も、中内さんはなかなかやるではないか、と好意的な雰囲気だった。スーパーは我々の生活に役に立っている産業だ、経団連の方がおかしい、という意見もあった。
さて、孫社長の発言である。誠に正論であり、よくぞ言ってくれたと思う。それに対し、300人も出席していた大会社の社長連中が、ただ一人として誰も同調しなかったというのは、どういうことなのだろう。
東電の原子力発電事故の原因さえいまだ明らかでなく、どれほどの被害・苦痛を国民に与えているかを考えれば、原発の早期再稼働など言いだせるはずがない。きっと多くの社長連中が、心の中では、孫社長の言う意見に賛同していただろう。筆者も何回も出席していたので分かっているが、理事会はすべての議案が異議なしで終わるのが通例である。だからあの雰囲気では手をあげられないな、というのはよくわからないでもない。孫社長への評価もいろいろあることも承知している。しかし、ことは重大である。大勢の空気に順応するだけでは、グローバルの企業活動はできないのは常識だ。どんな会議でも、異をとなえることの重要性は、企業経営者ならみな知っている。にもかかわらず、日本の大企業の社長会長が集る経団連理事会で、原発再開に全員が唯々諾々としたがったというのでは、日本企業の先行きは暗い。

「持続可能な社会の形成に向けた金融行動原則」署名金融機関  小榑雅章

11月14日のこのブログで、「持続可能な社会の形成に向けた金融行動原則」について書きました。
そこで、「持続可能な社会の基本は、明日を不安に思うことなく今日一日が生きられることにある考える。とすれば現在世代は、自らはもとより将来世代の為にも人と地球を取り巻く様々な問題の解決に真摯に取り組み、自然と共生する安全で安心できる生活を目指していかねばならない。元来、社会の基盤の一つはお金を媒介とした経済活動にある。社会を持続可能なものに変えていくにはお金の流れをそれに適合したものに変える必要がある。これこそ社会が必要とするところにお金を回すことで、社会の発展に寄与してきた金融本来の役割に他ならない。」という理念のもとに、7つの金融原則が設定され、それを順守するという署名受付を、環境省は、11月15日(火)より開始しました。(11月14日のブログ参照)
問題は、この原則に、日本の金融機関が本当に署名するかが問われている、見守ろう、ということを、ブログに書いたのです。環境省は、それから1か月後の12月14日(水)現在での署名状況を公表しました。
その結果を以下に記します。なんと63もの金融機関が署名したのです。その中には、わが国を代表するメガバンクも入っています。自分たちの手足を縛るかもしれないこの原則に、署名するというのは、わが国もまんざらではないな、というのが実感です。
ご自分の関係する金融機関が署名しているかどうか、どうぞお確かめください。

株式会社秋田銀行
株式会社阿波銀行
株式会社池田泉州ホールディングス
株式会社伊予銀行
SMBC日興証券株式会社
NKSJひまわり生命保険株式会社
NKSJホールディングス株式会社
NKSJリスクマネジメント株式会社
NKチューリッヒ・リスクサービス株式会社
株式会社大垣共立銀行
株式会社鹿児島銀行
株式会社北九州銀行
株式会社京都銀行
京都信用金庫
桐生信用金庫
株式会社京葉銀行
株式会社滋賀銀行
しがぎんリース・キャピタル株式会社
株式会社静岡銀行
株式会社清水銀行
株式会社ジャパンネット銀行
株式会社損害保険ジャパン
損保ジャパン・ディー・アイ・ワイ生命保険株式会社
損保ジャパン日本興亜アセットマネジメント株式会社
そんぽ24損害保険株式会社
静清信用金庫
西武信用金庫
セゾン自動車火災保険株式会社
第一生命保険株式会社
株式会社大光銀行
株式会社第三銀行
株式会社第四銀行
太陽生命保険株式会社
株式会社大和証券グループ本社
大和証券投資信託委託株式会社
株式会社千葉銀行
株式会社千葉興業銀行
株式会社中国銀行
中日信用金庫
株式会社筑波銀行
株式会社東邦銀行
株式会社東北銀行
株式会社栃木銀行
日興アセットマネジメント株式会社
日本興亜損害保険株式会社
株式会社日本政策投資銀行
株式会社八十二銀行
株式会社福島銀行
株式会社北越銀行
株式会社北陸銀行
株式会社北海道銀行
株式会社みずほフィナンシャルグループ
株式会社三井住友銀行
三井住友トラスト・ホールディングス株式会社
株式会社三菱東京UFJ銀行
三菱UFJ信託銀行株式会社
株式会社武蔵野銀行
株式会社もみじ銀行
株式会社八千代銀行
株式会社山形銀行
株式会社山口銀行
大和信用金庫
株式会社横浜銀行
以上63社(平成23年12月14日現在受付分)(敬称略、会社名あいうえお順)

