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鉄が勝つか、木が勝つか    宇治 敏彦

 昨年出版した拙著「版画でたどる万葉さんぽ」(新評論社)に三重塔再建に賭けた法輪寺(奈良県斑鳩町)の井上慶覚和尚(故人)の熱意について書いた。この塔は世界最古の木造の三重塔といわれたが、1944年(昭和19年)7月、落雷で全焼した。筆者は高校時代に法輪寺に何日もお世話になり、当時は健在だった慶覚和上から三重塔再建への熱意をうかがった。和上の「夢」という揮毫を便箋にして再建費の一助にしたいというので、筆者は慶覚さんの書を版画に彫るなど、ささやかな協力をさせてもらった。作家の幸田文さんは私財を投じて協力し、東京から斑鳩に移り住んだほどだった。三重塔は1975年(昭和50年)3月に創建当時の姿で再建されたが、残念なことに井上慶覚さんは、その6年前亡くなっていた。
 以上が私の書いた一文の概要だが、昨年末、これを読んだ長谷川隆さん(共同通信社OB)から「伊東光晴氏が『技能に生きる世界』という一文で法輪寺の三重塔再建に関する裏話を書いていますよ」と教えてくれた。彼が親切に贈ってくれた「君たちの生きる社会」(伊東光晴、ちくま文庫、1978年)からその部分を引用する。
 「設計者は竹島卓一博士。つくった棟梁は、法隆寺大工西岡常一さんです。しかし、ここに問題がありました。先代の住職さん(注:井上慶覚さんのこと)は西岡さんに、あなたの思いどおりにつくりなさいといったのだそうです。しかし竹島博士の設計図を見たとき、西岡さんは、このとおりやれというのならばやめさせてもらいますといってことわったのです」
 「現代の構造力学上からいうと、昔の設計図に無理がある」と竹島博士は「補強として鉄を使う設計図を描いた」。これに対して西岡大工は「なるほど鉄は力が強い。しかし生命力がない。(近くの)法華寺の三重塔は明治30年の解体修理で鉄のボルトが使われたが、すでに錆びてねじやまがきかなくなっていて塔をゆがめる原因になった」という。
 長い論争の結果、「必要最低限の鉄材をつかう」ことで妥協した。西岡氏は法輪寺三重塔の建設材として樹齢1500年のヒノキを求め日本に限らず台湾まで行ったという。「私の考えが正しいか、竹島先生の考えが正しいか、それはやがて歴史が証明するであろう」と言った、と伊東氏は同著に書いている。
 設計者が正しいか、大工の棟梁が正しいか――。残念ながら両氏だけでなく、私も含めて、その「判定」は後世の日本人に委ねる以外にない。

二人誌埴輪「いま言わずして」 発刊しました    小榑雅章

いま言わずして
二人誌埴輪「いま言わずして」宇治敏彦・小榑雅章著 三恵社刊(定価1500円+税)

このブログ雑誌「埴輪」をご愛読くださり、まことにありがたく存じます。
どうぞ、今年もよろしくお願い申し上げます。
このブログ「埴輪」は、ごらんのように宇治敏彦と小榑雅章の同人二人の雑誌です。
ブログの「埴輪」を始めたのは、2010年3月7日でしたから、この春で丸7年になります。長いような短いような道のりですが、じつは二人でガリ版刷りの二人雑誌「埴輪」を始めたのは1958年(昭和33年)でした。それから考えると、来年で60年もの歳月を経ているということになります。その間、いろいろ紆余曲折はありましたが、60年も続く二人雑誌は、世界中探してもそんなにたくさんはないのではないか、と秘かに思っています。
今年、同人二人は傘寿を迎えます。歳はとっても、一向に悟りも開けず、煩悩はおさまらず、おろおろ悩み、世の流れに一喜一憂、悲憤慷慨しています。それをこのブログで吐露することにしているので、読者諸兄にはご迷惑なことと存じます。
昨年の夏の終わりごろ、この辺で、これまでいったい何を言挙げしてきたのか、振り返ってみよう、そして、出来れば少しはまともな小文を選んで、活字の本にしたいな、という話になりました。もともと活字の世界で育った二人にとって、インターネットとかブログの世界は、ふわふわしていて手に取ることもできないので、なんとなく頼りないのです。だがら、いつでも手に取れる固い触感の活字本が、なんとなく落ち着くアナログ人間なのです。
このブログの埴輪には、宇治は181篇、小榑は94編の小文を発表しています。(小榑は怠けています) この二人の小文の中から、それぞれ30編ずつ自選をしました。
これに加えて、宇治の得意の版画やペン画などの宇治美術館から10編を選んで、活字活版の単行本を発行することになりました。
こうしてできたのが、上の写真の「いま言わずして」という二人の小冊子で、この新年に発行しました。
宇治は、発刊について、この本のまえがきの中で、つぎのように述べています。
・・・戦後民主主義の打破・克服」を目指す安倍一強政治が長期化する中で、多くの日本人の間に「大勢順応」「長いものにまかれろ」「今日一日を無事に暮らせたら」といった現状容認体質が蔓延していて、あの戦争で失った私たちの家族や先輩など三〇〇万人以上の尊い命と引き換えに獲得した「平和」と「自由」が次第に狭められていくのではないか、と二人は強く危惧しています。この冊子に「いま言わずして」との題名を付けたのも近年、弱体化が指摘されるジャーナリズムの世界にあって「戦後民主主義の頑固な信奉者がどっこい生きている」ことを示したい思いがあるからです。・・・
思いだけが強くこもっていますが、250頁ほどの小冊子で、部数もわずかしか刷っていません。もし、読んでみてもいいとお思いの方がいらっしゃったら、下記までご連絡ください。定価1500円です。(送料不要)
連絡先magazinehaniwa@yahoo.co.jp 雑誌埴輪「いま言わずして」



世界はどこまで「逆流」するのか    宇治 敏彦

 2017年(平成29年)という新しい年がスタートした。日本各地では初日の出も見られ、穏やかな天候の正月となった。しかし、世界を見ると、元日の未明にトルコの首都イスタンブールのナイトクラブでは乱射事件があり100人以上の市民が死傷した。地元知事は「サンタクロースの格好をしたテロリストによる残虐行為」と公表した。このクラブもあるボスボラス海峡沿いの道を筆者も数年前に何回か通ったことがあり、他人事のように思えなかった。トルコではエルドアン大統領の独裁政権に対する不満が高まっており、テロ行為も近年、急増している。
 前日の大晦日にはイラクの首都バクダッドの市場で爆発事件が2件あり、買い物客ら25人が死亡した。過激派組織「イスラム国」(IS)系のメディアは「イスラム系シーア派を狙った」とする犯行声明を出した。
 21世紀は米国における同時多発テロ(2001年9月11日)で幕を開けたが、15年以上たっても、テロ事件は収まるどころか、ますます増えそうな気配ではないか。
 そうした現象に輪をかけるのが米国のトランプ新大統領の「自国優先主義」ではないかと私は危惧している。「アメリカ・ファースト(米国第一主義)」というトランプ氏の発想は、メキシコなどからの移民急増で白人たちの職が奪われ、経済的にも米国の企業が疲弊していることへの対抗策から生まれたものと思えるが、トランプ発言の影響は単に米国内にとどまらず欧州やアジアにも波及している。人道主義の立場で難民受け入れに積極的だった西ドイツのメルケル首相も最近は孤立化を指摘され、秋のドイツ総選挙(下院選挙)で安泰とは言えないとまで欧州のマスコミは報じている。
 第2次世界大戦が終わった直後は国連の力も強く、日本が鳩山一郎政権の下で国連加盟を果たした1956年(昭和31年)までは、日本人の多くも「国連中心主義」という神話を信じ切っていた。また、もう一つの神話として「民主主義国同士での戦争は起きない」とされ、そう信じられていた。だが1982年(昭和57年)4月のフォークランド戦争(イギリスとアルゼンチンの間で起きたフォークランド諸島をめぐる領有権争い)が勃発すると、その神話もぐらついた。
 トランプ大統領をはじめ世界中の指導者たちが「自国優先主義」をし始めたら「国際協調」「国連中心主義」「人命重視」の風潮は大幅に後退を余儀なくされ、G7サミットもG20サミットも有名無実化するのではないか。こうした「逆流」を止める政治指導者が出て来ないものか。「国境を超えて人命ファーストでいこう」という政治家を育てることが急務だ。そのために私たちも国際世論を盛り上げていこう。年頭に当たっての私の思いである。
 

萬葉版画館 宇治美術館101

萬葉集巻5-820

宇治敏彦制作板画 萬葉集5巻820
うめのはな いまさかりなり おもふどち かざしにしてな いまさかりなり(筑後守葛井大夫)

「昭和8年」を学び直そう   宇治敏彦

 横浜市中区日本大通りにある「ニュースパーク」(新聞博物館)で開催中の企画展「こんな時代があった 報道写真『昭和8年』」を見に行った。日本電報通信社(電通の前身)が昭和8年(1933年)に加盟社などに配信した内外の報道写真など約150点が展示されていた。この年、ドイツで台頭したヒトラー首相の動向や国際連盟総会で脱退を表明して日本国民から拍手喝采された松岡洋右全権(後に近衛内閣で外相)の表情をはじめ、パリで始まった毒ガス防御マスクの実習風景とか、日本での最初の防空演習の模様など、世界が「戦争へ、戦争へ」と走り出そうとしていた昭和8年という年を浮き彫りにしている。
 筆者は昨年、「政(まつりごと)の言葉から読み解く戦後70年」(新評論)という本を上梓し、その出版記念会の挨拶で「昭和8年を学び直そう」と参会者に呼びかけた。
それというのも昭和8年に京大法学部4年生だった筆者の父は「滝川事件」に遭遇して、就職先に苦慮していた。この年に出版された滝川幸辰京大法学部教授の著書「刑法読本」が「アカではないか」(共産党寄りではないか)と噂になり、内務省が発禁処分にした。ときの文部大臣・鳩山一郎は「赤い教授」を弾劾し、滝川教授の退官を要求した。法学部教授会がこれを拒否すると、文部省は滝川教授を休職処分とした。それに反発した大学や学生たちの反対運動が全国的に広がり、政府は思想弾圧を一段と強めていった。
小学校の国語教科書は大正7年からの「ハナ ハト マメ マス」が「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」に変わり、国威発揚型の色合いを強めていった。その国の政府が戦争志向を強める時は、必ずと言っていいほど思想・言論・教育・結社の自由を制限する方向に進んでいく。教科書の変化に象徴されるように長野県では「赤化教員の一斉検挙」があり、作家・小林多喜二が取り調べ中に虐殺されるなど、さまざまな思想弾圧が行われ始めた。それは日本の関東軍が河北侵入を開始したのとも軌を一にしていた。
私は昨年もこの「埴輪」に「昭和8年の教訓に学ぶ」という一文を書いたが、今回のニュースパークでの「昭和8年」写真展を見て、日本をはじめ世界全体が第2次世界大戦へと助走を始めた年ではないかと改めて思った。
同年12月23日、明仁皇太子(現天皇)が誕生している。「御名 明仁 御称号 継宮」と掲示する写真も展示されている。
歴史を学ぶ上で一見の価値ある展覧会と思う。(この写真展は12月25日までニュースパークで開催中。月曜休館)

