ジャーナリストってなんですか、花森さんに聞きました  小榑雅章

フリージャーナリストの後藤健二さんがイスラム国の人質になって以来、報道の自由、渡航の自由などと同時に、ジャーナリストの使命についての議論も盛んになっています。
とくに、政府や外務省は、ジャーナリストであろうとなんであろうと、面倒なことはやめてくれ、迷惑だという物言いが前面に出てきています。
それに対して世論も、新聞やテレビであっても、国に迷惑をかけるのはよくないという模範解答が優勢のように思われます。
もう何十年もまえのことですが、暮しの手帖に入社してしばらくの間、編集長の花森安治さんから、「君はそれでもジャーナリストか」とたびたび叱責されました。叱責と言うより、なかば呆れられたり慨嘆されたという感じです。
その都度、「えっ、おれはジャーナリストなのか」と自分のほっぺたをつねったものです。
自分は雑誌の編集者ではあるけれど、新聞記者のように毎日飛び回って、政治記事や経済記事を書いたり、警察署から犯罪情報を取材したりはしないのに、それでもジャーナリストなのか。
密かにコンサイスの英和辞典を開いてみると、「ジャーナリスト 新聞雑誌記者」と書いてあります。なるほど、俺もジャーナリストだ、とは思いましたが、どうも花森さんの言っている「君はそれでもジャーナリストか」というジャーナリストとは少し違う気がしていました。
花森さんのいうジャーナリストはどういう人物?職業?能力?志?をいうのだろう。
青二才の新米記者は一生懸命考えました。
考えてもよくわからないので、恐る恐る「ジャーナリストになるためには、どうしたらいいのですか」と聞きに行きました。
花森さんは、こいつは何を言っているのか、訝しげに私をながめて、こりゃダメだという感じで、ふーっと息を吐きました。
そして一言、「本物か偽物か、みきわめる力だ」
それで、あっちへいってしまいました。

朝日記者がシリア国内で取材「外務省幹部が強い懸念」という記事について―― ジャーナリストの使命は何か 小榑雅章

 1月31日(土)の産経新聞に「朝日記者がシリア国内で取材 「非常に危険」外務省幹部が強い懸念」という次の記事が掲載されていました。
 「朝日新聞のイスタンブール支局長が、シリア国内で取材していることが31日、分かった。イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」による日本人殺害脅迫事件を受け、外務省は1月21日、報道各社にシリアへの渡航について「いかなる理由であっても」見合わせるよう求めている。外務省幹部は「記者も当事者意識を持ってほしい。非常に危険で、いつ拘束されてもおかしくない」と強い懸念を示した。支局長はツイッターで、26日にシリア北部のアレッポに入ったと伝え、現地の様子を写真を交えてリポートしている。
 朝日新聞社広報部は「当該記者は、シリア政府の取材ビザを取得し、取材のために同国に入った。記者は当初の予定・計画に従って行動・取材をしている。この件に関しては弊社も了解している」と回答。見解については「お答えを差し控える」としている。」
 この記事を読んで、なんとも居心地の悪い、違和感に襲われました。
 ええーっ、なんで産経新聞はこういう記事を掲載したのだろう、なんでなんだろう。
 読んだ感じでは、朝日新聞が国禁を犯して、国益を損なうような非常識なことをやっている、ということを訴えたいのかな、と思われます。
 そうなのでしょうか。違和感はこの点にあります。朝日新聞のシリア取材は、国の方針に反した非常識な行いなのでしょうか。
 ジャーナリズムとは何なのでしょうか。
 真実を追求し、それを明らかにする使命を担っているのではないのですか。
 対岸の火事を、安全なコタツにでも入って遠望しながら記事を書けというのでしょうか。実際に現場に行ったら、たくさんの人が焼け出されているし、亡くなった方もいた、というような事態になっているかもしれません。そんな状況を自分の目で見、叫び声を耳で聞き、火の粉に焼かれながら、少しでも早く、正確に読者市民に送り届けるのがジャーナリストの使命ではないのですか。 
 シリアの状況は、確かに危険だと思います。物見遊山や観光のために行かないでほしいという政府の意向は正しいと思います。
 でも、ジャーナリストは違います。
 シリアやイラクやアフリカの惨状を、私たち日本の市民はどうやって知ることが出来るのでしょうか。何も知らなくていい、ということなのですか。
 実情を知らなければ、市民は何も出来ません。いやアメリカやイギリスなどの外国の報道があるというのでしょうか。ではアメリカやイギリスの記者は、危険な場所で取材をしてもかまわないが、日本の記者は危険だから行ってはダメだというのでしょうか。
 産経新聞の記事を読むと、政府や外務省は、国民や報道機関を檻の中に閉じ込めておくのが安全対策だと決めたようです。面倒なことはやめてくれ、海外旅行も企業活動も自粛せよ、と思っているのでしょうね。  
 しかし、ジャーナリストは違います。 
 国民の目となり耳となって、世界中の情報を取材し、国民に届けてもらわなければなりません。そうでなければ、国民は見ざる聞かざるで何事も知らないことになります。まさか、政府が責任を持って情報を伝えます、などというわけではないでしょうね。
 70年より前、国民は官製の国策情報しか知らされず、連戦連勝だとばかり思っていました。そのあげく、塗炭の苦しみを味わいました。
 ジャーナリストは、用意周到の上に、危険を覚悟で、真実を求めて世界中へ飛び立つべきなのです。

「勇気と希望をありがとう」阪神大震災と放送の役割  小榑雅章

朝日新聞声欄

今日は、1月17日。20年前の今日、神戸は未曾有の大震災に襲われた。
このとき、筆者は新神戸駅近くのマンションの7階で一人で寝ていた。
ガーンと強い衝撃があり、ベッドの脇の食器戸棚が倒れてきて、茶碗や皿が砕ける音が響いた。
真っ暗。電気はつかない。恐怖で、何をしたらいいのか震えた。・・・
こういうことは、テレビや新聞で山ほど語られている。
いまさら、語るほどのことではないだろう。
筆者は、この時、神戸のFM放送、KissFM Kobeで働いていた。
普段は音楽主体の放送局だが、ラジオ局として災害放送の責務も負っている。
暗闇の中で震えながら、大きな地震に襲われたことはわかった。となれば、一刻も早く放送局へ行かなければならない。ガラスに気をつけながら、身なりを整え、階段を下りて、街へ出て、暗がりの中、倒壊家屋の間を1時間近く歩いて、中突堤にある局にたどり着いた。
放送局も大きな損害を受けて足の踏み場もなかったが、非常用電源が機能して放送は継続していた。泊まりのディレクターが、6時13分大阪管区気象台発表の地震情報の第一報を放送していた。
KissFM には放送機能があり、関西一円2千万人に電波を届ける能力があるが、取材記者は一人もいない。
しかし、被災者は、今何が起こっているのか、これからどうなるのか、とにかく情報がほしい。そういう被災者の役に立ちたい。
どうするか。そしてどうしたか。
上に掲げたのは、震災から40日あまりたった2月28日の朝日新聞声欄に掲載された被災者の声である。
「勇気と希望をありがとう」 大震災時の被災者の心情に寄り添って、放送局として少しでもお役に立てたのではないかと、この投稿を拝見したとき、涙が出て止まらなかった。

花森さんの心配・恐れ  小榑雅章

今日、1月14日は、花森安治さんの命日です。
昭和53年、1978年の今日、なくなりました。
私は、亡くなった花森さんのひげをカミソリで剃り、医師から死亡診断書をもらって、荼毘の準備をしました。
その花森さんが、最も心配していたのは、「国とはなにか」ということです。
「国を愛する」とか、「この国のために」とか、まるで崇高な使命感のように語られる「くに」とは、私たち庶民にとって「何」なのか、ということです。
安倍首相は、ことあるごとに「この国のために」と叫んでいます。
今年の「安倍内閣総理大臣年頭所感」でも、「日本を、再び、世界の中心で輝く国としていく。その決意を、新年にあたって、新たにしております。」と宣言をしています。
私たち庶民が、日本という国をいつ輝く国にしてくれなどと頼んだのでしょうか。
「日本を、再び、世界の中心で輝く国としていく」というが、「再び」というからには、以前に「世界の中心で輝いた時代」があったのか、世界の中心だった時代なんてあったのだろうか。それはいつだったのか、聞きたいです。
たしか八紘一宇だとか大東亜共栄圏だとか、世界の中心になるんだと妄想して、この国の民を塗炭の苦しみに落とし込んだ時代がありましたが、まさか、まさか。

アベノミクス解散とアベノミクスの正体  小榑雅章

 今日、11月21日、衆議院は解散した。
 安倍晋三首相は解散を受けて記者会見し、今回の解散は「アベノミクス解散だ」とし、アベノミクスを進めるかどうかを争点に選挙を行う考えを示した。
 安倍首相は、ことあるごとにアベノミクスの成果として、株価の上昇と企業の業績がすごいことを誇示する。
 その企業業績について、昨日20日の東京新聞の記事は、刮目するに値する。
 「大企業にも広がる格差 上位30社で利益の半分」という記事である。
 記事の一部を引用すると、
 「上場企業約1380社の本年度上半期(4~9月)の最終的な利益が14兆3070億円になり、過去最高を記録した。だが、半分の7兆円はトヨタ自動車や三菱UFJフィナンシャル・グループなど全体の2%程度にすぎない上位30社で占めている。中小企業の景況感は一向に回復しないうえ、大企業の中でも業種や円安の恩恵の有無で業績の格差は広がっている。」
 東証一部上場企業は1841社あるが、三月期決算企業で、すでに決算発表を行った1380社の中間決算を集計した記事である。
 東証一部上場企業の1380社のうちのたった2%の上位30社で、利益の半分の7兆円を専有している、これがアベノミクスの実情だということを、この記事は語っている。まことにわかりやすい。富がいかに一部に偏在しているかがよくわかる。
 ましてこの利潤は、国民の暮らしとは全く関係のない企業の懐にとどまっているお金である。アベノミクスの成果を問う「アベノミクス解散だ」と安倍さんがいうのなら、この数字は投票の大きな判断材料になるだろう。
 この記事でもう一つ注目すべきは、東京電力が上位30社のうちの第7位に登場し、2901億円の純利益を上げているという事実だ。
 あの大惨事を引き起こし、とうに倒産しているような会社が、なぜ3千億円近い利益が上げられるのか。えっつ、全く理解できない。国から何兆円も支援を受けて、しかも燃料代がかかるといって8.46%も電気代を値上げして国民を泣かしている企業がどうして儲けが日本大企業の堂々第7位なの? 
 不確かな記憶だが、去年、国が肩代わりした除染費用を返さずに、環境庁から督促されており、それでも返さずに居直っているので、会計検査院から300億円返還しろと催促されたのではなかったのか。
そんな東京電力が、なんで2901億円も純利益があるのだ。
 これは、不可思議ではなく、怒りだ。