丸谷才一さん文化勲章受章のお祝い会

丸谷さんの文化勲章受章をお祝いする会が、先週の12月1日に帝国ホテルで行われた。
文壇の長老とか大御所といわれる丸谷さんのお祝いだから、180人もの作家や編集者たちが集って盛会だった。
スピーチは、池澤夏樹さんや吉田秀和さん、小澤征爾さんが行ったが、吉田さんのスピーチは長かった。長いスピーチがやっと終わる、やれやれと思ったら、丸谷さんの新作『持ち重りする薔薇の花』を読んで選んだというバッハの曲のテープを延々と流し、新作を読んだとき、この「天下の名曲を聴いたような気がした」と話した。吉田さんは、86歳の丸谷さんよりずっと上の98歳だから、その元気、元気は驚きだが、音楽に関心がない私には、まったく苦痛だった。こんなこと、丸谷さんに聞こえたら、せっかくの吉田さんのご厚意が苦痛だなんて何事だ、と叱られそうだが、大長老のありがたいご託宣でも、しんどいのはしんどい。
丸谷さんの著作「挨拶はむづかしい」の中に、「…日本人の挨拶は『祝詞』に起源を持つ『前置き』が異常に長くて、本題に入る前に疲れてしまふ。日本人の挨拶とアメリカ人の挨拶とは『質的には似た谷うなものですが、量的には非常に違ひます』とはドナルド・キーンの言ださうである…」という一節があるが、しかし、丸谷さんは、吉田さんのスピーチの間、じっと立って笑顔で耳を傾けていた。
丸谷さんは、ご自分が挨拶をするときは、かならず事前に原稿に書いておき、それを読むことにしているのは有名だが、会の最後に、丸谷さんが挨拶に立った時も、当然ながら、用意した原稿を読まれた。「多少小説の書き方が分かってきて、うまくなったように思う。幸いからだの調子はよいので、これからの作品に期待して下さい」と簡潔にユーモアを交えてしめくくった。

「持続可能な社会の形成に向けた金融行動原則」に注目を  小榑雅章

先月、環境省から、「『持続可能な社会の形成に向けた金融行動原則』のとりまとめについて」、という長いタイトルのお知らせがありました。
あまり長いので、通常は「21 世紀金融行動原則」と略称されるようですが、長くても、前半の、「持続可能な社会の形成に向けた」という、明確な目的を掲げた部分が重要なのです。
「わが社の企業行動原則」とか「企業行動憲章」というのは、多くの企業のCSR(企業の社会的責任)報告書などでよく見かけます。
日本経団連にも企業行動憲章というのがあり、「人権を尊重し、関係法令、国際ルールおよびその精神を遵守しつつ、持続可能な社会の創造に向けて、高い倫理観をもって社会的責任を果たしていく」と表明しているように、憲章の条文も、企業が守るべきコンプライアンスや倫理観が中心で、自社のリスク回避や発展のためのガバナンスに力点が置かれています。だから、企業行動憲章と金融行動原則とでは、内容が大きく異なっています。
金融行動原則の前文には、「持続可能な社会の形成に向けた」という意義と、なぜ金融なのかという意味が、次のように説明されています。
「持続可能な社会の基本は、明日を不安に思うことなく今日一日が生きられることにある考える。とすれば現在世代は、自らはもとより将来世代の為にも人と地球を取り巻く様々な問題の解決に真摯に取り組み、自然と共生する安全で安心できる生活を目指していかねばならない。
元来、社会の基盤の一つはお金を媒介とした経済活動にある。社会を持続可能なものに変えていくにはお金の流れをそれに適合したものに変える必要がある。これこそ社会が必要とするところにお金を回すことで、社会の発展に寄与してきた金融本来の役割に他ならない。」
そうなのです。お金の流れを変えれば、社会は変えられるのです。融資や投資のお金が、持続可能な職種や業態や仕事に、積極的に回るように、意志をもって働きかけたら、社会は変わるのです。
この原則は次の7原則です。
原則
1. 自らが果たすべき責任と役割を認識し、予防的アプローチの視点も踏まえ、それぞれの事業を通じ持続可能な社会の形成に向けた最善の取組みを推進する。
2. 環境産業に代表される「持続可能な社会の形成に寄与する産業」の発展と競争力の向上に資する金融商品・サービスの開発・提供を通じ、持続可能なグローバル社会の形成に貢献する。
3. 地域の振興と持続可能性の向上の視点に立ち、中小企業などの環境配慮や市民の環境意識の向上、災害への備えやコミュニティ活動をサポートする。
4. 持続可能な社会の形成には、多様なステークホルダーが連携することが重要と認識し、かかる取組みに自ら参画するだけでなく主体的な役割を担うよう努める。
5. 環境関連法規の遵守にとどまらず、省資源・省エネルギー等の環境負荷の軽減に積極的に取り組み、サプライヤーにも働き掛けるように努める。
6. 社会の持続可能性を高める活動が経営的な課題であると認識するとともに、取組みの情報開示に努める。
7. 上記の取組みを日常業務において積極的に実践するために、環境や社会の問題に対する自社の役職員の意識向上を図る。