萬葉版画館 宇治美術館100

萬葉集5-893

宇治敏彦制作板画 萬葉集5巻893 
よのなかをうしとやさしとおもへどもとびたちかねつとりにしあらねば
(山上憶良)貧窮問答歌反歌

「背広姿の万葉板画家」とでも言いますか?   宇治敏彦

 今から6年前に、このブログ雑誌「埴輪」がスタートした時、編集長の小榑雅章さんが小生の万葉板画を「宇治美術館」と称してパソコン上に掲載してくれた。時には仏像やお祭りのペン画も交えながら、今回で100回目の「美術館」になる。
 なぜ「万葉集」を版画に彫るのかと聞かれることがある。大伴家持らによって編纂された奈良時代の日本最古の「国民歌集」は、全20巻、約4500首と、そのボリュームもさることながら、天皇・皇族・貴族から下級官僚・兵士・農民・乙女に至るまで職業や身分を問わず私たちの先祖が、人生の喜びや悲しみを率直に歌い込んでいるのが最大の魅力だ。学生時代から棟方志功、川上澄生といった版画家(棟方さんは「板画道」と言っていたが)の作品に魅かれて「板画で万葉の歌を現代に蘇らせることが出来たら」と思ったのがきっかけだった。
 東京新聞の代表をしていた2004年当時に文芸春秋社がどこで聞き込んだか、「第二の人生 暮らしの設計図」というテーマで臨時増刊号をつくるので「版画と万葉集」について一文を書いてほしいと頼んできた。月刊「文藝春秋」(同年7月臨時増刊号)に「萬葉集を板画に彫る」と題して掲載された。その中で私は次のように結んだ。
 「板画の面白いところは、油絵と違って一度彫ったら手直しできないことだ。やり直しのきかない人生に似ている。彫り損なったら、それを逆にいかして作品にしていく開き直りの姿勢もときには必要になる。棟方志功の作品にも彫り損ねた箇所がいくつも見つかる。それを気にしないおおらかさが、また好感がもてる。最近の悩みは、本職の新聞社の仕事が多忙を極めて、なかなか板画づくりを楽しめないこと。しかし、趣味に定年はないから焦らない。本職の定年のときが来たら、趣味の本職が始まるのを今から楽しみにしている」
 現在は、まさに「結びの言葉」通りで、午前中は新聞社の相談役室に顔をだし、午後は日本プレスセンタービル8階の小部屋で万葉板画づくりに勤しんでいる。「背広の板画家」と冷やかす人もいるが、今年6月に二冊目の万葉板画集「版画でたどる万葉さんぽ」(新評論社)を上梓することが出来た。
 「いつ彫るのか」「一作品つくるのにどれくらい時間がかかるのか」とは、よく受ける質問だが、「ほぼ毎日彫ってます。気が向けば朝も自宅で彫っているので、娘に『木クズの掃除が大変』と叱られています」「作品の大きさや内容にもよりますので締め切りは決めていません」と答えている。もし御関心があれば東京新聞の関連紙「暮らすめいと」に毎月掲載している「万葉のこころ」をご覧ください。

萬葉版画館 宇治美術館99

萬葉集6-931
宇治敏彦制作板画 萬葉集6巻931
いさなとり はまへをきよみ うちなびき おふるたまもに あさなぎに ちへなみよせ ゆふなぎに いほへなみよす へつなみの いやしくしくに つきにけに ひにひにみとも いまのみに あきたらめやも しらなみの いさきめぐれる すみのえのはま(車持朝臣千年)

ドキュメンタリー映画「抗い」を見よう   宇治敏彦

 「国家とは何か?」「国民とは何か?」「民族とは何か?」「戦争とは何か?」「権力とは何か?」―――。さまざまな「何か?」を考えさせられるドキュメンタリー映画を日本記者クラブでの試写会でみた。「抗い 記録作家 林えいだい」(RKB毎日放送。西嶋真司監督)。
 福岡県筑豊炭鉱で戦前・戦中に日本に徴用された朝鮮人たちの重労働や悲劇を中心に「戦争」「民族」「公害」などを長年取材し、国家権力の横暴がもたらす非条理を追及し続けてきた記録作家、林えいだい氏(82歳)を映像で追い続けてきた1時間半の記録映画だ。
 林さんは1933年12月、福岡県香春町に奈良時代から続く神社の神主(林寅治)の子として生を受けた。9歳の時、父は非業の死を遂げた。当時、筑豊炭鉱に強制労働に駆り出されていた朝鮮人たちが厳しい生活に耐えきれず脱走するのを気の毒に思って匿っていたのが発覚し、当時の特高警察から拷問を受けて命を落としたのだ。これが林えいじ少年を「反権力」に向かわせた最初のきっかけだった。早大中退後、帰省し炭鉱夫、地方公務員を経て37歳でフリーの記録作家への道に入った。以後、45年間に50冊以上のルポルタージュを発表しているが、その多くは「清算されない昭和 朝鮮人強制連行の記録」(岩波書店)「証言・樺太朝鮮人虐殺事件」(風媒社)「地図にないアリラン峠 強制連行の足跡をたどる旅」(明石書店)など戦前・戦中の日本の対外進出政策で犠牲になった被害者に関する取材記録である。
 映画では、筑豊炭鉱から脱走した朝鮮人労働者たちが「アリラン峠」と呼ばれた山道で行き倒れた様子を追っている。気の毒がった人たちが大きな石を選んで墓石とした。そうした石が今も山中にゴロゴロ転がっている。また1945年、一機の重爆特攻機が飛び立つ直前に放火された際に、朝鮮人飛行士(当時は山川という日本名)が無実の罪を着せられ日本軍に射殺された。映画は、その真実に迫ろうとする林氏の取材ぶりも詳しく追っている。
 戦後のテーマとしては、九州における炭鉱公害の実態を戦前の足尾銅山鉱害と重ね合わせて追及していく林氏の取材実績が描かれている。
 「僕は現場に身を置いて考える悪い癖がある」「名もなき民衆の声なき声を、しかと歴史にとどめていくことが、僕自身が生きている証しなのかもしれない」「時間とお金の無駄遣いだと友人に笑われるが、これが僕の方式であり生き方だ」。重い癌と闘い抗がん剤の副作用でペンが持てないほどだが、セロテープで万年筆を指に巻き付けて執筆をつづける林さんの姿に、同じ物書きの後輩として「自分なんかまだまだ生ぬるい。温室で仕事しているのではないか」と反省を込めて自戒した。
 「歴史の教訓に学ばない民族は 結局は自滅の道を歩むしかない。」
 映画の最後に掲示される林氏の言葉は、今日の日本にも当てはまる。
 見終わった後、しばし言葉を失っていた。一緒に鑑賞した小榑雅章君も沈黙していた。
(「抗い」は2017年1月下旬、シアター・イメージフォーラムで公開される)

コロンビア大統領へのノーベル平和賞効果や如何に   宇治敏彦

 ノルウェーのノーベル委員会は、粋な計らいをしたものだ。10月2日に南米コロンビアで実施された和平合意を問う国民投票で反対派が勝利していなかったら今回のサントス・コロンビア大統領への平和賞授与はなかったかもしれない。いわば「コロンビアの国内合意を促す奨励賞」の意味合いが強いというべきだろう。
 何しろ52年間も内戦が続いている国である。1959年のキューバ革命に触発されて誕生したコロンビア革命軍(FARC)との内紛で約700万人(現人口の7分の1)が避難民となり、26万人以上の犠牲者を出した。当然、革命軍への反発は吹き出すが、一方で貧富の格差拡大に抵抗する革命軍を支持する農民や貧しい層もたくさんいる。
 だからこそ和平合意を問う国民投票も「反対」(50%)、「賛成」(49%)という僅差だったのだろう。否決の背景には「FARCに譲歩し過ぎだ」(選挙に勝てなくとも上下両院に合計10議席を与えるなど)といったサントス政権の妥協姿勢に不満があるからといわれるが、これだけの僅差ということはFARC支持派も根強い証拠だ。
 ノーベル委員会は「このまま放置しておいたら、英国で6月、欧州連合(EU)離脱を僅差で選択した国民投票の結果と同様に、混乱の拡大を招く」と懸念して、サントス大統領が和平努力をあきらめずFARCとの再交渉に頑張るよう焚きつける「激励賞」の意味合いを込めたのであろう。
 ノーベル平和賞が起爆剤になってサントス政権とFARCの再交渉が成功することを一地球市民として切望する。と同時に、次は深刻度を強めるシリア内戦をなんとかしなければならない。米国とロシアによる停戦合意が失敗に終わり、オバマ政権は協議の打ち切りをロシアに通告した。根源はアサド政権とシリア反体制派の争いだが、現実は米ロの代理戦争になっているだけに、ある意味ではコロンビアより質が悪い。2011年に始まった反政府デモにシリアのアサド大統領が武力弾圧をしたことがきっかけだが、コロンビアのように半世紀も内戦が続くとすれば、今世紀の後半にはシリアという国家は有名無実化しているだろう。過激派組織「イスラム国」(IS)の活動も絡んで、アサド大統領自身が身を引くことを決意しない限り新展開は見えてこないだろう。ノーベル委員会もシリアについては出番がない。本来は国連の出番だが、米ロ対決の様相では実効ある提案は出てこないだろう。
 せめてコロンビアの和平の動きやノーベル平和賞を契機に、全世界の人々がシリア問題に思いをいたして、アサド大統領に「和平」実現へのプレッシャーを強く働きかけていくべきではないか。

萬葉版画館 宇治美術館98


宇治敏彦制作板画 萬葉集2巻165
うつそみの ひとにあるわれや あすよりは ふたかみやまを いろせとわがみむ(大伯皇女)

親日派が沈黙している中国政府の内部事情   宇治敏彦

  中国の建国67年を祝う中国大使館主催のパーティーが9月29日夜、赤坂見附のホテル・ニューオータニで開催された。約1500人の参会者で賑わい、例年通り舞台のすぐ脇には創価学会の池田大作名誉会長のひときわ大きな花輪が飾られていた。来賓あいさつはなく、程永華駐日大使の冒頭あいさつと乾杯の音頭で、あとは青島ビールに北京ダックや餃子、焼売などの料理で懇談という形式だった。
 日本の創価大学留学生で、日本人と全く変わらない流暢な日本語を話す程大使だが、挨拶は中国語で、その和文訳が両脇のスクリーンに映し出される仕組みになっていた。挨拶の内容は、中国経済が6.7%成長で順調に発展していることを強調し、対日関係では4つの政治的文書(戦略的互恵関係など)を堅持して経済関係の発展などに努めたいとの内容だった。最後の乾杯の音頭だけは、さすがに日本語を使った。
 政界、経済界をはじめ多くの著名人の姿があったが、安倍晋三首相の姿はなかった。こうした中で筆者が感じたのは、人は沢山集まってくるのだが、日中正常化が実現した1970年代のあの熱気は全く感じられず、なぜかよそよしい空気が漂っていることだった。勿論、この背景には野田佳彦民主党政権時代に日本が尖閣諸島の国有化を閣議決定して以来の「日中冬の時代」があるのだが、それにしても程大使も含めて中国側の親日派が、ずーっと沈黙を決め込んでいることも大きく影響しているのではないかと憶測した。
 正常化前後には廖承志中日友好協会長をはじめ多くの親日派・知日派が周恩来首相ら首脳に直に日中関係に関して進言、時には直言して、それが対日政策に反映されることがあった。しかし、今は習近平体制のもとで王毅外相(元日本駐在大使)、唐家璇中日友好協会会長をはじめ多くの親日派・知日派が頑なに中国の原則論に固執し、柔軟性を欠いている。やはり「御身大切に」というのか、政権の枠内でしか行動しない。
 そこが筆者にとっては不満である。パーティ―の終わりがけに程大使と握手しながら「大使、何とか日中関係を良くしましょうよ」と話しかけた。大使は筆者の手を握ったままで「来年が日中正常化45周年ですから」としきりに強調した。彼も本心では何とか正常化直後のような良好な両国関係に戻したいと願っているだろう。「マスコミも協力しますよ」と告げて私は会場を後にした。
 