3.10と3.11  小榑雅章

 東日本大震災から、3年経つ。3.11は私たち日本国民にとって、忘れえぬつらい日にちである。
 そして、その1日前の今日3.10も、決して忘れてはならない日であることを、あえて言いたい。
 69年前の今日、1945年3月10日未明、東京は火の海と化した。300機もの米軍爆撃機B29による東京大空襲である。この空襲によって罹災者は100万人を越え、死者は10万人を越えた。
 この時、筆者は東京市芝区新橋で罹災した。父親は召集され二等兵として戦地に赴いており、姉と弟は親類に疎開していて、家には満7歳、国民学校1年生の筆者と母親の二人だけだった。
 敵機襲来のサイレンは毎日のように鳴り響いていた。恐るべき焼夷弾の攻撃がいつあるかもしれず、母親に厳しく言われて、空襲に備え、毎晩、寝巻には着替えずにズボンを穿いたまま眠った。枕元に教科書を詰めたランドセルと防空頭巾を置き、いつでも飛び出せるように準備をさせられていた。3月9日の夜もそうした準備をして眠った。
 どれほど眠ったのだろうか、突然強くゆり動かされた。「起きなさい、早く起きなさい、空襲空襲!」
 眠かった、とても眠かった。しかし、無理やり引きずり起こされて、家の外へ出ると、100メートルほど離れた大通りの歩道に掘られた防空壕に連れて行かれた。かねて空襲になったらここへ入るんだといわれていたその防空壕の中には、もう7,8人はいただろうか、薄暗いロウソクの光で、顔見知りの足の悪いおばさんと小さな女の子の姿が見えた。
 母は、「ここから絶対に出たらダメだよ、じっとしているんだよ」と言ってすぐにどこかに行ってしまった。町内のおじいさんが、「坊主、ここは大丈夫だ、ここは防空壕だからな、爆弾が落ちても大丈夫なんだ」と何度も怒鳴っていた。なるほど、ここは、大丈夫なのだ、と思った。
 どれほど時が経ったか。入口の戸が開いて、母親が私を叫ぶように呼んだ。「早くおいで、早く出るんだ」
 私は、ここなら大丈夫なのに、なぜ出るのかと思ったが、急いで母のもとに行った。外はなぜか明るかった。母に引っ張られて、急いで家に戻ると、もうすぐ隣の家が燃えている。家の前に家財道具を積んだリヤカーがあり、鬼のような顔をした母は、さらに家から幾つかの荷物を持ち出して積んだ。火はすでに我が家に燃え移り、あちこち燃えはじめた。
 「うちが燃えちゃうよー」と私は泣き叫んだ。
 母はこれ以上の荷物は諦めて、リヤカーを引っ張り、私が後を押した。
火の粉が降りかかり、防空頭巾が燃えだした。あわてて頭巾を脱ぎ、叩いたり踏みつけたりして消して、またかぶった。
 リヤカーは重く、必死の母は、もっと押せ、がんばってもっと押してくれ、と叫んだ。後ろから火の粉が追いかけてきた。
 この夜は、強風が吹いていて火はどこまでも広がっていった。みんな風上へ風上へ逃げていた。逃げていく先も燃えていたが、それでも火の中を風上へ進んだ。
 向かい風が強く、息ができなかった苦しかった。「苦しいよ、息ができないよー」と叫んだが、母は止まらなかった。リヤカーを放棄したらもっと楽なのにと思ったが、母は歯を食いしばってリヤカーを引き続けた。
 どれほど行ったのか、くたびれ果て寒くてもうどうにもならなくなったとき、夜がしらじらと明けて、リヤカーは止まった。母が言った。「生き延びた」。
 防空頭巾の外側は焼けて真っ黒。服のあちこちも焼け焦げていた。
 知らない町だった。見ず知らずの空家の商店があった。疎開して誰もいない空家だ。そこへリヤカーと私を押し込むと、気丈な母は、「お前は男なのだから、一人でも大丈夫だね。母さんはもう一度、家がどうなっているか見てくるから、ここで待っていなさい」と言うなり、取って返して戻っていった。
 あたりには、避難してきた人々がたくさんいた。誰もが自分のいのちを長らえるのに一生懸命で、坊主が一人でいても見向きもしなかった。
 一体どのくらいの時が経ったか分からないが、疲れきった母がおにぎりと水筒をもって戻ってきた。
 そして言った。「家は全部燃えた。取り出せるものは何もない。」
 そして、私を抱きしめた。「あの防空壕から連れ出して良かった。あの中にいた人たちは、みんな焼け死んだ。防空壕もみんな燃えちゃった」
 足の悪いおばさんも女の子も、おじいさんも、みんな死んだ。
 この無差別な空襲で、10万人以上の人が亡くなったのだ。
 3月10日。3.10。
 私は、忘れない。忘れられない。

宇治敏彦著「実写 1955年体制」  小榑雅章

実写1955年体制
「実写 1955年体制」宇治敏彦著 第一法規発行 2500円(税別)

参議院選挙も終わり、安倍首相は得意満面です。しかし内心はどんな思いなのでしょうか。難問山積、一国のリーダーとして、これから大変ですよ。歴代の首相たちも、一喜一憂、得意から失意へ、握手から闘争へ。みんな苦労をしてきたのですよ。
このブログ「雑誌埴輪」の同人、宇治敏彦が「実写 1955年体制」という本を、第一法規から出版しました。早速、その本を読んでみたら、これがじつにおもしろい。日本政治の裏面史というか舞台裏というか、歴代の首相や著名な政治家、労働界のリーダーなどの乙にすました表舞台とは異なった実像が、どれも具体的に語られているのです。「実写」と銘打っているのも、むべなるかなで、すべてが宇治自身が現場で実感し体験した事象を、自身の記録と記憶に基いて、実写されているのです。
宇治が、いかなることを意図してこの本を書こうとしたか、序章の一部を以下に抜粋してみましょう。
「一九五五年当時の第五四代首相・鳩山一郎から一九九三年の第七八代首相・宮澤喜一に至るまで一五人の内閣総理大臣による三八年間の自民党一党支配時代は、私たち日本人にとってどんな時代であったのか、それを政治記者として取材し、現在も“後期高齢者”の一員でありながら特任論説委員として社説を書いている五〇年余の現役ジャーナリストとしての眼も、資料、記憶から再現して、戦後日本の中でも力強い日々であった『五五年体制』の光と影を再現してみたいというのが筆者の思いである。」
ところで、いま、若い人に「55年体制」って知っている?と聞くと、それなんですか、聞いたことがない、と聞き返されました。
「55年体制」について、宇治は、次のように説明しています。
・・・東西冷戦(米ソ対立)、イデオロギー対立(資本主義対社会主義)が五五体制の大きな特徴だった。…日本国内で五五体制を特徴づけるキーワードないしは流行語を拾い上げると、「日本株式会社」「タカ派、ハト派」「総資本対総労働」「社会党・総評ブロック」「昔陸軍、今総評」「政治は三流、経済は一流」「政界一寸先は闇」「鉄の三角同盟(アイアン・トライアングル)「族議員」「行政指導」「護送船団方式」「一内閣一仕事」「もはや戦後ではない」「神武景気」「総中流」「みんなで渡ればこわくない」などを列記できよう。いずれも五五年体制の断面を見事に象徴している表現と思う。…
ここで、宇治がキーワードないしは流行語としてあげた事象のほとんどが、この「実写 1955年体制」の中で取り上げられ、その意味や内幕が生き生きと語られています。政治というのは、私たち庶民とかけ離れた白亜の議事堂の中で行なわれている別世界のできごとのようですが、この本を読むと、政治家の先生方も私たちと同じちょぼちょぼの人間で、悩み苦しみ、のたうちまわっていることも、よく分かりました。
おなじ埴輪同人の私が、いい本だ、面白い、と仲間を褒めそやすのは、それこそあまりほめられることではないのですが、本当に面白かったので、あえて紹介をさせていただきました。ご海容賜りますように。

富士山の眺めは三保の松原だけではない 小榑雅章

20100211富士山
今日7月1日は富士山の山開きで大変賑わっているという。富士山が世界遺産に認定されたからだそうだが、一時拒否されそうだった三保の松原も加えられて、ご同慶のいたりである。
ところで、富士山の眺めは床の間に掛け軸をかけ、三保という座敷から眺めるだけではない。3年半ほど前に、上の写真とともに下記の記事を別のところに書いたが、世界中から神聖なる富士山に憧れてやってくる人々に、下記のような感想をもってもらいたくないなあ、と思って再掲させていただく。

富士山は美しい。
とくに今頃の富士山は美しい。
冠雪した富士は神々しいばかりの美しさだ。
日本の宝である。
日本を一つのことで表現しなさいと言われたら、いろいろ考えられるだろうが、筆者は富士山を上げる。人間がどんなにがんばっても、富士山を作ることは出来ない。世界には似たような山はあるが、これほど美しい山は二つとない。天がこの日本に富士山を与えてくださったと思う。
よく晴れた冬の朝、東京から新幹線に乗る。新丹那トンネルをぬけて三島を過ぎると、次第に富士山は姿を現してくる。隣に座って新聞を読んでいる見ず知らずの外人に、下手な英語で、ほら、富士山が見えるよ、きょうは晴れていてよく見える、あなたはラッキーだ、と語りかけると、オーオー、マウント富士すばらしい、と喜んでいる。筆者もうれしくなって、どうだ、これが日本の誇る富士山だぞ、と胸をそらす。
すると、その外人が、オーマイ・ガッド!と顔を顰めた。何でだ、何がオーマイ・ガッドなのだ。富士山はみごとに美しいではないか。
すると、お前にはこの煙突が見えないのか、この煙は何だ、折角すばらしい自然の造形物に見惚れているのに、林立する煙突が、なんで邪魔をするのだ。この国は、発展途上国なのか、自然を大事にする国ではないのか、と言って、悲しげに両手を広げた。
新幹線はいつの間にか新富士駅を過ぎ、富士川を渡って、富士山は姿を消していた。
新富士駅のあたりの富士市は、昔から和紙づくりの盛んな地域である。富士山の豊富な水は紙をすくのに適していたのが由来だそうだが、大正時代から本格的な製紙工場が出来てきたという。だから現在も、多くの製紙工場がこの地域で活動し、日夜エントツから煙を上げている、というのは当然の風景だと思っていた。
しかし、この外人の見方は違っていた。
日本は、第二次産業の国なのか。日本は観光立国だと聞いたが違うのか。日本といえば富士山だ。富士山は世界中のどこにもないすばらしい観光資源だ。その大事な目玉をなんで煙突で汚すのだ。製紙工場は人間の作ったことだから、やめることも移すことも出来る。しかし富士山は創ることも移すことも出来ない。日本は観光立国だと言うのなら、この最も美しく富士山の見える地域から、煙突をなくすぐらいのことをやるべきだ、とその外人は主張した。
そんな無茶な、と言いかけたが、待てよ、なるほど、そういう考えもあるのかな、もぐもぐと口ごもって、筆者は寝たふりをした。

丸谷才一さんからの最後の手紙  小榑雅章

丸谷さん手紙_convert_20121126225425

明日、11月27日の夜、帝国ホテルで丸谷さんのお別れ会が開かれる。
1年前の12月1日の夜は、同じ帝国ホテルで文化勲章受章のお祝い会だったのに、今度はなんでお別れ会になってしまうのか。かなしい。
「そんなに、もっともらしく悲しんでくれなくてもいいんだよ、もう十分に生きたからね」と、丸谷さんは言われるだろうな。
10月13日に亡くなられたのだが、そのひと月ほどまえの9月6日に、丸谷さんからお手紙をいただいた。(上掲)
いつもは手書きの文章が、めずらしくワープロなので、おやっと思って読む。個人的な私信ではなく、知人たちに送った手紙なので、以下に転載させていただく。

拝呈
 前書きその他挨拶めいたことはすべて抜きにして、近況について
報告いたします。
わたしはこの一月に、心不全になり、二月にNTT病院でステント、
四月に金沢大学病院でハイパスの手術を受け、心臓のほうはうまく
行つたのですが、これと相前後して腎孟癌が見つかりました。いろ
いろな条件から、手術その他はむづかしいやうです。余命は数ヶ月
から数年とのこと。それで、家に帰つて、原稿を書いたり、本を読
んだり、残務整理めいたことをしたりしてゐます。
 これだけ生きればもう十分だといふのが今の気持の大部分です。
長いあひだいろいろありがたう。
 平安を祈る。
                                   頓首

文化勲章受章のお祝いにご自宅を訪ねたとき、先生はお一人で、話し相手がほしかったのか、2時間近くも話してくれた。アップルのジョブズの「デザインは美しくなければならない」という思い。ああでなければだめだよ。日本の町には美しくないデザインがありすぎる。君はJRという文字のデザインをどう思う。あれは美しくない。品がないよ。
それに比べれば、JTBはまだマシだ。もっとも和田誠さんにそういったら、JTBも悪いとたしなめられたよ、と言ってあははは、と笑っていた。
のどがかわいたなと言って、ご自分で冷蔵庫からアイスクリームを出してきてくれて、ふたりで食べた。うまかったな。
先生、やっぱり、さびしいです。