以上のように、金融機関が取り組むべき役割と課題が明確に提示されています。
問題は、これを絵に描いた餅にしてはならないということです。実行に移さなければ、どんなに立派でも床の間の飾りに過ぎません。
環境省の発表では、今後の予定として、
「今後準備が整い次第、金融機関による署名が順次行われる予定です。
 また、来年年明けには、署名金融機関による総会において、環境金融への取組状況に関する情報・意見交換等が行われる予定です。」
とあり、署名の受け付けは、この11月中旬から受け付ける、ということです。まさに、明日明後日から、金融機関の署名が行われるはずなのです。
「原則はあくまで原則」と知らぬ顔をして、床の間に飾っておく分には、責任は発生しませんが、いざ実行します、と署名するとなると、企業によっては急に尻込みするところが出てくるかもしれません。
そうはさせないで、背中を押して署名に向かわせるのは、世論です。ぜひ日本中で注目して成り行きを見たいものです。

阿久悠記念館と「無冠の父」  小榑雅章

阿久悠さんが亡くなったのは、2007年8月1日だった。
それから4年余がすぎて、先日10月28日の午後、東京駿河台の明治大学に阿久悠記念館が開館した。かねてより、この日に開館されるということを知らされていたのと、同じこの日の夜、明大のホールで阿久悠歌謡祭が開催されるので、久しぶりに阿久さんに会えるような気分になって、少しウキウキしながら出かけて行った。
阿久さんとは、以前から知り合いであった。
1990年に、兵庫エフエムラジオ放送というFM放送局が開設されるにあたって、株主の中から、この放送会社の会長には兵庫県淡路島出身の有名文化人の阿久悠さんに就任してもらいたい、という意向が寄せられた。株主は、兵庫県や神戸市などの自治体や新聞社、地元の有力企業などで、ダイエーも出資企業の一つだった。当時、私はダイエーの秘書室長だったが、中内社長に命じられて、阿久さんに会長就任のお願いに行かされた。
阿久さんは、私の話を聞いて、「うーむ、兵庫県民の代表として会長になってくれといわれても、僕は兵庫県民という意識はあまりないんだよ、淡路島で生まれたのはたしかだけど、故郷という感じではないんだよね」
阿久さんは、あまり乗り気ではないような口ぶりだったが、それでも、「会長って何するの?何もしなくていいのなら、引き受けてもいいよ」と承知してくれた。
何年か後で、「放送会社の会長になれば、黒塗りの車で最敬礼でお出迎えされ、ゴルフでもさせてくれるのかと思ったけどね…」と笑っていたが、現実は厳しく、バブルのはじけた1990年の開業は、最初から大赤字。派手な設備投資も重荷になり、あっという間に債務超過の四苦八苦。黒塗りの車もゴルフも、一度として実現しないどころか、一銭の報酬もなく、阿久さんは、たびたびの取締役会や株主総会に呼び出されていた。
3年後の1993年に、何の因果か、この放送局の立て直しに行って来い、と送り込まれることになった。阿久さんは、「僕を会長にしたんだから、君の責任は大きいぞ」と笑ってから、真顔で「待ってたんだよ」とボソッと言った。
阿久さんには、本当に申し訳ないと思っていた。それから死に物狂いで働いた。荒療治も行なった。その都度、阿久さんに報告すると「少しは会社らしくなってきたね」「ご苦労さんだね」などと、かならず声をかけてくれた。
阿久悠記念館には、5回も受賞したレコード大賞の盾やトロフィーや「また逢う日まで」などの歌詞、年表、5000曲に及ぶという曲名などの展示と、伊豆宇佐美にあった自宅の書斎をそっくり再現した部屋が常設されている。昭和の大作詞家、たぐいまれなヒットメーカー、そして、瀬戸内少年野球団などの小説家…華々しい活躍の成果が展示されている。
その中の一角に、10月13日に岩波書店から出版されたばかりの「無冠の父」とその直筆の原稿が置かれている。
じつは、この本は出版されてすぐに読んでいた。
この本の末尾に、次のような注記がある。
「『無冠の父』は、阿久悠の手になる長編小説のなかで唯一の未発表作品である。一九九三(平成五)年の九月から一一月にかけて執筆され、完成稿が編集者に渡されたが、改稿を求めた編集者に対して阿久悠は原稿を戻させ、以後、二〇〇七年八月に没するまでこの作品についていっさい語ることはなかった。…」
「改稿を求めた編集者に対して阿久悠は原稿を戻させ…」とはどういうことなのだろう。編集者はどこを改めてほしいと言ったのだろうか。阿久さんは、腹を立てたのだろうか、どうして出版しなかったのだろうか。
本を読みながら、いろいろな思いが湧き上がってきた。しかしそれはそれとして、阿久さんと同じ年に生まれ、同じ戦中戦後の体験をしてきた自分としては、どうしても阿久さんの思いに自分を重ねあわせてしまう。
淡路島の駐在所の巡査として、終生一介の巡査として過ごした無冠の父の生きざまを、少年のまなざしを通して語っている。父親とは何か、親子の絆とは何か、人間の矜持とは何か、故郷とは何か…
阿久さんが、会長就任を依頼に行った私に「僕は兵庫県民という意識はあまりないんだよ、淡路島で生まれたのはたしかだけど、故郷という感じではないんだよね」と何故語ったのか、故郷とはなにか、その答えが、この本にあった。
無冠の父
*「無冠の父」阿久悠 岩波書店刊 1800円+税