「金食い虫」もんじゅの悲劇   宇治敏彦

 一時は「夢の原子炉」とまで言われた高速増殖炉原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)が廃炉に向けて動き出した。福井県の西川一誠知事らは存続を希望しているが、政府は年内に廃炉を正式決定の運びだ。
 当然だと思う。むしろ遅きに失したというべきだろう。1994年に「臨海」(核分裂が持続する状態)に達して本格稼働に入ってから今年で22年になるが、この間、原子炉を動かせたのは延べ250日間しかない。「夢の原子炉」というより「幻の原子炉」と言った方が的確だろう。
 しかも、この間に歴代内閣が使った金は1兆円以上で、運転が停止しても毎年200億円の維持費を要する「金食い虫」だった。炉は停止中でも固まりやすい性質があるナトリウムを温めるため毎月1億円以上の電気代が必要だという。何でこんなにも無駄なことが長期間行われてきたのだろう。
 1995年12月にナトリウム漏れを起こして運転中止になった2年後、原子力委員会の内部に高速増殖炉懇談会がつくられた。その席で吉岡斉九大教授(科学技術史が専門)は「もんじゅを博物館にして技術保存し、技術者は学芸員として再雇用してはどうか」と提案したという(9月23日、毎日新聞朝刊)
 だが、地元の福井県をはじめ関係者の反対が強く、吉岡案は見向きもされなかった。いま廃炉後のもんじゅについて核廃棄物減量の研究拠点に転用すれば地元経済にも寄与するのではないかとの案も浮かんでいる。
 ただ廃炉にすると言っても3000億円超の費用がかかるといわれている(再稼働させる場合には少なくとも5800億円が必要と文科省は見ている)。福島の東京電力福島第一原発の廃炉でも2兆円かかるといわれてきたが、賠償費用を含めて既に6兆円が使われている。もんじゅの廃炉費用も3000億円では済むまい。
 お金だけの問題ではない。1995年のナトリウム漏れ事故後には当時の動燃が撮影現場のビデオを隠蔽したことが発覚し、その責任を感じたのか対外広報担当だった総務部次長(当時)が自殺する事件まで起きている。また消火作業の際に水をいれたバケツリレーをしたということで「そんな原始的作業で作業者が二次災害に巻き込まれたら、どうするんだ」という非難の声も聞かれた。
 「夢の原子炉」は、あまりにも高い授業料だった。原子力発電に関しても、いま一度考え直す必要に迫られている。

金利操作だけで経済は良くならない   宇治敏彦

 日本銀行が9月21日の金融政策決定会合で、金融緩和政策の部分的修正を決定した。その主な内容は①物価上昇率2%目標を超えるまで新たな金融緩和策を継続する②「年80兆円ずつ保有残高を増やす」との国債買い入れペースを「おおむね80兆円を目途に」と変更する③「7~12年程度」としていた国債の平均残存期間を廃止する―などだ。その理由について黒田東彦日銀総裁は「原油安」「2014年4月の消費税率アップ」「新興国経済の減速」という3つの理由を指摘した。
 しかし、筆者の率直な印象は「金利政策で経済全体の構造を変えようという日銀の発想自体に土台無理があるのではないか」という点である。マイナス金利政策を3年半続けても「2%の物価目標」が達成できないのは、日銀の役割の限界を国民に見せつけたに等しい。行天豊雄・国際通貨研究所理事長が「中央銀行にできることは限られている。検証したからすぐにでも必要な対策が打てるわけじゃない。日銀だけじゃどうしょうもない」(9月20日、日経新聞朝刊)とコメントしているように、安倍政権自体が経済政策の内容や規模を大幅に変えないかぎり、日銀の金利政策はゴマメの歯ぎしりに終わるだろう。
 安倍晋三内閣の支持率は50%台後半から60%前半と極めて高い。だが、その中で期待感が逆転している項目が「経済政策」だ。たとえば共同通信社が9月17,18日に実施した全国電話世論調査では、安倍内閣支持率は55.7%(不支持30.0%)で8月調査より3%近く支持が上昇している。ところが「経済政策」では「期待できる」が10.9%に対し「期待できない」は28.6%と悲観論が3倍近い。8月調査より「期待できない」が10%近く増えている。
 言い換えれば景気は良くない。個人は財布の紐を締めているから消費が低迷している。マイナス金利では貯蓄する気にもならない。将来不安が拡大しているから「2%の物価目標」など達成できるはずがないのだ。
 安倍首相は今春の春闘時に「企業はもっと賃上げを」と経団連幹部らに発破を掛けた。しかし、こうした「官製春闘」は邪道である。政府は本来、民間企業の労使交渉に口を差し挟むべきでない。かつての太田薫―岩井章コンビといった総評全盛期なら、その首相発言だけで大問題になったであろう。
 むしろ安倍政権が今までに取り組むべき問題は「同一労働同一賃金」「正規社員と非正規社員の格差解消」「外国人労働力の有用活用」といった社会構造・労働環境の改善であった。それを軽視して日銀の金利政策頼みにしても、物価上昇率2%が達成されるはずがあるまい。
 黒田日銀総裁も「サプライズ戦略」なんて用語は使わないほうがよい。かつて大幅な金融緩和を求めた政府・自民党首脳に敢然と立ち向かい「平成の鬼平」とのあだ名を付けられた三重野康日銀総裁が懐かしくなってくる。

萬葉版画館 宇治美術館97

萬葉集15-3675
宇治敏彦制作板画 萬葉集15巻3675
おきつなみ たかくたつひに あへりきと みやこのひとは ききてけむかも
(壬生使主宇太麻呂)

利根川の落ち鮎を食べながらの前橋支局OB会   宇治敏彦

 9月の3連休を利用して群馬県渋川市大正橋脇の落合簗(おちあいやな)で、1960年代(昭和30年代後半)に東京新聞前橋支局に勤務した男たち6人が落ち鮎を肴に昔話をする会合が開かれた。このOB会は1997年以来、伊香保や赤城などで何回かもたれ、八ッ場ダム工事現場の視察などもしたが、今回は少し趣向を変えて渋川通信部の経験者でもある倉林昭次幹事(89歳)の御世話で9月一杯が限度という落ち鮎を味わう会になった。これが最後かもしれないというので当初は12人が参加予定だった。しかし、そこは「腰が痛くて」とか「親戚で不祝儀があって」などと年配者らしい事情が重なって当日には参加者が半減した。
 JR渋川駅からタクシーで15分程度の利根川河川敷にある落合簗からは榛名山が一望出来る。川風を受けながらの会食は賑やかな昔話とともに楽しい時間があっという間に過ぎていった。子持ち鮎の塩焼き2本、魚でん1本、フライ1本、酢の物などに鮎酒。一番うまいのは、やはり塩焼きであった。鮎酒は初めて飲んだ。焼いた鮎を丸ごと1本入れる横長の特製容器で供される燗酒だが、後で中の鮎を食してみたところ、これはそう感心する味ではなかった。
 3連休のせいか、170人は座れるという大座敷もほぼ満席だった。年長ぞろいの我々の個室には椅子も用意されて、瞬く間に3時間が過ぎた。話といえば当然、同僚たちが現役として活躍していた支局時代のことだが、やはり谷川岳遭難者の取材が皆の記憶に強く残っていた。谷川岳一の倉沢で宙吊りになった登山者(遺体)を収容する手掛かりがなく、最終的には自衛隊が出動して銃でザイルを撃ち、遺体を収容した事件が最も有名だ。そのほかにも谷川のマチガ沢でヘたった女性登山者を男性リーダーがザイルを持っていなかったので、自分の革バンドをはずして引き上げようとして起こした事件もあった。バンドが古かったので、引き上げる途中で切れてしまったのだ。リーダーは過失致死容疑で沼田署に送検されたが、最終的には前橋地検で起訴猶予処分になった。
 当時、東京新聞の前橋支局長だった宮路一男氏(故人)が山好きだったこともあって、谷川で事件があると、すぐに沼田通信部の応援に駆り出された。後に私の後任として前橋支局に赴任してきた成川隆顕氏(日本山岳会幹部で、今年から始まった祝日「山の日」の推進役の一人)のような山登りのプロにとっては谷川取材は何の苦もなかったろうが、正直いって運動嫌いの私のような者には谷川岳の遭難事件取材は苦手だった。その成川氏から山の話だけでなく、東京オリンピックの時、マラソンのアベベ選手を取材した時の秘話などを聞いているうちに鮎料理もすべてお腹の中に納まって、OB会はお開きとなった。
 さて来年は、OB会を開けるかどうか分からない。だが皆が元気なうちは、私たちジャーナリスト人生の原点で、決して経済的には豊かではなかったものの、毎日がピカピカと輝いていた支局仲間の会を持ちたいものだと思っている。