国会事故調にみる美しき?日本文化と新聞の責任  小榑雅章

7月11日に行われた五輪壮行試合と銘打った対ニュージーランド戦の男子サッカーは、1対1の引き分けに終わった。後半26分に先制点を上げながら、終了間際に味方のミスで同点にされてしまった。この試合で、縦横無尽に活躍をした清武弘嗣選手は、試合後「決めるところで決めないと、最後こうなる。点が入らないとしようがない。全員のせい」と悔しさをあらわにしたという。(スポニチ)
別の記事では「試合終了間際の失点で引き分け、ボールを奪われた村松に詰め寄るGK権田」という記述もある。失点の発端は村松がボールを奪われた結果、カウンターを受けた日本は、同点に追いつかれてしまったのだった。
だが、清武は「全員のせい」と言い、権田も「ミスをせめて怒ったのではない」とかばった。
美しきかな、個人の責任は問わない日本の文化! 
ところで、この美しい?日本の文化が問題になっている。
福島第一原発事故を調査する国会事故調査委員会の最終報告書が7月6日に出されたが、その英語版の報告書の冒頭にあるMessage from the Chairmanの中で、黒川委員長が、あの大事故大災害は"Made in Japan."であり、「その根本的原因は日本の文化のしみついた慣習」にある、と記述したからである。
What must be admitted . very painfully . is that this was a disaster "Made in Japan." Its fundamental causes are to be found in the ingrained conventions of Japanese culture:
そして、その染みついた慣習の例として「われわれの反射的な従順さ」「権威に対して問いたださない姿勢」「集団主義」「島国根性」などをあげている。
この英文のメッセージを読んだ外国の特派員たちは、早速「原発事故の責任を、日本特有の文化のせいにするな」という記事を書いて発信した。
その一つ、フィナンシャルタイムスのMure Dickie記者はBeware post-crisis ‘Made in Japan’ labelsという記事を書いているが、その中で、次のように記述している。
「福島第一原発の事故を文化的な文脈で説明しようとするのは、本当に危険だ。」
Yet there are real risks to explaining the Fukushima Daiichi crisis in cultural terms.
「文化に極度に注目しすぎると、あの事故につながる決定を実際に下した組織や個人の責任がどこかにとんでしまいかねない。」
Focusing too heavily on culture could merely shift responsibility from the institutions and individuals that actually took the decisions that led to disaster.
事故の原因を「日本文化のせい」だとすると、上述の日本サッカーチームのように個人の責任は問わず、清武選手のいう「全員のせい」になってしまうことと、共通しているように思える。
黒川委員長が、「根本的原因は日本の文化のしみついた慣習」にあるという記述は英文だけで、日本語の報告にはなかったので、日本の新聞各紙には、この日本文化原罪論は登場していない。もし、日本語の報告にもこの記述があったら、当然問題視していた、という言い訳めいた論述が見られる。
しかし、文化論は登場しなくても、「われわれの反射的な従順さ」「権威に対して問いたださない姿勢」からきた「根本の責任を追及しない大甘の体質」は、日本の大新聞の特性ではないか。
国会事故調の報告書の発表を受けて、各紙社説は論評しているので、それを見てみたい。
朝日新聞
  …事故は「人災」である。国会の事故調査委員会(黒川清委員長)がそう結論づけた。
  根本的な原因が政界・官僚・事業者が一体となった原発推進構造と責任感の欠如にある
  という認識は、私たちも同じだ。…
東京新聞
  ・・・事故は東電や政府による「人災」と断じた。原発規制の枠組み見直しは急務だ。
  個々人の資質や能力の問題でなく、組織的、制度的な問題が、このような『人災』を引
  き起こした。この根本原因の解決なくして再発防止は不可能である。…
毎日新聞
  事故は自然災害ではなく「人災」だ。事前に対策を立てる機会が何度もあったのに実行
  されなかった。根本的原因は、日本の高度経済成長期にまでさかのぼった政府、規制当
  局、事業者が一体となった原子力推進体制と、人々の命と社会を守るという責任感の欠
  如にあった−−。
読売新聞
  国会の東京電力福島原子力発電所事故調査委員会が、報告書で「事故は自然災害ではな
  「人災」と結論づけた。
   政府と東電は、厳しく受け止めるべきだ。重大事故は起こらないという「安全神話」と
   決別し、原発の安全性向上に全力を挙げねばならない。
どの新聞も、国会事故調の報告書をなぞっているのだから、どこも同じような記述になるのは当然だろう。しかし、「事故は人災」だと断じている。にもかかわらず、どの新聞も根本的な原因が「政界・官僚・事業者」とか「政府、規制当局、事業者」、「政府と東電」というとらえどころのない組織や制度を指さしているのはどうしたことか。これでは日本文化論とまったく同じではないか。
「事故は人災」というなら、「それは誰なんだ」「どこの役所の誰に責任なんだ」「東電のどの社長の責任なんだ」「原子力安全委員会の誰なんだ」と追及するべきではないのか。
大新聞の論説担当者は、事故調の報告書をうのみにする「反射的な従順さ」「権威に対して問いたださない姿勢」という黒川委員長のいう日本文化そのものではないか。
「事故は人災」という意見に同調するなら、それをオウム返しになぞるだけではなく、個人の責任の追及にまで行かなければ、原子力事故を文化のせいにするな、個人の責任をうやむやにしては、原子力事故はまた起こる、という外国の論調の方が、正論だと思えてならない。
太平洋戦争の一億総ざんげみたいな無責任な結論は、もうたくさんだ。

安保闘争と「依ってきたる所以」そして花森安治 小榑雅章

いまから52年前、1960年5月、6月の日本は騒然としていた。
国論を二分する日米安全保障条約改定の新条約案が、5月19日に衆議院の特別委員会で、警察官の力を借りて強行採決された。翌20日には衆議院を通過したが、これには与党自民党の中からも強い反対の声が上がり、石橋湛山や河野一郎、三木武夫などが欠席や棄権をした。
アメリカのアイゼンハワー大統領が6月19日に来日する予定なので、それまでに新条約を承認しておきたいためのきわめて強引な強行採決だった。
市民の間でも、在日米軍とその基地の固定化正当化を意図する新安保条約に反対の世論は強く、くりかえし反対デモが行われていたが、この強行採決は「民主主義を破壊するものだ」と、さらに激しい反対運動が連日繰り広げられた。何事にもことなかれ、長いものには巻かれろ主義の日本人にはきわめて稀な、多くの国民をまきこんだ激しい闘争行動であった。
そして、6月15日夕刻、「国会請願デモに押し掛けた全学連主流派約七千人は衆議院南通用門に殺到、門にツナをかけてこじあけるなど再三国会構内へ突入をはかり、これを阻止する警官と乱闘した。」…「午後五時廿分ごろ参院第二通用門を埋めていた全学連主流、同反主流と国民会議神奈川県代表などのデモ隊に維新行動隊のノボリをたてた右翼の車が突っこみ、大乱闘となった。この二つの乱闘事件で、十六日午前零分半現在東京消防庁の調べによると、東大文科四年生、樺美智子さん(二二)が死亡、病院で手当てをうけた重軽傷者四百八十一人、このほか多数の負傷者があるみこみである。(6月16日朝日新聞朝刊1面)
この日の反対行動は東京の国会周辺だけでなく、全国で行われていた。
「警察庁の調べによると、全国の状況はつぎの通り。生産点の職場大会とストは全国の一万百九カ所で行なわれ、六十四万九千人がこれに参加した。また集会は五百十八カ所、四十四万七千人。デモ五百カ所、四十一万三千人が各所で行なわれたが、東京を除いては比較的平穏だった。」(同紙同頁)
この結果、アイゼンハワー大統領の来日は中止になった。
7社共同宣言
問題は、6月17日付の朝刊各紙に掲載された7社共同宣言である。
「暴力を排し、議会主義を守れ」と大書した共同宣言は「六月十五日夜の国会内外における流血事件は、その事の依ってきたる所以は別として、議会主義を危機に陥れる痛恨事であった。われわれは、日本の将来に対して、今日ほど、深い憂慮をもつことはない。/民主主義は言論を以て争われるべきものである。その理由のいかんを問わず、またいかなる政治的難局に立とうと、暴力を用いて事を運ばんとすることは、断じて許されるべきではない。…」と続く。そして最後に「ここにわれわれは、政府与党と野党が、国民の熱望に応え、議会主義を守るという一点に一致し、今日国民が抱く常ならざる憂慮を除き去ることを心から訴えるものである。」と結ぶ。
とにかく暴力はよくない。なんでもいいから、とにかく暴力はやめて議会にもどれ、議会主義を守れ、というのである。
もっともらしい言説だ。
この共同宣言をみて、花森安治さんは怒った。
「新聞は、相撲の行司ではない。新聞はジャーナリズムだ。その新聞が<その事の依ってきたる所以は別として>とは何ごとか。<依ってきたる所以>こそ、ジャーナリストにとって最も重要なことで、新聞の追求すべき最大の使命ではないか。それを<別として>、何をしようというのか」
花森さんは、大声でどなるかと思ったが、むしろ静かにつぶやくように、怒りを吐き出していた。
連日の安保闘争の報道に、暮しの手帖の編集部もおちおちしておられず、みな夜も寝不足になっていた。
花森さんに「デモに行きたい」と私が申し出ると、「君は暮しの手帖の編集者だ、馬鹿なことを言うな、いまは仕事に専念しろ、もし、本当に必要だという事態になったら、デモではなくて、暮しの手帖の誌面で闘うのだ。その時は、<依ってきたる所以>を初めから終わりまで全頁全誌面をさいて検証し、自分たちの主張をして闘うのだ」
それを聞いて、からだがカーッと熱くなった。
それから半世紀。新聞の軌跡をみるにつけ、<その事の依ってきたる所以は別として>と宣言したあの時に、新聞はジャーナリズムとしての使命を見失ったのではないか、という気がしてならない。


不当表示の民主党は営業停止、商品回収すべき 小榑雅章

去年の秋のことですが、「リーボックが19億円支払い 運動靴性能で不当表示」という新聞記事があったことを、覚えておいででしょうか。
去年9月29日の共同通信の記事は次のような文面でした。
「米連邦取引委員会(FTC)は28日、スポーツ用品大手のリーボック・インターナショナルが、同社製の運動靴を『履いて歩くだけで通常以上の運動効果がある』などと宣伝していることが不当表示に当たると指摘し、リーボックが2500万ドル(約19億円)を支払うことで合意したと発表した。
  問題とした運動靴は、『イージートーン』や『ラントーン』の商品名で販売。靴底を膨らませて不安定感を出すことで、歩いた時に脚やお尻の筋肉が引き締まる効果があると宣伝しており、日本でも人気が高い。」
運動靴も「よく走れる」とか「洒落てる」などというセールスポイントとは違った全く新しい美容の機能性を謳った製品だったので、強く印象に残った運動靴でした。ところが、その運動靴が「不当表示」だとして19億円も違反金?を支払ったということに、えらいことだ、ウソをついてはいけないな、とてつもなく高いツケを払うことになる、と思いました。
これはアメリカのことですが、不当表示がいけないのは、日本でも同じで、当然だめです。
製造年月日を偽ったり、外国産の牛肉を松坂牛と表示して売ったら、これは間違いなく犯罪です。包装に「純粋はちみつ」と書いてあるのに調べたら水あめが混ぜてあったり、栗羊羹と書いてあるのに、栗が全く入っていなかったら、これも大ウソつきとして不当景品類及び不当表示防止法で処罰されます。
不当表示とか優良誤認表示、有利誤認表示とか法律上はいろいろ言われますが、要するに、ウソをついて売りつけたり買わせたりしたら、法律違反で発売停止とか商品回収とか、罰金とかの罪に問われるのだ、ということは、小学生でもみーんな知っていることです。
ところで、平成21年8月30日に衆議院議員総選挙が行われ、民主党が大勝利、自民党麻生内閣にかわって、鳩山政権が誕生しました。
民主党がなぜ勝利したのか。自民党にうんざりしていたとか、麻生さんが失言をしたとか、自民党のネガティブキャンペーンが失敗だったとか、いろいろ理由はあるでしょう。
しかし、最も大きな理由は、民主党の掲げた国民への約束、マニフェストであることは間違いありません。
商品を買うときに包装に書かれている産地や効能や賞味期限の日付をみて買います。
選挙の投票(いわば商品の購入)も、マニフェスト(包装表示)を吟味して投票します。
もう一度2年9か月前の民主党のマニフェストとその後の現状を見てみましょう。
* 「コンクリートから人へ」八ッ場ダム建設中止 →建設再開、凍結の新幹線着工へ
* 高速道路無料化 →実験後中止
* ガソリン暫定税率廃止 →廃止はやめて税率そのまま
* 普天間飛行場国外に、少なくとも県外 →沖縄県内
* 議員定数80議席削減 →実現せず
* 公務員人件費2割削減 →実現せず
* 消費税は引き上げない →身命を賭しても実現へ?
どれもこれも、表示違反の不当表示です。国民との約束で選挙に勝ち、政権の座に着けたのに、その国民との約束は何一つ守らない。こんなウソがまかり通っているのはおかしいです。
そんなことは、政治にはよくあることだよ、目くじら立てるだけ損だ、と言われることは承知の上で、なお目くじらを立てようと思ったのは、4月30日、ワシントンでの野田首相の次の発言です。
「何人たりとも党員なら従ってほしい。消費税増税賛成は、当然だ。党の方針通りまとめることに何の迷いもない」
マニフェストでは、消費税は上げないと言っている。そのほかの国民との公約も、どれもこれも、一言の言い訳もなく完全に反故にしておいて、党内のいわば私的な約束は絶対まもるべきだ、という発言は、まったく国民をばかにしているとしか思えません。国民との公約より党内の決定の方が上位概念だとしたら、民主主義そのものが成り立たない。
消費者庁の不当表示に対する罰則を見ると、不当表示の民主党は、商品回収や発売停止で営業停止。議員活動そのものが出来ないはずですよ。