花森安治生誕100年と土井藍生さんの思い出  小榑雅章

花森安治戯文集1

花森安治さんが生まれたのは、明治44年(1911年)10月25日です。
だから、今年は生誕100年に当たるというので、いくつかの本が出版されています。
その一つが、「花森安治戯文集1」で、帯には「生誕100年記念出版」と銘打ってあります。この本には、1954年に河出書房から出版された「逆立ちの世の中」を中心に、花森さんが「暮しの手帖」以外の「雑誌および新聞に寄稿した文章(コラム、エッセイ、対談、インタビュー)」(本書注)が収められています。
それに加えて、「あとがき」として、一人娘の土井藍生(あおい)さんの「思い出すことなど・父花森安治」という一文が掲載されています。
この藍生さんの「あとがき」が、とてもいい文章で、秀逸です。花森さんは公私を峻別していましたから、暮しの手帖の編集部の花森さんの公の姿とはまったく別の、私の花森安治像が、藍生さんの文章でいきいきと現出されています。
病気がちの小学生だった藍生さんのために、花森さんは童話を読んで聞かせてくれたというのです。そして「はい、今日はここまで。いい子にして寝ていたら、明日続きをよんであげる」と出かけて行ったそうです。
編集部では仕事第一、親が死んでも仕事優先、と常々言われてきました。
私は、自分の娘が生まれる、というその日も、もちろん編集部の仕事をしていました。でも気になって仕方がない。花森さんに言えば、もしかしたら帰っていいよ、と言ってくれるかもしれない、と淡い期待をもって勇を鼓して話すと、「そうか」と言ったきりでした。その花森さんが、若かりし頃には、こんな普通の父親役をこなしていたなんて驚きです。
晩年になって、男の子の孫が出来たあとの花森さんについて、藍生さんはこんな風に書いています。
「子どもは何でも欲しがるもの、それを我慢させるのが親の役目だと、私には偉そうに申しておきながら、孫息子の望はすべて叶えておりました。/朝食の席でメロンが話題になったとき、メロンは好きかと聞かれた息子が『しばらく食べてないから分からない』と答えました。その晩、父が箱入りのメロンを抱えて帰ってきたことは言うまでもありません」…「息子は希望するものを次々と持って帰ってくる父のことを『おじいちゃんはデパートにお勤めしているのでしょう』と申して、私たちが否定しても信じがたい様子でした」…
こういう花森さんの姿を知ることが、私などにとってはどれほどうれしいことかわかりません。偉くて遠かった花森さんがずっと近くにまで寄ってきて下さった感じです。
いまこういうことが書けるのは藍生さんしかいません。藍生さんにありがとうと言いたいです。
ところで、肝心の「逆立ちの世の中」です。
正直に言うと、この「逆立ちの世の中」を読みながら、すごく違和感を感じて、なかなか読み進めませんでした。読むのがしんどいのです。不肖の弟子が、大師匠の文章にしんどいとは何事か、と叱責されるでしょう。
でもしんどいのです。
なぜかと考えました。
私が花森さんから「文章はこう書け」と教えられたこととは、違う文章だと思えて仕方がないからです。花森さんから、無駄だ、冗長だ、と赤ペンで削られたような文章が、たくさんあるように思えるのです。
お前、そんな畏れ多いことを言える身分か、と自分でも思います。
でも暮しの手帖に書かれた花森さんの文章は、言葉を選び抜いた、もっととぎすまされた文章です。