安倍晋三長期政権の良し悪し    宇治敏彦

 7月の参院選に勝利して8月3日に第3次再改造内閣を発足させた安倍晋三首相の在職期間が年内に中曽根康弘元首相の在職期間(満5年)に並び、来年6月には小泉純一郎元首相の5年5か月も追い越そうとしている。戦後の総理大臣で在職期間の長さからいえば1位が佐藤栄作氏(7年8か月)、2位が吉田茂氏(7年2か月)だが、ひょっとしたらこの2人を追い抜いて戦後最長の内閣総理大臣になる可能性も出てきた。
二階俊博自民党幹事長は、早くも自民党総裁任期(現在は2期6年間)の改定論(3期9年間に)を示唆している。安倍総裁の任期は2018年9月で切れる。任期延長がなければ、ここで安倍政権は終わり、小泉、中曽根両政権を超えても、佐藤、吉田政権には及ばない戦後3位に留まる。
 旧田中角栄系の二階幹事長が、なぜ安倍総裁の任期延長を唱えているのだろう。一つには2020年夏の東京オリンピック・パラリンピックを安倍政権下で実現してもいいのではないかとの思い。もう一つには2018年12月で任期切れになる次期衆院選挙や2019年夏の次期参院選を、このところの国政選挙で勝利している安倍首相の下でやるのが自民党には得策との読み。勿論この他にも「安倍任期延長」を主導することで二階氏が安倍首相に貸しをつくり、党内での自らの政治的影響力を強めたいとの思惑もある。
 同じ旧田中派系でも石破茂氏は二階幹事長と対照的に「反安倍」の動きを強めている。8月の内閣改造で安倍首相から閣内にとどまって欲しいとの要請を受けたが、それを断って無役に転じた。今後は水月会という派閥を足場に次期総裁選に備える覚悟で、自らの思いを出版する準備に取り掛かっており、もちろん「総裁任期延長論」には反対している。
 こうした中で安倍首相が今後、どういう戦略に出てくるかを政治記者OBとして予測してみよう。いま安倍首相が内心、一番実現したいと思っていることはプーチン・ロシア大統領との首脳会談(12月に安倍首相の選挙区・山口県で開催)で日ロ平和条約の締結に目途を付けることであろう。これが実現すれば1956年(昭和31年)、鳩山一郎首相が日ソ国交回復を実現してからの懸案事項になっていた北方領土返還問題、日ロ平和条約の締結が60年ぶりに前進することになる。鳩山退陣後の岸信介政権における「日米安保条約」改定につぐ「新安保法制」の強行成立と合わせて、安倍政権は「一内閣一仕事」でなく「一内閣二仕事」を成し遂げた大宰相という声が自民党や経済界、さらに保守的な団体や右寄りの論壇から噴出してくることは目に見えている。現在40%台の内閣支持率も50%を超すかもしれない。
 そのときに安倍首相が目論む次の手は、衆院の早期解散だ。2017年夏には東京都議選が予定されているが、都議選とのダブル選挙を決断するかもしれない。そこで勝利すれば、2018年9月の総裁任期切れは「延長」に傾くのが自然の流れだろう。
 「そう安倍氏の思惑通りに進むかい?」という反論があるだろう。確かに「政界は一寸先が闇」といわれるように何が起こるか分からない世界である。首相自身の健康問題をはじめ「米国の新大統領誕生による日米関係、世界情勢の変化」「中国や北朝鮮のさらなる軍事的行動」「アベノミクスの不成功」「大規模震災の発生」など諸々の不安定要因も否定できない。だが現時点では「これが安倍政権崩壊のきっかけになる」と断言できるものはない。ひょっとしたら吉田、佐藤という長期政権を追い越して安倍政権が8年間の戦後最長政権になるかもしれないという想定も頭の片隅に置いておくべきだろう。
 最近は政治家だけでなく国民全体が「今日一日、無事に過ごせれば、それで納得」といった「劣化現象」が目立ってきた。あの3年半の民主党政権の失敗がいまだに尾を引いているようだが、そろそろ日本の進むべき本道を考え直す風が吹き始めても良いころではないだろうか。その責任の一端が私たちマスコミ人にあることは、もちろん強く自覚している。

萬葉版画館 宇治美術館96

萬葉集14巻3390
宇治敏彦制作板画 萬葉集14巻3390
つくはねに かかなくわしの ねのみをか なきわたりなむ あふとはなしに(東歌)

映画「クワイ河に虹をかけた男」と終戦記念日   小榑雅章

今年もまた、8月15日が来る。
昭和20年1945年8月15日、日本がアメリカや中国などの連合国に降伏し、負けた敗戦の日だ。この8月15日を終戦記念日と言うが、じっさいは、敗戦記念日だ。
敗戦と言わずに終戦、退却と言わず転進、全滅ではなく玉砕。あってほしくないことはなかったことにしよう、呼び名も変えればごまかせる。
この姑息な、責任逃れの恥ずかしい国は、わが日本国なのだ、お前もその恥知らずの日本人の一人なのだぞ、と胸倉をつかんだのは、「クワイ河に虹をかけた男」という映画である。
先日、8月10日の夜、宇治さんに誘われてプレスセンターで、この映画を観た。
制作KSB瀬戸内海放送のこの映画は、説明によると、次のような映画だ。
太平洋戦争時に旧日本軍が建設し、「死の鉄道」と呼ばれた泰緬鉄道の贖罪と和解に尽力した元陸軍通訳だった永瀬隆さんを追ったドキュメンタリー。アジア太平洋戦争時、タイとビルマ(現ミャンマー)を結ぶ泰緬鉄道建設に陸軍通訳としてタイ側に派遣された永瀬隆さん。多くの捕虜やアジア人が動員された建設工事で永瀬さんは、強制労働、拷問、伝染病死といった現実を目の当たりにする。戦後、鉄道建設の犠牲者の慰霊に駆り立てられた永瀬さんは、妻とともに巡礼を開始。130回以上にわたるタイ訪問により、元捕虜との和解事業や平和基金の創設など、「ナガセ」の名は欧米、アジアでも広く知られることとなった。2011年に93歳で亡くなるまで、真の和解を目指し続けた永瀬隆さんの姿が描かれる。監督は永瀬さんの出身地・岡山の地元放送局記者で永瀬さんの晩年20年を追い続けた満田康弘。

この「死の鉄道」と呼ばれた泰緬鉄道については、うっすらとした記憶があるが、情けないことに、ほとんど知らなかった。何が「死の鉄道」なのか、この映画を観て、こういうことだったのかと知らされた。
太平洋戦争の最中の1942年7月、日本軍はビルマ・インド方面への陸上補給路を確保するために、タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道の建設に着手した。この建設工事にはイギリス・オーストラリア・オランダなどの連合国捕虜6万人余と25万人以上の現地アジア人労働者が強制的に働かされた。10年はかかると言われた415kmのルートをわずか1年3ヵ月で完成させるために、強制労働、拷問、乏しい食糧の中の長時間労働、コレラ、赤痢など伝染病により、捕虜約1万3千人、現地労働者数万人(推定)の犠牲を出した。

映画では、連合国捕虜として泰緬鉄道建設工事に強制労働させられ、塗炭の苦しみを味わった旧イギリス軍の兵士が登場する。そして、あの残虐な強制、虐待、拷問、飢餓を絶対許さない。日本は国として、一片の謝罪も償いもない、あの過酷な強制労働で、13000人余もの兵士が殺されたのだ、絶対に許せない、と強い口調で糾弾する。
捕虜兵士と同時に、現地アジア人労働者が過酷な使役によって25万人以上も犠牲者になっているのだ。この人たちにも、日本国は、何の謝罪もない。補償もない。
いったい、この国はなんという国なのだ。あの戦争のために、あれほど残虐な、非道なことをしたのに、まったく知らぬ顔で見向きもしない。
敗戦を終戦と姑息に言い換えて、事実から目をそらし、なかったことにしたいと思うのだろう。
しかし、事実は厳然とあるのだ。被害を受けたたくさんの人々がいるのだ。苦しんで死んでいった人たちがいるのだ。
それに目をそらし、知らん顔をして何もしない日本という国に対し、永瀬さんは奔走し訴えたが、何もしない。国にどんなに腹を立ても何もしないなら、おれがやる。おれが謝り、慰霊し、援助すると独力で自費で、135回もタイを訪れ、奨学金を出し、施設を作って援助を続けてきた。
この永瀬さんをすばらしい、えらい、と思うことは誰も同じだろう。
お前はどうだ、誉めるだけか。日本人として恥ずかしくないのか。
日本国はえらそうに経済大国だ、東京オリンピックだ、アベノミクスだと胸を張っているが、これほど多くの国に迷惑をかけ、多くの人々を塗炭の苦しみに突き落としてきたのだぞ。
8月15日は、日本国とは何だ、日本人とはこんな無責任なのか、自問する日だ。

映画「クワイ河に虹をかけた男」上映は東京中野 ポレポレ東中野
2016.8.27(土)公開 03-3371-0088








天皇の「生前退位」のご意向表明に思うこと    宇治敏彦

8月9日、ビデオメッセージで国民に伝えられた天皇陛下の「お気持ち」は、憲法第1条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」が求めている「天皇の仕事」と、ご自身の年齢・健康・子孫への思いといった「人間・明仁(あきひと)」との谷間で悩まれた結果であったろう。
 「80歳を超え、身体の衰えを考慮する時、全身全霊で象徴の務めを果たすのが難しくなると案じている」というお気持ちは、よくわかる。特に「戦後70年」に当たった昨年8月15日の全国戦没者追悼式で正午の時報前に「お言葉」を読み始めてしまい、改めて時報後にやり直したといった間違えも精神的に堪えられたに違いない。共同通信、朝日、読売の世論調査で80%以上の人が天皇の「生前退位」というお気持ちを理解できるとしているのも自然なことだろう。
 しかし天皇は、「公務代行」とか「摂政」という形を望んでいない。お言葉でも「摂政を置いても、天皇が務めを果たせないことに変わりはない」とし、きちんと後継天皇を決めてほしいと希望しておられる。父親の昭和天皇は皇太子時代に、大正天皇が病気になり亡くなるまでの5年間、摂政を務められた。だが学友たちによれば現天皇は「責任感が強い」「真面目で何事にも真剣」「嘘を嫌う」などの性格から、摂政では「日本国および日本国民統合の象徴」という仕事を全うできないと考えておられるのだろう。
 自らが昭和天皇の死去に伴い平成天皇になったのは55歳の時。それから28年経って皇太子も56歳と、ご自分の即位年齢を超えている。遅くとも自らの在位期間が30年間になるころには譲位できないものか。そんな思いが「お言葉」冒頭の「戦後70年という大きな節目を過ぎ、2年後には、平成30年を迎えます」という表現になっているのではなかろうか。
 だが、現行憲法に基づく皇室典範では「崩じたとき」以外の天皇交代を認めていないので、「生前退位」を実現するには当然ながら典範改正か特別立法が必要になる。
ここからが問題だ。「女系天皇を認めるか」「譲位後に皇太子がいなくなるので皇太弟を設けるか」といった議論のほかに、次の2つの問題があると私は思っている。
 一つ目。皇室典範の改正に着手することが改憲ムードをあおることになるかもしれないとの危惧だ。先の参院選で改憲勢力が衆参両院で3分の2を占める国会では今後、憲法審査会が憲法改正への具体的手順を検討し始める。憲法改正は安倍晋三首相の悲願である。天皇の思いとは別に、「生前退位」問題に便乗して改憲ムードを高めようとする動きが保守陣営から出てきても不思議ではない。現に作家の高村薫さんは「(天皇の)お気持ちは痛いほどわかるが、大変なことになったというのが率直な感想だ。天皇陛下と昭和天皇は戦争の犠牲者を悼み、平和への思いを表明し続けることで大きな役割を果たしてきた。平和憲法と共に天皇という存在があったのに、場合によっては憲法の見直しまで考える必要が出てくる。個人的には公務を減らしてでも今の陛下に天皇でいてほしい」とコメントしている(8月9日、毎日新聞朝刊)。一般人にも同じ思いがある。「退位は慎重に検討してほしい」と、千葉県在住の男性、酒井弘之さん(無職、80歳)が朝日新聞にこんな投稿をしていた。「陛下は、少年時代だったとはいえ戦争の時代をくぐられた。戦争を体験された最後の天皇である。戦争の反省に立って生まれた新憲法下で即位された最初の天皇でもある。戦後70年の平和を象徴されるお方である。憲法にある通り、天皇陛下は『国民統合の象徴』である。この象徴制が動揺を来さないように、退位については慎重に検討申し上げるべきではないだろうか」(8月10日、朝日新聞朝刊の声欄)
 皇室典範の改正が憲法改正にまで発展していくことは天皇も不本意だろう。政府も国民も難しい対応を迫られている。
 二つ目。これは天皇が持っている「二つの顔」、すなわち国民統合の象徴という「機関としての天皇」の顔と「人間としての天皇」」という顔をいかに調和させていくかである。
 昭和天皇が死去されて平成がスタートした翌日の1989年1月8日から5回にわたり東京新聞・中日新聞1面に「新象徴天皇」という企画を5回連載した。その1回目で私は、昭和天皇が敗戦直後の1945年(昭和20年)9月9日付で皇太子(現天皇)に送った手紙を紹介した。
 「敗因について一言いはしてくれ。我が国人があまりに皇国を信じ過ぎて英米をあなどったことである。⋯⋯⋯明治天皇の時には山縣、大山、山本等の如き陸海軍の名将があったが、
今度の時はあたかも第一次世界大戦の独国の如く軍人がバッコして対局を考へず、進むを知って退くことを知らなかった」(原文のまま)
 と同時マッカーサー元帥との初会見(同年9月27日)の際の天皇の発言も再録した。「責任はすべて自分にある。自分は国民が戦争遂行にあたって政治、軍事の両面で行ったすべての決定と行動に対して、すべての責任を負う者として、あなたが代表する連合国の裁定に委ねるためここに来た」
 ここに「二つの顔」が垣間見える。現天皇も父上の「戦争責任」に対する贖罪の意味も含めて内外で戦没者や犠牲者に深い哀悼の意を表する行動を美智子皇后とともに続けてこられた。また東日本大震災、阪神淡路大震災といった自然災害の現場を訪ねては被災者とその家族たちに膝を接する距離で慰労する姿に国民は深い感動を覚えた。「機関としての天皇」と「人間としての天皇」がマッチしていた。皇太子が天皇に即位しても、今上天皇の精神は引き継がれていくだろう。ただ戦争の悲惨さを自ら体験された天皇と戦後の高度経済成長期に誕生した皇太子では、やはり「お気持ち」に開きが生ずるのは当然だ。先の80歳の男性の投書のように「退位は慎重に」と願う気持ちもよく分かる。
 「国民は何より陛下に一人の人間としてお幸せであってほしいと思うのではないか」(学友のコメント)という側面と、「公務を減らしてでも今の陛下に天皇でいてほしい」(高村薫さん)という要望との狭間で、天皇も国民も双方が納得できる結論を見出すのは至難の業に近い。だが、その決着を付けなければならない時が迫っている。