木曽岬干拓地を海にもどそう  小榑雅章

木曽川河口に広がっていた浅海干潟を農地にする目的で干拓した、木曽岬干拓地という土地がある。443ヘクタールというから東京ドーム(4.7ha)の約94コ分の広大な土地である。
干拓に当っては、この海を漁場にしていた漁師たちの猛烈な反対もあって、国が干拓事業に着工したのは1970年であり、完成したのは1988年だった。この時にはすでに、農業用地の需要はなくなり、何の役にも立たない、無駄遣いの広大な原っぱが残った。
工場用地として利用するには、まだ3mから6mもの土地のかさ上げが必要であり、巨額の費用を要する。さらに、船舶の着岸港の造成には不向きであり、東海地震の恐れを考えると、工場用地としての可能性は全くない。使い道のない典型的な無為無策無駄遣いの干拓地は、誰も責任を取らず、今日、ただ荒れるがままに放置されている。
そこへ、東日本大震災が起こり、原発事故が発生。自然エネルギーが叫ばれるようになった。国からこの干拓地を購入した三重県は、この干拓地にメガソーラの企業誘致を図っているという。使い道に苦慮していた県にとって渡りに舟のアイディアだったろう。
しかし、本当に、そんな単純な政策でいいのですか、と疑問を呈している専門家がいる。
「海の博物館」館長の石原義剛さんだ。
石原さんは、次のように主張している。
「…干拓にされる以前のこの地は、豊饒な浅い河口海であり、ハマグリ、アサリ、シジミを産していた。・・・
 県が購入を決めた後、わたしはこの地の『海拓』を提案した。海に戻そうという提案である。干拓地を囲む防波堤を一部破却して、埋立られた薄い土を少し剥がせば以前の干潟面が現れる。そこに海水を導入すれば間もなく昔の干潟はハマグリやシジミを産むようになる。僅かに睦部を残して森を作り、子どもたちの自然観察施設や学習施設を、それも干拓地から生産される漁獲物の販売代金で整備運営すればいい。また、この干潟に藻場を造成して、伊勢湾に魚類を蘇らせる稚魚の成育場にすればいい。漁師さんたちに働く場も提供できることは間違いない。
 わたしは単に、『海拓』で漁師だけの漁場を回復させればいいと言っているのではない。子どもたちが海の環境を体験する場にし、県民が誰でも潮干狩りをし、漁師さんとの交流の機会をつくり、海を楽しむ場所づくりが出来ればいいと思う。
 干拓地は長く放置されていたので野ネズミなどの棲みかになり、これを餌とするチユウヒ(タカの一種)も住み着くようになっているが、『海拓』が進めば、水辺の動植物群が還り、豊かな自然環境が回復するから、今以上に多種な野鳥の飛来は間違いない。
 木曽岬干拓にメガソーラを、という考えがどこから発想されたのか、この発想には疑問がある。この発想には県民を納得させるどんなメッセージが込められているのか知りたい。それとも単に遊んでいる土地だから使おう、少しでも金銭的に利益を生めばいい、というだけかしら。それだけなら余りにもお粗末な発想だ。と云うよりも悲しい発想だ。
 新しい三重県を開いてくれるだろうと期待して日本一若い知事さんを選んだ県民の希望に、知事はどう応えてくれるのだろうか。」(SOS海と人間No.198)
 豊饒の海を、人間の欲と浅知恵でもてあそび、散々荒廃させてしまった。自然の「海よ、すまない、ごめんなさい。元の自然の姿に戻しますよ」という素直な発想が石原さんの考えだ。
メガソーラを設置するのには、また莫大な資金が投入されなければならないだろう。またぞろ、浅知恵で時流に飛びつき、莫大な費用をつぎ込む。そのあげく、どうにもならなくなり、誰も責任はとらない。そんなこと、もうやめましょうや。
石原さんの、素直なまっとうな発想が、一番いい。海にも人間にも子どもたちにも一番いい。大賛成だ。金もかからない。私たちに必要なのは、かけがえのない豊かな海なのだ。

クロネコヤマトのボランティア活動  小榑雅章

東日本大震災後、1年が経ちました。思い出すのもつらい災害でした。
筆者は、阪神大震災の被災者でもあったので、東北の被災者の方々のつらさが、ことさら伝わってきます。神戸では、3か月後には響き始めた復興の槌音も、東北では1年も経つのに響きは小さくにぶく、なかなか先が見えないのが、またつらいです。
 ここでは、少しでもよかったと思える出来事を記してみたいと思います。
震災直後から、日本中、いや世界中から多くの救いの手が差しのべられ、多くのボランティアが直接被災地に入って、援助活動をしました。その数は90万人とも100万人とも言われています。個人でボランティア活動に参加した人が多いのですが、中には、企業が後押しをして、ボランティアに参加した人も少なくありません。
その中の一つに、クロネコヤマトという会社のボランティア活動があります。この会社の援助行動は、括目すべき企業活動だと思いますので、ここに記してみたいと思います。
宅急便のクロネコヤマト、この会社の正式な名称はヤマト運輸、その親会社がヤマトホールディングス株式会社と言います。
 1年前の3月11日に、宮城、福島、岩手、茨城の地域にあるクロネコヤマトの事業所のうち9か所が全壊し、5か所が使用不能の半壊になりました。現地のヤマトの多くの社員もまた、被災し、避難所暮らしを余儀なくされていました。 
 震災発生から3、4日後から、救援物資が全国から送られてきて自治体や大きな避難所に山積みされるようになりました。しかし、その山は高くなるばかりです。そこから先の肝心の被災者には届けることが出来ないのです。自治体の市役所や町役場も被災し混乱し、機能を減衰していて、救援物資を仕分けしたり配ったりする能力がないからです。
気仙沼市の避難所で避難生活をしていたヤマトのセールスドライバーたちが、いち早くこの状態に気づきました。市に申し出て集積所の物資を分類し、在庫管理を行ない、同時に多くの避難所を効率的に回る配送ルートやどこにどれだけ配るかという計画を立てて配送を始めました。
救援物資を配布するにしても、無計画にただ配るだけだと、必要なところへ必要なものが届かない。例えば粉ミルクが必要な人に下着が届けられたり、防寒着がほしい人におむつが届いたり、ということが起こっていたのです。その点、地域の事情を熟知しているセールスドライバーは、きめ細かに計画を立て、必要な物資を必要な人のところに届けることが出来たのでした。
岩手県の釜石市でも同じように配送しました。ヤマトの社員たちの同じような動きは、ほかの地域でも同時多発的に始っていました。
 物資の仕分けも在庫管理も効率的配送も、どれも日常的に行なっているベテランで、お手の物の作業です。いままで滞っていた救援物資が、たちまち小さな避難所や自宅避難者のもとに届くようになりました。
 じつは、この作業は現地社員たちの全くの独断のボランティア作業でした。会社の指示でも諒解でもないのに、宅急便の自動車を使うなどということは決して許されていることではありません。会社の資材や車を勝手に使うとは何ごとか、と叱責されても仕方がないことです。
 しかし、こうした動きを知った本社の木川真社長は、叱責するどころか「これぞヤマトの本来の使命だ」と判断して、直ちに従来の宅急便の組織とは別に、「救援物資輸送隊」を組織し、現場独自の活動を全面的にバックアップすることを表明したのです。
 救援物資輸送隊は岩手、宮城、福島の三県の自治体と連携を取り、全国からの応援社員とともに、救援物資の仕分けや避難所、集落、施設などへの配送を行ないました。
この大規模なボランティア活動は、今年の1月15日まで、約10か月にわたって続けられました。その間、救援物資輸送隊への参加人数は、延べ14000名、稼働車両数は4500台になりました。
ヤマトには17万という大勢の社員が働いています。そのほとんどは一人で車を運転し配達するセールスドライバーです。その大勢の社員たちが、「救援物資輸送隊」に共鳴し、被災者の役に立てたという向社会的活動を誇りに思ったと言います。
 株式会社は、利益を稼ぐための組織です。しかし、独走した現地社員のボランティア行動を、咎めるどころか賞賛しただけでなく、多額の経費のかかる本格的な「救援物資輸送隊」を組織した木川社長の決断は、ヤマトという会社に働く17万の社員の心を熱くし、この会社に働くことを誇りに思うという、大きな価値をもたらしたのでした。

福島の若者たちの声を聞こう  小榑雅章

先週、福島に行ってきました。
間もなく、あの大震災から1年になろうというのに、復旧はおろか何の展望も開けずに、ただ立ち尽くす人々の姿に出会いました。
福島第一原発事故により、現在でも、約3万700人が仮設住宅、約6万2700人が民間の借り上げ住宅で暮らしており、自主避難を含めた県外避難は6万人を超えているとのことです。
なんと、15万人を超える人たちが、故郷を離れて、いつ戻れるかも分からず、日夜を異郷で暮らしているのです。
そんな中でも、少しでも住民の役に立とうとNPOとして苦闘している地元の若者たちの話を聞きました。
若者たちは語ってくれました。
瓦礫は片付けました。援助物資も配りました。避難所の世話もしました。話し相手にもなっています。しかし、その先は、どうしたらいいのでしょう。いつまで、どこまでいったら、こういう状況は解決するのでしょうか。警戒区域や計画的避難は、いつになったら解除されるのですか。5年ですか、10年ですか。30年ですか。いつか分からない。展望が開けない。それは、まるで牢獄の中の未決の囚人と同じではないですか。これほどの苦役はありません。
避難区域ではないところの住民も苦しんでいます。苦労してやっと収穫したコメが、放射能基準値を超えていた。そのニュースが流れたら、他の地域のコメは基準値以下でも、もう福島産のコメは、行き先がなくなってしまいました。農産物も、おなじような被害にあっています。風評被害というのでしょうが、これはだれの責任なのですか。そういう農産物は食べたくないという人が良くないのかもしれないが、原発の事故さえなければ、こんなことは起こらなかったのです。
自分たちは、農業こそ福島県の資産だと考えています。農業を再興することが、福島を再建することだと確信して、農業に従事しようとしているのですが、風評は、いつやむのでしょうか。水田や農地を除染しても、山から引く水が汚染されているので、また土が汚染される。山全体を除染できるのでしょうか。
・・・・・・・
NPOとして災害復興に取り組んでいる地元の若者たちは、宝です。希望です。
しかし、彼らの前に横たわる現実は、彼らの努力や熱意だけではどうしようもないのです。一生懸命に話してくれる若者を前に、何も答えることが出来ず、ただ黙るしかありませんでした。しかし、それではだめなのです。日本中が、この福島の若者たちの声を聞くべきなのだと思いました。
そのためにも、問題の本質をつきつめる必要があります。
ある仮設住宅で話を聞いた時、その主婦がたまりかねたように言いました。「東電は、安全だ、絶対安全だと何度も言いました。それはウソだった。ご先祖から何代も受けついできた田畑も屋敷も放り出してきました。私たちは何も悪いことをしていないのに、なぜこんな目に合わなければならないのでしょうね。悪いことをした東電の人達は、ボーナスや給料もたくさんもらって、自分の家で暮らしている。おかしいと思いませんか」
原発事故は天災ではありません。人災です。何の罪とがもない普通の市民の生活を破壊し、苦境に追いやる悪行は、犯罪です。
東京電力は、とてつもない加害者であり、犯罪者なのです。
最近の東電の言行や姿勢をみていると、とてもその自覚があるとは思えません。国営化の動きに対しても、民間でいたい、株は3分の2所有したい、子会社は整理したくない、資産は処分したくない、値上げは権利だ・・・そういうことが許される立場だとは、とても思えません。
と同時に、これほどの苦難を福島の人達に与え、多くの国民にも不便を強いながら、脱原発をあいまいにし、原発再開をもくろむ政府や経済界も、加害者、共犯者の自覚が感じられません。
絶対に安全だと保証してきた原子力安全委員会も、原子力安全・保安院も、誰一人として責任をとっていません。
侵した罪を償うのです。なんとしても償うべきなのです。
正義のない国家は、かならず衰退します。