それが、とことん突き詰められたのが、「一銭五厘の旗」のような短い文章を改行してつないでいく、詩のような文章になる、読者に分かってもらおう理解してもらおうと痛切に思うと、こういうかたちの文章になると、花森さんの口から何回も聞きました。
暮しの手帖を武器に、この世の中の暮しを変えるんだ、とずっと教えられました。
花森安治という署名入りの原稿も、無署名の原稿も、原稿料をもらうためではなく、暮しを守り、世の中を変えるための文章でした。
私は、そう教えられてきました。
だから、同じ花森安治の文章でも、「逆立ちの世の中」と暮しの手帖の文章とは違うと感じました。
念のために言いますが、内容のことではありません。あくまで文章のことです。
*花森安治戯文集1 LLPブックエンド発行 2500円+税

正確な津波報道が危機を招く恐れも  小榑雅章

今週の初め18日19日に、名古屋大学で日本社会心理学会が開催されました。筆者も参加しましたが、学会の最後に開かれたシンポジウム「東日本大震災を乗り越えるために:社会心理学からの提言」に話題提供者の一人として登壇した同志社大学の中谷内一也教授が、重要な注意喚起をしていました。それは「津波の『高さ』についてのリスク判断研究」という発表で、つぎのようなことです。
東北地方を襲った津波の高さは、初めは5メートルとか8メートルという報道が主で、それでも大変だと思っていたが、その後、調査が進むと、23メートルを越えたとか38メートルだった、などという巨大な大津波の数字がつぎつぎに報道された。
「大きな津波高さが何度も示されることで、『危険な津波』『避難すべき津波』の高さがかえって上昇してしまうのではないか。/日本人が津波の恐ろしさを再確認したことは間違いないし、リスク認知も高まったことは疑いないが、判断基準は災害が巨大すぎてかえってvulnerableになったのではないか。」
中谷内さんは、巨大な23mや38mを考えてしまうと、5mや8mは大したことないと判断してしまうのではないか、と危惧した。
そこで、東日本大震災の後に「どのくらいの津波予測で避難するか」という調査を行った。
じつは、大震災の起こる以前に同じ設問の調査を行っていたので、その両方の結果を比較してみた。
「どのくらいの津波予測で避難するか」
  1mかそれ以下で避難(震災前)約60%
           →(震災後)約38%に低下
  5m以上でないと避難しない
            (震災前)約60%
           →(震災後)約38%に低下
 「どれくらいの高さの津波を危険と思うか」
  1mかそれ以下で危険(震災前)約70%
           →(震災後)約45%に低下
  5m以上でないと危険でない
            (震災前)約4%
           →(震災後)約22%に増加
以上の結果でわかるように、「低い津波で十分危険であることを伝えるべきだ。木造家屋は1mでも半壊、2mで全壊する」このような認知が行きわたると、1mや2mの津波は大したことないという認識が行きわたり、非常に危険なことになりかねない。これは、「アンカリング・ヒューリスティック」という心理作用で、「たまたま目にした数値に『投錨』してしまうだけでなく、後の情報に基づく『調整』が不十分である」
「記録破りの指標を報じる際には、より低い値でも十分危険であることを合わせて伝えないと、後からの調整は困難」と、中谷内教授は、新聞やテレビなどの報道する側に、注意を喚起している。