萬葉版画館 宇治美術館95

萬葉集12巻3052

宇治敏彦制作板画 萬葉集12巻3052
かきつばた さくさわにをふる すがのねの たゆとやきみが みえぬこのころ(作者未詳)

小池百合子都知事を誕生させた有権者の心理とは  宇治敏彦

 内閣総理大臣は「国会議員の中から国会の議決で、これを指名する」(日本国憲法第67条)とあるように間接民主主義による選出だが、東京都知事をはじめ地方自治体の首長は有権者の一票がそのまま結果に反映する直接民主主義で選ばれる。
 7月31日の東京都知事選挙で、小池百合子氏は前回の知事選で舛添要一氏が獲得した220万票を約70万票上回る291万票の大量得票で当選し、東京初の女性知事になった。ただ得票率で見ると、歴代14位の44%にとどまった。これは候補者が21人と都知事選では最多だったことと自民・公明両党推薦の増田寛也氏、民進党など野党4党推薦の鳥越俊太郎氏など有力候補が揃ったことの影響だろう。
それにしても当初は自民党東京都連に同党の推薦を申請し、途中で返上して「独自の戦い」に挑んだ小池氏の戦略とは、いかなるものだったのだろう。そして有権者は、なぜ「小池知事」に雪崩をうっていったのだろうか?
 自民党は7月初旬まで公認候補として前総務省事務次官の桜井俊氏(アイドルグループ「嵐」の桜井翔の父親)を担ぎ出そうと画策していた。「真面目な高級官僚」「著名タレントの父」という要素で都知事選勝利は濃厚視されていた。安倍晋三首相が直接、声を掛ければ断るわけにはいくまい、との見方も強かった。だが、桜井氏は「家族に迷惑かけたくない」と固辞した。自民党はやむなく同じ官僚出身(元建設省紛争調整官)で岩手県知事3期、総務大臣経験者の増田氏に出馬を働きかけた。ここから小池氏の出馬戦略が加速していった。「自民党を敵に回すことで、都民を味方につける」という計算だ。
 7月31日、筆者は近くの広尾小学校へ投票に出かけながら、こんなことを考えた。
「小池候補に投票する人は、恐らく①女性の有力候補である②キャスター出身の現職衆院議員である③本来なら自民党候補として出るはずが、あえて自民と喧嘩して非政党色を鮮明にした④石原慎太郎元都知事の『厚化粧の女』発言に『今日は薄化粧できました』と機転で切り返した⓹猪瀬、舛添と2代続いたカネがらみ知事にはならないだろう、といった期待感を抱いているのではないか」と。
 「鳥越候補に投票する都民は『反安倍』『護憲』が第一の選択基準だろう」
 「増田候補に投票する有権者は『がちがちの自民支持者』『自民党共同推薦の公明党・創価学会関係者』『体質的に小池百合子嫌い』の人たちではないだろうか」
 要するに「景気・雇用対策」「直下型大震災対策」「4年後の東京オリンピック対策」「深刻さを増す待機児童問題」といった政策的争点よりも、有力3候補の「経歴」または「人間性と、そのイメージ」が主たる投票基準になっているのではないかと思った。
 その点、事前の世論調査で「小池優勢、追う増田、鳥越」と出たことは、政治記者感覚でいえば「有権者は皆よく見ているな」と感じた。告示前日の7月13日の日本記者クラブで行われた立候補予定者の共同会見(この時点では宇都宮健児氏も参加していた)で私が注目したのは直前に立候補を表明した鳥越氏の言動だった。「決意をボードで示してください」と司会に促されて各候補が公約や決意を書いて出席者に示したが、鳥越氏のボードには「ガン検診100%の達成」とあった。私だけでないと思うが、「ああ、これじゃ駄目だな」と思ったジャーナリストは多かったはずだ。これが都政への公約だろうか? 高い知名度と民進党など野党の応援という2つの「武器」でいけると思ったのだろうが、都政改革への具体策は何ら持ち合わせていなかった。しかも同夜、立候補を取りやめて鳥越支持を表明した宇都宮氏が求めていた「中央卸売市場の豊洲移転反対」などは採用しなかったことや鳥越氏の女性スキャンダル報道も影響して、宇都宮氏は一回も鳥越氏の応援演説に行かなかった。前回2年前の都知事選で約98万票を獲得し、舛添氏についで2位だった宇都宮氏も鳥越候補の人物像を見誤っていた。むしろ宇都宮氏は、自らが出馬すべきだったろう。
 さらに増田氏についていえば、日本生産性本部の会合などで「消滅可能都市」など岩手県知事経験者として日本の人口急減事態に警鐘鳴らしてきた実績は、私個人はよく承知しているが、一般都民は「増田って誰だ」という印象を抱いたかもしれない。7月19日夜、都市センターホテルで「故堀内光雄氏を偲ぶ会と堀内詔子衆院議員を励ます会」という会合が開かれたが、その席にもタスキ掛けで飛び入り参加した増田氏は「私は東京生まれです」と何度も強調していた。元岩手県知事といった印象を薄めようとの思惑があったのだろうが、「いまさら、それを強調しても」と聞いていた筆者には異様に思えた。東電の社外取締役だったという経歴も、脱原発を求める都民には違和感があったろう。
 そのころ小池候補は、黒川紀章氏が2007年の都知事選に立候補したとき開発したガラス窓の選挙カーに乗って、グリーンの「戦闘服」でグリーンのスカーフやハンカチを振る支援者を地滑り的に拡大していった。自民党東京都連が「増田候補以外の候補を応援したら処分する」との文書を流したことも、同党都連の石原伸晃会長、内田茂幹事長らの「権威主義」「強権政治」を印象づけて逆効果をもたらした。
 小池百合子氏が環境庁長官だった2003年当時、何回か話を聞く機会があったが、当時はおしゃれな「クールビズ」を開発し、町の景観保全も兼ねて電柱の地中化を図る「無電柱化」運動や通勤ラッシュ緩和のための山手線の2階建て電車導入プランなども披露していた。思いつきのようであって、それを継続してきたことは馬鹿にできない。マスコミの投票日出口調査によると、自民党支持層の5割以上が小池氏に投票し、増田氏への投票は4割未満だった。
 以上見てきたように当初は一見、無謀な挑戦に見えた小池氏の立候補だったが、実は他の候補よりはるかに計算された戦略があり、1100万有権者もしだいに小池戦略に吸い込まれていったというのが実態だろう。
問題は、これから小池知事が「都民ファースト」精神を今後どこまで具体化できるかだ。

出会った人々(20)                                                     遺作になった若宮啓文氏の「ドキュメント 北方領土問題の内幕」     宇治敏彦

 気心の知れたジャーナリスト仲間が次々に亡くなっていくのは淋しい限りである。今年4月、北京で急死した若宮啓文氏(68歳。日本国際交流センターのシニア・フェロー、元朝日新聞主筆)もその一人だ。昨年春、故鈴木善幸元首相のさち夫人が亡くなった時は一緒に経堂の鈴木邸で善幸さん夫妻の長男・鈴木俊一自民党代議士らを交えて「突然の鈴木首相退陣表明」の思い出話に花を咲かし、秋には日本記者クラブでの「戦後70年シリーズ」会見に相前後してスピーカーとして登板した。彼は朝日の政治記者、論説主幹、主筆として常にリベラルな立場で論陣を張る一方、ソウルに語学留学した経験をもとにサッカー・ワールドカップの日韓共同開催、大野伴睦流の「竹島爆破論」を提起するなど日韓両国の平和共存を主張し続けた。それらが韓国側にも評価され7月29日、帝国ホテルで開かれた偲ぶ会には朴槿恵大統領からの叙勲が届けられていた。
この偲ぶ会で約500人の出席者に配られたのが若宮氏の遺作となった表記の出版「ドキュメント 北方領土問題の内幕」(筑摩書房)である。これは彼が書くべくして書いた本だ。というのも父親・若宮小太郎氏(元朝日の政治記者)は鳩山一郎内閣の発足後、首席秘書官になり、1956年の鳩山訪ソにも同行して日ソ共同宣言の調印を側面援助した。当時の鳩山内閣では河野一郎氏(元朝日新聞記者)が農相を務めており、鳩山訪ソ前に漁業交渉でブルガーニン首相、イシコフ漁業相とやり合っていた。
河野一郎氏の子息・河野洋平氏(元衆院議長)は偲ぶ会で来賓として挨拶し「父も鳩山首相や若宮小太郎氏と日ソ共同宣言に努力した仲だが、膨大な河野資料が昨年亡くなった石川秘書の手元にあり、それを若宮啓文さんに見てもらったことが今回の出版のきっかけになった」と説明した。
 戦後内閣の外交実績では「吉田茂の日米安保」「鳩山一郎の日ソ共同宣言」「佐藤栄作の沖縄返還」「田中角栄の日中国交正常化」が目立つが、反共主義者の鳩山首相がなぜ「日ソ」だったのか。同著で若宮氏は3つの理由を指摘している。
 「一つは、いまだシベリアに抑留されている旧日本兵たちの存在だった。 (中略) 情にもろく
『友愛』を看板にしていた鳩山は、シベリア抑留兵の帰還なくして『戦後は終わらない』と考えた」
 「二つ目は国連への加盟だ。(中略)鳩山はソ連との戦争状態にピリオドを打ち、国連加盟を認めてもらいたいとの思いを強くしていた」
 「そして三つ目だが、おそらくより根本的には徹底的なアメリカとの協調路線をとって『反ソ』を貫いてきた吉田外交への対抗心だ」
 また鳩山の「日ソ復交」は田中角栄の「日中正常化」と重なり合うと若宮氏は指摘する。「アメリカの思惑を超えて行われたことや、党内の激しい抵抗にあったことも共通しているから」と書いている。
 確かにソ連との国交回復には吉田茂、池田勇人など「保守本流」といわれた親米グループが強く反対し、また重光葵外相は河野一郎農相が外交には素人だとして鋭く対立した。外交交渉の裏側では、常にこうした政治家同士の葛藤があったことを本書は具体的に記述している。
 若宮氏自身も朝日主筆時代の2012年3月、各国記者との共同会見でロシアのプーチン首相(当時)から北方領土問題について「引き分け」という柔道用語を引き出している。日ソ共同宣言から満60年に当たる今年、安倍晋三首相は9月にもプーチン大統領の来日を実現し、本格的な領土協議に入りたい意向だが、若宮氏の遺著を読んでおくことを薦めたい。