むのたけじ「希望は絶望のど真ん中に」 小榑雅章

むのたけじ

去年の11月に、岩波新書のこの本を知人から贈られた。そして、すぐに読んだ。読んで、いろいろなことが、頭の中をぐるぐると駆け巡った。いまでもまだ駆け巡っている。
むのたけじさんのお名前は、当然のことながら以前から存じ上げてはいる。しかし、知っていることと言えば、元朝日新聞記者で「たいまつ」の発行者という程度でしかない。著書は、今回、この本を読むのが初めてである。
何が、頭の中を駆け巡っているかと言えば、言い訳である。
むのさんが、日本人に、特にジャーナリストに対し、鋭く突きつけている根源的な問いかけに対し、何とか知らん顔ができないか、もっともらしい言い訳はないか、おろおろしながら、頭をかかえて2か月も過ぎてしまった。
むのさんは、大正4年、1915年生まれ、96才の現役のジャーナリストである。
1945年8月の敗戦の日、それまで戦争を推進してきた新聞記者の一人として、その責任を感じて、朝日新聞を辞した。
あの戦争に、結果的に協力した新聞人はたくさんいる。というより、ほとんど全部である。敗戦の報を知り、内心忸怩たる思いのジャーナリストは、少なくなかっただろう。しかし、戦争の実態に目をつぶり、戦意高揚の記事ばかり書き続けた責任を表明して、即日辞職した新聞記者は、むのたけじしかいなかった。
「八月一五日に新聞社を辞めた新聞社員は他に一人もいなかったそうで、それゆえに私の行動は新聞界で話の種の一つにはなったようだ。」と、むのは書いている。
むのさんは、96才のいま、なぜこの本を書くのか、こう言っている。
「目的は、この世のありさまを造り変えたいのだ。私たち人間みんなが人間らしく生き、喜べる世に造り変えたい。そのための根本の仕事は何か。この世から戦争を無くすことだ。…では、どうしたら戦争をなくせるか、戦争をなくすために、私たち人間は何をなすべきか。何をしてはならないか。…『反戦平和』と発声するだけのビラや行進や集会や決議を幾ら繰り返したって、それだけでは戦争勢力には立ち向かえない。」
そのためには、まず敵を知ることだ、と人間700万年前からの戦争の種々相を解き明かす。
そして言明する。「問題の本質をごまかしたり、すり替えたりしてはいけないよ。常に問題の本質と真正面から取り組んで、やるべきことをやり抜かないといけないよ、その努力を続ければ、きっと活路が拓ける」
ええっ、いまさら戦争論かよ、という声が、我が身の中からも聞こえる。
だが、むのは言う。国際連合の常任理事国5か国だけが、なぜ核爆弾の製造も貯蔵も許されるのか。おかしいではないか。「どこのどなたが、何を根拠に五か国にそんな許しを与えたのか。納得のいく説明を私は全くどこからも聞いたことがない」
私たちが、「そんなこと言ってもしょうがないじゃないか」「いまさら、そんなわかりきっていることをほじくりかえしても、どうにもならないよ」「子供じみたことをいうなよ」…そう言って、自分を納得させ、問題の本質に触れず、正面から取り組むことを避けてきた。
しかし、むのの言う「常に問題の本質と真正面から取り組め」とは、こういうことだ。その本質的なことを避けて、賢しらに、世故にたけたジャーナリストが、したり顔でのさばっている。
この言葉を、じつは私は何度も聞いている。花森安治から聞いている。賢しらに妥協するな、そんなことで本質が見えるのか、---どれほど花森に叱責されたことか。花森の根源も、ジャーナリストとしての戦争責任だった。人間性を根底から否定し暮しを破壊する戦争こそが、われわれの敵だ、庶民の敵だ、そんな戦争を起こさせないためには、守るべき暮しを作らなければならない。守るべき暮しがあれば、戦争なんて起らない。起こそうとしても抵抗する。それが暮しの手帖の原点だった。
しかし、その根源的な努力を、世故にたけたジャーナリストたちは、書生論だ、子供じみている、世の中はそうはいかんのだよと、さも分かったことを言い、目をそらし軽視する。
むのたけじと花森安治は、その取り組み方に於いてはいささか異なるが、「常に問題の本質と真正面から取り組め」という姿勢は同じだった。
むのさんのこの本を読んで、いつの間にか物わかりのいい、世故にたけた自分を見出し、首をすくめ、言い訳を考えている自分に、花森さんの叱声が響いている。
*むのたけじ著「希望は絶望のど真ん中に」岩波新書 700円+税  


ソフトバンク孫正義社長とダイエー中内功社長  小榑雅章

経団連が先月11月11日に「エネルギー政策に関する第2次提言」をとりまとめた。原発の早期再稼働を要望し、再生可能エネルギー計画は慎重に定めるべきだとする内容で、会長・副会長会議では事前に了承されていた。定例理事会では異議なしで追認するはずだったが、ソフトバンクの孫正義社長が立ち上がって、「原子力発電所の早期再稼働について、安全・安心の検証がなされていないうちに再稼働を求めるのは遺憾」と発言した。
議長の米倉弘昌経団連会長は「提言は担当委員会で十分に議論した」と反論。原発再稼働については「安全性の確認が大前提と提言にも書いてある」と説明した。
理事会には約300人が出席していたが、他の誰からも異論は出ず、提言は承認された。
経団連の米倉会長は10日後の21日の記者会見でも、この孫社長の発言に触れ、「ああいう強行な、それもちゃんとした理屈ではなく単に反対だ反対だと。困った発言だなと思った」と重ねて苦言を呈した。
このやりとりをみて、思い出すことがある。
1980年6月、稲山嘉寛経団連会長(当時)が記者会見で「いま増えているのはスーパーなんかの第三次産業ばかり。これらの投資は消費を奪い合うための過剰投資であって国全体の利益にならない」と発言した。
これを知ったダイエーの中内功社長は、記者会見を開いて「スーパーみたいな第三次産業とはけしからん。時代の変化についていけない人が、経団連のトップにすわっているのは、まことに残念」と反論した。
失礼ながら、いまの日本経団連とはちがって、30年前の経団連会長は、財界総理と称されて絶対的存在だった。稲山さんは鉄は国家なりの新日本製鐵の会長でもあった。新興のスーパーごときは、すぐにスーと消えるような存在だと軽んじていたのである。
中内社長は、切歯扼腕、本当に悔しい思いをした。そして堂々と反論をした。これに対して、当時の新聞も世論も、中内さんはなかなかやるではないか、と好意的な雰囲気だった。スーパーは我々の生活に役に立っている産業だ、経団連の方がおかしい、という意見もあった。
さて、孫社長の発言である。誠に正論であり、よくぞ言ってくれたと思う。それに対し、300人も出席していた大会社の社長連中が、ただ一人として誰も同調しなかったというのは、どういうことなのだろう。
東電の原子力発電事故の原因さえいまだ明らかでなく、どれほどの被害・苦痛を国民に与えているかを考えれば、原発の早期再稼働など言いだせるはずがない。きっと多くの社長連中が、心の中では、孫社長の言う意見に賛同していただろう。筆者も何回も出席していたので分かっているが、理事会はすべての議案が異議なしで終わるのが通例である。だからあの雰囲気では手をあげられないな、というのはよくわからないでもない。孫社長への評価もいろいろあることも承知している。しかし、ことは重大である。大勢の空気に順応するだけでは、グローバルの企業活動はできないのは常識だ。どんな会議でも、異をとなえることの重要性は、企業経営者ならみな知っている。にもかかわらず、日本の大企業の社長会長が集る経団連理事会で、原発再開に全員が唯々諾々としたがったというのでは、日本企業の先行きは暗い。

「持続可能な社会の形成に向けた金融行動原則」署名金融機関  小榑雅章

11月14日のこのブログで、「持続可能な社会の形成に向けた金融行動原則」について書きました。
そこで、「持続可能な社会の基本は、明日を不安に思うことなく今日一日が生きられることにある考える。とすれば現在世代は、自らはもとより将来世代の為にも人と地球を取り巻く様々な問題の解決に真摯に取り組み、自然と共生する安全で安心できる生活を目指していかねばならない。元来、社会の基盤の一つはお金を媒介とした経済活動にある。社会を持続可能なものに変えていくにはお金の流れをそれに適合したものに変える必要がある。これこそ社会が必要とするところにお金を回すことで、社会の発展に寄与してきた金融本来の役割に他ならない。」という理念のもとに、7つの金融原則が設定され、それを順守するという署名受付を、環境省は、11月15日(火)より開始しました。(11月14日のブログ参照)
問題は、この原則に、日本の金融機関が本当に署名するかが問われている、見守ろう、ということを、ブログに書いたのです。環境省は、それから1か月後の12月14日(水)現在での署名状況を公表しました。
その結果を以下に記します。なんと63もの金融機関が署名したのです。その中には、わが国を代表するメガバンクも入っています。自分たちの手足を縛るかもしれないこの原則に、署名するというのは、わが国もまんざらではないな、というのが実感です。
ご自分の関係する金融機関が署名しているかどうか、どうぞお確かめください。

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以上63社(平成23年12月14日現在受付分)(敬称略、会社名あいうえお順)

丸谷才一さん文化勲章受章のお祝い会

丸谷さんの文化勲章受章をお祝いする会が、先週の12月1日に帝国ホテルで行われた。
文壇の長老とか大御所といわれる丸谷さんのお祝いだから、180人もの作家や編集者たちが集って盛会だった。
スピーチは、池澤夏樹さんや吉田秀和さん、小澤征爾さんが行ったが、吉田さんのスピーチは長かった。長いスピーチがやっと終わる、やれやれと思ったら、丸谷さんの新作『持ち重りする薔薇の花』を読んで選んだというバッハの曲のテープを延々と流し、新作を読んだとき、この「天下の名曲を聴いたような気がした」と話した。吉田さんは、86歳の丸谷さんよりずっと上の98歳だから、その元気、元気は驚きだが、音楽に関心がない私には、まったく苦痛だった。こんなこと、丸谷さんに聞こえたら、せっかくの吉田さんのご厚意が苦痛だなんて何事だ、と叱られそうだが、大長老のありがたいご託宣でも、しんどいのはしんどい。
丸谷さんの著作「挨拶はむづかしい」の中に、「…日本人の挨拶は『祝詞』に起源を持つ『前置き』が異常に長くて、本題に入る前に疲れてしまふ。日本人の挨拶とアメリカ人の挨拶とは『質的には似た谷うなものですが、量的には非常に違ひます』とはドナルド・キーンの言ださうである…」という一節があるが、しかし、丸谷さんは、吉田さんのスピーチの間、じっと立って笑顔で耳を傾けていた。
丸谷さんは、ご自分が挨拶をするときは、かならず事前に原稿に書いておき、それを読むことにしているのは有名だが、会の最後に、丸谷さんが挨拶に立った時も、当然ながら、用意した原稿を読まれた。「多少小説の書き方が分かってきて、うまくなったように思う。幸いからだの調子はよいので、これからの作品に期待して下さい」と簡潔にユーモアを交えてしめくくった。

「持続可能な社会の形成に向けた金融行動原則」に注目を  小榑雅章

先月、環境省から、「『持続可能な社会の形成に向けた金融行動原則』のとりまとめについて」、という長いタイトルのお知らせがありました。
あまり長いので、通常は「21 世紀金融行動原則」と略称されるようですが、長くても、前半の、「持続可能な社会の形成に向けた」という、明確な目的を掲げた部分が重要なのです。
「わが社の企業行動原則」とか「企業行動憲章」というのは、多くの企業のCSR(企業の社会的責任)報告書などでよく見かけます。
日本経団連にも企業行動憲章というのがあり、「人権を尊重し、関係法令、国際ルールおよびその精神を遵守しつつ、持続可能な社会の創造に向けて、高い倫理観をもって社会的責任を果たしていく」と表明しているように、憲章の条文も、企業が守るべきコンプライアンスや倫理観が中心で、自社のリスク回避や発展のためのガバナンスに力点が置かれています。だから、企業行動憲章と金融行動原則とでは、内容が大きく異なっています。
金融行動原則の前文には、「持続可能な社会の形成に向けた」という意義と、なぜ金融なのかという意味が、次のように説明されています。
「持続可能な社会の基本は、明日を不安に思うことなく今日一日が生きられることにある考える。とすれば現在世代は、自らはもとより将来世代の為にも人と地球を取り巻く様々な問題の解決に真摯に取り組み、自然と共生する安全で安心できる生活を目指していかねばならない。
元来、社会の基盤の一つはお金を媒介とした経済活動にある。社会を持続可能なものに変えていくにはお金の流れをそれに適合したものに変える必要がある。これこそ社会が必要とするところにお金を回すことで、社会の発展に寄与してきた金融本来の役割に他ならない。」
そうなのです。お金の流れを変えれば、社会は変えられるのです。融資や投資のお金が、持続可能な職種や業態や仕事に、積極的に回るように、意志をもって働きかけたら、社会は変わるのです。
この原則は次の7原則です。
原則
1. 自らが果たすべき責任と役割を認識し、予防的アプローチの視点も踏まえ、それぞれの事業を通じ持続可能な社会の形成に向けた最善の取組みを推進する。
2. 環境産業に代表される「持続可能な社会の形成に寄与する産業」の発展と競争力の向上に資する金融商品・サービスの開発・提供を通じ、持続可能なグローバル社会の形成に貢献する。
3. 地域の振興と持続可能性の向上の視点に立ち、中小企業などの環境配慮や市民の環境意識の向上、災害への備えやコミュニティ活動をサポートする。
4. 持続可能な社会の形成には、多様なステークホルダーが連携することが重要と認識し、かかる取組みに自ら参画するだけでなく主体的な役割を担うよう努める。
5. 環境関連法規の遵守にとどまらず、省資源・省エネルギー等の環境負荷の軽減に積極的に取り組み、サプライヤーにも働き掛けるように努める。
6. 社会の持続可能性を高める活動が経営的な課題であると認識するとともに、取組みの情報開示に努める。
7. 上記の取組みを日常業務において積極的に実践するために、環境や社会の問題に対する自社の役職員の意識向上を図る。