公開シンポジウム「原発災害をめぐる科学者の社会的責任」  小榑雅章

日本学術会議のメールで、9月18日(日)に開催される公開シンポジュウム
の案内がきました。
「原発災害をめぐる科学者の社会的責任」というタイトルで、討議されるよう
です。原発を推進してきたのも科学者であり、その安全性を担保してきたのも
科学者でした。いま、多くの住民が故郷を追われ、子供たちの将来を不安に陥
れ、食料の安全をおびやかし、先の見えぬ未曽有の大災害をもたらしたこの事
態を、科学者たちはどのように認識し、どのように責任を感じているのか、看
過出来ることではありません。筆者はこの当日は、名古屋で別の学会に参加し
ているので、聞きに行けませんが、シンポジウムの趣旨に問題点が提起されて
いるので、下記に再掲させていただきます。

公開シンポジウム「原発災害をめぐる科学者の社会的責任――科学と科学を
 超えるもの」
◆趣 旨
   東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故、それに続く深刻な放射
能汚染や健康被害について、一般社会からは情報発信や説明責任の不十分さ、
不適切さが厳しく批判されている。日本の科学者・学界は、これらの問題に
適切な判断を下し、十分な情報提供を行い、社会的責任を果たしてきたと言
えるであろうか。そもそも関連する諸科学は、原子力発電にともなうさまざ
 まなリスクを、あらかじめ適切に評価・予測し、十全な対策を提示すること
 が可能なのだろうか。科学によって問うことはできるが、科学だけでは答え
 を出すことができない、いわゆる「トランス・サイエンス」の領域が急速に
 拡大し、複雑化しているのが、現代の最先端の知が直面している大きな課題
 である。このたびの福島第一原発災害の問題は、まさにそのような正負両面
 をもつ巨大な科学知・技術知の力を、どのようにしてコントロールすべきか
 という難問を、人文・社会科学を含むすべての科学者に強く投げかけている。
 だとすれば、今こそこの困難な課題に対して、さまざまな学問諸領域の専門
 知を総動員し、何をなすべきか、何をなしうるかを議論し合い、共通理解を
 深めるべき時ではないだろうか。
   このような状況を踏まえ、日本学術会議哲学委員会では、自然科学系と人
 文学系の双方の専門家をパネリストに迎え、原発災害をめぐる領域横断的な
 コミュニケーションの場を設け、「科学と科学を超えるもの」についての問
 題意識を共有するとともに、原発災害に関わる科学者の社会的責任を見つめ
 直すためのシンポジウムを企画した。学問的に正確な知識・情報を的確かつ
 十全に市民に公開・伝達するという「学術と生活世界を媒介する」活動を科
 学者全般の重大な責務としてとらえ、深く問い直すための機会となれば幸い
 である。
----------------------------------------------------------------------■
シンポジウムの論者は次の方々です。 
◆主 催 日本学術会議哲学委員会・日本哲学系諸学会連合・
      日本宗教研究諸学会連合
  ◆次 第
   司会 金井淑子(立正大学文学部/倫理学)
   開会挨拶 野家啓一(東北大学理事、日本学術会議哲学委員会委員長/哲学)
   報 告(各パネリスト)
     唐木英明(元東京大学アイソトープ総合センター長・獣医薬理学)
     小林傳司(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター/
          科学哲学、科学技術社会論)
     押川正毅(東京大学物性研究所/理論物理学)
     鬼頭秀一(東京大学新領域創成科学研究科/環境倫理学)
     島薗 進(東京大学人文社会系研究科/宗教学)
   閉会挨拶 丸井 浩(東京大学人文社会系研究科、哲学委員会副委員長/
          インド哲学)
  詳細については、http://www.scj.go.jp/ja/event/pdf/133-s-1-2.pdf
シンポジウム後、下記資料も公開されています。
押川正毅教授のシンポジウム・レジュメ
http://masakioshikawa.blogspot.com/2011/09/918_17.html
鬼頭秀一教授のシンポジウム発表資料
http://kitosh.k.u-tokyo.ac.jp/assets/files/低線量被曝問題における「科学者」の対応の構造的な問題と「科学者」の信頼回復の道筋(公開版).pdf
  