「憎しみの連鎖」をどう断ち切るのか   宇治敏彦

 連日のように報道されるテロやクーデター。フランスの独立記念日(7月14日)に南仏の景勝地ニースで花火を見ていた人々80人以上が31歳のチュニジア人男性の運転する暴走トラックで殺された。その翌日には中東とヨーロッパを結ぶ国トルコで軍の一部がクーデターを企て160人以上の市民や兵士が犠牲になった。
 なぜテロ事件は、こんなに多発するようになったのだろうか? トルコでのテロは、過激派組織「イスラム国」(IS)絡みが多いといわれるが、昨年来の主な事件だけても下記のように8件に及ぶ。
 ▽2015年7月20日 南東部スルチでISによるとみられる自爆テロで32人死亡。
 ▽同10月10日 首都アンカラ駅付近でISによるとみられる自爆テロで約100人死亡。
 ▽2016年1月12日 イスタンブールの「ブルーモスク」(有名な寺院)近くでISによるとみられる自爆テロ。10人死亡。
 ▽同2月17日 アンカラでクルド系急進派による軍事車両を狙った自爆テロ(29人死亡)。
 ▽同3月13日 アンカラでクルド系による爆弾テロで37人死亡。
 ▽同19日 イスタンブールの繁華街でISによるとみられる自爆テロで4人死亡。
 ▽同6月7日 イスタンブールでクルド系が警察車両を狙った爆弾テロ。11人死亡。
 ▽同28日 イスタンブールのアタチュルク国際空港でISによる自爆テロ。44人以上死亡。
 このようにトルコでは過去1年間で400人以上がテロなどで命を落としている。トルコには日本人が2000人以上滞在しているというが、気が気ではないだろう。筆者も何度かイスタンブールに仕事で出張したが、ボスポラス海峡を挟んでアジアとヨーロッパに分かれる歴史的都市は「長期に住んでもいいな」と思わせるほど魅力的な町だ。だが、現在は、うかうかしているとテロ事件に巻き込まれて命を落とす危険都市と化している。
 昨年来、トルコのほかフランス、イギリス、デンマークなどでも大規模テロ事件が連続的に発生し、今年7月1日にはバングラデシュの首都ダッカで日本人7人を含む23人が死亡するテロ事件もあった。日本人だから安心安全などということは無差別テロの前に通用しない。
 私たちは、これらのテロ事件をいかにして防ぐのか。どうしたら「憎しみの連鎖」を食い止められるのか。安倍首相も含めて世界の政治指導者たちは、早急にテロ対策サミットを開催して「テロの原因解明と防止対策」を講ずべき時だろう。
 「ぼくは君たち(テロリスト)を憎まないことにした」。昨年11月13日、パリ同時多発テロ事件で、劇場にいた愛妻をなくしたフランス人ジャーナリスト、アントワーヌ・レリス氏(元France Info、France Bleu文化担当記者)は、事件後、フェイスブックにテロリスト宛ての手紙を公開し、このように書いた。
 「金曜日の夜、君たちはかけがえのない人の命を奪った。その人はぼくの愛する妻であり、ぼくの息子の母親だった。それでも君たちはぼくの憎しみを手に入れることはないだろう。君たちが誰なのかぼくは知らないし、知ろうとも思わない。君たちは魂を失くしてしまった。君たちが無差別に人を殺すことまでして敬う神が、自分の姿に似せて人間をつくったのだとしたら、妻の体の中の銃弾の一つ一つが神の心を傷つけるはずだ」
 「息子とぼくは二人になった。でも、ぼくたちは世界のどんな軍隊より強い。それにもう君たちに関わっている時間はないんだ。昼寝から覚める息子のところへ行かなければならない。メルヴィルはまだ十七ヶ月。いつもと同じようにおやつを食べ、いつもと同じように遊ぶ。この幼い子供が、幸福に、自由に暮らすことで、君たちは恥じ入るだろう。君たちはあの子の憎しみも手に入れることはできないのだから」
 このメッセージは3日間で20万回以上閲覧され、やがて日本語版を含む「ぼくは君たちを憎まないことにした」(日本語版はポプラ社)という本になった。
 日本語版が出版されたのを機に著者が来日し、日本記者クラブで会見した。「どうしてテロリストたちを憎まない心境に至ったのか」。みんなが聞きたい質問に彼は、こう答えた。
「それは教示のようにやって来たのです」。
 でも筆者には疑問が残った。愛する人の命を奪った「犯人」を本当に憎まずにいられるだろうか。また、「憎まない」ことでテロリストやテロ行為は減っていくだろうか。「憎しみの連鎖」を断ち切ることは、確かに重要だが、憎まないでいればテロリストたちが、ますます付け上がることにつながらないだろうか。
 テロ行為の目的はまちまちだろうが、宗教上の思想信条は別としても「現状への不満」「体制への批判」がテロリストたちの心底にあることは間違いない。でも「自爆テロ」という行為はどう説明できるのだろうか。太平洋戦争末期の特攻隊と同様に自らの命を犠牲にして殺戮行為に出るのである。自ら進んでやるのか、組織からの命令で仕方なくやるのか、ケースバイケースとは思うが、自らの命を犠牲にするのだから、それ相応の覚悟がなければ出来ないことだ。
 その「覚悟」を押しとどめられるモノとか何なのか。そこが解明されないと、テロ行為の絶滅は困難だろう。
 筆者自身もテロ防止案を持ち合わせているわけではない。ただテロを起こしがちといわれる若者たちの心情に迫ってみたいと思っている。

小榑雅章著「花森さん、しずこさん、そして暮しの手帖編集部」を読んでみよう   宇治敏彦

花森さん暮しの手帖
小榑雅章著「花森さん、しずこさん、そして暮しの手帖編集部」暮しの手帖社刊(定価1850円+税)

 「埴輪」同人の小榑雅章君が6月に暮しの手帖社から刊行した著作「花森さん、しずこさん、そして暮しの手帖編集部」は、タイムリーな出版であると同時に、早稲田大学卒業後の一文学青年が「異才」「才人」「名編集者」花森安治氏の下で、いかに葛藤し、反発し、そして心酔していったかを生々しく描いた秀逸なドキュメンタリーでもある。
 小榑君は昭和28年(1953年)、早稲田大付属高等学院に入学した。当時から学院では語学教育に力を入れており、英語のほかに第2語学としてフランス語、ドイツ語、ロシア語などを課し、その語学選択でクラス分けしていた。彼はフランス語、私はドイツ語専攻だったので同じクラスになったことはない。だが、同期生で同人雑誌をつくろうという動きの中で知り合い、以後、63年に及ぶ交遊が続いている。「女房より古い友」だが、それでも「知らなかった小榑雅章」像に同著で出会った。「岸(信介首相)を倒せ」の60年安保闘争に明け暮れた昭和35年(1960年)4月、彼は早大文学部を卒業して暮しの手帖社に入社し、24年間にわたる雑誌ジャーナリストのスタートを切った。
 銀座の本社(当時)で行われた面接試験に臨んだ時、試験官の真ん中に座った女性を見て小榑君は「こりゃまずい」と思ったという(本書24頁)。筆記試験の時、煙草を切らした彼が近くにいた女性試験官に「煙草はないですか」と問いかけた。その人が面接で眼前に座っている。「あなたに煙草を買いに行かされましたよ」とニコニコしながら言った、その女性こそ今、NHK朝ドラ「とと姉ちゃん」の主人公、大橋鎮子さん(暮しの手帖社の社長)だった。
 入社10年後、ベテラン編集者に成長した小榑君は、大きな不満を抱えていた。花森安治という偉大な編集長の下で、しょせんは機械のように使われることに「俺は人間だ」とブチ切れて辞表を書いた(本書352頁)。だが花森氏は、まともに取り合ってくれない。4日目にようやく面談できたが、「辞めてどうするんだ」と聞かれた。まだ決めていないと答えると「ふーん。何も決めないでただ辞めるのか。つまらんな」といわれ、さらに「君はまだ未熟だ。ぼくのそばにいてぼくの考えや取材、レイアウトを盗んでいけ。それを自分の物にしたらさっさと辞めたらいい」と辞表は編集長預かりになった。それから小榑君は翌日以降も出社し、仲間の視線を浴びながら、ひと月以上ルーティンの仕事だけこなしていた。私だったら翌日から出社しなかったろう。と同時に私が思ったのは、彼は心底辞めたいとは考えなかったのではないか。小榑君には失礼な表現になろうが、子どもの反抗期のように花森安治という偉大な親に歯向かってみたかったのではなかろうか。
 3か月ぐらいして「花森さんの声が聞こえるようになってきた」と、ご本人は本書に書いている(358頁)。それ以降の小榑君の暮しの手帖での活躍ぶりが目に浮かぶ。昭和53年(1978年)1月、花森さんが亡くなってから退社するまでの6年間、小榑君は「暮しの手帖」の実質的な編集長を務めた。
 改めて「暮しの手帖」とは、どんな雑誌で、どんな役割を果たし、どんな存在価値があるのか。私なりに考えてみる。先の大戦中、大政翼賛会で宣伝などにかかわったことが花森安治氏の戦争責任の原点にあったとされる。戦後、大橋鎮子さんから頼まれて「衣裳研究所」という出版社を立ち上げ、昭和21年(1946年)6月に雑誌「スタイルブック」を発刊した。それに倣った雑誌が増えたので2人は2年後に「美しい暮しの手帖」(1953年11月からは「暮しの手帖」と改題)として衣食住全般に関する雑誌に切り替えた。
なぜ「暮らし」だったのだろう。一銭五厘の召集葉書で戦地に駆り出され、すべてを国家権力の言いなりにならざるを得なった日本国民。もっと庶民の暮しに根付いて表現の自由も確保出来ていたら父や兄弟が戦地で虫けらのように死んでいくのを防げたろうし、女子供もB29攻撃機群の猛攻撃に遭遇して命を落とすこともなかったろう。国家権力に対抗する庶民の力を強めなければ戦前の誤りを繰り返すことになる――それが花森さん、大橋さんの原点だった。
でもなぜ「生活」でなくて「暮し」なのか、なぜ「読本」でなくて「手帖」なのか。普通の感覚なら「生活読本」というところだ。そこを「美しい」「暮しの」「手帖」としたところに女性的感覚がうかがえる。男性一般は、私も含めて「生活がかかっているから」とか「その程度の月給(年金)じゃ生活出来んよ」などと「生活」は良く使うが、「暮し」は、それほど多くは使わない。女性的視点で「女性よ、強く、美しく、たくましく、したたかであれ」というメッセージが雑誌発足時からあったのではなかろうか。
そして戦後70年、「戦後強くなったものは靴下と女性」という言葉に象徴されるように、各方面での女性の活躍は目覚ましいし、生活的にも文化的にも恵まれるようになった。ウイークデーの歌舞伎や音楽会の観客は大半が女性たちで、男たちは教養一般では女性にかなわなくなってきた。
この春、小榑君ら学友と関西を旅した時、彼が暮しの手帖の元編集者だったことを知った女性たちが「暮しの手帖」を懐かしがる場面に何回も遭遇した。「私は大学卒業時に暮しの手帖社に入りたいと思い、願書もだしたのですが、今年は新入社員を取らないといわれまして断念しました」と残念がる主婦もいた。かくいう宇治の家人も大学生当時に東麻布の暮しの手帖研究室にアルバイトに行ったことがあるそうだ。
 広告を取らないという「暮しの手帖」の大原則も、独立独歩、権力や企業におもねらないという創業精神を強く感じる(1949年の第3号で裏表紙に「資生堂」の広告が載ったのが唯一の例外とか)。
 「手作り」。これも暮しの手帖社の創業精神の一つであろう。大きな評判をもたらした「商品テスト」も、独立独歩、手作り、徹底した力仕事がなければ実現できない仕事だ。学生時代に小榑君と2人で新聞社の都内住民アンケート調査のアルバイトをしたことがある。留守宅が多いと、こちらは面倒になってノ―アンサーが増えていくのだが、小榑君は留守宅があると翌日もさらに次の日も足を運んで回収率を高めていった。もちろん2人ともメーキング(質問者が回答まで作ってしまうこと)は絶対避けたが、小榑君の忍耐強い回収作業に大いに感じ入った。こうした性格は、暮しの手帖の社風とピッタリ合致していたと思う。
 「神変不可思議」(しんぺんふかしぎ)――故徳川夢声氏(放送芸能家、俳優)が花森安治さんを評した言葉だという。オートメーション化、大企業化、自動化、均一化といった戦後経済成長の波のなかで終始、手作り、独立独歩、品質重視、生活者(いや、暮らし)目線にこだわって一時は100万部を超える発行部数を記録した「暮しの手帖」。その編集部には、こんな苦労があったという秘話を本書「花森さん、しずこさん、そして暮しの手帖編集部」を通じて多くの方に知っていただきたいものです。
 