以上のように、金融機関が取り組むべき役割と課題が明確に提示されています。
問題は、これを絵に描いた餅にしてはならないということです。実行に移さなければ、どんなに立派でも床の間の飾りに過ぎません。
環境省の発表では、今後の予定として、
「今後準備が整い次第、金融機関による署名が順次行われる予定です。
 また、来年年明けには、署名金融機関による総会において、環境金融への取組状況に関する情報・意見交換等が行われる予定です。」
とあり、署名の受け付けは、この11月中旬から受け付ける、ということです。まさに、明日明後日から、金融機関の署名が行われるはずなのです。
「原則はあくまで原則」と知らぬ顔をして、床の間に飾っておく分には、責任は発生しませんが、いざ実行します、と署名するとなると、企業によっては急に尻込みするところが出てくるかもしれません。
そうはさせないで、背中を押して署名に向かわせるのは、世論です。ぜひ日本中で注目して成り行きを見たいものです。

阿久悠記念館と「無冠の父」  小榑雅章

阿久悠さんが亡くなったのは、2007年8月1日だった。
それから4年余がすぎて、先日10月28日の午後、東京駿河台の明治大学に阿久悠記念館が開館した。かねてより、この日に開館されるということを知らされていたのと、同じこの日の夜、明大のホールで阿久悠歌謡祭が開催されるので、久しぶりに阿久さんに会えるような気分になって、少しウキウキしながら出かけて行った。
阿久さんとは、以前から知り合いであった。
1990年に、兵庫エフエムラジオ放送というFM放送局が開設されるにあたって、株主の中から、この放送会社の会長には兵庫県淡路島出身の有名文化人の阿久悠さんに就任してもらいたい、という意向が寄せられた。株主は、兵庫県や神戸市などの自治体や新聞社、地元の有力企業などで、ダイエーも出資企業の一つだった。当時、私はダイエーの秘書室長だったが、中内社長に命じられて、阿久さんに会長就任のお願いに行かされた。
阿久さんは、私の話を聞いて、「うーむ、兵庫県民の代表として会長になってくれといわれても、僕は兵庫県民という意識はあまりないんだよ、淡路島で生まれたのはたしかだけど、故郷という感じではないんだよね」
阿久さんは、あまり乗り気ではないような口ぶりだったが、それでも、「会長って何するの?何もしなくていいのなら、引き受けてもいいよ」と承知してくれた。
何年か後で、「放送会社の会長になれば、黒塗りの車で最敬礼でお出迎えされ、ゴルフでもさせてくれるのかと思ったけどね…」と笑っていたが、現実は厳しく、バブルのはじけた1990年の開業は、最初から大赤字。派手な設備投資も重荷になり、あっという間に債務超過の四苦八苦。黒塗りの車もゴルフも、一度として実現しないどころか、一銭の報酬もなく、阿久さんは、たびたびの取締役会や株主総会に呼び出されていた。
3年後の1993年に、何の因果か、この放送局の立て直しに行って来い、と送り込まれることになった。阿久さんは、「僕を会長にしたんだから、君の責任は大きいぞ」と笑ってから、真顔で「待ってたんだよ」とボソッと言った。
阿久さんには、本当に申し訳ないと思っていた。それから死に物狂いで働いた。荒療治も行なった。その都度、阿久さんに報告すると「少しは会社らしくなってきたね」「ご苦労さんだね」などと、かならず声をかけてくれた。
阿久悠記念館には、5回も受賞したレコード大賞の盾やトロフィーや「また逢う日まで」などの歌詞、年表、5000曲に及ぶという曲名などの展示と、伊豆宇佐美にあった自宅の書斎をそっくり再現した部屋が常設されている。昭和の大作詞家、たぐいまれなヒットメーカー、そして、瀬戸内少年野球団などの小説家…華々しい活躍の成果が展示されている。
その中の一角に、10月13日に岩波書店から出版されたばかりの「無冠の父」とその直筆の原稿が置かれている。
じつは、この本は出版されてすぐに読んでいた。
この本の末尾に、次のような注記がある。
「『無冠の父』は、阿久悠の手になる長編小説のなかで唯一の未発表作品である。一九九三(平成五)年の九月から一一月にかけて執筆され、完成稿が編集者に渡されたが、改稿を求めた編集者に対して阿久悠は原稿を戻させ、以後、二〇〇七年八月に没するまでこの作品についていっさい語ることはなかった。…」
「改稿を求めた編集者に対して阿久悠は原稿を戻させ…」とはどういうことなのだろう。編集者はどこを改めてほしいと言ったのだろうか。阿久さんは、腹を立てたのだろうか、どうして出版しなかったのだろうか。
本を読みながら、いろいろな思いが湧き上がってきた。しかしそれはそれとして、阿久さんと同じ年に生まれ、同じ戦中戦後の体験をしてきた自分としては、どうしても阿久さんの思いに自分を重ねあわせてしまう。
淡路島の駐在所の巡査として、終生一介の巡査として過ごした無冠の父の生きざまを、少年のまなざしを通して語っている。父親とは何か、親子の絆とは何か、人間の矜持とは何か、故郷とは何か…
阿久さんが、会長就任を依頼に行った私に「僕は兵庫県民という意識はあまりないんだよ、淡路島で生まれたのはたしかだけど、故郷という感じではないんだよね」と何故語ったのか、故郷とはなにか、その答えが、この本にあった。
無冠の父
*「無冠の父」阿久悠 岩波書店刊 1800円+税

花森安治生誕100年と土井藍生さんの思い出  小榑雅章

花森安治戯文集1

花森安治さんが生まれたのは、明治44年(1911年)10月25日です。
だから、今年は生誕100年に当たるというので、いくつかの本が出版されています。
その一つが、「花森安治戯文集1」で、帯には「生誕100年記念出版」と銘打ってあります。この本には、1954年に河出書房から出版された「逆立ちの世の中」を中心に、花森さんが「暮しの手帖」以外の「雑誌および新聞に寄稿した文章(コラム、エッセイ、対談、インタビュー)」(本書注)が収められています。
それに加えて、「あとがき」として、一人娘の土井藍生(あおい)さんの「思い出すことなど・父花森安治」という一文が掲載されています。
この藍生さんの「あとがき」が、とてもいい文章で、秀逸です。花森さんは公私を峻別していましたから、暮しの手帖の編集部の花森さんの公の姿とはまったく別の、私の花森安治像が、藍生さんの文章でいきいきと現出されています。
病気がちの小学生だった藍生さんのために、花森さんは童話を読んで聞かせてくれたというのです。そして「はい、今日はここまで。いい子にして寝ていたら、明日続きをよんであげる」と出かけて行ったそうです。
編集部では仕事第一、親が死んでも仕事優先、と常々言われてきました。
私は、自分の娘が生まれる、というその日も、もちろん編集部の仕事をしていました。でも気になって仕方がない。花森さんに言えば、もしかしたら帰っていいよ、と言ってくれるかもしれない、と淡い期待をもって勇を鼓して話すと、「そうか」と言ったきりでした。その花森さんが、若かりし頃には、こんな普通の父親役をこなしていたなんて驚きです。
晩年になって、男の子の孫が出来たあとの花森さんについて、藍生さんはこんな風に書いています。
「子どもは何でも欲しがるもの、それを我慢させるのが親の役目だと、私には偉そうに申しておきながら、孫息子の望はすべて叶えておりました。/朝食の席でメロンが話題になったとき、メロンは好きかと聞かれた息子が『しばらく食べてないから分からない』と答えました。その晩、父が箱入りのメロンを抱えて帰ってきたことは言うまでもありません」…「息子は希望するものを次々と持って帰ってくる父のことを『おじいちゃんはデパートにお勤めしているのでしょう』と申して、私たちが否定しても信じがたい様子でした」…
こういう花森さんの姿を知ることが、私などにとってはどれほどうれしいことかわかりません。偉くて遠かった花森さんがずっと近くにまで寄ってきて下さった感じです。
いまこういうことが書けるのは藍生さんしかいません。藍生さんにありがとうと言いたいです。
ところで、肝心の「逆立ちの世の中」です。
正直に言うと、この「逆立ちの世の中」を読みながら、すごく違和感を感じて、なかなか読み進めませんでした。読むのがしんどいのです。不肖の弟子が、大師匠の文章にしんどいとは何事か、と叱責されるでしょう。
でもしんどいのです。
なぜかと考えました。
私が花森さんから「文章はこう書け」と教えられたこととは、違う文章だと思えて仕方がないからです。花森さんから、無駄だ、冗長だ、と赤ペンで削られたような文章が、たくさんあるように思えるのです。
お前、そんな畏れ多いことを言える身分か、と自分でも思います。
でも暮しの手帖に書かれた花森さんの文章は、言葉を選び抜いた、もっととぎすまされた文章です。
それが、とことん突き詰められたのが、「一銭五厘の旗」のような短い文章を改行してつないでいく、詩のような文章になる、読者に分かってもらおう理解してもらおうと痛切に思うと、こういうかたちの文章になると、花森さんの口から何回も聞きました。
暮しの手帖を武器に、この世の中の暮しを変えるんだ、とずっと教えられました。
花森安治という署名入りの原稿も、無署名の原稿も、原稿料をもらうためではなく、暮しを守り、世の中を変えるための文章でした。
私は、そう教えられてきました。
だから、同じ花森安治の文章でも、「逆立ちの世の中」と暮しの手帖の文章とは違うと感じました。
念のために言いますが、内容のことではありません。あくまで文章のことです。
*花森安治戯文集1 LLPブックエンド発行 2500円+税

正確な津波報道が危機を招く恐れも  小榑雅章

今週の初め18日19日に、名古屋大学で日本社会心理学会が開催されました。筆者も参加しましたが、学会の最後に開かれたシンポジウム「東日本大震災を乗り越えるために:社会心理学からの提言」に話題提供者の一人として登壇した同志社大学の中谷内一也教授が、重要な注意喚起をしていました。それは「津波の『高さ』についてのリスク判断研究」という発表で、つぎのようなことです。
東北地方を襲った津波の高さは、初めは5メートルとか8メートルという報道が主で、それでも大変だと思っていたが、その後、調査が進むと、23メートルを越えたとか38メートルだった、などという巨大な大津波の数字がつぎつぎに報道された。
「大きな津波高さが何度も示されることで、『危険な津波』『避難すべき津波』の高さがかえって上昇してしまうのではないか。/日本人が津波の恐ろしさを再確認したことは間違いないし、リスク認知も高まったことは疑いないが、判断基準は災害が巨大すぎてかえってvulnerableになったのではないか。」
中谷内さんは、巨大な23mや38mを考えてしまうと、5mや8mは大したことないと判断してしまうのではないか、と危惧した。
そこで、東日本大震災の後に「どのくらいの津波予測で避難するか」という調査を行った。
じつは、大震災の起こる以前に同じ設問の調査を行っていたので、その両方の結果を比較してみた。
「どのくらいの津波予測で避難するか」
  1mかそれ以下で避難(震災前)約60%
           →(震災後)約38%に低下
  5m以上でないと避難しない
            (震災前)約60%
           →(震災後)約38%に低下
 「どれくらいの高さの津波を危険と思うか」
  1mかそれ以下で危険(震災前)約70%
           →(震災後)約45%に低下
  5m以上でないと危険でない
            (震災前)約4%
           →(震災後)約22%に増加
以上の結果でわかるように、「低い津波で十分危険であることを伝えるべきだ。木造家屋は1mでも半壊、2mで全壊する」このような認知が行きわたると、1mや2mの津波は大したことないという認識が行きわたり、非常に危険なことになりかねない。これは、「アンカリング・ヒューリスティック」という心理作用で、「たまたま目にした数値に『投錨』してしまうだけでなく、後の情報に基づく『調整』が不十分である」
「記録破りの指標を報じる際には、より低い値でも十分危険であることを合わせて伝えないと、後からの調整は困難」と、中谷内教授は、新聞やテレビなどの報道する側に、注意を喚起している。

公開シンポジウム「原発災害をめぐる科学者の社会的責任」  小榑雅章

日本学術会議のメールで、9月18日(日)に開催される公開シンポジュウム
の案内がきました。
「原発災害をめぐる科学者の社会的責任」というタイトルで、討議されるよう
です。原発を推進してきたのも科学者であり、その安全性を担保してきたのも
科学者でした。いま、多くの住民が故郷を追われ、子供たちの将来を不安に陥
れ、食料の安全をおびやかし、先の見えぬ未曽有の大災害をもたらしたこの事
態を、科学者たちはどのように認識し、どのように責任を感じているのか、看
過出来ることではありません。筆者はこの当日は、名古屋で別の学会に参加し
ているので、聞きに行けませんが、シンポジウムの趣旨に問題点が提起されて
いるので、下記に再掲させていただきます。