地震から家族を守るためにはどうするか  小榑雅章

今日は9月1日、防災の日です。
各地で、防災訓練が実施されているようです。全国の35都道府県では、住民など50万人もの人が参加して防災訓練が行われているとのことです。
テレビを見ていると、乗客が駅構内で整列してカバンなどで頭をかばう姿勢で、駅員の誘導のもとに駅舎から出ていく光景が映し出されていました。ここに映し出された人々も、訓練に動員された50万人のうちの人々なのでしょう。
こういう光景を見ていて、なぜかイライラしてしまいます。訓練はやらないよりやった方がよいのでしょうが、なんとも白々しいのです。
だいたい、防災訓練は企業でも役所でも、駅やスーパーでも、いつも平日の日中なのですが、どうしてなのでしょうか。係員も全員そろっていて指令系統もちゃんと機能するような平日の昼日中に訓練が行われています。不思議ですよね。実際に地震が起こるのは日曜日かもしれない、真夜中かもしれない、晩の8時かもしれない。そういう時は誰も旗を持って誘導などしてくれないし、掛け声もかけてくれない。会社も自治体も助けてくれない。情報も何も教えてはくれない。まずは、自分自身のちからで対処しなければなりません。
阪神大震災が起こったのは、1995年1月17日の午前5時46分52秒でした。つまり、ほとんどの人が、まだ家にいて、その多くの人は就寝中だったのです。
これまでも何回かこのブログでも書きましたが、筆者は、阪神大震災の被災者です。家も会社もめちゃくちゃになりました。その経験もあって、東日本大震災のことは他人事ではありません。東北の被災地をぜひ見たい、被災者の生の声を聞きたい、と思い、宮城や福島に行ってきました。数多く報道されているように、それは悲惨な状況でした。被災者のみなさんのご苦労は、大変なものだと思います。
ただ明確に言えることは、東北と神戸の災害は、同じ地震災害と言われますが、様相がはっきり違うということです。
原発の災害は除外して、東北の災害は主に津波の被害です。2万人を越えるほど多数の亡くなられた方や行方不明の方のほとんどは、津波被害によるもので、直接、地震によって亡くなられた方は、百名から多くて数百名ではないか、と聞きました。
東京の場合、津波のこともさることながら、まずは都市直下型の地震を考えるべきだとされています。
阪神大震災の場合は、都市直下型の地震で津波の被害はありませんでしたので、亡くなられた方6432名はすべて地震による被害です。しかも、時間が午前6時前でしたので、就寝中の人が多く、このうちの5000名までが、倒壊した家屋による圧死と考えられ、さらに約600名は転倒した家具などによる圧死、傷害死だとされています。つまり死者のうちの9割近くが家や家具などによる圧死でした。
古い木造家屋の被害が、最も多かったのですが、ビルもずいぶん被害がありました。4階とか5階の中途の階がくしゃんとつぶれてしまっているビルがいくつもありました。
自治省消防庁の資料によると、全壊104906棟(186175世帯)、半壊144274棟(274181世帯)、全半壊合計249178棟(約46万世帯)、一部損壊390506棟、合計639686棟になります。この数字は神戸市を中心にして、その周辺の芦屋市や明石市、西宮市、尼崎市、洲本市なども含みますが、参考までに神戸市の世帯数は約68万世帯。ということは上記の被害の数は、神戸市全世帯のほとんどすべてに損壊の被害をもたらしたと同程度だったことを表しています。
防災の日に、地震から生き残るためには、家族を守るためにはどうするか、を真剣に考えるなら、会社で働いているときとか、昼間起きている時ではなくて、夜中だったらどうするか、早朝だったらどうしたらいいか、家の倒壊は大丈夫か、家具は倒れて下敷きにならないか、ということもぜひ考えておいてください。
なにしろ生活の半分以上は自宅なのですから。