萬葉版画館 宇治美術館94

萬葉集11巻2658
宇治敏彦制作板画 萬葉集11巻2658
あまくもの やへくもがくれ なるかみの おとのみにやも ききわたりなむ(作者未詳)

宇治敏彦新著「版画でたどる万葉さんぽ」   小榑雅章

万葉さんぽ

宇治敏彦著「版画でたどる万葉さんぽ」新評論刊(定価1800円+税)

 埴輪の同人宇治敏彦さんが、新しく本を出しました。
「版画でたどる 万葉さんぽ」という本です。このブログには、宇治さんの「宇治美術館」があるので、みなさんもご存じのとおり、版画の名人です。同時に万葉集にも通じる達人でもあります。
この本は、カラーの版画がふんだんに掲載されている、楽しい美しい本です。でもおなじ同人が誉めても説得力がありません。
この本の巻頭で、平安文学の泰斗で、日本語の最も著名な国語学者の山口仲美先生が、この本がユニークで如何に素晴らしいかを寄せてくださっているので、それを転載させていただきます。このすいせん文を読むと、きっと誰もが、この「版画でたどる 万葉さんぽ」という本を読みたくなりますよ。

癒しの本版画――すいせん文にかえて  山口仲美(日本語学者、埼玉大学名誉教授)
エピソード入りの文章
宇治さんと知り合ったのは、今から二〇年余り前のこと。日本語の現在・未来をどうするかということを審議する国語審議会(当時)という行政機関の会議の席でした。宇治さんは東京新聞の論説主幹。「日本語」に対する考え方が似ていたので、ときどき会話を交わすようになりました。
あるとき、宇治さんはモゴモゴと言いました。
「僕は、仕事の合間に版画を彫っています。今度個展を開きますので、よかつたら見に来てください。」
絵が好きな私は、興味津々で出かけました。銀座の画廊でした。そのときにふと漏らした私の感想がこの本のなかに出てきたので、思わず赤面してしまいました。詳しくは、本文でお楽しみください。
こんなふうに、この本は、版画にまつわるエピソードが挿入されています。エピソードには、版画を通して出会った政界人・経済人をはじめ、作家や住職といったさまざまな人物が登場し、それもこの本の魅力になっています。もちろん、エピソードのほかに、この本の主題である万葉集の歌の意味、作者をめぐる人間模様、詠まれた場所などが分かりやすく、親しみやすく記されています。だから、スルスルと引き込まれ、サラサラと最後まで読んでしまいます。

素朴な書体でかかれた歌
さて、この本の一番の特色は、万葉集の歌と絵の版面です。まず、歌は素朴で味わいのある楷書体で彫られています。流れるような行書体や草書体ではなく、「益荒男振」と言われる万葉集の作風にもビシッと合っている楷書体。しかも、歌を記す文字が、何よりも大切に取り扱われています。
歌が絵に邪魔されて、読めないなんてことはありません。たとえば、「夕されば 小倉の山に臥す鹿の 今夜は嗚かず 寝ねにけらしも」という万葉集の歌があります。顔を寄せて愛しく思い合う二頭の鹿の絵の上に、この歌が彫られています。しかも、歌の句と句の間には行間を感じさせる空間をつくって、読みやすくする工夫がなされています。読みやすい書体、歌を前面に押し出した構図には、宇治さんの強いメッセージを感じます。「万葉集の歌をじっくり味わってくださいよ!」というメッセージです。宇治さんの万葉集の歌への愛が伝わってきます。

歌の雰囲気をかもしだす絵
歌に添えられている絵が、また楽しいんですね。歌の持つ雰囲気をうまく伝えてくる。
来むと言ふも 来ぬ時あるを 来じと言ふを 来むとは待たじ 来じといふものを
これは、女流歌人・大伴坂上郎女の茶目っ気あふれる歌。「あなたは、来るつもりと言っても、来ない時があるでしょ。まして、来ないつもりと言うんですから、来ると思って待つことなんてしないわ。来ないつもりって言うんですから」という意味です。ホントは来てほしいから、こんな茶化した歌を詠んで贈っているのです。
この歌に描かれた絵は何だと思います? いかにもすっとぼけた埴輪の版画なんです。「ちちんぷいぷい、どうか来てくれますように」なんて、ユーモラスに祈っている姿に見える立ち姿の埴輪です。歌に対する宇治さんの解釈が絵に投影されているのですが、それが誠に余裕とユーモアにあふれていて、見る人の心を癒してくれます。
相思はぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼の後に 額つくがごと
という笠女郎の片思いの歌があります。「私を思ってもくれない人のことを思うなんて、大寺の餓鬼像の後ろから地にひれ伏して拝むようなものよ」という破れかぶれの面白さのある歌です。この歌に添えられた絵は何か? 西大寺の邪鬼像をモデルにしたような餓鬼が描かれているのですが、奇妙なおかしさがにじみ出ている版画となっています。餓鬼にしては太りすぎている。餓魂の顔にしては怖くない。「俺って、そんなにダメ?」って情なさそうに問いかけてくる間抜け面です。歌のもつ、投げ出したようなおどけた雰囲気が見事にとらえられているのです。
明るさで歌を包み込む絵もあります。天智天皇が、妻の額田王や彼女の元の夫・大海人皇子を含んだ一行を引き連れて、薬草狩りのために蒲生野に行楽したときのこと。額田王は、元の夫が「愛しているよ」とばかりに袖を振るのを見て、「禁野の番人が見るわ、あなたが袖を振っているのを」といった内容の歌を詠みます。すると、元の夫は答えます、「人妻だと知りながらも袖を振るのは、美しい君が忘れられないからさ」といった内容の歌を。かなりきわどい内容の歌の贈答ですが、天智天皇の前で二人は堂々と詠んでいます。こうした内容の贈答歌にどんな絵柄を添えるか? ひらけた野原に鳥が飛び、地面にはたくさんの薬草が生えている。空には太陽が描かれ、地上にさんさんと光をふり注いでいる。画面の手前には元の夫の振っている片袖が大きく描かれている。こんな絵を添えているのです。なんとものどかで明るい光景。今の夫の前でも、私たちは恥ずかしくない清い関係ですといった歌の雰囲気を巧みにとらえた絵柄なのです。だからこそ、二人のきわどい贈答歌は、肯定され一層明るい輝きをはなって読者の心に訴えてきます。

歌と絵の融合
宇治さんの木版画は、歌と一緒に味わったときにもっとも効果を発揮します。たとえば、表情。宇治さんの彫った人物や動物たちの表情は、いくつかの解釈を許す幅の広さをもっています。ところが、じっと見ているうちに、「この馬、すごく困っている!」と特定の表情を強く感じはじめるのです。そこに書かれた歌の意味が作用してくるからです。
「柵越しに麦を食べてしまう馬が飼い主にひどく叱られるように、僕も彼女の親にすごく罵られるけれど、困ったなあ、僕は彼女が恋しくてたまらないんだもん」といった内容の歌とともに示された馬は、困惑の表情を鮮明に表しはじめるのです。
歌と絵が融合して互いを生かし合って幸せな関係を築いているのが、宇治さんの版画絵です。それは、見る者に深い癒しを与えてくれます。       二〇一六年三月三日記す