公開シンポジウム「原発災害をめぐる科学者の社会的責任――科学と科学を
 超えるもの」
◆趣 旨
   東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故、それに続く深刻な放射
能汚染や健康被害について、一般社会からは情報発信や説明責任の不十分さ、
不適切さが厳しく批判されている。日本の科学者・学界は、これらの問題に
適切な判断を下し、十分な情報提供を行い、社会的責任を果たしてきたと言
えるであろうか。そもそも関連する諸科学は、原子力発電にともなうさまざ
 まなリスクを、あらかじめ適切に評価・予測し、十全な対策を提示すること
 が可能なのだろうか。科学によって問うことはできるが、科学だけでは答え
 を出すことができない、いわゆる「トランス・サイエンス」の領域が急速に
 拡大し、複雑化しているのが、現代の最先端の知が直面している大きな課題
 である。このたびの福島第一原発災害の問題は、まさにそのような正負両面
 をもつ巨大な科学知・技術知の力を、どのようにしてコントロールすべきか
 という難問を、人文・社会科学を含むすべての科学者に強く投げかけている。
 だとすれば、今こそこの困難な課題に対して、さまざまな学問諸領域の専門
 知を総動員し、何をなすべきか、何をなしうるかを議論し合い、共通理解を
 深めるべき時ではないだろうか。
   このような状況を踏まえ、日本学術会議哲学委員会では、自然科学系と人
 文学系の双方の専門家をパネリストに迎え、原発災害をめぐる領域横断的な
 コミュニケーションの場を設け、「科学と科学を超えるもの」についての問
 題意識を共有するとともに、原発災害に関わる科学者の社会的責任を見つめ
 直すためのシンポジウムを企画した。学問的に正確な知識・情報を的確かつ
 十全に市民に公開・伝達するという「学術と生活世界を媒介する」活動を科
 学者全般の重大な責務としてとらえ、深く問い直すための機会となれば幸い
 である。
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シンポジウムの論者は次の方々です。 
◆主 催 日本学術会議哲学委員会・日本哲学系諸学会連合・
      日本宗教研究諸学会連合
  ◆次 第
   司会 金井淑子(立正大学文学部/倫理学)
   開会挨拶 野家啓一(東北大学理事、日本学術会議哲学委員会委員長/哲学)
   報 告(各パネリスト)
     唐木英明(元東京大学アイソトープ総合センター長・獣医薬理学)
     小林傳司(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター/
          科学哲学、科学技術社会論)
     押川正毅(東京大学物性研究所/理論物理学)
     鬼頭秀一(東京大学新領域創成科学研究科/環境倫理学)
     島薗 進(東京大学人文社会系研究科/宗教学)
   閉会挨拶 丸井 浩(東京大学人文社会系研究科、哲学委員会副委員長/
          インド哲学)
  詳細については、http://www.scj.go.jp/ja/event/pdf/133-s-1-2.pdf
シンポジウム後、下記資料も公開されています。
押川正毅教授のシンポジウム・レジュメ
http://masakioshikawa.blogspot.com/2011/09/918_17.html
鬼頭秀一教授のシンポジウム発表資料
http://kitosh.k.u-tokyo.ac.jp/assets/files/低線量被曝問題における「科学者」の対応の構造的な問題と「科学者」の信頼回復の道筋(公開版).pdf
  

地震から家族を守るためにはどうするか  小榑雅章

今日は9月1日、防災の日です。
各地で、防災訓練が実施されているようです。全国の35都道府県では、住民など50万人もの人が参加して防災訓練が行われているとのことです。
テレビを見ていると、乗客が駅構内で整列してカバンなどで頭をかばう姿勢で、駅員の誘導のもとに駅舎から出ていく光景が映し出されていました。ここに映し出された人々も、訓練に動員された50万人のうちの人々なのでしょう。
こういう光景を見ていて、なぜかイライラしてしまいます。訓練はやらないよりやった方がよいのでしょうが、なんとも白々しいのです。
だいたい、防災訓練は企業でも役所でも、駅やスーパーでも、いつも平日の日中なのですが、どうしてなのでしょうか。係員も全員そろっていて指令系統もちゃんと機能するような平日の昼日中に訓練が行われています。不思議ですよね。実際に地震が起こるのは日曜日かもしれない、真夜中かもしれない、晩の8時かもしれない。そういう時は誰も旗を持って誘導などしてくれないし、掛け声もかけてくれない。会社も自治体も助けてくれない。情報も何も教えてはくれない。まずは、自分自身のちからで対処しなければなりません。
阪神大震災が起こったのは、1995年1月17日の午前5時46分52秒でした。つまり、ほとんどの人が、まだ家にいて、その多くの人は就寝中だったのです。
これまでも何回かこのブログでも書きましたが、筆者は、阪神大震災の被災者です。家も会社もめちゃくちゃになりました。その経験もあって、東日本大震災のことは他人事ではありません。東北の被災地をぜひ見たい、被災者の生の声を聞きたい、と思い、宮城や福島に行ってきました。数多く報道されているように、それは悲惨な状況でした。被災者のみなさんのご苦労は、大変なものだと思います。
ただ明確に言えることは、東北と神戸の災害は、同じ地震災害と言われますが、様相がはっきり違うということです。
原発の災害は除外して、東北の災害は主に津波の被害です。2万人を越えるほど多数の亡くなられた方や行方不明の方のほとんどは、津波被害によるもので、直接、地震によって亡くなられた方は、百名から多くて数百名ではないか、と聞きました。
東京の場合、津波のこともさることながら、まずは都市直下型の地震を考えるべきだとされています。
阪神大震災の場合は、都市直下型の地震で津波の被害はありませんでしたので、亡くなられた方6432名はすべて地震による被害です。しかも、時間が午前6時前でしたので、就寝中の人が多く、このうちの5000名までが、倒壊した家屋による圧死と考えられ、さらに約600名は転倒した家具などによる圧死、傷害死だとされています。つまり死者のうちの9割近くが家や家具などによる圧死でした。
古い木造家屋の被害が、最も多かったのですが、ビルもずいぶん被害がありました。4階とか5階の中途の階がくしゃんとつぶれてしまっているビルがいくつもありました。
自治省消防庁の資料によると、全壊104906棟(186175世帯)、半壊144274棟(274181世帯)、全半壊合計249178棟(約46万世帯)、一部損壊390506棟、合計639686棟になります。この数字は神戸市を中心にして、その周辺の芦屋市や明石市、西宮市、尼崎市、洲本市なども含みますが、参考までに神戸市の世帯数は約68万世帯。ということは上記の被害の数は、神戸市全世帯のほとんどすべてに損壊の被害をもたらしたと同程度だったことを表しています。
防災の日に、地震から生き残るためには、家族を守るためにはどうするか、を真剣に考えるなら、会社で働いているときとか、昼間起きている時ではなくて、夜中だったらどうするか、早朝だったらどうしたらいいか、家の倒壊は大丈夫か、家具は倒れて下敷きにならないか、ということもぜひ考えておいてください。
なにしろ生活の半分以上は自宅なのですから。

日本航空123便御巣鷹山に墜落、そして坂本九さん  小榑雅章

1985年8月12日、日本航空123便が群馬県御巣鷹山に墜落。乗員乗客524名のうち520名の方が亡くなりました。
航空事故の歴史の中でも、最大の悲惨な事故でしたが、私にとっても痛切な思いの事故でした。坂本九さんが搭乗していたのです。
1969年(昭和44年)7月1日発行の暮しの手帖2世紀1号から始まった「雑記帳」という頁は、著名人の依頼原稿やジャーナリスト、一般読者の投稿原稿など、800字以内の小文が、ごちゃまぜに並んでいるそれこそ「雑記帳」のような頁でした。この2世紀1号には丹羽文雄さんや平林たい子さん、松前重義さん、鶴見俊輔さん、林健太郎さんなどの原稿も掲載されましたが、編集長の花森さんがそのトップに選んだのが、坂本九さんの原稿「母の思い出」でした。
「…油っ気のなくなったおふくろの手に僕はよく、自分の鼻の頭の油をこすりつけました。前からおふくろは、僕がハンドクリームとかそんなものを買って帰っても絶対につけたりしないで、僕の鼻の頭の油をとって、『これが、私には一番だョ』っていってこすりつけてきました。/今でも、おふくろの手の筋、しみ、皺、ほくろを憶えています。本当に汚くて、美しい手でした。…」
3年ほど前に亡くなったお母さんを思う気持ちがあふれた、とつとつとしたとてもいい原稿でした。花森さんは、担当の私に言いました。「九ちゃんには毎号書いてもらおうや」
当時、1961年に大ヒットした「上を向いて歩こう」は国民的愛唱歌になっていて、坂本九さんはNHKの紅白歌合戦にも毎年出場していました。映画にもいくつも主演し、まさに国民的アイドルとなって、超多忙でした。
芸能誌ならまだしも、まったく畑違いの暮しの手帖に、しかも目次には「雑記帳」と載るだけで、個別の執筆者の名前は載らないような頁に、毎号書いてもらえるだろうか。おそるおそる切り出した私に、九ちゃんは、あのニコニコっとした笑顔で、「いいのかなあ、僕、文章へたですよ。それでよければ書きます。暮しの手帖ってとてもいい雑誌だって、みんな言ってますよ」
というわけで、これから3年間、毎号、九ちゃんの原稿をもらいに通うことになりました。
じつは、この3年間は、九ちゃんにとって特別な3年間でした。
まず、仕事の悩みでした。誰が見ても、順風満帆のようにみえる坂本九でしたが、じつは本当に悩んでいたのでした。私は、自分だけで抱えていないで、思い切ってその悩みを吐き出すべきだ、原稿に書いてほしいと言いました。
その原稿が暮しの手帖2世紀6号に掲載された「宣言」という文章です。
「…芸能界の道を歩いて十二年、その十二年目に、恥しいんですが初めて、アレ、この道は本当に自分の道かな、他の人の通る道じゃないのかな、芸能界に憧れだけで入ったけれどそのまま高速道路の渋滞中みたいに、戻ることも降りることも出来ずに、ズルズル進んで来てしまってどうすることも出来ない。…口惜しい!僕にも足がある、今からでも遅くない、この渋滞中の高速道路なんか飛び降りて、もう一度自分の道をみつけて、思い切り手をふり歩いてみたい、胸を張り、何も干渉されず、のびのびと……ところが坂本九という男は、自分で自動車のガラスを破り、外に出るほど、勇気が無い、全く、みっともなくて仕様がない、と、昨日迄は思ってました。/ところが勇気が湧いて来たんです。…『ヨーシ!男だ、やるぞォー』と、大声で叫んで、この道こそ俺の道だ、俺が思い切り手をふって歩ける道だ!という道を、もう一度探す勇気が湧いて来たんです、もし僕が、自分の道ではないと思ったら、僕は芸能界を去ります。/自分で飛び降りて、坂本九の本当の歩むべき道を発見するんです。進むんです。…」
この悩みの裏には、男として一人の女性を幸せにできるか、その資格があるのか、という自省がありました。恋をしていたのです。1年後の11号には恋をしていることを明言し、14号で柏木由紀子さんと婚約したことを報告しました。そして1971年の暮れに結婚した披露宴のことを16号で書いています。この披露宴には、私は締切に追われてどうしてもいけなかったのです。(残念)
全く幸せな坂本九でした。九ちゃんの文章にはてらいがありません。うれしい時にはうれしいと、恋しているときはウキウキとつづっています。
私は4つ年下のこの青年が大好きでした。
御巣鷹山の知らせは、実の弟を亡くしたような衝撃でした。26年後のいまもまた、8月12日は胸の痛む一日です。