日本航空123便御巣鷹山に墜落、そして坂本九さん  小榑雅章

1985年8月12日、日本航空123便が群馬県御巣鷹山に墜落。乗員乗客524名のうち520名の方が亡くなりました。
航空事故の歴史の中でも、最大の悲惨な事故でしたが、私にとっても痛切な思いの事故でした。坂本九さんが搭乗していたのです。
1969年(昭和44年)7月1日発行の暮しの手帖2世紀1号から始まった「雑記帳」という頁は、著名人の依頼原稿やジャーナリスト、一般読者の投稿原稿など、800字以内の小文が、ごちゃまぜに並んでいるそれこそ「雑記帳」のような頁でした。この2世紀1号には丹羽文雄さんや平林たい子さん、松前重義さん、鶴見俊輔さん、林健太郎さんなどの原稿も掲載されましたが、編集長の花森さんがそのトップに選んだのが、坂本九さんの原稿「母の思い出」でした。
「…油っ気のなくなったおふくろの手に僕はよく、自分の鼻の頭の油をこすりつけました。前からおふくろは、僕がハンドクリームとかそんなものを買って帰っても絶対につけたりしないで、僕の鼻の頭の油をとって、『これが、私には一番だョ』っていってこすりつけてきました。/今でも、おふくろの手の筋、しみ、皺、ほくろを憶えています。本当に汚くて、美しい手でした。…」
3年ほど前に亡くなったお母さんを思う気持ちがあふれた、とつとつとしたとてもいい原稿でした。花森さんは、担当の私に言いました。「九ちゃんには毎号書いてもらおうや」
当時、1961年に大ヒットした「上を向いて歩こう」は国民的愛唱歌になっていて、坂本九さんはNHKの紅白歌合戦にも毎年出場していました。映画にもいくつも主演し、まさに国民的アイドルとなって、超多忙でした。
芸能誌ならまだしも、まったく畑違いの暮しの手帖に、しかも目次には「雑記帳」と載るだけで、個別の執筆者の名前は載らないような頁に、毎号書いてもらえるだろうか。おそるおそる切り出した私に、九ちゃんは、あのニコニコっとした笑顔で、「いいのかなあ、僕、文章へたですよ。それでよければ書きます。暮しの手帖ってとてもいい雑誌だって、みんな言ってますよ」
というわけで、これから3年間、毎号、九ちゃんの原稿をもらいに通うことになりました。
じつは、この3年間は、九ちゃんにとって特別な3年間でした。
まず、仕事の悩みでした。誰が見ても、順風満帆のようにみえる坂本九でしたが、じつは本当に悩んでいたのでした。私は、自分だけで抱えていないで、思い切ってその悩みを吐き出すべきだ、原稿に書いてほしいと言いました。
その原稿が暮しの手帖2世紀6号に掲載された「宣言」という文章です。
「…芸能界の道を歩いて十二年、その十二年目に、恥しいんですが初めて、アレ、この道は本当に自分の道かな、他の人の通る道じゃないのかな、芸能界に憧れだけで入ったけれどそのまま高速道路の渋滞中みたいに、戻ることも降りることも出来ずに、ズルズル進んで来てしまってどうすることも出来ない。…口惜しい!僕にも足がある、今からでも遅くない、この渋滞中の高速道路なんか飛び降りて、もう一度自分の道をみつけて、思い切り手をふり歩いてみたい、胸を張り、何も干渉されず、のびのびと……ところが坂本九という男は、自分で自動車のガラスを破り、外に出るほど、勇気が無い、全く、みっともなくて仕様がない、と、昨日迄は思ってました。/ところが勇気が湧いて来たんです。…『ヨーシ!男だ、やるぞォー』と、大声で叫んで、この道こそ俺の道だ、俺が思い切り手をふって歩ける道だ!という道を、もう一度探す勇気が湧いて来たんです、もし僕が、自分の道ではないと思ったら、僕は芸能界を去ります。/自分で飛び降りて、坂本九の本当の歩むべき道を発見するんです。進むんです。…」
この悩みの裏には、男として一人の女性を幸せにできるか、その資格があるのか、という自省がありました。恋をしていたのです。1年後の11号には恋をしていることを明言し、14号で柏木由紀子さんと婚約したことを報告しました。そして1971年の暮れに結婚した披露宴のことを16号で書いています。この披露宴には、私は締切に追われてどうしてもいけなかったのです。(残念)
全く幸せな坂本九でした。九ちゃんの文章にはてらいがありません。うれしい時にはうれしいと、恋しているときはウキウキとつづっています。
私は4つ年下のこの青年が大好きでした。
御巣鷹山の知らせは、実の弟を亡くしたような衝撃でした。26年後のいまもまた、8月12日は胸の痛む一日です。
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Author:magazinehaniwa
ブログ雑誌埴輪へようこそ!
埴輪同人 宇治敏彦・小榑雅章
連絡先
 magazinehaniwa@yahoo.co.jp

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