国際化の中で沈没する「日本株式会社」の悲劇     宇治 敏彦

 三菱自動車やスズキなどの燃費不正問題、シャープの鴻海(台湾企業)傘下入り、中国資本による北海道「星野リゾートトマム」買収など近年、日本一流企業の不祥事や外国資本による買い占めが目立っている。かつて「政治は三流でも経済は一流」といわれ、「日本株式会社」との流行語まで生まれた戦後日本経済は、どうして駄目になったのだろうか。モノづくりを忘れて、金融中心の経済に走った結果が今日の事態をもたらしたといったら言い過ぎだろうか。
 もう四半世紀前のことだが、毎年実施している中日新聞社の創業記念日行事に経団連副会長だった飯田庸太郎・三菱重工業会長(当時。故人)を案内して記念講演をしてもらったことがある。JR名古屋駅太閤通口(新幹線側)には三菱自動車製の高級車「デ゙ボネア」があらかじめ配車されていた。車内で飯田氏は「この車もようやく他社並みになってきた」と漏らした。筆者は1989年に韓国の現代(ヒョンダイ)自動車工場を見学したことがある。韓国でも乗用車の国産化が急ピッチで進んでいたが、現代の場合、エンジンだけは三菱自動車製を使っていた。当時、日本国内では同じ三菱でも「パジェロ」は1990年代のRVブームを牽引したが、「デボネア」の売れ行きは芳しくなく、「三菱グループ役員の専用車」などという悪口も聞かれた。
飯田氏の講演テーマは「モノづくりの重要性」だった。三菱重工長崎造船所で製造した大型客船「飛鳥」による船旅がブームになりかかっていた。「モノづくりは人々に夢を与えるものでもある」というのが飯田さんの主張だった。もともと彼は1943年東大工学部卒業後、三菱重工に入社して、原動機第一技術部長などを歴任した技術者だった。それだけにモノづくりが単に日本経済を押し上げる要因だけでなく、ソニーのウオークマン(携帯式ヘッドホンステレオ)のように人々に「夢と希望」を与える原動力になることを期待していた。
だが今秋には就航25周年を迎える「飛鳥」の製造基地、長崎造船所も分社化と規模縮小を迫られているのが現実だ。
こうした背景に何があるのだろうか。燃費偽装問題の責任を取って三菱自動車の相川哲郎社長が辞任し、日産自動車が三菱自動車株34%を取得して事実上、傘下に収める資本業務提携がなされた直後の両社首脳の記者会見(5月12日)をテレビで見ていて驚いた。三菱自動車の益子修会長は「自動車を良く知っている相手と一緒になることで、特に技術開発では日産の人にきてもらい、お任せしたい」と述べた。対する日産のカルロス・ゴーン社長は「いや技術開発は従来通り三菱でやってもらいたい」と語った。これを聞いていた筆者の率直な感想は、こうだ。
「なんだ、ブラジル生まれのレバノン人、ゴーン氏のほうが責任感の強い昔気質の日本人で、益子氏のほうが責任放棄の外国人みたいじゃないか」
 自分の社の連中は駄目だからライバルだった日産の技術者におんぶで抱っこというのでは、過去の自分たちを全否定するだけでなく、あまりにも無責任ではないか。対する日産トップが「いやいや技術開発は、今回の反省のうえに従来どおり三菱さんでおやりになるのが筋ですよ」とたしなめるのは正論で、ゴーン氏のほうが、よほど日本人らしい。
しばらくして三菱自動車の開発担当副社長に日産の山下光彦技術顧問が起用される人事が発表された(6月24日付)。かつて飯田庸太郎氏が叫んでいた「モノづくりは夢づくり」という三菱スピリットは、どこへ行ってしまったのか。トップがこんな無責任体質なら下で働く一般社員は、さぞや苦労が多かろう。江田五月参院議員(元参院議長、岡山出身)が自らのブログに「三菱自動車と地域社会」と題して次のような一文を書いている(5月12日付)
「三菱自動車の燃費不正問題が、地元岡山を直撃している。倉敷市にある水島製作所は、軽自動車ラインが年間生産量の6割を占め、現在約1300人が自宅待機している。自動車産業は、完成車メーカーを頂点に、下請け、孫請けと重層的に部品メーカーで作る“ピラミッド構造”で、県内の自動車関連産業の従業員数は約1万4千人。取引先は、倉敷、総社、笠岡などを中心に約200社に上り、問題が地域社会や地域経済に与える影響は甚大だ」
一方、過去10年間に中国から買収された主な日本企業を見ると、ラオックス(2009年、蘇寧電器集団に)、本間ゴルフ(2010年、マーライオンホールディングスに)、レナウン(同年、山東如意科技集団に)、三洋電機の一部(2011年、白もの家電がハイアールに)、星野リゾートトマム(2015年、上海豫園旅游商城に)、東芝の一部(2016年、白もの家電が美的集団に)といった具合である。
先日も民放TV番組で中国企業に買収された温泉宿の特集をやっていたが、中国人団体客が増えた代わりに日本人個人客が減り、また人件費削減で従来のサービス水準を維持するのが困難になり、従業員が労働強化を強いられている状況が放映されていた。
日本もかつて1970年代から80年代にかけてのバブル時代にはアメリカの映画会社や著名ビルを買収してアメリカ人に恨まれ、米政府は「日米構造協議」を提起してきた。国土面積では日本より約17倍の広さを持つ米国の総地価が日本バブル最盛期には、日本の総地価価格の4分の1という試算は、どう見ても狂気の沙汰の経済感覚としか思えない。それと同様な中国バブルがいま日本の企業や不動産の買い占めに走っている。
では今後、日本はどういう道を進むべきなのか。残念ながら安倍政権もそこまでは明示していないので、私なりの見解を述べておこう。
ここ30年ぐらいの間でMade in JAPAN製品ということで世界的に信頼度があり人気の高い商品は「家電製品」「化粧品」「時計」「アニメ・漫画」「ゲームソフト」「各種デザイン」などであった。「前衛の女王」といわれる草間彌生の水玉模様の絵画やデザインもその一例だろう。また鉄道、ダム、発電所、橋梁、トンネルなど大規模公共事業でも日本の技術水準は高いと評価されている。
これらに加えて、日本がもっと力を入れて各国に売り込むべきだと思うことは3つある。第1は「クリーン産業」(きれいな空気、きれいな河川の維持など環境汚染対策、発展途上国での水道・井戸水建設、省エネルギー対策の技術など)である。第2は、芸術面でかつて江戸時代の浮世絵版画がゴッホなど印象派の画家たちに強烈な印象と影響を与えたように、現代日本の絵画、デザイン、陶器、ファッション、映画、アニメ作品及びその技術を積極的に輸出していくことであろう。そして第3は、世界に先駆けるスピードで進んでいる「人口の老齢化」対策である。食品、介助道具、ベッド、補聴器、介助ノウハウなどだ。
原発、鉄道、ダムといった大規模公共事業もさることながら各国の人々(先進国、発展途上国を問わず)が日常必要としていること、あるいは今後、必要になるであろうことにMade in JAPANの技術・ノウハウを提供していくことである。
金融(為替レート、株価など)中心経済では、安倍首相が懸念するように「リーマン・ショックの再来」という事態もなしとはしない。しかし、モノづくり本位の経済に回帰すれば、金融危機の打撃をいくらかでも軽くすることが可能であろう。「モノづくりは夢づくり」という精神に立ち返る時ではなかろうか。そうでないと「日本株式会社」といわれた時代の栄華はもとより、過去25年間のデフレ経済から本格的に脱却するのは困難であろう。
(この一文は「安保政策研究会」リポートに書いた原稿を補足したものです)


悲し過ぎるよ、舛添さん   宇治敏彦

 政治資金流用疑惑で、その公私混同ぶりが厳しく批判されている舛添要一東京都知事の進退問題がヤマ場に差し掛かっている。まんざら知らない仲でもないだけに「舛添さん、潔い責任の取り方を見せてください。それしか舛添要一の名が穢れていくのをストップする道はないですよ」と言いたい。
東大教養学部の助教授をしていた舛添氏ら若手政治学者を囲んで定期的な勉強会をもっていた時期がある。当時の舛添氏は西部邁氏(当時、東大助教授)らとともに「東大改革」を掲げて売り出し中の若手国際政治学者だった。1989年、東大を退官して舛添政治経済研究所を立ち上げ、「朝まで生テレビ」などで名前を売った後、2001年参院選では自民党比例候補として立候補。158万8862票でトップ当選を果たした。以後、安倍、福田、麻生内閣で厚生労働大臣を歴任。そして猪瀬直樹前知事の辞任に伴う2014年2月の東京都知事選では211万2979票を獲得して宇都宮健児(元日弁連会長)、細川護煕(元首相)、田母神俊雄(元航空幕僚長)候補らを破り初当選した。政治思想的には「保守改革派」で、「改革クラブ」「新党改革」を立ち上げたこともある。
私生活に関して筆者は詳しく知らなかったが、1986年、旧大蔵省のエリート官僚だった片山さつきさんとの結婚披露パーティーには招かれて出席した。仲人を務めた近藤鉄雄自民党代議士(当時)が「新郎新婦は共に大変忙しいお仕事を持っているので、すれ違いの新婚生活になるでしょう。しかし、それが夫婦円満の秘訣です」と挨拶して来会者の笑いを取ったことを思い出す。
当時、舛添氏が尊敬していた人に北原秀雄・元フランス大使がいた。「北原さんには本当にお世話になった。北原さんの御用命だったら、いつでもフランスへ飛んでいくよ」と言っていたぐらいだ。1973年にパリ大学客員研究員になり、フランス人女性と結婚した際も北原大使に御世話になったのだろうと想像した。片山さんとは2度目の結婚だったが、週刊誌等の報じるところによると、再婚後5か月ぐらいで別の女性と親しくなり婚外子(男性)をもうけたという。さらに現夫人との3度目の結婚でもうけた子どものほかにも別の女性と婚外子がいると報道された。プライベート面では「改革派政治家」というイメージと大きくかけ離れて、出生地・福岡で認知症になった晩年の母親介護をめぐる実姉とのドロドロの葛藤劇、自閉症になった婚外子男性の養育費・医療費をめぐる元彼女とのトラブルなど想像を絶する人生をたどって来た。
「公職」を表、「私生活」を裏とすれば、表の顔は清新な改革派で、裏の顔はしたたかなドンファン(漁色家)といえるかもしれない。その相反する性格が今回の公私混同疑惑と関係があるのではないかと筆者は見ている。つまりお金とか女性に対する「潔癖性」に乏しく、ご本人も自ら理路整然と外部に説明できないことを自覚しているに違いない。
舛添氏が都知事になった直後、私は「舛添東京都政への期待と不安」という一文を書いた(「行政&情報システム2014年4月号)。
期待は①待機児童問題の早期解決②首都直下型の巨大地震対策③東京オリンピック・パラリンピックの成功。そして不安はトルコやインドネシアの国家予算と同規模の予算を動かしている東京都庁の抜本改革をタレント政治家というだけでは出来ないという指摘だ。この記事は舛添知事が同年、日本記者クラブの会見に来訪した際に直接手渡した。「宇治さんのことだから誉めては書いてないよな」と苦笑いしながらポケットにしまっていた。
今度の一連の問題で私が指摘した「期待」は実現が難しくなったと思う。投票してくれた211万人強の東京都民だけでなく、16万人超の都職員(警察官など含めて)の信頼も失ってしまったからだ。まだ67歳の舛添さん、ここは公私混同の弁済をキチンと済まし、「人生を一からやり直す」決意を今都議会で表明する以外に、貴方の生きる道はないのではありませんか。

萬葉版画館 宇治美術館93

萬葉版画館 宇治美術館93
宇治敏彦制作板画 萬葉集3巻315
みよしのの よしののみやは やまからし たふとくあらし かはからし さやけくあらし 
あめつちと ながくひさしく よろづよに かわらずあらむ いでましのみや(大伴旅人)
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