中内功と松下幸之助  小榑雅章

今日8月2日は、中内功さんの誕生日です。
秘書時代、朝、顔を合わせたときに「おめでとうございます」とあいさつしたら、じろっとにらまれて、「君に関係ないだろ、そんなことより仕事をしろ」と叱られたことを思い出します。
松下幸之助さんの葬儀のことも、忘れられない思い出です。
ご存知の方も多いことですが、ダイエーが大きくなっていく過程で、松下電器との抗争は重要なエポックでした。ダイエーの社是は「よい品をどんどん安く、より豊かな社会を」でしたから、メーカー品を少しでも安く売ることを目指していました。ブランド価値の高い松下のナショナル製品の値引きは、恰好の戦略でした。しかし、松下側にしてみたら、こんな困ることはありません。定価を守って商売をしている松下傘下のナショナル電器店の商品が売れなくなり、ダイエーをなんとかしてくれという苦情が全国から上がってきて抑えきれなくなってきました。
そこで松下電器は、ダイエーへ商品を供給するのをとめるために、製品に目では見えない記号をつけて出荷しました。ダイエーで松下商品を購入し、この記号を調べれば、どこへ卸したかすぐに判明するのです。これは定価販売を強要する明確な独禁法違反です。それを国会で追及されて、松下はしぶしぶ認めました。
経営の神様の松下幸之助さんは無念やるかたなかったでしょう。
ある日、中内は、幸之助さんに京都にある別邸の真々庵の茶室に呼ばれて、「そろそろ覇道をやめて王道を歩んだらどうだ。その方がお互いのためだ」と言われたそうです。そのとき、中内は思ったと言います。「松下幸之助さんの王道とは、安い商品を欲しがっている国民のことは思っていないのだな」そして、「そうですか」とだけ答えて出てきたそうです。
1989年4月30日、松下幸之助さんの葬儀は、大阪の北御堂で行われました。私も中内と二人で一緒にいきました。
松下にとっていわば敵役だったので、無論招待はされていません。中内は一般参拝者の長い行列に並ぶと言いはりました。私はいくらなんでもと思い、中内を車に残して大急ぎで葬儀場に行き、谷井社長に中内の席を作ってほしいと頼みました。谷井社長は、中内さんが来て下さる、といって喜ばれました。
葬儀が終わって、中内が出てきた途端にマスコミに囲まれました。そのとき、「大先輩に敬意を表します」とでも言えばいいものを、「松下幸之助さんが亡くなって、やっと一つの時代が終わった」というようなことを言いました。それがテレビのニュースにでて「中内は喜んでいる」みたいにとられてしまいました。もちろん本人にはその気持ちはなかったのですが、君がついていながらあんなことを言わせて、お前が悪い、と周りからずいぶん叱られました。
もう4半世紀も昔のことです。
中内ダイエーは事実上消滅し、松下電器もナショナルもパナソニックと様変わり、松下の名前もなくなりました。「なにはのことはゆめのまたゆめ」ですね。

菅首相のストレステストとマスコミの責任 小榑雅章

菅首相が突然言い出したというストレステストの評判がよろしくない。野党も民主党の内部も非難ごうごうだ。マスコミの論調も同じで「なぜ菅首相は、今の時期に突然言い出したのか、そこが理解できない。行きあったりばったりで一貫性がなく、けしからん」ということのようだ。
中でも、九州電力玄海原発再開のための地元説得で「安全」を連呼していた海江田経済産業大臣は、後ろから味方に切り付けられた感じで、憤懣やりきれない形相である。マスコミも海江田大臣の立場になって、菅首相をなじっている。
だが、菅首相の言いだしたストレステストというのは、安全のためには本来やるべきテストではないのか。
NHKの解説によると、
「…ストレステストは、一般に製品の性能の限界以上に力や電流などを加えた場合に、どのような影響があるかを確認する試験で、今回、国が参考にするのは、EU=ヨーロッパ連合が、福島第一原発の事故を受けて導入したシミュレーションによる安全評価の手法です。原子力安全・保安院によりますと、EUのストレステストでは大地震や津波の規模を段階的に大きくした際に、原発の設備などがどこまで耐えられるのか限界を見極めるとともに、すべての電源や冷却機能が失われるという深刻な事態への対応策について具体的に評価します。これによって原発の設備の弱い部分を洗い出し安全性の向上につなげようというものです。…」http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110706/t10014028081000.html
これを読めば、突然であろうと急きょであろうと、遅ればせながらであろうと、やらなければならない手段である。これをやらずして停止中の原発を「安全」と言い切る根拠は何なのか。その方が不思議ではないか。
だいたい、海江田大臣の言い分では、玄海原発については原子力安全・保安院が安全性を確認したから、再開したい、ということだった。この時点で、新聞やテレビの記者たちは、「安全の確認というが、何をどのように確認したのか」という質問をしないのか。また、「原子力安全・保安院は、福島第一原発を安全だと保証してきた戦犯ではないか、その戦犯に安全を確認する資格も能力もなどないではないか」と問いただすべきではないのか。
この二つの質問さえ徹底的にしていれば、再開など出来るはずがないことは明白になるのに、それを怠って、「住民から不満が出そうです」という程度の反応しかできないマスコミのていたらくこそ責められてしかるべきだ。
それにくらべれば、非難ごうごうの菅さんのストレステスト導入の方がよほど建設的で、国民のためになる。マスコミに、菅さんをとやかく言える資格はないとさえ思う。
さらに言えば、このストレステストの存在を、なぜマスコミ側から持ち出さなかったのか不思議で仕方がない。
これほどの大事故を起こし、今後数十年も帰宅できない多くの人々に苦難を与えているにもかかわらず、安全の裏書をしてきたわが国の原子力安全委員会も原子力安全・保安院も、だれも責任をとっていない。そのまま居座っている。大事故の元凶であり戦犯である両委員会には、今後の原子力発電について発言できる能力も資格もない。その委員会が確認したと言ったら、マスコミは、それはおかしいと言うべきである。万一日本人が、お上の言うことだから仕方がないと従っても、世界が納得しないのではないか、と質問すべきである。そして、EUではストレステストをやっているが、日本はなぜやらないのか。EUがやるのに、巨大な被害を起こした本家の日本がやらないというのはおかしいではないか、と問いただすべきなのである。欧州に支局がたくさんあるマスコミが、まさかストレステストのことを知らなかったとしたら、こんな恥ずかしいことはない。もっとも知っていて質問をしなかったとしたら、これまたジャーナリストの資格がない。
機械の安全に対するリスクというのには、絶対はない。つまり絶対安全、ゼロ・リスクというのはないのである。そのためにいろいろテストを行って少しでもリスクを減らす努力をする。その上で99%安全なら一応安全と決めよう、いや99.99%でなければだめだという検討が行われて、規則としての安全が決められる。
原発のように際限のないような巨大な事故被害が発生するような装置は、リスクがどんなに小さくてもつくってはいけない領域である。しかし、人間の欲は、エネルギー確保という経済性を優先して、この領域を踏み越えてしまっている。
EUがすでに行っているストレステストは、過大なことではなく、せめてもの防衛手段である。

「福島原発暴発阻止行動隊」というのをご存知でしょうか  小榑雅章

福島原発の現状は、「安定した冷却設備を建設・保守・運転できなければ、3000 万人もの人口を抱える首都圏をも含めた広範な汚染が発生する可能性がある」とした上で、
「このような最悪のシナリオを避けるためには、どのような設備を作ることが必要か、放射能汚染を減らすためにどうしたらよいか、などなど、数多くの技術的課題があることはもちろんです。この点についても日本の最高の頭脳を結集した体制ができていないことは大きな問題です。さらにもう一方では、最終的に汚染された環境下での設備建設・保守・運転のためには、数千人の訓練された有能な作業者を用意することが必要です。現在のような下請け・孫請けによる場当たり的な作業員集めで、数分間の仕事をして戻ってくるというようなことでできる仕事ではありません。」
それではどうするか。
 「身体の面でも生活の面でも最も放射能被曝の害が少なくて済み、しかもこれまで現場での作業や技術の能力を蓄積してきた退役者たちが力を振り絞って、次の世代に負の遺産を残さないために働くことができるのではないでしょうか。」
 「まず、私たち自身がこの仕事を担当する意志のあることを表明し、長期にわたる国の体制として退役した元技能者・技術者のボランティアによる行動隊を作ることを提案し要求していきたいと思います。」
そして、「当面次のことを提案します。」その内容は、
1. この行動隊に参加していただける方を募集します。原則として60 歳以上、現場作業に耐える体力・経験を 有すること
2. この行動隊を作ることに賛同し、応援していただける方を募集します。
こうして出来上がったのが、福島原発暴発阻止行動隊です。
この行動隊のHP http://bouhatsusoshi.jp/ によると7月6日現在、行動隊の人数は430人、賛同者・応援者は1363人、カンパは6630452円だそうです。
じつはこの行動隊の存在を知ったのは7月6日のNHKラジオの夕方ニュースでした。
そこに登場した行動隊の呼びかけ人の山田恭暉さんが、その趣旨を話されているのを聞き、なるほどなるほどと思ったのです。
山田さん自身は技術屋ですが、原子力の専門家でも何でもないそうです。しかし、と山田さんは言います。
  しかし、いま福島の原発で起こっていることは、原子力発電とは直接関係のないことばかりだ、たとえば、汚染水の処理は、原子炉の知識があっても何の役にも立たない。役に立つのは汚水をどのように排出するか、循環させるかというような技術と経験だ、パイプをつなぐとか、水の勢いはどうかとか、配線はどうするとか、それは水処理プラントの作業員の方が慣れているし、優れている。農業をやっていた作業員よりも、もと技術者や技能者の方がよく分かっている。
また、作業の計画や監督指導をしている東電は、原子力発電の運転には通じているだろうが、水処理プラントのことなどまったくわからない素人にすぎない。しかも、作業にあたるのは、協力会社という名の下請け企業が集めた素人集団がやらされているのだから、うまくいくはずがない。失敗続きになるのは当然だ。
これを聞いて、まったくそのとおりだと思いました。そして、この行動隊の真骨頂は、「原則として60 歳以上」「退役した元技能者・技術者のボランティアによる行動隊」というところです。
放射能に侵されると、20年30年後に影響が出る、と言われています。子供はとくに影響を受けやすい。青年層は子供が産めなくなるかもしれない。もう子供を作る役割を終えた世代が、この難局に当たる方が被害が少ないのではないか。60歳過ぎなら、30年後にがんになっても、自分はあの時、行動隊として原発処理に役に立ったのだ、と誇りに思えるのではないか。
この話を聞いて、私もむべなるかなと思いました。残念ながら「元技能者・技術者」ではないので、行動隊には参加できませんが、この福島原発暴発阻止行動隊に賛同したいと思いました。
すでに政府にも申し入れが行われているようですが、ぜひ実際に活動して成果を上げてくれること祈りたいと思います。

戦犯の原子力安全委員会が原発見直し作業をする資格はない 小榑雅章

今日6月22日の午後、原子力安全委員会が開かれ、原発の安全を守るための「安全指針」について見直す作業を始めた。会議には、原子力や放射線、それに法律などの専門家18人が集まり、初めに班目春樹委員長が「今回のような過酷な事故への対策は、国際的に見ても足りない部分があった。抜本的に見直すには十分な議論が必要だ…」と述べたという。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110622/t10013697861000.html
これって、どこかおかしくないか。とても違和感がある。
3月24日のこのブログにも書いたが、班目委員長は浜岡原発の裁判で、「非常用ディーゼルが2台とも動かない場合に大変なことになるのではないか」という質問に「そのような事態は想定しない。そのような事態を想定したのでは原発はつくれない。だから、割り切らなければ設計なんて出来ませんね」と答えたという人物である。
班目委員長だけでなく、この原子力安全委員会は、津波被害を想定せず、すべての電源が喪失するような事態は起こるはずがないから考えなくていい、としてきたメンバーの集まりである。つまり、今回の原子力発電所事故の元凶であり戦犯ともいうべき委員会だ。
その戦犯は責任を負って委員会を辞任し、福島県民や日本国民に謝罪するのが筋である。ところがその戦犯が、犯した戦争の見直し作業を行う、というのはどう考えてもおかしい。どうしてマスコミは「今の原子力安全委員会には見直し作業をする資格がない」と言わないのだろうか。
もう一つおかしいことがある。
海江田経済産業相は18日、各原発への立ち入り検査などを実施した結果、「水素爆発などへの措置は適切に実施されている」と安全対策を評価し、「これにより、運転停止中の原発についても再稼働は可能」との見解を示した。そして海江田経産相は原発運転再稼働の要請のため、立地自治体を訪問するという。
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110618k0000e040041000c.html
これもおかしな話だ。海江田経産相は、自ら原発に足を運んで安全を確かめたというが、安全やリスクの専門家でもないど素人の政治家が、どうして安全だと確認できたのか。そんなことが出来るはずがないことは、国民みんながわかってしまっている。
いやちがう。原子力安全保安院も安全を確認した、という。これも茶番だ。経産省の管轄下にあり、原発推進の旗振り役の原子力安全保安院は、事故発生後その独立性が問われて、いずれ経産省傘下から独立した別組織になるはずの組織である。その組織が何を持って安全対策を点検し評価できるというのか。これもまた戦犯が戦争犯罪を裁くという奇妙さというか、盗人猛々しいというべきか、あってはならないことだ。
こういう国民のまともな神経を逆なでするような事態が次々に起こってくるというのは、国民にとってこの上ない不幸の時代である。



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